2013年11月24日日曜日

XYクリアして

 クリアはずいぶん前。今まで孵化厳選して、メガバシャ・メガリザに勝てないから放置してた。やっぱVを出しやすくなったと感じる。フレンドサファリで2Vが確定するから、それを片親にすれば比較的楽になるんだよね(欲しいパラメータをそれぞれ3Vでカバーした子供を赤い糸と変わらずの石で4Vを粘って、さらに4V同士で赤い糸と変わらずの石で子供を産ませるとそれなりの確率で5Vになる)。夢特性も♂や性別不明から遺伝できる。BW2のときはゴルーグのノーガードが欲しかったのだが、厳選が無理そうで次回作なら遺伝できるさ、と考えて対戦もやってなかったから。
 面白いことに育て屋に預けた最初の卵は遺伝箇所や特性、性別がすでに決まっているらしく、セーブせずに遺伝箇所のみ確認して、リセット後遺伝箇所がVの両親を用意して預け直すとそのまま4V、5Vの子供が生まれるのだ。当然、ボックスに入れてある両親から最適なのを選ぶので乱数がズレまくっているはずだが、なぜか遺伝箇所が変わらない。面白いんだけど、逆に特性や性別などが気に入らなかった場合は卵を受け取って預け直す手間が面倒かな(いや、メリットの方がが半端無いから気にならないのだが)。これを応用すると伝説の夢特性めざ地♀グレイシアが作れるかも!?

 さて、XYの本編としての感想はまだ書いていなかった。
・シナリオ&悪の組織
 名作だったBWシリーズの後だから期待していたとともに不安もあった。「ポケモンの解放」は何だかんだでバトルの手下として使われている現状(そしてポケモンの根幹)に関わる部分であり、子供向きの作品で掘り下げられないだろうと思っていたからだ。どんなに頑張っても一発ネタ。それ以上やるとポケモンの世界観が壊れる。そんな気持ちで、さてXYは如何かと遊んでいたが、なかなかどうして、それなりに違和感はなかった。
 今作のフレア団はシナリオ上での存在感が薄い。正直、いまだにフレア団の主義主張がわからない。フレア団のボスはあんなにも濃かったのにも関わらずだ。だから今作の悪の組織は形だけのコソ泥って感じなんだけど、かえって冒険の邪魔にならなかったのでこれはこれで良かった。たぶん制作陣もフレア団を目立たせないようにしたんだろうなと思う。何といってもフレア団の幹部は名前すら出てこなかったからだ。
 感覚的な話だが、今作のポケモンは形だけ世界の危機とか伝説とかを出しているけど、メインはあくまでポケモンとの冒険じゃないかなって気がする。世界の危機なんて唐突すぎて、そして終わりもあっさりしすぎたために余計にそう思った。それは殿堂入りの後で救われたAZという人物にそれなりの重点が置かれているように思えたからだが(それにしても、AZなる人物も唐突だった。そもそもXYの軸は世界を滅ぼす兵器→AZの救済でこの2つが全くつながってないんだよな)。

・出現ポケモン
 新ポケモンの種類は少ないものの、旧作も含めて多様なポケモンが序盤から登場する。特にハクダンの森でレアエンカウントするピカチュウは初代トキワの森のオマージュであろう。その他、時間や曜日、もちろんレアエンカウントなど今までの出現ルール全てを結集して作られている。
 その他、新タイプの出現はさることながら、御三家が全て複合(しかもサブタイプでも三すくみである)だったり、イーブィの新しい進化、新しいノーマル複合など新しい世代であることを印象づけた(でも、オーロットとパンプジンは色々かぶっている部分が多いので、もう少しお互いに差別化してほしかったり)。

・ギミック(サイホーン・メェークル・マンムー騎乗やローラースケート)
 新しい要素。だが、効果的に使えてはなかったと思う。ポケモンに乗るってのは僕にとっては例えばUO(ウルティマオンライン)でペットに乗るのが感覚が近いのだが、やるなら4つ足歩行ならある程度誰にでも乗れるような仕様が良かった。グラフィックが大変かもしれないけど。でも波乗りと同じようなグラフィックで処理すればなんとかなるかも?
 特にシナリオ上騎乗必須と考えられるマンムーはともかくとして、メェークルとサイホーンは乗る必要なかったのが悲しい。ぶっちゃけ……ローラースケートと似ている自転車を廃止して4つ足に騎乗できるようにする方が良いかもしれん。

・冒険と仲間(ライバル)
 キャラが喋るときは名前を書いて欲しかったな。特に今作は主人公の友人4人がそれぞれ旅をするから名前が頭に入らん。キャラ付けはかなりしっかりしているので没個性ってわけではない。むしろそれぞれ、ライバル・サナちゃん・ダンスマニア・男の娘と記憶には残っている。
 ちなみに僕はまだ男主人公でしかクリアしてないけど、女主人公の場合はサナちゃん関連のイベントはどうなるんだろう。男主人公の場合はまるでギャルゲーのようにニマニマグヘグヘイベントをこなせたのだが(そういやモブの女トレーナーも可愛くて完全にギャルゲーだったなあ)、女主人公だったら普通に友情イベントで終わらすのだろうか。

・カスタマイズ系
 今までは秘密基地だとかジョインアベニューとかで自分好みに変えることのできる要素があった。今作ではいわゆる「施設系」ではなく、キャラの外観を変えるだけ(たぶん)。個人的にはこの手のカスタマイズ要素がアイテムとかと結びつくと、結局は最適化を求めることとなり非常につまらなくなるので大歓迎。特にポケモンの場合、カスタマイズがすれちがい通信とかと結びついていたためブームが終わるととたんに遊べなくなっていたのだ(これは他のDSソフトでも同じで、同じソフト同士でしか反応しないすれちがい通信機能はブームに乗り遅れると足を引っ張るだけだから止めたほうが良いと思うんだがなあ。ポケモンの場合はそれなりに考えられていて、XYではインターネット接続でもすれちがい通信と同じ機能が使えるようになった。ついでにポケモンは、ダイパあたりからだったと思うが、通信交換をする際にはサーバにポケモンを預ける形での同時性でない交換も行える)。
 話がかなり逸れたが、カスタマイズイコール育成につなぐのではなく、分けて別々に楽しむ仕様にした今作は素晴らしいと思う。

・ポケパルレ・ポケスロン
 こちらも共々好きな人だけが追加要素を遊び、それによるシナリオ上のメリット・満足を自由に楽しめる点だ。僕みたいにクリア一直線の人は全くタッチしなかったと思うし、それによるデメリットも受けていない。一方で嫁ポケと旅を楽しみたい人は色々遊んでいれば応えてくれる嬉しい仕様である。
 誰も言わないけど、ポケモンの隠れた要素として僕みたいに現実世界でペットの飼えない人が擬似的に楽しむ環境だとも思っているので、素晴らしい要素だ。

・フレンドサファリ
 えーと……フレンド厳選……まあ、どうなんだろう、僕みたいに対戦パーティのテーマが決まっている人は例えばポグレー・フワンテ・ランプラーみたいなマイナーなレパートリーを求めるので、統一パーティってのが認知されてる現在で全くフレンドサファリに登録できないことはないはずだ。でも、やっぱりメタモンとか御三家とか天候要因みたいな子たちに比べると、ナックラー・サンド・ツチニンが出てくるフレンドコードを求める人は少ないよね……。とは言え、いくつかフレンドコード交換掲示板を見ていたら、出現ポケモンを伏せての交換とか、最悪2chなどで孵化余りをもらう選択肢があるので、無理ゲーではない、はず。

 上でも書いたとおり、XYは対戦という一要素をかなり全面に出した作品だと思う。僕もそうだが、初代から遊んでいる人は30前後。アクションゲームは苦手だけど、ターン制でしかも戦略を自由に組み立てるこの手のゲームは大好きという人は多いだろう。

・最後に
 ここまでつらつらと書いたが、僕はもうポケモンを隅々までは楽しめないだろう。社会人になって時間が足りないため、対戦を楽しもうとしたら収集を切るしかない。僕はゴースト統一で組んでいるので、ゴースト以外は遺伝技用のポケモンと野生で出会ったポケモンしか仲間にしていない。最終的には対戦も自分の納得する範囲でしかできなくなるだろう。週末の僕は引きこもりだが、これが人付き合いとか結婚とかしたら育成も満足に行えなくなることすら見える。勝ちたいためにポケモンを最適化しても対戦の経験が不足することだってありうる。どういう遊び方で妥協するかが社会人としてのポケモンとの付き合い方であり、今後もポケモンが続くことを考えたら誰もがいつかは考えねばならないことだと思う。それはこのままだとポケモンの種類が1000にも2000にも覚えきれないほど出てくるだろうから、そっちの意味でも「妥協」が必要だ。





 いや、本当に大学を卒業して会社に入ったら趣味を捨てる機会が多すぎるのですよ。UOだってそう。会社入って当初は社会人になる際の脱オタ機会を乗り越えれば一生モノだと思っていましたが、それは甘かった。ポケモンに限らず、とにかく時間がないので取捨選択が必須であり、必然的に話題についていくために広く浅い道を選ぶか、深く濃くなる道を選ぶかさせられます。そこまで頑張っても結局は学生には追いつけない面が多々あります。かと言って学生との差別化要素であるお金だってそんなにあるわけじゃないのですね。妥協すること。UOにしてもポケモンにしても長く付き合うためには大切だなと思います。

「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 新編/叛逆の物語」(シャフト,2013)感想

 ネタバレはメーなのです(意訳)、と言われたから何とかネタバレにならない範囲で書いてみる。つーか、あの上映前の注意事項をわざわざ作るってのは製作者もまどマギがどういう受容のされ方をしてるかわかってるなあ。
 まどマギ劇場版を先週見た。レイトショーで見て、鑑賞前は意外と人が多いことに感心してたが、終わった後で興奮しながらツイッターで下記の雄叫びをあげていた。
 これだ、これこそがまどマギなのだ。ファンのみんな、僕達の求めていたまどマギが今ここにある!
 まどマギはテレビ版で一通り完結していた。だから世界線がずれていたら「劇場版まどマギ 序」になっていたかもしれず、その誘惑に抗ったスタッフには経緯を表したい。
 また、ヘタすると「電脳マギカ」、どうしようもなくて「絶望のボーイフレンド」、最悪なら「巴マミ育成計画」になった可能性もある。世界線をうまく選択できた自分の運を誇りに思う。
 正直、序盤は地雷かと密かに思ったのだ。そしたらあれよあれよとまどマギ展開。キャラクターを追い込み最悪の選択を選ばせ努力を嘲笑う。これがまどマギだ、この世界の理だ。
 全体的にはヌルい。もっと壊し狂わせ嬲り妬ませ世界を恨み痛みを与えなければ。ならばまどかの父か、母か、弟か、生贄が必要だ。
 まあなんだ、新章って付いてるけど、これはこれで完結しちゃったし新作は出るのかな。

 エヴァほどの時代性・テーマ性はなかったものの、まどマギは魔法少女(男性向け)という2000年代以降を象徴するネタを多少SF風味に上手く調理した作品だと理解している(個人的には「魔法少女」という言葉は男性オタク向けという感じがして好きではない。恐らくネタ的にはセーラームーンが直接の先祖だと思うが、僕はほぼ見てなかったけどなんとなく「セーラームーン」&怪しいけど魔法つながりで「おねがいマイメロディ」シリーズにあるような異性、特に男性、への憧れが欠けていて、それが男性オタ向けっぽい印象になるんだと思う。僕の知ってる限り「魔法少女」とは今では「魔法少女アイ」のような男性向けの作品が言葉を代表してしまっていると思う。もっとも、すでに男性向け・女性向けのくくりに意味はなくなっているのだが。魔法少女という概念はWikipediaより)。本来少女向けであった魔女っ子に萌える男性オタクは昔からいて、アリスソフト「ぷろすちゅーでんとG」の魔窟堂じいさんがそれを象徴している(魔窟堂じいさん自体はフィクションキャラだが、元ネタは冗談半分でライターのイマーム氏だって言うし、何よりも描写に誇張はあれど間違ってはいないはず)。それが長らく表に出てきてなかっただけで「セーラームーン」辺りから男性が少女向けの作品を楽しむことが当たり前になった、という歴史認識でいる(ただし、これは僕がセーラームーン時代に小学生低学年、それ以降の「少女革命ウテナ」などで中学生以降だったのも関係してるかも。幼い男の子は一般的に少女向け作品が好きだと公言し辛い環境だから、単純にそれが影響してるかもね)。そんなわけで魔女っ子系のパロディを男性向け作品で盛り上がったのが2000年代以降だと考えている。
 話を戻すと、まどマギはTV版で完結した・社会現象になった・時代性を取り込んだ・ファンによる補完(同人誌)がかなり大規模に行われたなどの点からエヴァと受容のされ方が似ていると思ってて、エヴァめいた作品展開をされるんじゃないかと恐れていた。結果としては今作で物語を一歩進め、エヴァとは違うことを証明した。まあ、エヴァ云々は僕が勝手に考えていて、両作品にとっては迷惑なのかもしれないが、良作だったのにリメイクとスピンオフの嵐でシリーズそのものが駄作になる光景はエヴァが一番象徴していると考え、引き合いに出さしてもらった。
 さて、内容はネタバレになるから書けないけど、反逆。それも上位存在への。僕の一番好きなテーマだ。思えば鬼畜王ランスのエンディングがそうだったか。鬼畜王ランスはトゥルーエンドは確かに感動したが、僕が好きだったのはそれ以外の魔王になったとか世界を混沌に巻き込んだとか、そっちだ。巨大な存在に道を塞がれても決して諦めずに抗う。その姿は例え無駄だとしても格好良く、だから僕は方向性は違えどシュタインズゲート(アニメ版)が好きだったんだなと今さらながら気付く。
 まどマギも同じで、ほむらは最終的には自分が倒れることを予想出来ているだろうに、それでも戦う。まどマギの世界ではまどかですら魔法少女というシステムを壊すことはなかったのに対し、ほむらは自分のただひとつの望みのために全てを失おうと抗い続ける。まどかの選択はファンサイトでも長らく議論になっていて(例えば田中秀臣氏はこんな形で書いている)、僕はまどか=製作者の意図は認めるが、ほむらとさらにはキュウべえの道に共感を抱いていた。魔女が消えさり魔獣が現れた世界では神となったまどかによって魔法少女という枠組みだけは絶対的なものとなる。したたかに利用とするキュウべえはともかくとしても(ニコニコとか見てると必要以上にキュウべえが叩かれてると思う。キュウべえは多少行き過ぎている面はあるが人間的な思考を持った存在なんだけどなあ)、ほむらはまどかを助けるためとはいえその体制に反対できるただ1人の人間であり、それは「ベルセルク」のガッツを思い出させる孤独な道だ。しかもガッツと同じく自分の欲望のため。それだよ、その姿が好きなのだ。その姿を描けるまどマギが、僕は好きなのだ。

 ちなみに今作の醍醐味はそれだけではなく、杏子が制服を着てたり、さや杏が公式だったり、ベベ(アイツ)があの人とタッグを組んでたりとファンサービスが効いているところも面白い。まあ、それゆえ序盤はファンに媚びまくった駄作かとピリピリしていたのだが。ほむらは、二次創作ではまどかへの愛が行き過ぎてソウルジェムが濁っているクラスの描写をされたが、今作ではどうなっているかは見てのお楽しみ。ほむらはまどかに自分を止めてほしい(殺してほしい)と願っているのもポイント。愛……か。

 そう、愛ではあるんだけど脚本が虚淵氏であることを考えると意味深である。かつて虚淵氏は同じように愛のために世界を滅ぼす作品を書いた。沙耶の唄だ。沙耶の唄は男女が愛するために世界を滅ぼす仮定を極めて純粋に描いた作品だが、主人公が沙耶以外いらないみたいな論理で動いていたので世界を滅ぼすことに対する罪悪感が薄かった。そもそも出自のわからぬ人を喰らうモンスターである沙耶しか人として認識できなければ、それ以外は当然敵となる。が、人間の愛情という観点からはその純粋さが逆に人間社会の描写の欠如という点で欠点となってしまう。
 それに対して今作まどマギ劇場版。ほむらにとってまどかは他者だ。それも目的が異なっている。この時点ですでに沙耶の唄とは異なる展開となろう。また、広い世界に自分1人……というシチュエーションは手塚治虫氏の「火の鳥 未来編」を思い出させる。「火の鳥 未来編」が孤独を紛らわすために生命を作ろうとする、つまりは内面に沈む道を選んだのだが、ほむらはまどかを求めるという非常にアグレッシブな行動にでる。そして得られた世界は数人の邪魔者がいる舞台。まどかも含めて自分のシナリオ通りに動いてくれなさそうな連中だ。ほむらがまどかとの愛を育む上でそもそもまどかにとっての友人はほむらの他にもたくさんいるとか、ほむらの選択をまどかは拒否するのではとか、邪魔者の数人は絶対にほむらを排除しようとするだろうとか外部の存在が明確に描かれている。その分純粋さはないため(今後の作品展開としては魔法少女の部分は棚上げされて、ほむらの行動の清算が描かれるんだろうなあ)、テーマとしては沙耶の唄に劣るのだが。
 と、こうして書いていたらやっぱりまどマギが好きなんだなと改めて感じた。





……
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 なんてところで終わらせるのも良かったのだが、1つだけ気になったことを。上で書いてた「愛」は「ただしイケメン/美少女に限る」系のものじゃないかという疑念がある。果たしてほむらはまどかが自分の知っている姿をしていなかったとしても執着できたのか。TV版で昇華したまどかは言葉の上では、まどかが至るところにいる形になるが、それでは満足できなかったのか。劇場版のラストは明らかに自分好みのまどかをお人形のように嬉々として愛でているほむらだが(あ、ネタバレた)、その愛は誰に向いてるんだろう。

2013年11月13日水曜日

昨日はお見苦しい所をお見せし失礼しました

 昨日のアレ。
http://tellur.blogspot.jp/2013/11/blog-post.html

 なめるな。仕事を投げ返してやったわい。どうしてわざわざ部外者の僕を巻き込むの……?

2013年11月12日火曜日

最近の私

 仕事の愚痴は書かないよう決めていたが、さすがに吐き出したい。それまで全く関わってなかった作業に、締め切り前日に突如呼び出されて問題点の調査を命じられた。締め切りを過ぎると向こうの会社とうちの部長クラスが大騒ぎするレベルの問題だ。今までの経緯、何も知らないんですけど……。