2016年12月20日火曜日

「スーサイド・スクワッド」(デヴィッド・エアー監督、ワーナー・ブラザース、2016)

 いやー、キツイな。見栄えのする画面に対してストーリーが物足りない。
 まずプロットがとっ散らかっていた。メインストーリーはエンチャントレスの暴走によって起きた事件とスーサイド・スクワッドの活躍なのだが、それにジョーカーとハーレイ・クインのメロドラマが繰り広げられる。これ、どっちかで良かったんじゃないかな。ジョーカーがトリックスターになっており、何のために出てきたのかわからん。
 登場人物だってまともすぎる。悪人には悪人なりの美学や論理やたとえ狂っていても価値観があるはずなのだが、出て来る彼らは一般人の思考で動く。どこかで見たことある展開だと思ったら、ガーディアンオブザ・ギャラクシーの連中と変わりない。このキャラクターがまとも問題はスーサイド・スクワッドを利用しようとするアマンダ・ウォーラーの方が存在感があるとか、ジョーカーが本当にハーレイ・クインを助けるために行動していて全く狂っていない様に見えるとか、いろんな悪影響を及ぼしている。結果として、しみったれた小悪党という印象が拭えなかった。
 とは言え彼らは人間離れした能力があると言われており、そんなのが首の爆弾で何とかなるのかね。当然のようにジョーカーが解除しちゃうし……。
 この映画を撮るなら、前半の登場人物紹介を圧縮して、スーサイド・スクワッドの結成とそれが活躍する事件を1度挿入した後で、エンチャントレスの暴走を描かないとスーサイド・スクワッドの有効性やその危険性を観客に納得させられないぞ。

 それに対して映像はなかなか格好良い。が、上に書いたとおりストーリーがダメダメなので華やかな絵を切り貼りしたという印象が強かった。
 とりあえずアレだ、前からこのブログで書いていたと思うが、アクションシーンでスローモーションになるのはいい加減やめようよ。日本の昔の特撮とかで、決めシーンで3回リピートするのと同じダサさがあるよ。多少ハリウッドに慣れ親しんでる人なら多くの映画で見る技法なんだから、それも相まって失笑モノだよ。いや、もしかして歌舞伎の決めポーズみたいに様式美にするつもりなのだろうか。ハリウッド映画って歌舞伎と違ってリアルな絵面だから変な美学は持たないほうが……。
 と思うくらいに映像は美しい。特にジョーカーの見せ場はそれだけで1枚の絵になるほど凝った美しさがある。それだけにストーリー部分とのギャップが目立ってしまう。見てる最中にプロットのダメさを指摘できるのでどうしても映像だけが浮いちゃうんだよなー。


 良くも悪くも、ハリウッド的な観客に受けるノウハウを結集させた映画というイメージが強い。もちろん本当はどうだかわからない。もしかしたら制作陣は本気で新しい表現を生み出そうとしていたのかもしれない。でもできあがったのは「どっかで見た」という印象の強いものであり、この映画ならではの味付けはない。
 この映画の最大の問題点は、上記の問題を抱えているにも関わらず、金返せと怒鳴るほどひどいものではない(それどころか僕みたいに手間ひまかけて感想文を書こうと思えるくらいには楽しい映画だった。この感想文では不満点を述べているので悪印象が強いかもしれないが、普通に楽しめ……そしてこの「普通」が問題なのだ)ところだ。
 つまり、映画で面白さを与える公約数的な手法が確立されているということであり、それに従って映画を作ると単なる過去作のパロディにしかならないということ。具体的には、ちょっとした悪い奴らが亀裂を乗り越え世界を救う……それってガーディアンオブザ・ギャラクシーで見たよ! ……どこにでもある作品になってしまう。上でグチグチ指摘したように他の作品との差別化をする細部もあまり作り込まれていない印象を受ける。
 これでは映画という文化自体がジリ貧になってしまうと思うんだ。

2016年12月1日木曜日

「ペルーの異端審問」(フェルナンド・イワサキ、新評論、2016)

 面白い。え、これ、ノンフィクションという体のフィクションじゃなかったんだ。
 そう思えるほど自由奔放な奇人たちが描かれる。

 一般に異端審問というと、ガリレオだったりスペイン宗教裁判だったりと陰惨なものとして描かれがちで(もちろんこの作品でも裁かれた人は不幸な結末を迎えている)、その内容については二の次であった。
 この作品は暗いイメージの異端審問について、一部の極端な例かもしれないがとびっきり笑え、でも暗黒の時代でも動物的な衝動はあったのだとなぜか感動でき、さらに教会の権威が今より遥かに強かった時代にキリストと相思相愛だと言い張る女性が現れたりと不条理さにしんみりしてしまうような実際の裁判記録を小説として仕立て上げたものである。ちなみに欲情とか淫靡とか煽られてるけど、この作品自体はまったくエロスの欠片もありません。あくまで中世にも人間らしさはあったという題材として取り上げられたという印象を受けた。

 最初にノンフィクションという体のフィクション~と書いたけど、この作品は短編が十数話連なっており、それぞれの短編は小説というよりはルポルタージュに近い。教会が力を持っていた頃の変人をテーマにしており、会話文なんてほぼ出てこない。今の時代からしても変人度は高く、だから創作だろうと思っていたのだった(後書きを読むとどうも実際の裁判記録から構成したらしいので、その時点で本当にノンフィクションだと気付いた)。
 ある意味で、時代が時代だから単に異端として刑を受けたのだろう。現代でこんなことをしでかす人間がいたらマスコミが持ち上げて時の人にしてしまうんだろうな。
 意外と昔も今の人々とやってることは変わらないってことを知れてよかった。