2012年6月24日日曜日

徒然

その昔、僕がニートだった頃、カトゆー家断絶を1日に何度もチェックしておったのじゃ。だからネットの流行にも強くて、いや別に何のメリットもなかったんだけど。僕は友人を余り作らない方だから交友関係も広がらなかったしな。
 今、ある程度のお金を持ったことで引きこもり性がさらに強まってしまった。2,3ヶ月前にツイッターを常時立ち上げると言ってたのに忘れてたよ。で、そんな情弱の僕がここ数日で流行をゲットした。今となっては何を書いても後出しになってしまうが感想でも書いてみる。
1.虚構新聞
 ジョークサイトに文句を言う連中の気がしれない。そういやエイプリルフールにNHKが冗談を言ってみたら抗議されたんだっけ。冗談や風刺とデマの違いがわかっていない人が……つーか芸能人と政治家とスポーツ選手はポリティカルコレクト系で不利益を受けない限り批判すべきでは……そもそもネットは自由な意見を交わすことができる場であると同時にその信憑性は自己責任で……むしろ変な文章を見つけたらとりあえず発信源に飛んで縦読みチェックを……と色々と言いたいことはあるが、何て言うんだろう、釣られた人と虚構新聞を批判する人のリテラシー&メンタルが異様に脆弱なのが気になった。僕も昔は騙されたこともあったし、痛い目にあったりもした。その度に次は同じ手に引っかからないようにと対策を練ったのだ。
 で、その結果わかったことは、絶対に失敗しないのは無理という事実だ。時間や労力が限られているのだから元ネタを確認しきれない。だから釣られたらやられた~と笑うしかない(つまり、今回の件で怒ってる人々ってプライドの塊なんだねということ)。教えるべきことはメディアリテラシーも確かにそうなんだけど、それよりも自由ってのは往々にして損を受ける可能性もあるんだけれども、それこそが自由の持つ価値なんだからあまりプンスカ怒らずに大目に見ようぜということだと今は考えている。また、聞く所によると、アメリカの新聞記事は記者の署名が入るらしい。記事の質を保証すると同時に、記事の文脈を明白にする意味もあるのだろう。アメリカの新聞はそれぞれの政治的立場がはっきりとしていて誰が書いたかが評ずる際の最初のチェックになるそうな。日本のネットも同じだろう。
 その他の疑問として、件の記事って橋本市長が槍玉に挙げられたから怒られたんじゃないのと僕は思う。虚構新聞は当然今までにも記事を作っており、その中には今回の記事に匹敵するようなものもあった(後出しになるが、個人的には今回の記事がそこまで面白いとは思えなかった。「ありえそう」でもなかった。この記事に比べれば「「ユッケ、よく焼いて食べて」 消費者庁呼びかけ」の方が面白くない? ありえそうではないけど)。ツイッターで拡散されたことだって別に今回が初めてじゃなかったはずだ。何で今頃、それもよりにもよって日本で最も賛否両論を引き起こす人の記事で、しかも今までにも何度も騙されたりしたであろう虚構新聞でこんな批難が出たんだろうかというと、揶揄した対象が橋本市長だったからだと思うんだ。虚構新聞は直近でも政治家の風刺記事(嘘)を書いてたけど、"ルーピー"鳩山元総理だったり菅元総理だったりと世間的な人気も下がっていた人たちばかりだった。
(以下飽きたので中断。でも記事を信じた人と橋本市長の支持者の関連性を調査すると何かわかるかも?)

2.アイドル
 今から数年前のことだ。会社で数名と飲みに行った時、好きな音楽の話になった。アニソンというかMOSAIC.WAVとI'veと多数の電波ソング以外を知らない僕としてはワールドミュージックが好き~と偽っていた。そこで、とある女の子が「私、AKB48がマイブームなんだ」とのたまった。当時はもちろんAKB48は知名度があったが、でも今のような爆発的には受容されておらず、てっきりヲタ御用達のアイドルグループだと思い込んでいた。女の子を大量に集めて……なんて発想は魔法先生ネギま!しかりToLoveるしかり、そもそもエロゲの文脈だったはずだし、それはわざわざ「アキバ」の略称を名前に冠していることからも痛いほどわかる。いや、痛々しすぎてオタクである僕は目を背けていた。結局、その時は当り障りのないことを言って終わったが、それから数年経った今、まさか紅白にまで出場するレベルになるとは思わなんだ。
 会社の人を見ていてもAKB48の受容のされかたはキワモノ扱いであることが面白い。芸能人関係に疎い僕は言うに及ばず、それなりにアイドルとかに強い先輩ですら有名所の数名しか顔と名前が一致しない。10人知ってたら完全にマニア状態。ここらへんって例えばモーニング娘。などの扱いとは違うのではないかと思う(僕はモーニング娘。すら知らないのだが……)。AKB48の戦略は、僕ですら知ってる1、2名を徹底的にプッシュしてグループの知名度を上げる方法なのだろう。それを後押しするのが恐らく総選挙というシステムであり。いや、でも総選挙に参加する人がわざわざテレビとかで見たビッグネームに投票するのだろうか、なぞだ。僕の知っているオタク的メンタリティならばわざわざマイナー所に入れるのが常だと思う。
 そう言えば「総選挙」って言葉も中々深いものがある。所詮政治はアイドルの人気投票と同程度であることを揶揄したものとしてこれほど似合う言葉はないだろう。少なくとも投票する人々は身銭を切っているので議員に対する総選挙よりも真剣さがはるかに違うだろう。個人的にはこのような裕福になった国における教育・政治などに対する国民の関心の低下はある程度の水準が達成できた証として好意的に見ている。が、同時に僕はこういう言葉の援用、つまり元の文脈から切り離した単語やフレーズだけを利用するやり方は好きではない。かつてオタク業界に巻き起こった言葉のジャンク遊びは楽しかったのだが、今カラ思えば得られるものは少なかった。逆に援用された言葉に付随したイメージだけが何となくで理解されすぎて肝心の内容を疎かにしてしまったと思っている。同時に引用された言葉の理解の仕方も問題があったと思う。
 AKB48の「総選挙」から政治の総選挙に誤ったフィードバックが流れないか心配。

CatMemoNote

CatMemoNote
 最強のメモ帳。昔から求めていたメモ帳は、ツリー表示機能と自動保存、通常のエディタ機能(検索・置換・1行の文字数指定など)の3点が付いたものだった。意外と自動保存機能の付いたエディタがなく、あっても付箋ソフトだから検索が手軽に行えないという難点があった。テキストエディタでないとリドゥ・アンドゥ周りが不安定という欠点もある(無限とまでは言わないが、せめて100回程度は可能であって欲しい。実用上はせいぜい20回までしかアンドゥしないと思うが念のため)。
 そんなわけで様々なテキストエディタを使ってきた。Mifes・秀丸・iText・TeraPad・EmEditor Free……まあ、どれも自動保存をやってくれない点で使用をやめたのだ。秀丸やTeraPadは使いやすいと言われていたものの、僕はプログラムを行わないのでマクロ周りとかは必要なかった。その分、ツリー表示と検索さえできれば不満はない。聞く所によるとサクラエディタが自動保存とアウトライン機能と検索置換ができるらしい。使ったことはないけど。
 で、辿り着いたのがこのCatMemoNote。複数のフォルダをタブとして、複数のファイルをツリーの1項目ずつとして管理することが出来、しかもソフト上では完全にツリー項目なのでファイルをまたがった検索が可能なのだ。ただし置換機能は将来に期待、とのこと。そして当然自動保存してくれる。自動保存のタイミングはウインドウを切り替えたり、タブやツリー項目を切り替えた時だと推測。つまり、文字入力以外の作業をした瞬間っぽい。逆に時間ごとでの保存がされるのかは不明だが、常にCtrl+Sを押し続けていれば問題ない。もちろん5分毎での保存などが可能であればそれに越したことはないが……。最後にテキストエディタとしての機能はそこそこ。全文検索とハイライト表示は可能。ただし論理式を用いた検索はできない模様。1行あたりの文字数を指定する機能もない。置換機能はついていない。また、何と縦書きが可能だ。もっとも禁則処理の部分が弱いので完全に原稿用紙の代わりとして使えるわけではない。その他、メモ帳としての気配りもされており、非アクティブ時最小化&タスクトレイアイコンのみ表示の設定は地味に便利。タスクトレイにしかアイコンを置かないので席を離れるときは例えばブラウザにでも切り替えておけばメモを誰からも見られずに済む。
 何が言いたいかというと、かなり便利な上にフリーソフトだから使うと良いと思う。2012/05/23 10:04:13職場にて(こんな感じで定型文の挿入機能もある)。

「ショーン・オブ・ザ・デッド」(ユニバーサル・ピクチャーズ、2004)感想

正直ゾンビものはあまり得意ではない。ゾンビという存在は大抵代謝とか自然治癒ができないと描写されているにも関わらずなんで人肉を食すのかとか、血液を失っても(=胸部損壊や燃焼など)身体が動くのはなぜかとか、そこらの描写が全くないからだ。これが宇宙生物なら「色々あるんだよ」の一言で納得するんだけど、蘇った死体の怪物はその動くメカニズムが気になって仕方がない。リビングデッドを本当に怖がることができるのって土葬+死後の世界を信じていた西洋人しかいないのではと考えてしまう。
 それはともかく、僕にとってゾンビの怖さというのはスプラッターであることと同じだ。ソンビって頭を破壊しないと倒れないだけで動きも遅いし知能もないしで怪物としてのあまり怖さがないんだよね。カメラアングルだって一般的なホラーの撮り方でないし(個人的に怖かったのは平成ガメラ2の地下鉄でのレギオン襲撃シーンなど)、あのノロノロとして数が多いだけのゾンビ共はナメクジの大群を彷彿とさせてそれはもう恐怖というよりも笑いを引き起こしてしまう。昨日まで人間だったお隣の人が怪物になっていた……という要素が肝なのかもしれないが、それはターミネーター2が上手にやってしまったのだ。
 だから僕はゾンビ映画ってのはアクションとかコメディとか視聴者に頭を使わせない・我に返ってもそれなりに楽しめるジャンルの映画が一番良いと思っていた。そしてちょうどコメディとして評価が高かったのがこの「ショーン・オブ・ザ・デッド」だ。

 見終わった後の感想だが、僕はあまり笑えなかった。部分部分は面白いシーンがあるし、笑うべきポイントってのはわかりやすく存在する。でも僕は少し居心地が悪く感じてしまった。
 主人公のショーンは人から注意を受けても聞き流し、やるべきことを自覚していながらサボってしまう。正直、彼の姿は僕のダメな部分を拡大して見させられているようで笑うことができなかったのだ。ショーンという人間は自分がうだつの上がらないことを自覚しているせいか、同居人のエドをペットとして甘やかし、自分の下の人間がいることで心を慰めているそういうやつだ。ラストシーンで本当にペットになってしまったエドを見ると、さらにリズと同居しているにも関わらずペットになったエドを飼っているシーンでよく分かる。問題なのはエドを飼うことがショーンのまともな人間関係まで悪影響を引き起こし始めていることで、それが冒頭のシーンであった。そこではショーンは色々と行動しているように見えてエドの言いなりとなっている。で、通常ならば事件が起こると主人公は「こんなことじゃいけない」と反省して(もしくは強制的に独り立ちさせられて)その過程で事件が解決し恋愛関係となり一人前の主人公となるのだが、ショーンはそこら辺が欠落している。
 彼が主人公として最後まで生き残りリズとよりを戻したのは言ってしまえば運でしかない。もっと言うなら映画のご都合主義さ。ショーンはニュースで家から出ないよう言われたにも関わらず浅はかな考えで母親とリズを迎えに行き、そして結局のところ自分の手で母親を始末するはめになった。当て馬であるデービッド&ダイアンなんて非常にまともと言うか……少なくとも映画的な面白みはない人間像だけど退場のさせ方があまりにも強引すぎたと思う。それでもって結局はエドも無理矢理殺してしまい、ショーン自身が何も変わっていないにも関わらず形だけ自立したという風を装うのだ。そこら辺の皮肉はラストでゾンビ騒動が落ち着いたらゾンビレースの放送とか日常に回収されてしまった=ゾンビ事件によっても社会的な変化が何もなかった(ショーンとエドの関係でさえも!)オチが表しているかもしれない。
 だから僕は何となく想像してしまうのだ。リズとの生活の中でショーンが元のものぐさな生活に戻り、彼女が愛想をつかすものの抜け出せないグダグダの関係が。そういう弱さは僕ももちろん持っていて、たとえ映画で戯画されていても見せつけられるのは心地よくなかった。あれだよ、オタクはしばしば自虐芸がネタにされるし、僕も久米田康治氏のヲタ自虐ギャグが好きだけど、あれって自分達がそれなりの人間であることを自負した上での自虐なんだよね。多少ひねった自意識の現れ。より社会に溶け込めないほど濃かった=オタクとしてすごかったという時代の名残。元から格好良い主人公はもちろん、冴えない主人公も成長して良いところを見せるのが娯楽の醍醐味だったのに、ショーンは格好悪いまま成長しないままに運と周りの人の好意で生き延びてしまう。その誰にでもある格好悪い姿を笑えるほどには僕は自分を客観視できなかったことを発見したのだった。

2012年6月19日火曜日

Tweet (Mon, Jun 18)

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2012年6月18日月曜日

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2012年6月17日日曜日

Tweet (Sat, Jun 16)

  • 20:29  なうランクエ遊び中
  • 13:10  起きた
  • 01:09  ねむーねるか
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2012年6月16日土曜日

Tweet (Fri, Jun 15)

  • 22:48  帰ったぜい
  • 00:29  寝る。おやすみ
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2012年6月15日金曜日

Tweet (Thu, Jun 14)

  • 23:29  今年の目標:ツイッターを活用すること
  • 23:28  やっと家に着いたっちゃ。
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2012年6月14日木曜日

Tweet (Wed, Jun 13)

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2012年6月9日土曜日

euphoria(CLOCKUP、2011)

某動画サイトで有名だったからやってみた。ネタバレ上等ってかほぼ結末まで知識として知っていたが、それでも楽しめた。このキャラがこういう風に絡むのか、とかこの伏線がーとかの「発見」があった。これは実際に遊んでみないとわからない点である。
 このゲームを説明するとき、絶対にグロいという単語が出てくる。僕にとってはそこまで……というか、グロにも臓物系のグロさとホラー系のグロさと、痛みを感じる系のグロさがあってだなあ。痛みを感じる系は暴力とか目に針を刺したり爪を剥いだりする表現で、ホラー系は顔芸などプレイヤーを驚かす表現、臓物はその名の通り、と僕は分類している。このゲームは痛みを感じる系がメイン(対してブラックサイクは臓物系、たっちーも痛みを感じる系)。だからゴアスクリーミングショウが苦手の人にも安心して薦めることができる。
 以下はネタバレ。







 テーマは前半が内なる悪魔、後半が幸せを求めるという広義の意味での信仰。前半と後半では主題が唐突に分かれるが(さらに言うとゲームやってる間は主題のズレを解消できてないっぽく感じていたが)、全てのシナリオを終えて全体を見回せば一貫していた。ゲーム的な縛りはないものの、シナリオを味わうためには菜月→梨香→凛音→合歓→叶の順でプレイした方が良い。ってか、ここはシステム的にそういう風にしちゃった方が良かったかも?
 幸福を掴ませるために4回(攻略する順によっては1回しかないけど)の絶望をプレイヤーと主人公に味あわせ、しかもその主題自体は最後のキャラにしか出て来ないために仮の主題(内なる悪魔。でも信仰という主題と繋がっている)を設置し、学生に対して責任を持つ大人・一般人・宗教・誘惑者・良心(個人)というそれぞれから物語を描き切った。……一時期流行ったリプレイ構造にこういう意味を持たせるとはね。

 キャラクター別に見る。菜月。叶シナリオでは別の顔を見せるものの、一貫して学生に対して責任を持つ大人という立場であった。同時に物語にとっては他者の象徴でもある。鍵穴ゲームでは客観的に見ると先生である彼女が鍵穴として選ばれるべきであった。そこには何の葛藤(内なる悪魔)も悩みもない。他のシナリオでの言われていたが、彼女の欠点は先生としては頼りないというそれだけのことだ。学園デス・ゲーム的に見ても、叶シナリオ的に見ても何も解決せずに何となくのハッピーエンドで自分たちだけ逃避してしまった。

 梨香。後の凛音・合歓・叶に対比されるためのシナリオ。菜月と同じく叶シナリオを含めた物語全体から見ると他者である。どこかのブログで見た表現だけど、彼女は非常に「ウザい」。可愛らしい仕草で雛鳥の如く口を開けることで周囲の人を動かすものの、鍵穴ゲームにおいてVIPルームのサンドウィッチを黙って食べてしまった悪知恵に象徴されるように決して無垢な子供ではない。周囲の人間関係でパワーが秀でたキャラクター(合歓・凛音・叶)に懐いたことからも彼女が純真なだけのキャラではないことが読み取れる。良くも悪くも、自己主張の強い「鍵穴」達に比べると極めて一般人的で、極めてリアルな造形で、だからこそ他者なのだ。
 彼女のテーマはすなわち自立であり、鍵穴として何度も選ばれることが他人の感情を認識し、梨香シナリオ最後のシーンでの梨香の飛び降りに繋がる。まあ、主人公とラブラブになる流れはストックホルム症候群的な匂いがしたけど、細かい話だろう。
 個人的に気になったのは、前述のサンドウィッチの件で、梨香シナリオではこれについて全く触れられていなかったのだ(注、僕は既読文をスキップしていたから本当にスルーされていたかは定かでない。他のブログを見るとこれについて書いてないのでもしかしたら何らかの形で解決したのかも。その時はごめんなさい)。梨香が良い意味で幼いだけではなく、ずる賢い一面もあり、それを克服するシナリオなのだから是非とも物語に組み込んで欲しかった。
 梨香のシナリオもエンディングは結構ハッピーな終わり方をしており、凛音達の必ずしもハッピーとは言えない終わり方とは全く違う。同時に菜月と同じく物語的には何も解決せずに、だから叶シナリオを終えた後で見るとこの2人が蚊帳の外であったことが分かるのだ。

 凛音から「楽園」という単語がキーワードとなる。凛音シナリオ中、なぜ主人公が選ばれた人間なのかとその都合の良さに首を捻っていたが……そういうことですか。叶シナリオをプレイしたらよく分かる。主人公は本当の意味で「主人公」だったのですね。
 凛音シナリオの肝は地上に脱出して荒廃した学園を見た後だ。平穏な日常が破壊され、地獄さながらに変わってしまった時、自分たちが酷い目に合うのは神の試練だという希望にすがりつく。同時に自分たちは選ばれた人間だという優越感を抱きつつ。「彼ら」と「自分たち」を隔てるのは思想だけでは物足りない。現実に目の前では暴力が振りかざされている世界で、自らを律するのは修行のみ。そうして育ちきった歪んだ自意識と異様な思想は地上から悪魔を消し去った後も消すことはできない。かくして救世主や楽園が凛音シナリオではキーワードとなった。合歓シナリオでは凛音教団は集団自殺(?)を仄めかすのだが、悪魔に負けた場合というIFシナリオとして綺麗に対比されていて興味深い。
 ……うーん、凛音シナリオは完成されすぎていて書き様がないな。幸福というテーマを描くならば宗教的な幸福のあり方を描く必要があるものの、ではこのゲームに合っているかと言われると必ずしもそうではない。

 合歓と叶。合歓シナリオって叶シナリオにおける合歓というキャラクターの伏線にするためにシナリオを費やしやがった。すげえ。悪魔的なキャラとして描かれる合歓が時々主人公を心配するのはなぜか。そして鍵穴ゲームから抜け出す際に合歓と主人公は分かり会えたのに、唐突に無慈悲な学園の支配者となってしまうのはなぜか。合歓シナリオのエンディングで主人公の死に悲しそうな顔をするのはなぜか。そして、学園の支配者でもある合歓がわざわざ自ら鍵穴ゲームに参加する目的は何なのか。
 それは叶シナリオで明かされるのだが、僕は事前にレビューサイトで叶の正体を知っていたにも関わらず、物語を楽しめた。やはりというか何というか、要約を読むのと実際にプレイするのとでは感じ方が全く違うのを思い知らされた。
 他のシナリオでも名を連呼する主人公なので、出番の割には印象深かった叶。叶シナリオでは鍵穴に叶を選ぶのだが、叶は何と主人公を受け入れてしまう。それも「貴方は悪くない」と言う代わりに「主人公ならいいよ」、と。その様は良心というよりも誘惑者と言った方がよく(主人公もモノローグで語っていた通り、叶が主人公の良心であるならば「理解」しようとするのが正しい。鍵穴ゲームでは、欲望を行動に移すことを「異常な事態だから」という表現で免罪していた。主人公もあくまで被害者であり、それでも外に出ると鍵穴の対象となった人から断罪されることが示唆されていた。その観点から見ると、主人公なら/主人公だからというのは主人公の欲望のストッパーとは真逆の方向であろう)、違和感を感じはした。ネットリとした何かに絡め取られるような……少なくとも合歓のような正攻法の誘惑ではない分だけ逆らうのが難しい。
 そしてついに外に出て、学園の支配者である合歓を殺してしまった主人公は叶と合歓の正体を知るのだった。この2人は完全に表裏一体のキャラで、シナリオ的にもお互いに補完しあっている。合歓シナリオでは叶はあくまで主人公の幼馴染であり、主人公を救うため合歓との賭けに乗ったのだが、うん、合歓シナリオプレイ中何か変だと思ってたのだ。合歓にとって自分が参加するメリットが全くない。ついでに合歓の誘惑に乗らなかったら合格、なんて合歓にしては悪趣味さが足りない。違和感があったのだが、まさか実は合歓と叶の立場が逆だったとは。
 合歓を殺した段階で内なる悪魔というテーマは消える。そりゃ空想の中で人を殺めるのと、現実で実行してしまうのとでは重みはぜんぜん違うのだ。特に鍵穴ゲームは強盗に襲われて銃で脅されて~というシチュエーションなんかとは全く違う。現実離れしすぎており、ここで起こったことをそのまま現実の世界に持ち帰って我々の常識で裁くことができるかという問題がある。なので、前編の主題は消え去り(物語的には主人公も感情を操作されていたこともあって)、タイトルでもある多幸感が真の主題として現れる。
 この作品には暗躍する死の武器商人や裏から操っている宗教団体なんてものは存在しない。学園デス・ゲームが隠蔽されるものの、「組織」は主人公に全く関わらない。というよりも「組織」に属する人間自体が叶と菜月以外立ち絵すら現れないのだ。そういったある意味では雲の上の出来事なので一般人である梨香は早々と物語から離脱する。一般人にとっての幸福は難しい話なんてなかったと思い込むことだ。菜月もまた同様に物語のキーキャラクターではない。鍵穴ゲームでは倫理=義務であったように、叶シナリオでは幸福が仕事とか生活とか、要は一般人的な幸福観と結びついていた。というよりももはや問題として提起されていなかったのだ。
 対して凛音は、宗教団体における教祖が悟りを開くための修行をいつの間にか目的化してしまうのと同様に、生きることが「楽園」のパーツとなることに摩り替わってしまっている……が、個別シナリオと同じように収まりが悪い。
 では「楽園」とは何か。その鍵を握るのが合歓である。実は合歓こそが幼馴染のポジションであり、主人公を助けるために鍵穴ゲームを行なった本人でもある。「楽園」は歳をとった金持ちが冷凍睡眠もどきとして暮らす幸福なユートピアであり、その意味では希少性の高い映画マトリックスと表現するのがふさわしい。「楽園」で暮らす人々は世界を与えられているので幸福である。が、では世界を生み出した人は? 「楽園」の外に辛いけれども痛みを感じる世界があると知っている人は?
 実はこのゲームはそこを誤魔化している。合歓は「楽園」で主人公を生き返らせ、一緒に幸せな生活を送ることもできるのだが、敢えて「現実」の主人公を助けるために叶との賭けに乗った。その理由は「だって現実だから」とゲーム中で答えが用意されていたが(ゲームではもっと感動的な流れです)、シナリオの流れからすると他の言葉を使ったほうが良かった。現実と仮想現実がごちゃまぜになるのがシナリオの肝であり、それは黒叶に対して「愛してる」を5回言ったことからも伺える。何か変、と疑問を呈した選択肢が何とトゥルーエンドに辿りつけないのだ。
 ではなぜ合歓は主人公を助けたのかというと、それは鍵穴ゲームのラストにおいて囚われの合歓を主人公が身を呈して助けた理由と同じではないだろうか。もっと言うならば僕達がゲームキャラであっても死んだり殺されたりするのを何となく嫌がる感覚ではないか。
 僕たちは人間以外に感情移入ができてしまう。点が2つ、その下に横棒が1本引いてあったら顔と認識してしまうし正真正銘プログラムの塊であるAIBO(懐かしや)の仕草に癒しを見出してしまう。それは相手が人間の姿をし、曲がりなりにも言葉が通じるならばなおさらのこと。実際に動けるかはともかくとしても、人間が死んでしまうことを避けようとするのをこのゲームでは「良心」と呼んでいるのではないだろうか。主人公の立場はある意味で「楽園」を、幸福を無視する原理で動いている。苦しく愚かな選択を選ぶも苦行という幸福に逃げない。だから「楽園」から合歓を解き放とうとしたのだし、「楽園」に囚われていた叶から嫌われていたのだ。
 「楽園」とは死の象徴であった。1人の女性が自殺未遂を起こし、植物人間状態になって「楽園」が生まれたことが象徴的である。その他、「楽園」に接続しようとする人々も死の代わりとして希望していたことが明確だ。「楽園」に沈むことで幸福になれる。でもそれは自分にとって都合の良い世界でしかなく、他者との引っ掛かりのあるコミュニケーションなど「現実」ではない。人間は確かに幸福を求め、そして幸福は言ってしまえば脳内の化学物質の産物なので人工的に作り出すこともそのお膳立てをすることも可能といえば可能……なのだが理性を伴った判断ができる状態の僕たちはそれを好ましいものと受け取れるだろうか。芥川龍之介の芋粥とまではいかなくても幸福そのもの・楽園そのものを絶対的な目的としてしまえるのだろうか。
 テーマソングのタイトルにもなった「楽園」。PCゲームにおいて楽園と言えばそのものズバリな「らくえん~あいかわらずなぼく。の場合~」を思い出す。全く方向性が違うゲームだけど、幸福の形を描いたという意味では通じるものがある。「らくえん」はゲーム作成(というよりゲーム会社)を通じ、一般人の非オタクの世界には戻れない人々の姿を描いていた。そこには現実しかない。もちろんゲームというフィクションであるので最後は砂糖をぶち込んでフィクションとしてのバランスを取っているものの憧れや趣味だけではどうにもならない現実を描いていた。そして彼らが求め、一方では掌からこぼれてしまった選択の結果が楽園なのだ。「堕落する準備はOK?」。そう、「らくえん」では確実に代償があった。ゲームを完全に趣味とし会社員など気質の仕事に就く選択。「らくえん」をプレイする人の大半はそんな身分であり、あえて「堕落」した彼らの足掻きが僕達からは楽園、さらには幸福に繋がるように見えるのだ。しかし「euphoria」の「楽園」はもっと無機質で頑強で、そして「幸福」である。そのような楽園を本当に求めたいだろうか。
 主人公に懐いていた合歓を我が物とし、記憶を消すことで家族のようにお姉ちゃんと呼ばせていた叶。代償として逃避行をする羽目になり最後には殺されてしまうのだが、彼女は幸せを感じてくれたのだろうか。

 話は変わるが、合歓の名前ってこれが元ネタかな。
和名のネム、ネブは、夜になると葉が閉じること(就眠運動)に由来する。漢字名の「合歓木」は、中国においてネムノキが夫婦円満の象徴とされていることから付けられたものである
Wikipediaより)
 睡眠か……なかなか意味深である。