2014年7月26日土曜日

ゴジラ(ギャレス・エドワーズ監督、ワーナー・マイカル&東宝、2014)

 何と日本公開日である昨日(7月25日)に見に行ったのだった。レイトショーとはいえ当日で真ん中の席が取れてしまうんだなあ。



 さて、早速感想を。

 おい、そこの鉤爪。お前が歩んだ大地は本来ならゴジラが通るべきだったのだ。

 何のことかわからなければ映画を見るべき。僕は「ゴジラ」として評価はしていないが、モンスターパニックものとして面白かった。
 以下では具体的に感想を書くがあくまで僕の個人的な感想……というか、ツイッターとかでは好評価が多くて僕の感性がゴミなのかと凹む。まあ世の中にはこんな人もいるんだよ、ということで。





--------------------ネタバレかも?-----------------------------------------------------

1.「ゴジラ」とは
 さて、ここでこの映画を評価する僕の立ち位置を書いておこう。
 僕は平成VSシリーズのファンだ。そして平成ガメラのファンでもある。平成ガメラは一旦置いておき、平成VSシリーズのゴジラは複雑な性格を持っている。
 人間と敵対し(1984ゴジラ・ビオランテ・キングギドラ・モスラ・メカゴジラ・デストロイア)、時には人間の決死の作戦に破れ(1984ゴジラのスーパーXと三原山作戦・ビオランテの人工雷・キングギドラのメカキングギドラ・メカゴジラのショックアンカー)、さらには人間を襲う姿も描かれ(ビオランテの権藤一佐・キングギドラの新堂会長)、かと思えば親としての顔も持ち(メカゴジラ・スペースゴジラ・デストロイア)、そして人間の味方でもある(スペースゴジラ・デストロイア)。
 このように多面的な顔を持つゴジラだが、それが平成VSシリーズとしてストーリーが続く中で違和感なく描かれたのだった。また、三枝未希というサブキャラを狂言回しとして出演させ、彼女のゴジラに対する態度を作品毎に変えることで人間とゴジラの関係も変化していることを表現していた。

 はっきり言って、ゴジラはというか怪獣は人間の敵であり、より強大な敵が現れた時だけ一部の怪獣は人間の味方になるわけだ。そこに古来からの日本的神への見方が云々と評論することもできるが、それは関係ないので放っておく。
 とにかく、この作品(以下2014ゴジラ)は本来描くべきだった人間との対峙を別の怪獣に任せることでゴジラをヒーローとして成立させたのだが、そんなのゴジラじゃないやい。

2.「平成ガメラ」として
 実のところ2014ゴジラはどちらかと言えば平成ガメラとして見た方がわかりやすい。
 とりあえずBGMからして平成ガメラだ。頑張って伊福部イズムを盛り込んでいるが何か違う。多少ハリウッド的重低音にあふれた音楽だが平成ガメラと合わせたほうがよほど自然だ。以前、ナクソスのシンフォニア・タプカーラを聞いた時の拍子抜け感が2014ゴジラのBGMの感覚と近い気がする。わからなかったら平成VSのメカゴジラとデストロイアの冒頭を5分だけで良いので聞こう。あれがファンから見た伊福部怪獣音楽のイメージだ。

 そして人間ドラマの重視。2014ゴジラは明確に人間ドラマでストーリーを引っ張っている。場面の転換は人間が起こした行動に起因し、怪獣同士の戦いは(成功するかはわからないものの)人間の緻密な作戦の結果であった。
 平成VSシリーズはビオランテとデストロイアを除きゴジラが主体となる。進路を妨害しようとしてもすぐに薙ぎ払われるのが自衛隊であり、さらにしばしばゴジラは海に潜って人間の監視から逃れてしまう。
 平成ガメラはそんな平成VSゴジラシリーズに比べると人間主体で動いており、その意味でこの2014ゴジラは平成ガメラに近いのではないかと思った次第。

 確かに人間の味方ではある点では平成ガメラと近いものがある。平成ガメラはまるで20世紀終わりの日本人の倫理観を知っているとしか思えない行動原理だった。
 カメラワークも怪獣映画として挑戦的で平成ガメラを初めてみたような驚きがある。怪獣が街を通り被害が出るシーンはアップで撮り、全体的な被害の様子を劇中のニュースによる俯瞰や軍による救出隊から見た俯瞰で克明に写す。
 かと思えば古典的な怪獣登場のシーンもある。夜中に大きな音がしたから目の前を照らすと闇しか見えない。安心したもののふとライトで上方を照らすと怪獣の顔があった、みたいな。お約束なのだが、それだけに怖いシーンだ。
 さらに、2014ゴジラのムートーは、イリスに結構似てる……というのはもはやどうでも良いか。

 ただし、2014ゴジラは致命的に先の平成ガメラと異なっている。
 平成ガメラは人間から敵対されているのだ。空中大決戦ではライバルのギャオスが生け捕りだったのに対しガメラは排除、レギオン襲来では自衛隊から攻撃を受けたはずだし、イリス覚醒はテーマからしてガメラは人間と相容れないのか、だ。
 いくら人間の味方と言えども町中で動けばビルは崩れ人間が死ぬ。平成ガメラは一貫としてこの問いに向かい、そして答えを見つけられずに最後の決戦に赴いたのだが2014ゴジラはそもそも行動からしてそれまでの凡百の怪獣と格の違いを見せつける。
 なんと、泳いでる時に目の前に空母があったらその下を潜ってくれるのだ。え、なにそれ! ついでに泳いでる時に目の前に橋があったらその下を潜ってくれる。……それくらいしなければヒーローにする説得力が持てないのか?

3.「怪獣映画」として
 かつて僕はパシフィック・リムを褒めまくった。個人的には楽しく見れた反面、日本のお家芸だった怪獣とか巨大ロボットが日本では到達できないクオリティで実現できるハリウッドに恐怖した。面白いものは貪欲に取り込まれ、発祥の地に残るのはその搾りかす。低予算でのマネージメントとか昔ながらのピアノ線操演とか思い出補正をかけなければ見ることのできないゴミしか残らないのではないかと密かに恐怖した。

 だがしかし、2014ゴジラを見る限りではまだまだ杞憂のようだ。
 それはゴジラが実はキャラクターであることも原因なのかもしれない。キャラクターであるからその描写はオリジナルの文化における文脈を踏まえないと性格が異なって見える。正直、同じ日本人が描いたってシリーズ展開やシナリオ次第で批判を受けるんだから大変面倒な商売だと思う。まだまだゴジラとウルトラマンとスーパーロボットという概念は日本文化から逃れられないのだなあ。

 そして僕がパシフィック・リムを怪獣映画でないと書いた理由である怪獣から逃れる一般市民の姿を描いたのは素晴らしい。そう、逃げ惑う人々の後ろで怪獣が暴れ、場合によっては市民を追いかけるのが怪獣映画の定番だ。でも何かジュラシックパークシリーズでも見た気がするぞ。
 とりあえず、怪獣が現実の世界に現れたらという質問に対しリアリティのある絵を提示してくれたのは素晴らしい。

4.「映画」として
 非常に残念なことにこの作品にはそもそも映画として必要ないと感じるシーン・キャラがある。
 代表的なのはハワイで主人公が保護する親とはぐれた少年。彼、そもそも必要ないだろう。
 いや、シナリオの中で、父親と別離する羽目になった主人公が父親としての責務を自覚し、本土に残した妻子のために怪獣討伐を決意する位置づけなのはわかる。わかるのだが、結局ハワイの少年は別に親がいて、そして主人公も本土に息子がいる。ハワイで共に行動することになった2人の姿は単なる人の良いお兄さんと慌てん坊の子供でしかなく、このシーンで主人公が成長したなどとは感じなかった。
 ああでも、ハリウッド映画って世界が危機に陥ったら超人的なキャラが解決役を買って出てそこで愛国心だの共同体だのが強調されるという僕の勝手なイメージがあるが、2014ゴジラはあくまで家族を行動の原因にしており(主人公がミサイル処理班に配属されたのは家族の元に帰ろうとして巻き込まれた末だった)、興味深かった。
 そして、もう1つ必要ないと感じたのが、残念なことに芹沢博士。芹沢博士の立ち位置はゴジラとムートー(だっせえネーミング)が活動することになったきっかけでしかなく、中盤以降は運をゴジラに任せる無能さっぷり。だいたい平成VSシリーズでも、例え熱戦で一掃される雑魚の役割だとしても、人間たちはゴジラを自力で何とかしようとしていたのにゴジラに任せればなんとかなるってそんな馬鹿な。
 最後に主人公の父親。映画中では真実を知ったキチガイ爺さんとして描かれていた人だが、あまりにも退場が早すぎたと思う。もしかしたら主人公が父親に謝る暇を与えないことで主人公の罪悪感と後悔を強調し、怪獣退治に赴く動機としていたのかもしれない。ただ、個人的には主人公をちゃんと父親と和解させ、その後の怪獣の襲来で窮地に陥った主人公を父親が身を挺して助けた方が、のちの息子のため世界のために怪獣退治に参加する展開にすんなりと繋げられると思う。っていうか、結局主人公の父親も物語の導入としてのみ必要なんだよね。
 ただただもったいない。

5.「ゴジラ」として
 というわけで僕はこの作品を日本のゴジラのシリーズとして見ることができなかった。
 正直今でもネットで様々な人が何を褒めているのか理解できない。
 怪獣が2体現れ、一方が人間へほとんど危害を加えずに悪いもう一方を退治する。それが許されるのはウルトラマンだと思う(そしてウルトラマンは小林泰三氏の「ΑΩ」があってだな……)。
 そしてラストシーンも日本人のゴジラ観に挑戦的であった。ゴジラを救世主と仰るか。
 製作陣にはわかるだろうか。平成VSシリーズで悪者として描かれたゴジラがメカゴジラに倒されるときに泣きそうになった子供たち視聴者の気持ちを。デストロイアで映画中最悪の事態として言及されたはずのメルトダウンをこれ以上なく神々しく撮したスタッフの気持ちを。

 ゴジラは人間に危害を加える。でも外敵から人間を守ったりもする。それでも倒すしかない。
 2014ゴジラのスタッフがゴジラを始め怪獣映画を研究してくれたのはよく分かる。
 でも作ったのはゴジラじゃない。


(2014/07/28追記)
 少し冷静になったので追記。
 映画全体としては上記の通り必要性を感じられなかった要素はあったものの、秘密部隊による1つのミッションを遂行する映画として面白く見れた。もしかしたら僕がその手の映画を見て来なかった物珍しさだったのかもしれないが、とりあえず普通に面白かった。落下傘って地面ギリギリになるまでパラシュートを開けないんだ、とか輸送するのにアメリカですら列車が活躍するんだとか。あれですな、スターウォーズとかターミネーターばかり見てたら現実の軍隊に疎くなっていかん。
 続編が制作されればお金と時間があったら見に行きたい。映画の「エイリアン」が巨大化して、台風が都市を襲うような被害を与えて、でも人間が活躍するストーリー展開はハリウッドの定番だが、やっぱり面白い。

 が、それはゴジラではないのだ。
 はっきり言うと、別に「海底から蘇ったゴジラ」を「古代兵器のガメラ」にしても「どこからともなく現れたウルトラマン」にしても「全世界一致団結で開発したジプシー・デンジャー(パシフィック・リムのロボット)」に変えても問題のない作りになっている。
 もっと言うなれば「怪獣」を「自然災害」に置き換えてすらこの映画は成立する。迫り来る巨大ハリケーンを破壊するため核ミサイルが用意されたものの……という展開でもこの映画のストーリーはほとんど変更がなく進んでしまう。
 同じく人間ドラマが濃厚だったビオランテが、ストーリーの中核がゴジラ細胞だったり抗核バクテリアだったりとゴジラ要素を失えばストーリーが成り立たない作りだったのとは大きな違いだ。

 ついでに上で言及した家族というテーマも全く活かせてないのは辛い。この映画に出てくる家族は幼少の幸せが突然消えた(母親)か、全くお互いを理解できなかったか(父親)、そこそこ幸せそうか(モブ)、それとも起伏もなく存在するか(主人公の今の家族)だ。ヒビの入った人間関係が突然起きた事件を乗り越えることで修復され、さらに主人公が世界のヒーローになるのはハリウッドの定番だと思うんだけど(具体的な作品は思い出せないが)、2014ゴジラの主人公の家族は主人公を動かすための道具でしかないのだ。ルパン三世だったら○○のお宝とかそんな感じ。
 正直、怪獣にしても家族にしても他のキャラにしてもなんでこんな半端な作りになったのかはわからないが、致命的な粗が目についた。

 蛇足だけどこの映画について賛成にしても反対にしても言われる反核のメッセージ云々は僕ももうわからないなあ。こればっかりはゴジラで思い浮かべるのが初代1954なのか平成VSシリーズなのかの違いかも。
 核については、この映画が「ゴジラ」と付けられている以上、核が無力なのは観客は予め知っているので軍が核を持ちだしたのは死亡フラグ(クライマックスのための危機)を立たせるガジェットでしかない。ムートーとゴジラをおびき寄せるために核を使う無邪気な信頼を核賛美と呼ぶこともできるし、奪われた挙句沖合とはいえ爆発させてしまった無力さを反核とも呼ぶことができるが、そこに込められたテーマ以前にお約束の展開としか言いようがない。あと、3.11で原子力発電所の問題や、その他にも例えば津波対策の各種政策などでリスクとデメリットの問題について色々議論された後で単なる反核を唱えるのはもうできないんじゃないかな。2014ゴジラとは直接関係ないけど、失敗する可能性を考慮に入れた上でそれでも最も効果の見込まれる手段を取るってのが社会的な意義があることだと思う。
 あと2chとかでは津波とか地震のシーンで日本ではカットしなかったことに驚く連中がいたけど、むしろあの程度の描写をカットする人の気がしれないな。3.11から変な部分でナイーブになりすぎ。

2014年7月23日水曜日

感想文のストック

 まだまだたくさんある。

・駕籠真太郎作品の残り
・シドニアのアニメ
・ダイミダラーのアニメ
・這いニャルの原作
・おにいちゃんコントロール
・かんなぎはまだ連載中
・はがないもまだ終わってない
・MISSING
・映画たくさん……でも好きな映画は今見返すと力不足な部分も多い

2014年7月14日月曜日

「MM9」(山本弘、創元SF文庫、2010)

第二作 http://tellur.blogspot.jp/2014/06/mm9invasionsf2014.html
第三作 http://tellur.blogspot.jp/2014/10/mm9destructonsf2014.html

そんなわけでなぜか感想文を書いていなかったMM9。
 読み返しても良い作品だと思う。ストーリーもオチも全部覚えてるけど、ワクワクする。
 続編を読んだことで鮮明にわかったのだが、無印MM9は怪獣モノだし、SFだし、そして会社員小説でもあったのだ。

 会社員は好きだけで仕事をやっているわけではない。何の仕事でも納期がある。予算がある。場合によっては人員の限界がある。下手すると外部の人の監視を受けたりする。そのような制限事項が上層部で決められてほとんど拒否できない中で任される。好きな人や責任感が強すぎる人ならとんでもないパフォーマンスを発揮するが、まあ一般人はそこそこ真剣に働いてほどほどの待遇を所望しまあまあの忙しさで手を打つ羽目になると思う。いやいや、別に僕のことではない。そんな会社員でも多少のプライドはもっていて、自分にしかできないとかおだてられたら徹夜をしてでも仕事する。僕は自営業とかいわゆるブラック企業的な仕事に就いたことはないから、会社員の平均なのかそれとも多少待遇が良い方なのかはわからないけど、今作の主人公たちの姿は僕の生活の部分部分に見覚えがあるものも多い。
 世界観的には怪獣が毎年現れて数人殺したりするからそんな不真面目な態度に怒る人もいるだろう。気特対は要は地震など災害を予知する組織を想起させる様に設定されており(もちろん気特対独自の仕事があって、被害が起きた後の作戦指揮は現実世界じゃ警察やら自衛隊やらの仕事となるだろう)、一般的には滅私の勢いで働くことを要求されるかもしれない。でも技術上も経済的にも限界はあり、可能な範囲内で仕事を行う。さらには不健康な働き方を拒絶し、私生活も両立させる労働観ってのに僕は共感した。ヒーローとは異なり制約がある中での人助けというモチーフは必然的に助けるべきものと見捨てるべきものを選択せざるを得なく、ドラマが生まれる。今の時代にはこの強制的な選択をリアルだと思え、「MM9―invasion―のヒーロー像より優れた描写であるとすら感じるが、この感覚はバブル崩壊以降の不況で全てを手に入れる幻想が消え去った結果かなと思う。

 さて、内容だが、SF設定や怪獣の描写なんて最高。SF設定はシリーズ物の続編ではないので丁寧に伏線がある。「MM9―invasion―を読んだ後はもっと大雑把な説明かと思ってたが、記憶が上塗りされてたみたい。妖怪とかも違和感なくこの世界に溶け込んでるぞ。
 気特対の活躍も現実世界の技術という縛りがあるので地味ながら面白い。もっとも、作者のサイトによると、自衛隊による殺傷能力が高すぎていかに怪獣を倒しにくくするか苦労したらしいがそれがなかなか味のある怪獣たちになったと一読者としては思う。イメージとしては平成ガメラの第一作と第二作目の雰囲気だな。ただ、別にスーパー兵器VS怪獣の戦いが嫌いなわけじゃなくて、舞台やキャラクターが現実世界よりだったので突飛な技術よりも泥臭い活躍が似合っていただけのことだ。
 正直、怪獣についていろいろ書きたいのだが、本のテーマが怪獣の倒し方であり、怪獣について書いたらネタバレになる可能性が高い(っていうか、怪獣から逃げる一般市民や人間同士の確執などのイベントがないので怪獣の正体が伏線となっている)。つまりゴジラみたいに怪獣の正体がわかっているわけではない・正体がわかれば即退治できてしまうってところに、先の怪獣を倒させない努力が見えるんだ。

 文庫1冊ながら伏線も見事だった。劇中何回も言及される多重人間原理と現実世界の災害がなぜか怪獣被害とされている設定。怪獣を倒しにくくする工夫として定番だねと読者に思わせるヒメの姿。そこから発展する日本やギリシア神話と最後に現れるクトゥルー。科学技術が役に立たないというチートっぷり。続編では誰も彼も科学技術が効かなさすぎて文句を言ったが、今作では設定にも矛盾はないしラストバトルとして燃えた展開だった。

 読みなおして面白かったことを再確認した次第。

ヱヴァンゲリヲン新劇場版 序破Q(庵野秀明、カラー、2007~)を見た

 いやでも見てから1年以上経ったけど。
 かなり昔に序破をいっぺんに観て、ついでQ。で、ついさっき、Qをもう一度見た。新エヴァの感想をかいてなかったからまとめて書く。

 感想としては意外とシンジ君に感情移入できるように作ってあると感じた(序)。イジイジ系主人公の代名詞だけど、そりゃいきなり呼びつけられて敵を倒して当たり前に言われたらイジイジするよなあ。しかも初陣なんて歩くだけで良いと言われたレベルなんだから。それにしても対サキエル戦は歩くだけの飾り物で使徒を倒す算段があったのだろうか?
 そんな感じでNervをはじめとする周囲の大人への不信というテーマが非常に強かったのも驚いた。 TVアニメの時の記憶よりもNervって役に立たないのな。ちなみにここで言う「役に立たない」ってのはシンジ君へのインセンティブを全く考慮せず、結果として使徒を倒す算段があるのかわからないってこと。作品の作りとしては意図的なんだけど、設定的にもシンジ君はエヴァのパイロットとしてだけではなく、普通の学生としての生活も強制させられている。 エヴァっていうマシンの特性上、そういった普通の生活も必須だったのかもしれないけど、普通なら大切なパイロット様だから酒池肉林って感じでもっと特別扱いするぜ(あと、パイロットに強烈に依存するマシンを有していながら、パイロットの安全管理に対する危機意識が薄すぎる印象を受ける。また、パイロットを大幅に増やそうとするとか、僕が会社員になったから抱いた感想かもしれないけど、それなりの組織で設けられているべき代替策がないのも気になる)上から押さえつけて褒め言葉もまともにかけないんだから徹底している。僕は90年代の後半以降しか記憶がないのだが、あの当時ってここまで閉塞感が強かったっけ。覚えてないや。シンジ君がここまで抜き差しならない状況に追い詰められることに対する評価に関しては僕より若い人の感想を聞いてみたい。「シンジ君は自分だ」と言った文言は実感できないんじゃないかなあ。

 話は変わるが、強く念じてマシンを動かしたり、マシンとの結びつきが強さに直結したりと神秘主義的な発想が結構強かったんだと改めて感じた。そりゃ巨大ロボットってのは結構擬人化された扱いをされやすい。今思い浮かぶのはガンダムWでサンドロックが自爆する際に勝手にカトルを守ろうとするシーンだ。だからスーパーロボットに意思が! という作品は珍しくもないのだが、エヴァの特異性はキリスト教のモチーフをこれでもかと詰め込んだことだろう。ただ、エヴァは一番初めの放映時から宗教っぽいとかキリスト教がとか言われまくってたけど、同時にスーパーロボット(SF)アニメとしての姿もあったのだ。エヴァショックが落ち着き、思想的な側面が強調されなくなるにつれ僕はSFアニメというイメージを勝手に強めてしまったから、意外と宗教していることに驚いたのかもしれない。

 個人的に一番好きなのが「Q」。完全に原作と異なるシナリオで物語も架橋に入り、アクションシーンも激しく娯楽作品として完成度が高い。……わざわざ「娯楽」と書いたのは、なんか「Q」が原作っぽいダークな雰囲気だという感想を聞いたことがあるからWikipedeaにも書かれてるね)。
 いや違うだろう。原作は劇場版まで見ると、確かファンが離れるとまで言われたヤケクソ展開だった。間違っても「Q」みたいに物語として年齢が低くてもそれなりに楽しめるシロモノじゃない。何よりも原作での鬱々とした感覚は9.11で現実によって追い越されたと思っていたのだが。それ以前に原作の鬱々具合は放映直後でもギャグの対象だったぞ。「失楽園」を読んどけ。
 なお、やっぱり性的な絵面は露骨だと思う。昔読んだ謎本に書いてあったのだが、パイロットスーツにしてもそうだけどエヴァの世界の性的なイメージは思春期男子から見た風景だって。かつて思春期男子だった僕としては生臭さがないからその意見には賛同できないが(エヴァの世界って性にしてもきれいすぎると思う。オタク向け的な無臭化が過剰に行われてる感じがする。一方で女性から見たらどう映るのか聞いてみたい)、
 そして「Q」でストーリーを展開してしまったのはある意味エヴァにとって不幸だったと思う。もちろん、僕も人類補完計画とか結末だけでも知りたいのだが、でも知らないほうが良いだろうと頭の片隅で思うのだ。かつてガキだった僕もおっさんと呼ばれる歳になり、世の中には詳細がわからないほうが面白いお話があることを学んだ。数年かけて探している小説の結末だったり、頭文字を読んだだけで笑死するような小話だったり。はっきり言って、たとえ一部の人々だけの間であっても、人間の想像というか期待はあらゆる小説や映像を乗り越えてしまうレベルの羽ばたきを持っている。
 エヴァも完結編では劇場版2作を含めた原作版以上の結末を求められるだろう。そうした場合、エヴァの物語は期待に耐え切れるのだろうかと失礼なことだが心配してしまう。細部を描かずほのめかしでストーリーを展開した作品が、完結できるのだろうか、と。エヴァを取り囲む世界ってのはあれから20年近くの間にかなり変わった。ファンによる考察もかなり徹底的に行われたし(ブーム時はエヴァと付ければ売れる風潮があったので玉石混交考察はされまくったのだ。当時の電車の中吊り広告で「エヴァンゲリオンは下痢の薬だった」的な文言を見た時、ブームもここまで来たかと感動した)、活字SFや映像SFは進展が目覚ましい。映像ならば平成ガメラシリーズを越えマトリックスやパシフィック・リム、キリスト教でも9.11後の日本人の知識はそれ以前と比べると雲泥の差である。正体不明の敵……というのも精神病的概念が一般化した今ではどこまで目新しいだろうか。逆に精神病患者の様子を描いたエッセイの方が読み応えがあるのではなかろうか。



 でだ。
 ここまで長々と書いた僕は結構エヴァが好きなのだろう。だからというわけではないが、楽しく見た一方で新エヴァにはあまり期待できないのではないかとも予感している。
 上でも書いたとおり、映画まで含めるとTVアニメのエヴァの物語ってのは最終的にはファンの成長を促すものだった(が、長い間「シンジ君は自分だ」というファンがいたりひたすら同人誌作る連中がいたりしたのは周知の事実。ついでに庵野監督が善意からファンの成長を促したのか否かは意見が別れる)。
 でもさ、この新エヴァを作ること自体がそもそも製作陣の停滞を表しているよね。
 前からエヴァをめぐる商品戦略って、新たに物語を生み出してないのにパチンコとか自家パロディとか節操ないなーと思ってたが、ついにはリメイク(リブートか)? 大人にならないファンを否定した癖に自分たちは前世紀の遺物で延々とモラトリアムを生きる。
 正直エヴァという作品でよりによってこんな醜悪な姿は見たくなかった。

ボードゲーム雑感

・PIT wikipediaへのリンク
・ヘリオス  Hans im Gluck /Martin Kallenborn and Matthias Prinz作 2~4人 10歳以上 45-60分) メビウスブログへのリンク
・タウンセンター LudiCreations GIGAZINEへのリンク

 昨日はRole & Roll Stationのゲーム体験会だった。そこで上記3つのゲームを遊んだ。
 PITは1ゲーム6ラウンドくらい、ヘリオスは1ゲーム、タウンセンターは3ゲーム。……昨日、タウンセンターを複数回遊んだバカを見かけた人は、僕だと思ってくれ。

 PITは楽しいけどパーティゲームでしかない印象を受けた。多めの人数でもできるのでパーティには最適だけど、ボードゲームを遊びたい人にとっては肩透かしをくらった気分。楽しかったが次回も遊びたいかと聞かれたら首を振るだろう。

 ヘリオスは勝利点を稼ぐ方法が複数あって面白い。まあ、基本的には全ての戦略を満遍なくなんて不可能なんだ。他プレイヤーの動向を探りつつ、現在の自分にとって有利な点数稼ぎを見つけて総力を注ぐ。他人に対する妨害があまりできないのは平和的なので高評価。1ゲーム4ラウンド4フェイズ(つまり1人16回行動できる)しかないので選択ミスがダイレクトに勝敗につながるヒヤヒヤ感も良い。

 が、この後でヘリオスへの好印象を吹き飛ばすとんでもない作品が待ち構えていた。
 それがタウンセンター。
 市街に見立てた碁盤のマスにアパートや店舗やオフィスに見立てたそれぞれ色の異なる正立方体(キューブ)を積み上げるゲーム。みんながシムシティだと言ってた。このゲームはルールと概念が少し複雑で、積み上げの規則に慣れるまでは何をしたら良いのかわからないし、勝利の方法も見えない。
 どうも好き嫌いがはっきりと分かれるゲームらしく、僕は1回も勝てなかったのに3ゲーム遊ぶほどハマッたのだが、一方で苦手だという人もいて難しいところ。でも都市の成立がキューブを積み上げることで実感できる楽しさは感じられると思う。ルールと勝利方法はわかりにくいが、他人を妨害するやり方は比較的簡単にわかるので初心者でも楽しめると思う。
 欠点としては、ゲーム中盤以降に溜まりまくるお金の使い道がないこと。お金が一番必要なのはゲーム序盤のエレベーターや電源施設やオフィスを建築する場面であり、ひと通り建て終わると(というか、ゲームを実際に遊んだ人ならわかるけど、これらのキューブって数が少ないからすぐになくなってしまうのだ)あとはひたすら貯めるしか使い道がなくなる。しかもお金がなかなかの勝利点になるので単純に建物で勝利点を稼ぐよりもお金で稼ぐほうが効率が良いのは難点(お金から勝利点へのレートは5金=1点、対して購入する建物は最低5金、建築済の建物を増やすなら5金×n個目という価格になる)。オフィス系のキューブを追加したり、お金を勝利点に変換するレートを15金=1点くらいに下げる方がお金に対する緊張感が生まれたと思う。
 でもそんなことを吹き飛ばすほど楽しい。盤面を変えるだけでゲーム性が大きく変わるから飽きにくい。建築できる施設の種類は……これ以上増やすと複雑過ぎるか。こんな感じのゲームを作ってみたいなあ。

2014年7月7日月曜日

「多重人格探偵サイコ」……は飽きたので断念

 途中までは面白かったのだ。途中までは。
 っていうか多分通しで読めば今でも面白いはず。だがあまりにも連載が長すぎた。

 長期間の連載というとベルセルクとかファイブスター物語がある。これらと多重人格探偵サイコの違いを考えると前2者はあらかじめ物語が大きいことが読者に知らされていたことだろうか。さらに現代をテーマとしていないので連載期間が長引いても時代遅れの臭いがしにくいのかもしれない。
 多重人格探偵サイコの初期は死体描写と多重人格者による犯罪捜査と出生の秘密だったのだが、いつの間にか秘密結社による日本支配(?)と有名人の都市伝説が引き起こす社会への影響、になってったと思う。ストーリーの根幹は一貫しているのかもしれないが、読んでて初期と最新作じゃあ繋がっていない気がするんだよな。いつの間にかどんどんずれていったように思えて、もしかしたら制作側も風呂敷のたたみ方に苦労してるのか?


 さて、冒頭で時代遅れという悪口を書いたが理由がある。
 Wikipediaによると連載開始が1997年。まだインターネットが、というよりグーグルすら設立されていない太古の昔。ショッキングな死体描写はインターネット以降で徐々に広まっており(ブラクラはもとより、エロゲーだって、一般マンガですら! そして今ではpixiv様で普通に目に入ってしまう)当時の物議をかもす云々が理解できなくなっている。1巻2巻を読み返して思いの外「きれい」な死体で驚いたよ。
 それ以外にも時代が変わったとしか言いようがない社会の変化がいっぱいある。思いつくだけでも
・「定説です」の宗教団体
・9.11による諜報組織のダメさ加減
・タリバンという国相手でない戦争
・アフガン侵攻という国を相手にするしかできないアメリカ
・マイケル・ジャクソン永眠
・伊藤計劃の虐殺器官および伊藤の永眠
・スノーデン氏暴露の本物のスパイ活動
みたいなのがある。実はこれらは別に今作とは何の関係もない。
 しかし、これら1つ1つの事件は多重人格探偵サイコの想像力を超えてしまい作品世界が付いてこれていない感がある。例えば9.11が示した濃厚すぎるほどの思想と思想が争う敵の見えない戦いなんてガクソみたいなある意味で安全で御しやすそうな奴らを超えただろう。
 まあ実のところ、一番今作を時代遅れにしてしまったのは、現実世界の大きな事件の裏側には全ての中核となる組織や思想がなかったことかもしれない。現実世界は悪の組織なんて存在しないし人間を変革してしまう大プロジェクトもない。単なる貧困やら文化の相違やら即時のご利益を求める信心やらが暴走して大事件になったりするだけで、現実はあくまでつまらない現実だ。数多くの事件の裏には実は密かに糸を引いている連中がいて……とはサブカルチャーでよくあるストーリーで、時々陰謀論という形で現実と混同する人もいるが、現実はそんなに「面白く」ない。
 なんだかよくわからない連続猟奇殺人事件が大きな組織に帰着し、それがテロなどの事件を引き起こし国家すら揺るがしてしまうというのはエンターテイメントの基本ではあるが、今作に対して言えばそれこそただの陰謀論めいた話になってしまい現実に追い越されたチャチさを感じてしまう。

 というわけで、部屋を片付けた機会に多重人格探偵サイコを回収業者に渡したのだった。

「君は淫らな僕の女王」(横槍メンゴ・岡本倫、集英社、2014)

 1巻で完結するよ!
 いやまさにそれが僕にとって一番のアピールポイントであった。
 こう書くと褒めてないような気がするが、そんなことはない。ストーリーも王道のラブコメであり、大ボス(彼女の父親)を攻略するシーンも、彼女がああ発言すりゃそりゃ父親としても認めざるを得ないだろうなと納得できるくらい。2人が互いの気持ちに気付くのだってここまででっかい出来事があったら仕方がないと思ってしまう。その意味で序盤のファンタジー要素さえ納得できればラブコメ作品として辻褄のあったストーリーを提示できるのは地味ながら素晴らしい。
 僕自身はラブコメにあまり反応できないというか、ラブがわからないのでよほど変な作品じゃない限りは普通に受け取ってしまう人間なので他作品との比較ができないのがもどかしかった。面白いし満足してるけど、他作品のこんなシーンを念頭に置けないというか。

 ストーリーの分量はちょうどよい。当て馬キャラも出てこない2人の関係に焦点を絞るなら1巻程度が読みやすいな。この作品の特徴として1日を描写すると絶対にツンだけでなくデレシーンも入れられ、メリハリがある。また、物語の開始から両想いなので2人がいちゃつくマンガとして引き延ばそうと思えばいくらでも延ばせられるのだが、もう少し読みたいと思わせるタイミングで物語を終わらせるのは憎い。

 発言ややってることはアレなのに雰囲気は(恋愛ものとして)きれいな作品。幼なじみ・高嶺の花・努力・エロさ・ツンデレと高校時代に経験したかったファンタジーとしての恋愛のノスタルジーを濃縮しており1度読んだ直後に読み返しても楽しめる。

「サイレントメビウス」(麻宮騎亜、角川書店、1988)

 大学入学した当初はまって、僕の未来都市やオカルト観に大きな影響を与えたマンガ。その割にはストーリーをあまり覚えておらず、確認のため読み返した。

 まず世界観や絵は素晴らしいとしか言い様がない。世界観はブレードランナー的(というか、レプリカントの反乱を示唆するシーンもあったため、同一の世界設定なのだが)サイバーパンク。そんな東京で人知れず起きる不可思議な事件と特別警察。サイボーグやネットへのダイブというモチーフとオカルトとの融合。一方で巨大サイクロトロンや軌道エレベーターというSF的ながらも実現しそうな未来技術。妖魔の姿もなかなかに生物っぽいけどやはり異形で、でも無機物ではない微妙なラインを突いており雰囲気抜群。

 ……なんだけど、ストーリーがやっぱアレだった。
 一番アレなのは敵の黒幕が「主人公は我々に協力することとなるだろう」云々と散々ほのめかしておきながら蓋を開ければ自我を飛ばして操り人形にしただけ。しかも主人公が自ら大切な人の命を奪えば短時間は意識が戻るってそんな不安定な手駒は使えないと思うんだが。ちなみにこれに限らず主人公周りの伏線や設定はかなりゴミである。例えば主人公が異世界との扉を開ける鍵なのはわかったが、「鍵」の具体的描写がセリフだけで処理されてしまったので読者にしたらいまいち緊張感を抱けなかったり。まあ、最終巻のカバー裏にそこらへんが作者本人にまでネタにされていて色々あったのかなと勘ぐってしまう。

 ぶっちゃけ、使われていない設定・伏線はこの作品に結構あって、今の視点で見ると粗が目立つ。設定が西洋的なオカルトの世界なので、主人公サイドの超能力者と巫女は見どころに欠ける。電子戦を行う妖魔もめったに現れなかったからネットにダイブするキャラも活躍の場が少なかったかな。でもこの作品がインターネットが一般的でない時代に描かれたことを考慮すると活躍した方だったかもしれない。
 ストーリーが印象に残らないのは、敵が思わせぶりなセリフを散々言うだけで、謎の解明などが描かれていないからだ。主人公の香津美を例に取ると、上にも書いたとおり「鍵」ってどういうこと? とかそれまでのストーリーから敵のボスを憎んでいるはずなのに妖魔側にいかにして洗脳されたか、などが全然わからない。磯崎課長が昔、妖魔側だったらしいといった物語の演出のために語られない内容とはわけが違う。さらに欲を言えば、登場人物が警察関係がメインなので妖魔による被害の重大さがいまいち伝わりにくかったのも不満である。特に終盤まで妖魔の存在を隠しているはずなのに、妖魔を知らない人間から見た視点がなかったし。あと、あんだけ大きな被害が頻繁に起こってて妖魔を隠し通せる管理機構が半端じゃない。

 題材は美味しいのだ。巨大ビルが立ち並びアンドロイドが実用化され、警察までもが民営化された暗い未来東京の片隅で起きた悪魔による殺人を人知れず処理する部隊。日本のサブカルチャーの世界では、妖怪や悪魔は民間人がこっそりと解決する系の作品も多いけど、僕の好みは公的機関による管理なので(だって公的機関が本腰いれて介入しないと物語が大きくならないでしょ……椎名高志氏の「GS美神 極楽大作戦!!」のスケールのデカさは国がオカルトを管理しているという設定があったからだ)まさにピッタリの設定なのだ。
 ただ何度も書くがストーリーが……。非常にもったいない。

「STEINS;GATE」(アニメ版、未来ガジェット研究所、2011)

 僕はゲーム版およびスピンオフ作品は全くやっていない。
 この作品を知ったのも発売後結構経ってから。ネタバレありの粗筋を知り、そこに書かれた感想文を読んで興味がわいたところで、先日レンタルビデオ屋で一気に借りて視聴したのだった。
 通しで見て、最初の感想は、タイムトラベルものに必須の時系列の整理がよく出来てるなという子供のようなもの。アニメ版は多少矛盾点があるらしいが、メモを取ってたわけじゃないので気にならなかった。先日の「リライト」の感想との整合性がとれてないが、シュタゲは推理モノじゃないから……。正直、この作品のような日時単位で細かく飛びまくる作品については矛盾があってもそこまで気にはしない。それにしても原作ありでも矛盾が出るのだから、ゲーム版は相当緻密に作られたのだなあと感心する。

 さて、アニメ版に対する評価だが、僕個人はそこまで感動しなかった。
 というか、オリジナルアニメとして作られていたらゲーム版のような評価を受けられたのか疑問がある、と思う。

 それは……ゲームというのが非常に没入感の高いメディアであるということだ。

 ひたすらクリックして文章を読むだけのゲームですらプレイヤーと主人公の一体感があるのだから、シュタインズゲート(ゲーム版)で搭載されたフォーントリガーシステムはプレイヤーが物語を作っているという感覚を最大限に高めるシステムだったんだろうなと思う。
 ゲーム中の携帯電話に対して任意でアクションが取れるんだって? 単なるYES/NOなんかでは太刀打ちできない「自由度」だよな。ゲーム版の詳細は知らないけど、恐らくトゥルーエンドのための携帯電話へのアクションはある程度自由度があるのだと推測される(だってタイミングがガチガチに決まってたら単なる難易度の高いフラグゲーでしかないから)。しかもタイムトラベルということで何度バッドエンド(=あるキャラクターの死)になっても繰り返すことでプレイヤー自身の物語が作れるんだろ。そりゃ言い方は悪いが感動するわな。自分の手でキャラクターを救った感覚が高いのだから。
 少なくともゲーム版は全てがプレイヤーの意思・プレイヤーの選択で動かせたらしいのであり、アニメ版しか知らない僕がそこまで感動しなかったのは当然だと言える。

 もう1つ考えたのが、この作品は日本のアドベンチャーでしか為せなかった形式なのではなかろうか。
 海外ゲームでビジュアルノベルや紙芝居アドベンチャーってのは不勉強ながら僕は知らないのだ。海外ゲームで追求される「自由度」とは選択の自由だと感じる。オープンワールド系RPGでは武器屋の商人を殺してキーアイテムを手に入れたり、Civilizationでは別に軍隊を作らなくても勝利はできるってのは有名。TRPGの文化なのだろうか、日本人から見ればそもそもそんなところから自由なの? と言いたくなるような作りである。
 一方で日本の自由度で重視されるのは手段の自由。ゲームシステムを壊さない範囲で……乱暴な言い方だが、武器の種類だとかそういうレベル。別に日本のゲームの面白さとかそういうのを言いたいのではなく、むしろシュタインズゲート(ゲーム版)の面白さはそういう一定の枠内に定められた行動の自由度を神レベルに高めたところだと思う。日常の何気ないメールのやり取りがキャラクターの死、さらには世界大戦の回避につながるなんて、海外のゲームには真似できないだろうと思う(念の為にいうと、この段落は全て僕個人の意見だ)。

 と、やったこともないゲームに対する言及のほうが長いという変な感想文になってしまった。
 正直なところ、アニメ版を見終わった後で粗筋知ってても良いからまずゲーム版をプレイすべきだったかなーと後悔した。

 そうそう、僕がこの作品で発見したことは、僕は中二病という実態に触れたのがこのアニメが最初だったことだ。描写が本当か否かともかくとしても、中二病的な姿を見させられると精神を病んでるっぽく思えてしまう。ネットで時々見つける電波系のサイトとかブログとか、鳳凰院凶真さんの言動に近いように受け取った。不幸なことに凶真さん(たち)には未来ガジェットを作り上げる技術力があり、凶真さんの妄想を一笑する友人が周りにいなかったから妄想が強化されて……という感想を序盤に抱いたが、さすがに中盤以降のシリアスモードでは消え去ってよかった。