2015年11月23日月曜日

「ジュラシック・ワールド」(コリン・トレボロウ監督、ユニバーサル・ピクチャーズ、2015)

 こういうテーマパークに行ってみたい。
 第一作目の「ジュラシックパーク」が1993年。それから22年後にやっとテーマパークが公開されたのだ。登場人物も一新され、当時の惨劇を知らない子供や金儲け以外に興味のなさそうなヒロイン、ラプトルの調教に命をかけた主人公(この人もどこかズレてる気がする)をメインキャラクターに据えてついにテーマパークを襲う悲劇を描いた。
 思えば「ジュラシックパーク」は台風の影響でオープン前に惨劇が起きた(カオス理論的に関係ないものが重大な事態を引き起こすの暗喩か)のでテーマパーク感がなかった。被害者が圧倒的に少なすぎた。テーマパークというか、孤島の冒険ものと言っても良い感じである。今作は違う。来客を襲う翼竜の群れ。逃げ惑う人々。対抗する警備員。どう見ても武器の質や量が不十分だね!


 今作の情報を聞いた時は人工的に恐竜を作ってそれがラスボス? それじゃただのモンスター映画だろうとバカにしていた。ジュラシックパークシリーズはあくまで実在したであろう恐竜が人を襲い、それが怖さになる。もちろん恐竜も動物でしかないから死ぬときはあっさり死ぬ。恐竜を殺させないようにシナリオを作り、そして無力な人間を演出することで楽しませる映画になっていたと思う。下手に新種を作ると単なる怪獣モノになってしまわないかと心配していた。
 実際に今作を見ると人工的な恐竜にも必然性があって安心。新しいテーマパークを作るのと同じようにまだ見ぬ恐竜を創りだすんだって。ジュラシック・ワールドの運営元がどんな理念の持ち主か端的に示す発言であり、かつ怪獣を登場させる必然性に繋がる。現実世界でもこの手の未来の安全を軽視したチキンレースの果ての大災害がたびたび起こったりするので(リーマン・ショックとか)、やけにリアルだった。しかも人工恐竜が脱走した原因は、職員が不用意にケージの中に入ったから。第一作目の「ジュラシックパーク」が他企業に買収された職員の裏切りにより破滅したことを思うと対比が面白い。当時はこのように悪意なき大災厄となるシチュエーションを考えられなかった……と言い切るのは勇み足だろうか。
 また、恐竜を手懐ける・調教することを当然と受け取れるようになったのは僕が大人になったからか、時代が変わったためか。「ジュラシックパーク」の頃は恐竜をペットにする=リアルでないと思い込んでいた。逆にだからジュラシックパークの崩壊をそんなものと受け止められたのだ。恐竜はライオンなどとは異なるので人間と共存できない。頭のどこかで恐竜は別種の生き物だと思い込んでいたのだろう。それが22年経って、恐竜は恒温動物だったとか羽毛が生えていたとか想像できる生き物に変わった。ならば知能が高ければ飼い慣らせるよね。もちろんそこはリアル寄りの映画なので恐竜たちはほどほどにしか擬人化されていない。まだまだ野生が残っている状態だが、ジュラシックパークから22年(実際には数年だと思われる)であのレベルで懐くなら主人公は動物調教の天才かもね。むしろ主人公などの恐竜に対する思い入れが面白かった。

 今作では原点の「ジュラシックパーク」への立ち帰りがあったのか、前作などと比べてジュラシックパークらしさが出ていた。例えばここで文句を言った恐竜との触れ合い。最期を看取ることになるアパトサウルスや子供たち2人のお目付け役を散々弄んだ挙句喰われるプテラノドン(これは触れ合いじゃないか)、上に書いたように手懐けられた恐竜ヴェロキラプトル、そして最後をかっさらうT-REX。やっぱりテーマパークならば恐竜をキャラクター化して視聴者に見せないと。
 そして主人公の一角が子供たちに戻ったのも嬉しい。前二作は大人がメインで動いてしまい普通のアクション映画になっていた。別に普通のアクション映画が悪いわけではないけど、それだとエイリアンとかゾンビに襲われるってのと変わりないよね。ジュラシックパークはやっぱり子供が事件に巻き込まれ、いかにして生き残るかというハラハラ感が醍醐味なので、その意味で今作は十分に堪能できました。

 人工恐竜の恐怖を伝える描写が特に優秀。警備隊の近くに滴り落ちる血。不思議そうにそれを見る隊員たち。次の瞬間徐々に背景から浮き出る恐竜の姿……。そういえば「ジュラシックパーク」でもT-REXが現れるまではかなり長いタメがあった。雷のような地響きをたて、コップの水が揺れ、暗視ゴーグル越しの不明瞭な映像であるべきものがないと知る。何かが起きることに期待を抱かせるのだ。
 他のシーンではラプトルと対峙し、配下に置いてしまう描写も恐ろしい。ついに今作でもラプトルが人を襲うのか! と待っていた人は多いだろう。ラプトルに襲われる人々の描写を間接的に描くのは効果的だった。スプラッタでも直截的に描写されたら気持ち悪さはあっても恐怖が薄れる場合があるため、ネチネチと「そのもの」のシーンなしに演出し恐怖を持続させる手腕は感心した。

 百聞は一見にしかず、この興奮はぜひとも映画を見て欲しい。この手のパニック映画は登場人物の頭をわざと平均より悪くして事態の悪化を主導させ、視聴者が冷めることが多いが、「ジュラシック・ワールド」ではせっかく今まで投資したのに人工恐竜を殺すなんてもったいないと手をこまねいている。「そういう葛藤、私も経験したことある」と多くの人が自分の人生に即して背筋を凍らせながら観ることができる。そんな映画だ。
 いやもう人間サイドがどいつもこいつも小者で親近感がわくのだ(そして映画的には事態が楽しく悪化する)。
 ところで、脱出できた研究者のおっさんは、当然続編を作るために生き残らせたんだよね?

 なお、文中の恐竜名はウィキペディアをコピーした。

「アントマン」(ペイトン・リード監督、マーベル、2015)

 すっげえ面白かった。蟻サイズに身を縮めての冒険というテーマは、昔ドラえもんで見て好きになった。ミクロの世界から見た普通の人間の普通の生活が大冒険になる面白さ。見慣れた光景なのに別の姿を見せる新鮮さなど、体を小さくするという発想は絶対にヒットすると思っていたのだった(偉そうな書き方だな)。一般的に冒険物を作ると、その舞台はどうしても作者が考えだす必要がある。すると、あまり詳しく考えていない設定については通り一遍の描写にならざるを得ない。そういうのって意外と読者からはわかってしまうのだ。設定が確立されてないことによるご都合主義って物語を楽しめないんだよね。少なくともミクロの大冒険ではそういう設定ができていないという心配はない。自分たちの生活環境を調べ忠実に再現すれば良いのだ。この読者・視聴者に冒険の舞台をどこまで緻密に想像させることができているかは重要である。

 物語としては単純だ。離婚した妻についていった娘と会うためヒーローになる男。それに対比し、父娘関係に亀裂が入ったヒーロースーツを開発した老博士。人間ドラマとしては老博士の父娘関係が中盤で仲直りし、主人公は最終的に離婚した妻と和解し娘からの尊敬を得る。アベンジャーズなど多少のアメコミ映画知識は必要だが基本的にはこの映画内で完結する。
 主人公はまるでスペックの高い自分のようだった。結果を短絡的に求め、やっちゃいけない方向にひた走る中年男性。考え方も行動もお行儀が良いとは言えないが、ギリギリ不快にならない程度のダメっぷり。この人はしっかりした司令官がいないと何をやらかすか不安である
 主人公の犯罪仲間は絶対に敵からスカウトされてライバルになると思ってたんだけどそんなことはなかった。
 正直、悪役の行動原理が今ひとつわからなかったのだ。老博士の弟子としてのプライドがあったのに、大事にされていないと気付いて復讐に走ったのだろうが、世の中に役立たせたいと願う老博士とわざわざ正反対のことを行うなんて正気かと思う。特に縮小スーツを手に入れてしまえば縮小スーツのプラントを手に入れてしまえるのだから、もっと考えたほうが良かったでないかな。ついでに老博士と仲の良くない(と思い込んでた)実娘を秘書にしてスパイされていたが、もしかして最後まで謀られてたことに気づいてなかったのか? そう考えると不幸な悪役かも。でもこの悪役よりも主人公の犯罪仲間を縮小スーツマンにした方がドラマが生まれると思う。

 やはり映画の売りとしては絵面だろう。その名のごとくアリを使役するアントマン。敵を倒した功績の8割はアリだと思う。ぶっちゃけ体を小さくするスーツなんかよりもアリを操るテクノロジーのほうがメインだった。敵の敗因はアリの活用に無関心だったことだろう。まるでスターシップ・トゥルーパーズのアラクニッドバグズのように行軍するアリの群れ。集団で固まって船になり、羽ばたいて空を飛ぶ。力も強い。アリとの心暖かくなる交流はこの作品の目玉。
 子供部屋を舞台にしたラストバトルは楽しい。汽車の模型にはねられるも、人間サイズから見たら単なるおもちゃの脱線。映画館ではみんな笑ってた。ミクロサイズで起こった大爆発も人間サイズになると多少のボヤ程度。おもちゃが吹き飛ぶくらい。ミクロ時の効果音と人間サイズの時の効果音は重々しさが全く違う
 そう、最近の映画は爆発にしても破壊にしても派手になるのは良いのだが、必要以上に大げさになってる気がする。ヒーロー物みたいなコミックよりの世界観なら多少派手に壊しても気にならないんだけど、リアル寄りのサスペンスなどではお痛が過ぎると軍を投入されるかもと思うのだ。ターミネータージェネシスはジェネシスの会社があっさりと木っ端微塵に壊されたので虚構レベルが多少高い。リアルな作品はほとんど見てないからわからないんだけど、この規模のアクションをしたければプライベート・ライアンみたいな戦争シーンじゃないと冷めると思った。
 まあ、映画を見るときは別にそんなことに気付かず爆発を楽しんでるんだけど、いざ「陰ながら戦う正義のヒーロー」像そのものの描写をされると、他の映画が荒く見えてしまう(もちろん荒いからと言って面白くないとかそういう問題じゃない。が、比較をしたらアントマンの方ができが良いとかそういう意味)

 結論:すっげえ面白かった。アントマン2も楽しみ。

人間は与えられた情報から現状に最適なように解釈し、そこから修正することが難しいということ

 「Mysterium」というボードゲームを遊んだ。2015年10月にホビージャパンより日本語版が発売されたOleksandr NevskiyとOleg Sidorenkoが作ったゲームだ。噂ではもう売り切れと聞いている。
 内容は、イラストからテーマを推理するゲームである。子プレイヤー達はそれぞれ3つの謎があり、親プレイヤーは謎の答えをこっそりと設定する。そして親プレイヤーは子プレイヤーに対してヒントを1枚以上のイラストカードを渡すことで提示する。イラストは抽象的なものから具体的なものまで様々。子プレイヤー達はお互いに相談できるが、親プレイヤーは口を挟めない。子プレイヤー達は謎を解決できるだろうか……という協力型ゲーム。
 上では親プレイヤーと子プレイヤーが対立しているような印象を受けるが、実際には親プレイヤーはわかりやすいヒントを出そうと悩む羽目になる。なぜならイラストカードが過度に抽象的なのだ。いわばゲームシステムが最大の敵であり、親プレイヤーと子プレイヤーは最終的に協力してクリアを目的としゲームが終わったらあの時なんであのイラストカードを渡したのかなどと感想を言い合うのが楽しかったりする。

 僕は親プレイヤーも子プレイヤーも体験したが、その中で人間の認知能力の限界(大げさな!)を感じた。
 親プレイヤーは、手持ちのイラストカードは7枚しかない。ヒントにふさわしくなくてもカードを処分することは基本的には出来ない。この限られたイラストカードで子プレイヤー達にヒントを与えるのである。カード内に答えのモチーフが描かれていれば良い方だ。大抵は連想ゲーム。答えが「料理人」だったら林檎っぽいものがカードの隅に描かれていれば十分。ひどい時には色調の連想。答のカード(答もカード形式なのだ。そのため全プレイヤーは同じ認識でいる。適当に選んだカードが正解だったりすると嬉しかったり少しもったいないと感じたり。)に灰色が多かったら、同じく灰色が多めのカードを渡したりする。
 そんな状態なので親プレイヤーは消極的なヒントしか渡せない。このゲームはカードを渡す順番も決まっていないので、一番最初に渡されたプレイヤーとカードがヒントとして最も適切……と思いがちなのだが、そもそも親プレイヤーとして全員にまともなヒントを渡せないので適当に渡してたりする。それでも子プレイヤー達は親プレイヤーの一挙一動を見つめ、何かしらの意味を見出す。ひどい時には親プレイヤーが頭を抱え長考するなど完全にダメになったサインを見ているのに、だ(なおこのゲームにおいては親プレイヤーの長考は子プレイヤーからすると見ものなので大歓迎だと思う)。1回のゲームで大抵1度は親プレイヤーからすると「捨て」フェイズがあるのだが、まあ子プレイヤーからするとわからないよな。むしろ親プレイヤー経験者はほとんどのフェイズが捨て回だったりする人もいるので何らかの情報を積極的に読み取らねばゲームとして成り立たないと考える人が多いのではないだろうか。

 さて、ゲームが進むに連れて子プレイヤー達は混沌の渦に巻き込まれる。イラストが抽象的であり、親プレイヤーは半ばこじつけめいた理由でカードを渡しているのでヒントが読み取れなかった場合は勘違いしたまま進んでしまうためだ。はっきりと言うならば、このゲームでは1枚だけのカードをじっくりと考えた方が正答率は高いと思う。製作者もそれをわかっているのか、子プレイヤー達の考える時間は非常に短く設定されている。何と砂時計がコンポーネントに入っているのだ。
 そしてゲームの進行とともに親プレイヤーから渡されたカードも2枚、3枚と貯まっていく。先にも書いたように複数枚渡されたほうが混乱する親プレイヤーからすれば子プレイヤー達の議論を全て聞けるので、間違った方向に行っていれば誤りを修正するカード(そんなカードなど大抵ないけどな!)を渡すんだけど、これまた大抵子プレイヤー達の誤りは修正されないまま進む。僕の経験では、白と黒のタイルが交互に敷かれた部屋の絵が答だったのでチェス盤が書かれたカードをヒントとして渡したら、なぜかチェスの駒に注目されてしまった。彼はしばらくして無事に正解したのだが、親プレイヤーが想定していないところに意味を見出した瞬間は印象的だった。
 そうそう、このゲームにありがちだが、以前配ったカードと新たに配るカードの関係性が親プレイヤーとしては特にないにも関わらず、子プレイヤー達は勝手に意味を見出すのも面白かった。親プレイヤーとして手持ちのカードからその都度最適なヒントを出しているだけなのだが、親プレイヤー経験者ですら連続性のある何かを見つけてしまう。このゲームの親を経験していたら、関連性のあるヒントを何回も出せるほどの手札なんて来ないことがわかっているだろうに!

 というわけで、パーティゲームとして最適な楽しいゲームである……というのがゲームとしての感想なのだが、僕としてはもう少し深い教訓めいたものを感じ取りたい。もしかしたらこれもMysteriumマジックにかかっているのかも?

 子プレイヤー達の議論を見てて、答を誤る原因だと感じたものは次のとおり。

1.限られた思考時間
 考える時間がないまま取りあえず答を出させる。すると、どうもいつの間にかその答に縛られるらしい。子プレイヤー達は一度回答を出すと、親プレイヤーが答え合わせをする前に自分の中でそれが正しい理由や補強する幻を見出す。次に改めて考えさせても正当化された回答(そして自分がその答を見つけ出したポイント)が正しい、もしくは方向性が間違っていないと考えるらしい。
 なお、思考時間を限定することは、先に選ばれた答の残りで自分の答を見つけ出すことにつながるので(ゲームシステム的には他人と答が被っても問題ないのだが、結構他の人と同じ答を選ぶのは抵抗があるらしい)、なおさら思考の枠を狭める結果になるっぽい。

2.ピントのズレたヒント
 抽象的ならば……つまり個人によって読み取れるものが多ければ多いほど勘違いをしてくれる。もう錯覚ですらない。UFO論とか現実世界でもこんな現象は多く見られるだろう。このゲームでは抽象的なイラストカードという形で子プレイヤー達に勘違いを誘発させる仕組みを採っている。渡した親プレイヤーからすればどうしてそんなところに着目するのかわからないけれど、なぜか子プレイヤーはピンときてしまうらしい。まあ、親プレイヤーもしばしば無理やりこじつけてヒントを渡すのでお互い様だと言えるが。そう、情報の受け手から見るとその情報がどんな意図で送られ、しかも正しいかどうかなんてわからないのだ。そしてしばしば情報の送り手自身も正しく受け取ってもらえるかわからずにあやふやではないと思っている情報を送る。送り手が正確性のないと気付いているだけましなのだ(でも気付いていても受け手の誤りを正すことは出来なかったりするけど)。

3.答を考えている時に何度も与えられる様々な兆候
 上の2番に絡んで、1つのヒントを熟慮するならば誤りも少なく、考えの修正も容易だと感じる。ただ、このゲームでは短時間で答を出させ不正解だとヒントを次々に受け取り、子プレイヤーは混乱する。ゲームならばゴミ情報の過多にあたふたするプレイヤーの姿をお互いに笑っていれば良いのだが、現実世界でもこんな光景は多い。怪しげな、意図のわからない、はっきりとしない情報はかえって邪魔なので無視すれば良いのだが答を出す必要に駆られているときはどんなゴミ情報も無批判で受け入れてしまうらしい。

4.誤った時に与えられない適切なフィードバック
 正解/誤りだけしか言わず、どこが間違っているか言わないことだ。思考というのは流れで出来ているらしく、ヒントAだけならば方向を大きく修正できるのだが、ヒントAに加えヒントBを受取るとヒントAから導いた誤った答えにヒントBを足してキメラめいた回答を作り出す。なお、ヒントの数が多いと序盤に受けたヒントを忘れるらしい。
 「あなたは間違っている」と言われると人間は考えを方向転換すると思われるかもしれないが、大抵はそんなことしない。2択の内、1つが間違っていたから今度は残りを選んでみよう。それも間違っていたことがわかるとひとしきり自分の思考の流れの正しさを愚痴った後で適当に目についたポイントを見つけ出す……

5.その問題にコミットしている時間
 上の4番と関連するのだが、適切なフィードバックが得られなければ誤った思考の流れのまま延々と誤った回答を発掘し続ける。その状態で頭を真っ白にして考えなおすのは不可能らしい。
 ただしある問題でハマった人がその問題さえクリアできれば、次の問題を難なく解いたことはあるので、誤った回答を出し続けたら気分転換をするのが良いかもしれない。
 このゲームは謎を順番に解かせるシステムなので実験できないが、何らかの簡単な問題を正解させ、一度頭をリセットすれば最初から考え直すことが容易に出来るのではないだろうか。誰かやってみて欲しい。


 このゲームが面白いのは、恐らく上の答えを誤る要素は僕達の日々の生活で極普通に見られることだ。ネットの議論なんてとくにそう。このゲームは楽しい。終わった後で親プレイヤーと子プレイヤーがイラストカードのチョイスにやいのやいの言い合う姿はもっと楽しい。ブチ切れた親プレイヤーが手持ちのカードをすべて見せ、あまりの意味不明っぷりに子プレイヤー達が同情する姿はもはや風物詩と言っても良い。でも、ゲームを一通り楽しんだ後で、このゲームの肝は何なのか、現実世界とリンク出来る部分があるのではないかと個々に考えるのが大切だと思った。
 僕個人はゲームから安易に教訓を引き出すのを嫌っているが、このゲームに関してはせっかくの情報系ゲームなのだから遊んで楽しくて終わりだともったいないと思う。