2015年9月24日木曜日

「ターミネーター:新起動/ジェニシス」(アラン・テイラー監督、スカイダンス・プロダクションズ、2015)

 のっけからネタバレだが、今作(以下ターミネーター5)は「T-800が敵に倒される→主人公ピンチ→T-800が再起動し逆転勝利」の展開はない。このシーンを作らない決断をした製作陣は勇気があった。
 思えばターミネーター2での予備電源を利用した逆転以降、再起動シーンはターミネーター3・ターミネーター4で何度も使いまわされ、しかも微妙にシチュエーションを変えているので余計にチープさが増していった。ターミネーターシリーズ迷走の象徴でもあった。2の予備電源のシーンは視聴者がそのことを知らなくT-800は完全に壊れてしまったのかと衝撃を受けたからこそ後の感動につながるわけで、手の内が明かされてからの自己パロディは寒いだけだ。

 さて、ターミネーターシリーズの悲劇は、物語としてのハッピーエンドはスカイネットを破壊することなのだが、実際にそれを行ってしまうとシリーズという商売が終わってしまうことにある。そのためターミネーター2→3に至る中で2の感動をぶち壊す暴挙に出たのだった。つまり物語として綺麗に終わらせられる作品としては1と2の時空だけでしかありえず(もしくはT-800は出てきそうにないけど、未来の世界でスカイネットに「完全勝利」する瞬間くらいかなあ)、他の時間を描くと絶対にラストがバッドエンド風味になるのだ。名作(1と2)を受けてシリーズ化(3や4)を企てるも数字を稼げないので名作をリメイク・リブートする(5)……というサイクルを恐らく延々と繰り返すのがターミネーターシリーズの定めなのだろうなと諦めざるを得ない。ええ、5~7と三部作になるらしいが、途中でポシャるか7でやっとジョン・コナーが生まれて、スカイネット編は次の三部作だ→途中打ち切り、になると確信していますよ。

 僕はそこまで熱心なファンではないが、でもターミネーター1と2を好きな人がこのシリーズに抱く感情はアンビバレントである。個人的には続編(というか正義のT-800)を見たい。未来の世界で人類の救世主として闘うジョン・コナーを見たいし、1や2の時間へ送られる経緯も知りたい。何よりもスカイネットへの勝利も映画化して欲しい。でも心の底では自分たちが妄想を繰り広げた面白さには敵わないと知っている。
 未来の世界のシーンは小出しにされているからワクワクしたのであって、実際に映画化された4を見るとチャチい感じを抱いた。そういや未来では人類はゲリラとして戦うんだっけ……。設定通りに映画化すると、ジョン・コナーは司令官として命令を下すだけで、名もなき兵士たちが人間の姿すらしていない機械兵にゴリゴリ倒されるスターシップトゥルーパーズ的な作品になるんだろうな。そこにT-800も、手段を選ばず皆殺しなリンダ・ハミルトンも出る余地はないだろう。
 だからこそ新作が発表されるたびに次こそは面白いはずだと期待をふくらませて映画館に向かい、裏切られてはその次に期待しているのだ。


 で。
 今作(ターミネーター5)はなかなか面白かった。冒頭にも書いたとおり、ターミネーターシリーズの致命的なお約束であるT-800の再起動を描かなかっただけでも評価する。映画というものはご都合主義だとわかっていても前後のシーンの流れで感動させる傑作は確かにある。でも一度人気を博したシーンを別の映画に移植したって単なるパロディにすぎない。
 今作はその点を考えこまれたのか、今まで「ターミネーター」として定番のシーンだったものを微妙に外して作られている。バイクも出ないし銃器も中心的ではない。2はガンマニアでない僕でさえも拳銃・マシンガン・グレネード……と大雑把に銃器を認識できたのだが、5では脇役で影が薄い。だって対ターミネーターの武器はメリケンサックなのだ。ターミネーターなんだから肉弾戦だろうと言わんばかりの格闘シーンが心を躍らせる。
 何よりも注目すべき点はジョン・コナーを敵にしたこと。これを筆頭に人間関係や設定も変えている。ターミネーターシリーズの目玉は戦うT-800だとして、他の設定を一新している。潔い決断で好感が持てる。そもそもこのシリーズは設定に縛られきっていたのが面白さを失わせる1つの要因であった。

 とは言え、欠点も大きい。設定を一新したせいで今までのタイムラインとズレてしまった。さらにはシリーズ化されストーリーと設定が複雑になる中でタイムスリップの設定が不明になっているのは致命的。1や2は同じ世界線だったため、視聴者に説明をしなくとも問題はなかったのだが、3で明らかになった事実(未来の結果は変わらずタイムラインが遅れるだけ)は後付とはいえ2のT-800の行動とは矛盾しているぞ。今作(5)はその影響がもろに出ており、作品の謎ということで後々明らかになると思うのだが、それでもタイムスリップ関連の設定はめちゃくちゃになっている。5のラストを見る限りではジョン・コナーは今までの設定通りには生まれなくなる……よね?
 平和に生まれた幼少期のカイル・リースが登場したころがら考えると、平行世界宇宙論を採用したのだろうがだったらこの世界でカイル・リースが戦う意味もジョン・コナーがやってくる意味もないのではという疑問が生まれてしまう

 まあ、制作陣は一応考えていると思いたい。シリーズを再構成したためターミネーター5を見ただけだとわからないところがあるのは仕方ない。むしろ過去作の既視感をなくすために必要な処置か。全世界での収益も十分にあったはずなので、今度こそは無事に物語を終わらせてほしいなと思ったが、スカイネット(ジェネシス)を吹き飛ばす爆発が炸裂したのに本体っぽいのがまだ生きている描写がラストで描かれている……。
 このシリーズ、敵が圧倒的に主人公よりしぶとい(または上手)なので終わる気がしないなあ。

「女子高生 Girls-Live」(大島永遠、双葉社、2015完結)

 あの伝説の「女子高生 Girls-High」の続編、なんだけど、キャラクターはほぼ一新されてるので前シリーズを知らなかったり忘れてても問題ない。テンポが良く、ギャグマンガとはかくあれという作品だった。

 僕がこのマンガで面白かったのはキャラクターの描き方。大バカだけどムードメーカーな主人公とその周りにそこそこバカな中二病と少々バカな博士タイプを序盤で配置したものの、真面目で賢い委員長タイプが現れた結果、主人公と委員長タイプのコンビに内容がシフトしていった。最終話近くは委員長タイプが語り手となるなど裏主人公としての貫禄を見せつけた。……ボケツッコミとして描きやすかったんだろうなあ。読んでる身としても委員長タイプが主人公の言動全てにいちいちツッコミを入れるので爆笑していた。最終話まで読んでから第1話を読み返すとテンポの違いに驚くくらい。
 物語が進む内に主人公軍団を形成していたバカ2人が脇役になり、代わりに委員長タイプをライバル視していたキャラ(ややスイーツ気味)がモブから準主役へ変わったりしていた。いわゆるキャラが勝手に動き出すという状況かな。作者も恐らく勝手にキャラが動いているのがわかっていたらしく、ちょくちょく脇役となったバカ2人をクローズアップしていたのだが、結局は準主役の座を奪還するまでは至らなかったっぽい。それでもって途中から主人公がライトな百合的好意を委員長タイプに抱いているのには笑った。バカ2人がますます脇役になってしまう!

 というわけで、内容も面白いが、それ以上に主人公とコンビを組むキャラがあからさまに変わったのに気付けたのがもっと面白かった。なお、全巻読むとやっぱり主人公の相方は委員長タイプが適任だなと思う。正直バカ2人は自分から動き辛いキャラだった。

 読み終わってふと思ったが、主人公ってかなり裕福な生まれだよな。子供の頃からかなりのおめかしをして、母親は裁縫とか有閑マダムっぷり。兄3人を普通に大学に入れ、主人公自身は高校3年目をアメリカ留学。何でこの家庭からここまでのバカが誕生したのか気になる。

「アーティスト症候群」(大野左紀子、河出文庫、2011)

 筆者もわかっているとは思うんだが、いわゆる芸術家(本文読む限りでは特に現代アート系?)のアートに対する感覚と一般人のアートへのイメージが全然異なっていることがこれでもかと言うほどわかる本。
 今後アート系の人の発言は一般人の使う用語とは異なっていることを踏まえて理解する必要があると感じた。

 結局、この本の構図というのは単純で、アートとは保守性と前衛性(新規性?)が延々と対立しているらしい。筆者は現代アート系の人なので保守的な作品に対しては問答無用で批判する。最先端でなければ価値がないと言わんばかりの筆運びは「最先端」の価値が理解できない人間からすると少々引いてしまう。なお、理屈だけで言えば、最先端・最前線というものに重きを置くならば、最先端から2番手くらいの芸術家(これも現代アート系のはず)の価値はガクッと落ちるはず。つまり価値観が同じアーティストに対してもわずかに保守的だ・微妙に保守的だとの批判は成り立つはずだが、この本の中では書かれておらず、見るからに保守的な芸能人アートとかのみ言及している。この本のコンセプトは一般人がアーティストに憧れる仕組みについてだからアーティストへの批判はしていないのかもしれないが、片手落ちだと思う。むしろ価値観を共有していてなおかつ最前線に立てない人々の方が批判されるべきだと思う。
 ある意味でこの本は仲間内の話を他者にわかりやすく出したのだろうなと感じる。しかし「保守的」なアートが理由も書かれずに批判されるのは、価値観を筆者と共有していない人間からすると逆に筆者の基準を疑う結果となる。

 この齟齬の原因は、一般人から見ると非常に単純である。現代アートって、ある種の商品であることを止めてしまったからだ。
 現代アートは大抵美術館に行って見たり体験したりするものだが、そりゃ個人が日常的に接することができず、そして複製のない高価なシロモノは一般人とは異なる世界になってしまうだろう。
 アートみたいに価値観そのものが認められているジャンルに文学や音楽がある。面白いことに、文学にしても音楽にしても芸術性がそこそこ高いとみなされている割には個人が所有できるのだ。つまり商品であり、それも非常に安い。裾野も広く、チープなものも多い。それにも関わらず、トップクラスの地位にいる人は芸術家の立ち位置である。
 文学や音楽は全体的に芸術性をかなり放棄することで一般人の生活に潜り込み、その価値について一般人を教育し今の地位にいる。現代アートはどんな努力をしたのだろう?

 現代アートの人が一般人と感性を異にしているのが明らかになるのがp65、フランスのアカデミー「ル・サロン」
 p92の「アートなんてその程度でいいんだ」

 面白いのはアーティストとはなんだろうと狭義の芸術家を美容師やメイクさんと比べ、音楽にも言及しているにも関わらず、文学への言及を行っていないこと。本文中ではアートの価値についてコンセプトがどうのこうのと書かれているが、アートのコンセプトとかを語るなら言葉が介在するはずで、必然的に文学の領域に関わるはず。感覚としてはファッション関係よりもよっぽど、文学のほうが美術との関連が強いと思う。

 アートの価値は恐らく美術史とかを勉強すれば学べるんだろうが、やっかいなことに美的感覚とは一致しない。筆者も書いているが、メッセージを投げかけたり目を背けさせるのをアートの価値と呼ぶならば、そもそも一般人を対象にした美術とはそもそも論点が異なるよね。普通の一般人は見て心地よい作品を選ぶのだから。
 実は筆者はここを混同させている。筆者のブログ記事にも書かれているが、良いもの(僅かな人が認定するもの)=教養(僅かな人が持っているもの)=美(『美術においては「それが名作である/ない理由」』と引用する)を一般人が目指している方向と位置づけている。それが、本書でも何度も出てくるアートのコンセプトだったりアートのメッセージだったりするのだろうが、


 僕自身は勉強をして鑑賞するという方策は好きである。映画にしてもマンガにしても設定厨なところがあると自覚しており例えば作者がこう読むべしと宣言されればその通りに読むだろう。映画の評論を読むのも好きだ。小説も海外SFなんかは訳者あとがきがあって、非常に参考になる。
 しかしそれと好き嫌いは全く別物。「わたくし率 イン 歯ー、または世界」(川上未映子)は「素晴らしい」が、何度も読みたい小説では僕はない。頭よりも目が疲れるからだ。「わたくし率 ~」と比べるなら「撲殺天使ドクロちゃん」(おかゆまさき)の方が遥かに好き。たとえ今の文壇においては評価されなくとも、文体的には心地が良い。
 もっとも、アートと違うのは、「わたくし率 ~」は誰でも一冊買えるのでメッセージを受け取りたければいつでも読める。そう、アートの文脈で言うなれば、美を体験できるのだ。アートはそれができない。結局、筆者はアートを辞めたらしいが、この本を読む限りでは当然の流れである。

「映画 ひつじのショーン 〜バック・トゥ・ザ・ホーム〜」(リチャード・スターザック監督、アードマン・アニメーションズ、2015)

 すげえ作品。
 ひつじのショーンシリーズは言葉を話さないという特徴のある欧米でしばしば見られるタイプのアニメーション。しかもクレイアニメでもある。言葉を話さなくても物語は非常にわかりやすく、かと言って単純なストーリーではない。コメディとして十分に笑え、ストーリーの練り具合がどれほどか予想もつかないほど。
 テレビアニメだと1話数分だったのに、映画になったらその何倍にもなり、物語を紡ぐのに大変だと思う。しかしそんな苦労を微塵にも見せず視聴者を笑わせるこの作品は本当にすごい。
 子供向けとして現状の不満(物語の導入)→事件発生→手強い敵の登場→頼もしい味方の登場→挫折→再起→大団円が笑いと涙を交えて描かれる。見ていてこのシーンは映画の中でこういう役割を持たされているなと密かにわかったのでスレた人にはつまらないかもしれないが、僕からすると子供向け映画の王道として楽しめた。
 正直、日本の映画やアニメが無くなるとしたらストーリーの質の低下かもしれない。

 クレイアニメで1時間以上動きっぱなしということにも驚き。百聞は一見にしかず。上映は終わってしまったのでぜひDVDで見て欲しい。