2014年10月19日日曜日

「山川賢一ワールド大研究ー日本アニメと悪堕ちループ」(山川賢一、稲葉振一郎、田中秀臣、10月18日夜)@ネイキッドロフト感想

 ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシーの感想を書こうと楽しく思い返す中で現れたこのイベント。イベント感想を書いた後で、果たして僕はガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシーの気力が残っているのか。

 のっけからなんだが、東浩紀氏ネタが多くなくてよかった。僕自身は東氏に言及する意味がないと思っているので必要以上に時間を割かれなくて安心した。まあ、他の来場者がどう思っていたのかはわからないのだが……。
 ただし、山川賢一氏(以下しんかい氏)が何で東氏を嫌っているのか理解できた。外国語に翻訳されている日本のオタク評論は「動物化するポストモダン」のため、外国から見たオタク及びオタク論に変な偏見を持たれてしまうのだとか。なるほど、そんな事情があったのね。
 僕個人は東氏に関してだと近年彼が強めている社会派風言論を叩くほうが急務だと思っているので、いまいちしんかい氏の捉えている「オタク評論家としての東氏」との温度差があった。会場ではしんかい氏も東氏批判に飽きてそうで、事実せいぜいゴシップ+αな内容しか出なかった。
※動ポが出た前後で高校生、数年後に大学受験した僕の体験では、東氏(というより動ポ)はオタク気味で自分は他の人より頭が良いつもりの奴らがハマっていた印象がある。僕もそんな1人なんだけど。
 当時はまだ不況から抜け出せてなく(調べるとITバブルが2000年初頭に崩壊したんだってね)相対的にオタク趣味が社会の中で肯定的に語られ始め、オタク評論というものの可能性が生まれた時代だったと思う。その中で文芸評論の要素もありそうで思想的な位置づけがされている動ポに、僕に動ポの紹介をした人は注目していたらしい。
 僕の場合は大学受験のためマクルーハンだとか文学批評で言う越境だとかその流れで動ポを読んで東氏のファンになった。なったんだけど、大学で色々本を読んだり読まされる内に自然と離れた経歴である。

 東氏関連はそれまでにして、本題。なお、僕はしんかい氏の著作を全然読んでないので後で調べる部分もある。

 とりあえず「悪堕ちループ」という概念が理解できない。

  • 敵が人間・社会に対し特定の変化(「制御された進化」)を施そうとし、主人公がそれに反発するも戦いは敵の作ったルール上で行われ、つまり敵を利することにつながり主人公が葛藤する。主人公が正義を貫き通すと人間世界から逸脱せざるを得ない。なお、大抵は正しい選択をしようとしても主人公は孤独となり人間を滅ぼす的な結果になる(「悪堕ちループ」)

という流れだったはず。自信がないので後で調べるとして、とりあえず今はこのまま進む。
 上の「悪堕ちループ」でわからなかったのが、「進化」の意味。やっぱ生物学的な「進化」を思い浮かべちゃうよ。そして「悪堕ちループ」中で使われる「進化」は社会に対してインパクトを与えようと目論む敵組織ではお馴染みの概念じゃないかと思う。というか、敵の目的が例えば人類の奴隷化であっても外敵の侵略に備えた軍事政府の樹立であっても、社会に働きかけを行うならばすなわち「進化」を引き起こそうとしていると理解できる。
 つまり「進化」とは大抵の敵組織の行動パターンじゃないかと思うんだ。本棚を適当に見ると、ガンダムシリーズは全てが全てまさにそんな感じだし、極黒のブリュンヒルデも、みかるんXも、サイレントメビウスやヘルシングも変化の働きかけを行っている。
 なので今イベントメモを読み返すと「進化」が何を指しているのか確認する必要があると思った。

 そして、もう1つ。
 「制御された進化」がいかんとのことだが、「制御された進化」と「制御されていない進化」とは何が異なるのだろうか。
 人間社会では特に誰が意図せずとも勝手に社会が発展する。宇宙人が指導しなくとも車輪が生まれ広がったし、神様が降臨せずとも火の使い方はどの民族も知っている。経済学的に言うと自然成長という発想かな。
 とすると、勝手な成長・発展と、人為的・制御された進化はどこが違うのだろうという疑問が出る(なお、確か説明では制御・人為的=独善的=悪という図式だったはず)。もっと言うと、制御された進化の否定ってすぐにラッダイト主義に変化してしまうんじゃないかと僕は考える。
 確かに(「制御された進化」も含めた)変化を支持する人々は現実を鑑みると希望は戦争とか言ってみたり社会主義を呼びこむような結果になったりと、変化って駄目じゃんという結論になりがちなのだが、だからといって変化しないことを積極的に評価することは安易すぎる。変化への拒絶はそれなりの理由やメリットがあるから拒絶するわけであって、ぶっちゃけ変化を拒む奴らはこの世界で結構恵まれてるわけだ。まどマギに当てはめるなら、欠落・不足を抱えた少女が希望を口にし充足を感じることはいくらその結末が悲惨なものであっても非難されることなのかな、と思う(ちょっとここらへんは駆け足な上に無理矢理過ぎたか)。


 というのが今回のイベントの感想で、やっぱちゃんと本読まなきゃいかんな。
 しんかい氏の本は……ああ、5冊6冊、それくらいあるのか。あうあう。


(2014年10月19日追記)
 1晩寝て思ったんだけど、イベントで言われてた「進化」はマジで肉体に働きかける変異だったのかな。僕の理解では洗脳のみの場合も含めてだと思っていたのだが。例として挙げられたナウシカ・ウテナ・エヴァ・まどマギからすると結構肉体面での「進化」っぽいんだけどどうだろう。

 仮に思想面のみも含めるとすると、上で書いたとおりそれこそほぼ全ての敵組織が「進化」を目論むことになると思う。本棚を見返すと「制御された(人為的)進化」と世界征服が重なっている具体例があった。エクセル・サーガのアクロスなんかそうじゃないかな。
 アクロスは明らかに人民を見下しており啓蒙という形で人民への「進化」を促している。でも外から見るとただの世界(劇中では市内)征服って形。
 単に敵組織の思想が詳しく描かれてたからエクセル・サーガを例にしたが、他も多分こんな感じだろう。
 すると、やっぱ肉体変異こそが「進化」の条件なのかねえ。

2014年10月14日火曜日

「MM9-destructon-」(山本弘、創元SF文庫、2014)

第一作 http://tellur.blogspot.jp/2014/07/mm9sf2010.html
第二作 http://tellur.blogspot.jp/2014/06/mm9invasionsf2014.html

 前作は不満を色々とぶちまけたが、今作ははじめから正義のヒーローものとして読んだから楽しくいただけた。
 宇宙人が認知されたことで「もしも現実世界に怪獣が現れたら?」というコンセプトからどんどんと外れていってるが、これはこれで面白い。ただ、この路線で進むのならば人間の出番がなくなるわけだが。
 前作の不満として、高校生を主役にしたため第一作目の仕事小説的ストイックさがなくなったと書いたが、今作では逆に高校生とか日本を裏で守っている巫女とか……今の世の中で表に出れない立場の人間を活躍させるフォーマットとしてヒーロー物は最適だと感じた。何度も書くが、それは第一作目の雰囲気とは離れるが。

 物語としては非常に王道。宇宙からの侵略者に立ち向かうもののヒーローが敗れる。古代の伝説を解き明かしヒーローの復活とパワーアップを行い、さらに過去に人間と敵対した奴らが地球を守るために現れ、勝利する。
 多少ともこのフォーマットに親しんだ人なら先の展開が読めて、ピンチになるシーンや最終的な勝利が予測でき、安心して読める。これは別に悪口ではなく、丁寧にわかりやすく伏線がはられているってこと。実は並行して「僕は友達が少ない」の11巻を読んでおり、「はがない」の急カーブのようなストーリーに比べて落ち着いて読めた(念の為に書くと、「はがない」はキャラ造形のエクストリームさからストーリーの破急が生まれているので「はがない」のストーリーが悪いとかではない。むしろ「MM9-destructon-」がどこまでもヒーロー物の王道の要素で構成されているという褒め言葉なのだ)。ストーリーは本当に読めばわかる。

 さて、今作の目玉であるヒメの正体。各地の神話と怪獣を結びつける手法は知ってる人は知ってるだろう。はっきり言って、語感だけで言語間の共通性を見出すのはトンデモ理論の基礎であり言語学とかではNGにされてるはずなのだがこの作品ではこれこそがラストバトルの鍵となる。ま、まあ、小説のガジェットと作者の思想は別だと言うし。正直、僕は劇中で古代伝承の解説ネタが出たあと途中まであの記述は罠だと思っていた。


 で、作者はあとがきで怪獣大決戦だと書いていたが、僕はウルトラセブン&おとものカプセル怪獣VS悪の怪獣軍団だと思うの。そしてこの作品がヒーロー物になってしまうのがある意味では残念なのだ。だってヒーローは別に古代から蘇ろうが宇宙から遣わされようがヒトが造り上げた最終決戦兵器だろうが、ヒーロー周りの設定がいくら突飛であってもヒーローの存在には影響がないからだ。逆に設定の突飛さはヒーローがこの地球上で特異な強さを持つ根拠となってしまう。今作でもその萌芽が見える。僕が前作で不満を持っていたのもそれが理由で、突出しすぎると他を緻密に作ってもほころびてしまう。

 考えてみれば、ヒメは一貫として人間を殺さなかった。
 無邪気な怪獣という悪意の欠如は物語のスパイスとして良い風味となったが、怪獣なのに過失でも人を殺さない、そして絶対に人間を守るという態度はもはやヒーローでしかない。使い古されたテーマであるが、怪獣はいくら人間の味方でも人を巻き込んでしまう。多くの怪獣はもっと無頓着なので食って寝て、それで人間に被害を与える。その無慈悲さから自然災害のメタファーと捉えることもできるし、事実何らかの災害・事件の結果(象徴)として怪獣が現れるというのが1つのフォーマットになっている。
 その中で外見が人間らしく行動も人間らしい巨大生物はもはや怪獣ではないのだ。

 別にMM9シリーズがつまらなくなったわけではない。次作が出れば買う。順調に怪獣小説から外れてるってだけ。

「ジュラシックパークIII」(ジョー・ジョンストン、ユニバーサル、2001年)

 あのジュラシックパークの3作目。ぶっちゃけ続きものってのはエポックメイキングだった第1作を超えなきゃ評価されないから、その意味では悲しい運命を負っている。みんな、もっと作品単体で評価してあげなよ(とスターウォーズのエピソード2や3をけなしていた人間が言ってみる)。
 とは言え、ジュラシックパークシリーズは形は変えても何とか1作目の衝撃を維持しているシリーズだと思う。
 1作目のジュラシックパークは言わずもがな、恐竜が目玉のテーマパークというワクワク感。それを引き裂くカタストロフィという派手なコントラストが見ものだった。
 2作目は秘境探検でワクワク感を出しつつ、終盤の恐竜上陸でそこまでするかと度肝を抜いた。が、恐竜を上陸させたことが評判を悪くしてしまった面もある。

 今作は2作目以上に登場人数が少ない。さらに島の地形などに精通している人もいないので漂流記といった趣が出ている。武器も持たず(主人公にとって)偶然上陸してしまったため逃げるために島を横断するも行く先々で恐竜に襲われる。物資も隠れ家もなく、目的地である海岸まで行ったところでどのようにして島を脱出するのか、打開策が見えない中でとりあえず動く焦燥感。川下りで草食恐竜の群れが見え、ほっとしたと思ったら肉食恐竜に襲われる展開。ラプトルを退け、海岸についてどうやって助けを求めるのかと思えば軍が上陸するという爽快感で終わる(が、個人的には軍隊を登場させないほうがジュラシックパークっぽさがあってよかったな)。

 とは言え不満も多少ある。
 見ていて不快だった依頼人の夫婦。こいつらは自分のわがままで飛行機の運転手などを殺した結果になったが、そこでの贖罪がいまいち薄い気がした。なんとなく艱難辛苦を共にして主人公のお供になって、恐竜から一緒に逃れる中でそれどころじゃなくなって、みたいな。
 また、恐竜の描き込みが薄い気がした。シリーズ恒例のライバル役であるラプトルやT・レックスはともかくとして、登場人物と絡んだのはスピノサウルス・プテラノドンく・パラサウロロフスくらい。1作目なんかは序盤にトリケラトプスが大写しになったり、ブラキオサウルスと顔を合わせるシーンがあったりと恐竜を身近に感じる仕掛けが随所にあったのだが、今作では種類が少ない上に単なる攻撃者としての役割しかない。

 全体的にはジュラシックパークの雰囲気が存分にある。序盤の華やかな雰囲気から一変した不穏さは予め恐竜が襲い掛かるとわかっているとはいえ、怖い。映画館で見ればよかったと後悔した。

「発掘捏造」(毎日新聞旧石器遺跡取材班、新潮文庫、2003年)+「古代史捏造」

 20代後半以上なら誰でも覚えているであろう東北地方を中心とした遺跡捏造事件。本書は新聞社が捏造のタレコミを受け、疑惑の人物について周囲の人へ取材を行う中でそれまで考えもしなかった「疑惑」を確信し、決定的証拠を収める過程を描いたドキュメントだ。
 事件のあらましはウィキペディア調べられる。ウィキペディアの内容に経緯や事実を補足した(それが重要だが)ような書籍なのであらすじなどは割愛。

 一読してまさにSTAP細胞事件に似ていると感じた。というか、この手の捏造は構造が同じなのだろうか。
①結果(成果)に対する過剰なまでの重要視
②結果を導く理論や検証・批判への極端な軽視
③当然学問の常識と合わないが、「パラダイムの変換」めいた表現による全肯定
④補足として、STAP細胞と遺跡捏造では個人に注目が集まっていたのも興味深

 恐ろしいのは遺跡を捏造した藤村新一氏を鎌田俊昭氏や梶原洋氏など周囲の学者が疑っていなかった点だ。疑似科学とかでまともな専門家が時々インチキにハマって、その理由について「科学者は事実を重視する教育を受けているので手品に騙されやすい」と聞いたりするが、まさにそんな感じ。本書で捏造がスクープされる前に学者にインタビューした内容が載っていたが、藤村氏のみが石器を発見することをその学者自身も不思議がっている(本書55ページなど)にも関わらず運が良いとか天の加護を受けているとかそんな言葉で納得する(56ページなど)始末。後出しでしかないが、藤村氏と他の学者・発掘者の実績を比べれば藤村氏が異常なことに気付きそうなのに、オカルトでもって納得する様は情けない。そういえばSTAP細胞でもいまだに幹細胞研究はコツがあったりするとか良い年・良い地位にいる大人が宣っているそうな。STAP細胞については事件発覚から今までの調査で「コツ」を学べないならばまさに「神の手」でしかないと思っている。

 話がそれた。上で箇条書きにした捏造の要素は、最近では疑似科学系の医療にも当てはまる(僕の感触としては江戸しぐさや水伝はイデオロギーありきだから毛色が違う気がする)。標準医療と代替医療の違いの説明で、「結果が出れば効果が出る理屈はわからなくても標準医療に組み込まれる」みたいな内容をどこかで読んだけど、「結果」という言葉の意味が標準医療の支持者と代替医療の支持者とで致命的に異なっていると思われる。そして藤村氏の遺跡捏造問題で当時の学会内に漂っていた「結果」は先の代替医療の支持者が主張する「結果」と瓜二つだ。
 彼らの言う「結果」とはまぐれ当たりを指しているに等しい。6面サイコロで1の目が出る確率は「出るか」「出ないか」だから1/2だというギャグがあったが、まさにそれ。意図的に検証を拒んでいるとしか思えない代替医療はともかくとしても、考古学会で素人が見つけたものに検証もろくに行わず多くの人が騙されたのは根の深い問題である。本書であげられた例として、ある地層から土器が出土して、その地層の年代測定もせずに〇〇年前と宣言したそうな。この例はさすがに特殊だと思いたいが、異なる分野の研究者による批判や考古学界内の疑問を無視し疑問を呈した人を冷遇することで、検証を不可能にした様子は本書で書かれている通り(冷遇された1人として例えば竹岡俊樹
 そして藤村氏の業績に対しては先に述べた運が良いという理由やとんでもないブレイクスルーが学問の世界ではたまに起こるという一言で片付けられる。これも疑似科学支持者が好んで用いるガリレオとかビッグバンとかと同じ具合。
 なお、パラダイム論と並んで、思想面では過剰な大日本思想が幅を利かせていたのも原因だろう。遺伝子や人類学の研究から従来ではありえないであろうことを日本人は偉大と結論付けて傍証もなくそのまま突き進み、教科書に載る事態にまでなったのは学問という場もイデオロギーに左右されることを思い知らせてくれる。
 最後に異様なまでの属人性。藤村氏の名前が知れ渡ってからは藤村氏が発見したことが遺跡に信憑性を与え、遺跡が藤村氏の実績を保証して藤村氏の名声がさらに高まるという悪循環に陥っていた。藤村氏は様々な地方の遺跡の発掘に引っ張りだこで(今から見れば、捏造だと薄々気付いてて呼んでいるのでは? と邪推する余地もある)、行く先々で結果を残すからそりゃ神様そのものだ。もちろん、捏造なんてものはSTAP細胞にしても遺跡にしても集団で行うと騙せる確率は高いものの話が漏れるリスクも高くなり、だから個人でこっそり偽物を作ってしまうのだろうが、それにしても必要以上に個人を持ち上げすぎたことで遺跡や細胞の批判=個人への中傷と混同され検証作業ができなくなっていた面もあると思う。

 ここまで学界全体が藤村氏という在野の素人に騙されたダメさ加減を書いていたが、ある意味人間的とも取れる。恐らく藤村氏は人間的に好感が持てるのだろう。本書では藤村氏に関わった人たちの証言が引用されているが、偉ぶったりもしない良い人というニュアンスである。こんな人が捏造なんて非人間的な所業を行うはずがない。ある意味では本書取材陣の裏の姿だ。本書の記者たちは捏造のタレコミが持ち込まれた時、なかなか口を開いてくれない人にも取材し証言を引き出している。本書では熱意だとか書かれているが、それは藤村氏が良い人と評され、信用を得ていったのと表裏の関係である。
 さらに、学者が素人を低めに見ていたことも原因の1つだろう。本書新聞社によるスクープまでに何度か捏造との指摘があったが、その都度学者たちは捏造なんてできるはずがない、初見の地層に土器を入れるなんてリスクが高い、みんな注目する中で土器を取り出すなんてできっこないと反論していた(59ページや60ページなど)。恐らく学者たちは自分の能力を念頭に置いたと思われるが結果は本書の通り。さらに上で書いたように地層の年代を調べていないとか学者が行うべき作業をやっておらず、結果、捏造をやりたい放題にしてしまった。20年間も検証などを行わなかったのは論外としても、発掘時の証言を聞いている限りは藤村氏を侮っていたのだろう(事実、捏造発覚後に藤村氏と共に発掘に参加した人の証言では、変にいつもと異なる服装だったとか、しばしば個人で行動していたとか、捏造だけではなく窃盗を防ぐ仕組みも不十分だと思われる)。

 ただ、みんながみんな本気で騙されていたとは思えないのだ。藤村氏を指名して遺跡を発掘した例も本書に載っているし、東北旧石器文化研究所主催だと発掘スケジュールに記者会見が組み込まれていたらしい。本書によると、成果が出るかわからないし何かが出たとしても調べない内から記者会見なんて不自然であるのこと。確かに。ちなみに本書は藤村氏の周囲の人物が捏造に気付いていたなどという主張は1文もほのめかされていない。されてないのだが……本書を読めば読むほど本当にみんな知らなかったの? という疑問が湧くのも事実。

 また、この手の事件が起こると決まって過剰な成果主義がホゲホゲと言われるのは昔から変わっていないらしい。STAP細胞でも過剰な成果主義に問題をすり替えた連中がいた。この遺跡捏造も当初はプレッシャーによる出来心というシナリオを藤村氏に親しい鎌田氏や梶原氏は描いていた。結局、「古代史捏造」で明らかにされるように藤村氏の発見はほぼすべてが偽物だったのでそのような言い訳を弄する機会は失われたのだが。

 最後に、この遺跡捏造は考古学界にとって企業で言うところの統制監査や業務手順の不備という問題に似ていると思った。考古学界は結果に対してプロセスを見ていなかった。そればかりか国に出すべき発掘報告書を作成していないことすら把握していない。発掘時の遺跡に対する安全策も定めていないのではなかろうか。このような背景もあり不正を働きたい放題だったという事実は会社員として教訓にしたい。

参考文献
捏造事件についてはこれが詳しいhttp://www.amy.hi-ho.ne.jp/mizuy/zenki/index.html
捏造を早い段階で指摘した小田静夫氏http://www.ao.jpn.org/kuroshio/index.html


・「古代史捏造」(毎日新聞旧石器遺跡取材班、新潮文庫、2003年)
 上の書籍が藤村氏捏造事件の速報としたら、本書は総括に当たる。結果的に藤村氏の関わった遺跡はほぼ全滅だった。
 情けないのは周囲の学者陣である。

「劇場版gdgd妖精sっていう映画はどうかな…?」(菅原そうた、2014)

 微妙……。

 近くの映画館ではもう上映してないからネタバレも問題無いと思う。

 さて、事前情報を聞いた段階では1時間延々とアドリブと雑談する大火傷映画かと思っていた。
 蓋を開ければそれにすら達しなかった作品だった。以下感想。

・同時上映作「こんな私たちがなりゆきでヒロインになった結果www」
 これはひどい。今秋期予定のアニメの先行放映なんだけど、本当にプロローグというか設定情報しか出していない。しかもCGが非常にチープ。シナリオもグダグダ。正直時間の無駄だった。

・「劇場版gdgd妖精sっていう映画はどうかな…?」
 やばいっすやばいっす。てさぐれ部活ものやみならいディーバ見た後だとキャラCGも背景もチープすぎる。gdgd妖精sの第1期が2011年なわけで、今までの間で視聴者も目が肥えてしまったなあと。まあ、gdgd妖精sだからあまり絵柄変えてもいけないし、CGについては問題ないと(無理やり)思うようにしても、問題はストーリー。
 この作品、シナリオパートとアドリブパートにわかれているんだが、シナリオパートがチープ。ちなみにこの映画と同じテーマを扱っても調理方法次第で王道の物語に出来ると思うので、純粋にこの映画のシナリオがチープであると思う……。第1期で共に作品を作った石舘光太郎監督作品はどれも最終話がなんちゃってシリアスなんだけど、ちゃんとシリアスなりに真面目にまとめていたのに対し、この映画はちょっと取って付けすぎる。ところどころ滑ったっぽい箇所もあったしマジで1時間フリートークにすべきだったと思う。
 アドリブパートはgdgd妖精sって感じ。思ったよりも(失礼しました)でんぱ組.incが違和感なく溶け込め、面白いこと言っていたのでなおさらアドリブパートの少なさがもったいなかった。あと、最終決戦ででんぱ組.incキャラが出てこないのはストーリーとして失格だよ。

 総評としては、TVアニメで感じていたgdgd妖精sの面白さをことごとく潰していたと思う。ぶっちゃけアドリブも第1期のヤケクソな破壊力がなかったしね。アドリブのネタ振りだってワンパターンすぎ。石舘監督にシナリオを練ってもらうべきだった……(ボソボソ)。