2019年5月30日木曜日

「名探偵ピカチュウ」(ロブ・レターマン監督、ワーナー・ブラザース&レジェンダリー・エンターテインメント、2019)

 いやー、ポケモンもついに実写映画になるとは……。しかもかなりちゃんとした内容だったし。やはり全世界にファンがいる作品は珍妙なアレンジを加えられないので強いな、と改めて感じたのだ。

 ポケモンゲーム(特に初代=第一世代)のファン的には、出てくるポケモンが第一世代だけじゃないのが面白かった。内容とビジュアル的に対象年齢が高いと思ってたのでてっきり第一世代しかいないのかなーと思っていてびっくり。数は少ないけど、ちゃんとフェアリータイプも出てる! でも毒はゲンガーだけ、鋼タイプは出てこなかったと思うし、ドラゴンタイプも虫タイプ(Wikipedia)を見るとバチュルが出ていたらしい)も岩タイプも記憶にない。悪はヤンチャム親子とゲッコウガとニューラの群れがいたのに!(モブシーンちゃんと見ると岩タイプが映ってるかもしれないけど)。ところで、銅像みたいに鎮座してるゴルーグは絶対にゴーストタイプじゃないと確信した。ゴルーグは鋼・地面だよ。ゴルーグ、できれば空を飛んで欲しかったな……。

 ビジュアルの目玉はなんと言ってもピカチュウ。ピカチュウがもふもふしてて可愛い。ピカチュウだけじゃなくてカビゴンももふもふしててぬいぐるみみたいだし、フシギダネはカエルのような植物のような不思議な質感だけど可愛かった。毛を持たない連中はゼニガメやリザードンやギャラドスなど、それっぽかったと思う。
 とはいえ、リアルな汚れが足りない感じはした。町中が異様にクリーンではあるけど、ポケモンは(というかピカチュウは)裸で歩いているのだからもっと足元が汚れてて良いはずだ(もっといえば冒頭に出てくる野生のカラカラは全然野生っぽくない綺麗さだった)。ミニチュアペイントで汚れのないペイントの見本になった。そう考えて冷静に見てみると、ピカチュウ、リアル系のぬいぐるみレベルじゃない? いやもふもふしてて可愛いけど。
 ぶっちゃけ、ビジュアルの質としたらパシフィック・リムの衝撃を超えてはいない。可愛い可愛い言われてるピカチュウの表情の手法はジュエルペットシリーズで既出だし(人間は眉があって表情が出るけど、眉のない動物は目の周辺で皺を作って表現する、とジュエルペットサンシャインの設定本に書かれてたよ)、もっと昔から、もしかしたらディズニーあたりですでに開発されている手法かもしれない。
 そして絶対に我慢ができなかったのはダサいスローモーションアクションを使ってること(SATを参照)。スローモーションアクションは絶対に近年の映画をおもちゃっぽくしている原因なので、親の仇のごとく批判しなければならないと改めて決意した。しかも今作ではスローモーションになると音が(声が)低く引き伸ばされるのだ。三流バラエティ番組のギャグシーン? 正直、罵倒表現が思いつかないほどひどい。
 なお、今作で新たにもう1つダサいビジュアルのテスト方法を発見した。未知の強力なパワーが発動されて強敵感が出ると街を引きで映し衝撃波がブワッとなる。この表現を2019年にもなって使うのはもはや犯罪的ですらある。

 脚本は……うーん。脚本もそうだし設定も正直思ってたのより出来は良くない。見終わってからこのサイトを見たけど、うん、そうだよね、と思った。ミュウツーは素直に主人公のお父さんを助けてやれよとか、人間の魂をポケモンに入れる→人間の身体がなぜか消えるとか、その割に黒幕おじさんの身体は消さずに無防備だった(混乱の中バルーンが爆発してビルが倒れたらどうするつもりだったんだろ)とか、メタモンがいるなら黒幕の息子さんはさっさと殺しとくべきじゃなかったのでは?(なんで押し入れに放り込んだままだったんだろう) とか、そもそもお父さんの魂がピカチュウに入ったからと言って主人公だけがピカチュウと会話できる理由になってない(リアルで腹で感じたの?)とか、怪しい薬品「R」ってなくても話がまとまったのでは?(「R」の存在が主人公を物語に導入したのは確かだが、その割には「R」と物語の真相とのつなぎが雑というか……) とか設定のツッコミ所はたくさんある。
 また、名探偵だったのはCNMの女性記者(ヒロイン)で、主人公は彼女に引っ付いて偶然情報を得たり、黒幕おじさんから解説してもらったりと終始受け身だったのが残念(ヒロインに出会わなかったらお父さん助けられてないよね?)。そのくせヒロインは終盤出番がなく黒幕の息子さんの方がヒロイン感あってかわいそうだった。
 ついでに、ポケモンをリアルに、そして連れ歩きシステムにしたことで、ポケモンバトルが闘犬とか闘鶏みたいにインモラルな雰囲気になるかと思えばそんなことなかった。闘犬・闘鶏を批判する人には僕は反対だけど、監督はもうちょっと生き物をバトルさせることを批判的に描くべきだと思う(たとえポケモンのコンセプトにそぐわなくても)。

 文句を言うだけでは発展性がないので良いところを書いておくと2つある。
 まず何よりも、主人公がかわいい。ゲームのポケモンの主人公みたいなまっすぐでお上品なキャラで好感が持てる。この作品、主人公だけじゃなくて、冒頭の主人公の友達とか、黒幕の息子さんとか、男性(おっさんピカチュウ&お父さん除く)をすっごくかわいく撮ってて、それもあって女性陣の印象がイマイチ。一方、おっさんピカチュウは時々主人公に向けて女性の誘い方みたいな男同士のシモネタを話して、主人公から冷たくあしらわれるんだけど、これってお父さんがこんな品性ってことでしょう? 主人公、こんなお父さんとこれから暮らすんだ……。
 2つ目は、ポケモンの個体はあくまでいっぱいいる種族として描いていること。ピカチュウは相棒だけしか出てきてないけど、どこかの森に行けばいろんな性格のピカチュウに出会えるよう雰囲気がある。これは僕の勝手な考えだけど、日本の作品って主人公を特別な存在として描くのは得意なんだけど、何でもない有象無象の一人(でも主人公)として描くのが本当に下手だと感じている(繰り返すが僕が見ている範囲の話だ)。一方で、アメリカの作品は社会の歯車を社会の歯車としながら主役として描けるという感覚があり、それが今作のポケモンの描き方につながっているのではないかと思っている(繰り返すが僕の感覚の話だけど)。つまり世界の広がりをこの映画から感じることができて、それが受けたってことである。

 文句は書いたがとりあえずポケモンが実写化されただけでも満点を与えるべきか。今後のコンテンツ業界はこれと比べられるようになってしまい大変そうである。

2019年5月15日水曜日

「巨星 ピーター・ワッツ傑作選」(ピーター・ワッツ 著、嶋田洋一 訳、創元SF文庫、2019)

 初のピーター・ワッツ。原題を見ると「『島』と他の物語」なのに日本語訳では「巨星」が全面に押し出されている。この違いは何だろう、と思って読む。どの作品も最初のページに1ページ解説がついており、しかも結構深いところまで解説してくれている。この手の作品ごとの解説は訳者が連想したことを書いてお茶を濁すこともあるが、物語の終わりまで解説していてこれだけでも傑作の予感。
 トップバッターの「天使」は戦争用AIという人間とは異なる存在が知性を獲得していく様を、AIにフォーカスしつつも三人称形式で描く。AIにとって仲間は同じ戦闘兵器であり、時々メンテナンスする人間は甲羅を剥がして内蔵を弄るよくわからない存在とされている。AIの知性獲得というと、「ターミネーター」のスカイネットのように人間っぽい意識の誕生が思い浮かぶのだが、この作品ではあくまで条件付けと費用対効果計算による「意識」として描かれているのが面白い。攻撃しようとしたら計算結果が瞬間的に変わって撃つのにためらうシーンなど、シチュエーションは違えどみんな思い当たる節はあるだろう。最終的に暴走(人間視点で)するんだけど、AI的にはあくまで計算の結果であり、それがとてつもないことに繋がるのは現実のAIのブラックボックス化にも繋がる問題だと思う。
 「遊星からの物体Xの回想」は何が起きているのかわからなかった作品。「遊星からの物体X」見ればわかるらしい。うん、じゃあ別にわからなくて良いや。
 「神の目」は安全を保証するため脳に作用して期限付きだが不穏なことを考えられなくする装置に関するお話。実は因果関係は不明なものの、脳に影響を与えるので恒久的に人格が変わったケースもあることがわかったり、さらに脳を好ましく変えるということは今の瞬間考えていることがわかることでもあるため勝手にブラックリストに載る危険性があったりとこの装置の影響を丁寧に描いている。とはいえ、個人的には頭の中がわかってしまう世界で特定の性癖が蔑まれるってことはあるのかなと疑っている。この作品はそういう内面の自由について描いているが、本当に心の中が読み取れるなら心の中で考えていただけのことでこの作品のようになるとは思えないのだ。僕が楽観的すぎるのか?
 「乱雲」は雲が知性を持った世界でほそぼそと生き延びる人を描いた作品。その生活は風前の灯火であり、何が起きるわけでも何を行えるわけでもなく読者にその無力感を味あわせている。SF的には雲の思考についてだとか、アポカリプスな世界だとかに焦点が当てたいところだが、ひたすら絶望的な環境で生活する人間を描いただけの今作はそれはそれで面白い。
 「肉の言葉」は死んだ瞬間に何を考えているのかを研究する男の姿を描いた作品。読者の感情移入を拒み、何を考えているのかわからない男が作中の恋人の心を壊していく様子は鬼気迫るものがある。死の瞬間は何もないことに気付いた男がかりそめの慰めを見出したのが恋人の声色で喋る少し進化しただけのSiriっていうのも皮肉が効いている。
 「帰郷」も人間以外の知性のあり方を描いた作品。舞台設定が解説ページに書かれていて把握できたのだが、深海での作業を行うためにある種の人間が選ばれて改造を施されたらしい。そんな改造を受け深海に適応して蜥蜴のような存在になった元人間が、普通の人間に出会っても意に介さない様子を描いている。作品単体では設定がわからなかったので解説はありがたかった。「天使」みたいにひたすら人間蜥蜴の行動を描写してるだけだもの(人間蜥蜴は動物的な思考しか持ってないらしいので描写できる思考もないのだろう)。確かに人間以外の知性を描いてはいるものの、考え方がわかりやすい「天使」に比べると地味だし「だからどうした」で終わりそうな作品である。他の人間蜥蜴を出して社会性を持っていて人間に敵対するみたいなイベントがあれば面白くなったんだけどね。
 「炎のブランド」は植物(藻)に燃料を作る遺伝子改造を施したら、ウイルスなどによって人間にその遺伝子が感染してました(水平伝播)! というお話。人間自身が燃料を作ってしまうので、タバコを吸ったりしたら爆発するというショッキングな設定。それによりタバコを吸うということは安全な人の証明であるので、逆説的にタバコを吸うことが流行るという社会の変化。主人公はかつて遺伝子改造した企業と結託した行政にて人間が爆発する事件を闇に葬ってきた過去を持つ女性。今は遺伝子改造を行う企業に勤め、身をもって適応の神秘を体験していたという終わり方。うん、人間が爆発するというエンターテイメントさでごまかしてるけど、遺伝子組み換え食品を忌避するロジックで描かれた作品である。遺伝子組み換え食品に反対する人が掲げる理由の1つとして将来の影響がわからないことや人間に伝染る可能性を挙げたりしてるが、まさにこの作品の設定そのものであろう。水平伝播や寄生虫による思考の変化は理屈としてあるとは思うんだけど、人間に影響を及ぼすレベルなのか? と僕は思う。お話は派手で面白いが、ラストの主人公の露悪さも含め、単なる反遺伝子改良の主張でしかないと感じた。
 「付随的被害」は装着者の無意識に作用して意識に上る前に行動、つまり攻撃、してしまうサイボーグ技術についての作品。つまりは自由意志についてだ。……と思ってたら、自由意志を越えてトロッコ問題のような道徳や倫理の問題まで踏み込んだ作品だった。すごい。単に、無意識を反映してしまう殺人装置に関して、装置が悪いのか/無意識のせいだから装着者は無罪なのか/無意識でもそう思ってた人(=意識)が悪いとするのか的な議論だけではない。もちろんこの議論は近年の自動運転みたいなシステムにも関わってくるので面白いのだ。法律論的ではあるが。しかしこの作品はさらにそんな殺人装置に装着者を冷静にさせる機能を持たせ、「冷静」に「倫理」的に振る舞わせてしまう! その結果は本書を読んでのお楽しみ。ところで、出てくる技術が現実の延長だからか、シチュエーションがわかりやすかった。
 「ホットショット」からは同じ世界観を元にした三部作。遺伝子操作と教育付けによってある目的を果たすために作られた人間を主人公とし、自由に行動させてるふりをしてその実牢獄のような世界に反発しつつ、本当の自由意志を求める様を描いた物語。色々書かれてるけど、結局は自由意志なのだ。正直、意志についてのお話もそろそろ飽きてくる頃なので、半ばあくびをしながら読んでいた。
 「巨星」は「ホットショット」から登場人物を変えて、星間宇宙船が巨大な恒星とぶつかる危機を描いている。ゃんとした出来事があってキャラクターも類型的だったので、むしろ他2作よりわかりやすかった。主人公の1人は宇宙船を支配するコンピューターとつながっている人間で、もう1人はコンピューターに反乱しようとした人間という対比がわかりやすい。この作品もテーマは自由意志なのだが、このようなコントラストが効いた人物が宇宙船の危機に立ち向かおうとするストーリーなので面白く読めた。本当に主人公が自由意志を持っているか否かについては、持ってないんだろうな、と僕は考える。
 「」を読む頃は飽きてしまった。せっかく宇宙だの異星人だのスーパーテクノロジーだのがあるのに個人の意志についてチマチマ考えるのってつまらなくない? この作家はでっかいSFギミックより「天使」や「付随的被害」みたいなリアルな設定を積み重ねる作品のほうが良さそう。

 というわけで、遅ればせながら感想文が書き上がった。好みに合わない作品もあったが、全体的には面白いと思う。

2019年5月14日火曜日

「みならいディーバ」(石ダテコー太郎監督、ヤオヨロズ製作、2014)

参考:みならいディーバイベントに行ってきた
こちらも:ひもてはうす感想


 再度見直してたが、やはりこれはすごいと思った。モーションキャプチャーによる生放送アニメ、視聴者参加型、リアルタイムで歌詞付け、など演者だけでなくスタッフやオーディエンスも巻き込んで生アニメを作っていた。はっきり言って、リアルタイムで視聴していないとこの凄さはわからないと思う。今は22/7計算中みたいにモーションキャプチャーアニメが普通にある。2014年にこの技術を用いて、しかもその動きをアニメとして放送して、1時間かけて1つの曲を作って歌う。今から考えると視聴者が少なかったらどうしてたんだろうと思う。
 正直僕は、この作品で音楽アニメを学んでしまったので、普通の音楽アニメをつまらなく感じるようになってしまった。その場のノリで歌詞を付け、1発で歌う。すごい。
 もちろん欠点はあるというか、今アニメを見返すとすっごくつまらない。コメントのあるニコニコ動画で、さらにリアルタイムでしか見れる作品ではない。というか、「アニメ」らしさを期待しているならこの作品は見るべきじゃないだろう。ただ、本当の視聴者参加、生放送という今でもめったに見られないものを高品質(というかこれ以外ないから品質を比べようがないし)でやり遂げたこの作品は、波長が合えば見るべきだろう。減点方式だと無残な点数になるが、加点方式だとここ数年では最高傑作になる作品。

 ……アニメ内で流れたバージョンの曲を早く売り出してください。今更出ないと思うけど!

「通し狂言 妹背山婦女庭訓」

https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2019/5124.html
 ちょくちょく文楽は鑑賞していたが、先日初めて1日まるごと文楽に費やした。座り続けてるの、さすがに疲れたぜい。
 この作品を見て驚くのは、舞台が飛鳥時代(大化の改新頃)のはずなのに、考え方や風俗習慣が完全に江戸時代であること。天智天皇や蘇我入鹿はお公家さんっぽい服を着ているが、彼らの部下は侍だよね……? そういえば武家とか大名の娘とか言ってた気がする。江戸時代の庶民がそもそも貴族の服や飛鳥時代のことをどれくらい知っていたのだろう? 最初は庶民に親しみを持ってもらうため、わざと江戸時代に寄せているのだろうと思っていたが、考えてみるともしかしたら庶民も江戸時代の延長でしか想像できなかったのかもしれない。

 ストーリーは天皇の地位を狙う蘇我入鹿と、それに対抗する藤原鎌足勢の争いといったところか。蘇我入鹿はまるで魔王のように描かれ、滅するために超常のアイテムが必要なほど。それを得るために男女の悲恋が絡み、ついに藤原鎌足はそれを用いて蘇我入鹿を打ち倒す、らしい。今回演じられたのは蘇我入鹿を倒す必殺笛を手に入れたところまでで、倒すのは割愛されてた。
 一段と三段、二段と四段がそれぞれストーリー的に対になっており、特定のキャラクターに感情移入して観るとストーリーがぶつ切りになるが、この作品は群像劇的に観るのが正解なのだろう。キャラクターも二段で重要な役割だった人がその後出てこなかったりと、現代の小説などとは大きく違う作りである。
 対といえば、三段の妹山背山の対比は見事。仲が悪い2つの家を舞台にした男女の悲恋なのだが、男女で交互に物語が進み、最終的に悲劇の合唱になる。クライマックスの太夫の合唱は本当にすごかった。半日くらいかけて物語を進めてきたからこそ観客も心を動かされるわけで、通しで見て良かった。
 道中恋苧環は三味線五人囃子で豪華。

 それにしても、江戸時代の人って名誉と義理を大事にして死ぬことを喜ぶけど、一応子を失った悲しみは感じてるんだね。物語的に妹山背山にしても三輪にしても、主人公各の人を殺すのは当時の人々が可哀そうフェチだったからとかなのだろうか。死の感覚が現代とはまるで異なっており、三輪の最期にしても、入鹿を倒す手段になるから喜べとか、喜べないよ。それで妹山背山では死んだ後で悲しみの合唱を行うのだからマッチポンプみたいに思えた。本当、当時に生まれなくて良かった。

 その他、何となく身分の感覚がない。町娘に過ぎない三輪が蘇我入鹿を知ってたり、一般市民に身をやつした武士のパターンが多い。なんか面白い。

 頑張って一日作って見てよかったと思う。面白いとか楽しいとかではなく、江戸時代の人々の感覚が体感できた。こういうのを見て笑ってたんだ、ってわかった。何度か繰り返し書いたが、現代とは感覚が異なっており、ストーリーに入り込めない部分も多々あったが、それも含めて日本の文化とはこういうものだと知るのは良いことである。そして、この作品で書かれたプライドやら名誉やらの少なくない部分は現代にも受け継がれてるんだろうな……。

2019年4月3日水曜日

Beastclaw Raiders設定メモ(FANDOM翻訳)

翻訳元:Beastclaw Raiders

 ビーストクロウ・レイダーズ……というか、AoSの情報自体が日本語では少ないので訳してみた。公式サイトではないが、出典が書かれているのである程度正確性は担保できてるのではないかな。




FANDOM翻訳Beastclaw Raiders

モンスターみたいなオゴールの遊牧民部族であるビーストクロウ・レイダーズは暗い月と死の季節の前触れである。太陽が隠れ冬の風が空から吹くとき定命の者は神に救済を祈るーなぜなら貪欲な軍勢が這い寄ってくる氷と雪の時期の到来であるからだ。

 常に腹ペコなビーストクロウ・レイダーズは巨獣の上から奴らの進む道にあるものを破壊し略奪する。灰色の降雪と風の唸り声が奴らと共に来る。そして奴らの目覚めの跡は割れた氷と凍った骨でできた瓦礫の山の他には何も残らない。奴らは国土のためには戦わないし、皇帝のためにも神の栄光のためにも戦わない。奴らは次のメシしか考えていない。

 ビーストクロウ・レイダーズのオゴールは空腹の絶頂と普通の人の2倍くらいある背丈を持った激しい気性を持ち、分厚い筋肉に包まれている。最も小柄な連中でも、その筋肉はフリーギルドの剣士やオルクやブラッドハウンド戦士6人分くらいはあり、肉に覆われた片手でもってオゴールはオルクの頭をぶっ潰し、ドラコスから命をふっとばす。筋肉は弾力に富み、鎧はほとんど必要ない。十分な防御を誇る。

 放浪している軍勢であるビーストクロウ・レイダーズはアルフロスタンとして知られる。それは部族の中でも最も歳を取り、もっとも強い存在であるフロストロードによって率いられる。狡猾で空腹の族長であるフロストロードは配下のデカいモーンファング、マンモスのストーンホーン、霜の竜巻を放つサンダータスクと共にモータルレルムを横切り獲物に這い寄る。そんなモンスターが目覚める間、他のクリーチャーがアルフロスタンによる超常の寒さと獲物に惹かれ姿を見せる。唸り声を上げるフロストサーベルと野蛮なアイスフォールイエティだ。

 しかしオゴールと使役する巨獣のデカさと強さのため、奴らの後ろから吹く全てを破壊する魔力の吹雪でもある冬の風のため、奴らは常に移動し続けねばならない。常冬としてオゴールの間で知られ、Wyrdwind Stormやゴルカモルカの息やFrostfreyr Marchなど様々な領域で色々な名前を持つ。アルフロスタンは最初の突風でアドバンテージを得るがグズグズその場にいたら長くは生きられない吹雪の端で狩りをする。

1.歴史(History)

1.1 終わりなき狩り(An endless hunt)
 永久の冬と苦しい飢えはビーストクロウ・レイダーズを富んだ狩場に追いやった。オゴールは横切った地域を荒らし、大地を氷で覆う常冬の風が来る前に取れるだけ食料を取って廃墟しか残さない。永久に新しい獲物を探すことがビーストクロウ・レイダーズの運命で、一方、犠牲者は貪り喰われるのが運命なのだ。しかし昔からそうだったわけではなく、奴らの大昔は伝説として語り継がれ、ビーストクロウ・レイダーズは最初のアルフロスタンとそれが生まれたことによるビーストクロウ・レイダーズの略奪を今だに語り継いでいる。大昔、オゴールたちはゴルカモルカの軍勢における優秀な狩人であり追跡者であった。ゴルカモルカに召集される戦いの前のビーストクロウ・レイダーズには色々な言い伝えがある。Riftwyrd Crossingで彼らは城壁橋を襲撃した最初の戦士だった。ストーンホーンとサンダータスクが素晴らしきStormironの道を破壊しSilver Valesへの道を切り開く中、モーンファング騎兵はデュアーディンの包囲兵器を突破した。Spiritstorm Downpourの最中、ビーストクロウ・レイダーズ部隊はDeathsong Queenの墓地の帆を引きずり落とした。オゴールの残虐な襲撃は女王の精神網を打ち砕き、彼女が指揮するNighthaunt軍の霊エネルギーを奪い取った。長らく、伝説によると、ゴルカモルカの良い戦士であり、彼らの報酬は戦い相手と肉の山だった。

 ある人は、ゴルカモルカを裏切り最初に常冬の罰を受けたのはは最初のフロストロードであるBaergut Vosjarlだと語った。またある人はビーストクロウ・レイダーズに過度な大食いの呪いをかけたのはシグマー(オゴールによる犠牲を拒否するため冬の嵐を作った神王)だったと主張する。ビーストクロウ・レイダーズは死ぬような寒さから逃げることを学んだ。オゴールたちがいかにしてShyishのIcefell Vaultsを開け、ナガッシュが作った牢獄から冬の神々の封印を解いたかの伝説もある。The tales claim that these fell creatures follow the ogors still, granting their saviours the gift of endless cold, the greatest prize they can bestow.最初のアルフロスタン誕生のの影に物語はたくさんあり、それぞれの部族は自分たちの先祖が勝った理由を思い出す。しかし彼らは皆、神の意志により常冬の嵐がビーストクロウ・レイダーズを追いかけ、彼らは永遠に領域をさまようよう運命付けられることを受け入れている。

アルフロスタンの到来を誤ることはない。常冬の嵐による凍った突風の一撃が国土を襲い、人間たちに黄昏の時を告げる。気温が下がり木々は枯れる。川の流れは途切れ雪雲が太陽を隠す。これがビーストクロウ・レイダーズがもたらした呪われた狩場だ。これら超自然の雪と唸る風の中から、荷場が略奪した肉で重くなるまでタガが外れた様に殺しまくるオゴール騎兵が現れる。彼らが獲物にする人々には腐肉の欠片も含めて何も残らない。戦いによる激しい破壊がほぼ全ての文明を瓦礫に化したところですら、確実にアルフロスタンが残した凍った荒涼になる。残酷な君主、貪欲な君主、暗黒の神々の影響を受けた王国では虐殺の余波の中でもなんとか生活を維持している。しかしビーストクロウ・レイダーズによって破壊された場所はそうはならない。瓦礫と凍った死体でいっぱいの霜で覆われた墓地と完全に呪われた荒れ地となり、全ては溶けるのに何世紀もかかるような呪われた雪の一面に埋葬される。

 多くの場所で儀式が行われたりオゴールを慰めている。たくさんの人々がビーストクロウ・レイダーズを適切な供え物を作れば土地を見逃してくれるという希望のある悪魔や意地悪な神と扱っている。生贄が檻に吊るされ、肉が山に運ばれ杭に刺されるが、全ては襲撃者をなだめるための無駄な試みでしかない。冷たい風が強く吹く時、固まった将軍たちはマントを引き締め地平線を見る。大勢の軍隊や君主ですらオゴールや常冬の嵐の餌食になる。ビーストクロウ・レイダーズは常に嵐の端に潜む脅威で、冬と戦争によって弱った人々を食い物にする無慈悲な略奪種族だ。

1.2 略奪者の王(The Lord of Predators)
 オゴールはゴルカモルカの凶暴な飢餓と強さに自分自身を投影している。破壊の神のように、奴らはデカさと筋肉がとてつもなく、大地を横切り獲物を降ろし、肉の塊をガバガバの胃袋に詰め込む。ビーストクロウ・レイダーズにとって野蛮な神は自然の脅威として奴らの周りに存在する。風が吹いたり大地が揺れる時、これこそがゴルカモルカの御業だ。ゴルカモルカはビーストクロウ・レイダーズを追う常冬の嵐でもある。部族の信仰のリーダーでもあるTorrbadのハスカルドはこのような寒さの中で神に語りかけ、しばしば山の風と交わり凍ったモンスターの道の中で未来を読む。

ビーストクロウ・レイダーズはゴルカモルカを冬と獣の神とみなすが、ゴルカモルカのための神殿は作らない。獲物の骨を捧げたり大宴会の場所を付ける時は、部族はHeng Stoneを作り上げるだろう。これらの氷の一枚岩の破片はオゴールのルーンとゴルカモルカの顔を刻まれた墓で、アルフロスタンが去った後に残される数少ないものの1つである。

  凍った風がビーストクロウ・レイダーズの敵を襲う時、ゴルカモルカはオゴールに満足する。しかし彼の好意はすぐに変わるかもしれない。敵をもたつかせたやすく殺す雪が食料を残さず全ての生命を一掃しながら深く成長するかもしれない。襲撃の前にビーストクロウ・レイダーズの部族は神に捧げ物をする。ゴルカモルカの顔を上に乗せ骨と石で覆われたSvogorkの柱は部族の知っている最高峰に飾られる。力を持った生き物、崇高なる王、悪名高い将軍が奴らに襲われるのだ。これらの捧げ物は宴会で最高の肉を表し、腹ペコの神に捧げられる。これはオゴールが捕らえた者を要求する霜を許す代わりに肉から離れる貴重な機会の1つである

 もう1つの儀式は2以上の部族が偶然行き先が同じ時演じられるAlarokがあり、おそらく同じ獲物に引き寄せられるのだろう。このようにアルフロスタンが出くわすのは不吉なことだと考えられるので、ゴルカモルカへの捧げ物が必須になる。儀式の一環として、強い獣と戦い倒さなければならない。その後、2つの部族は双方とも1つの死体に並んで食物を与えつつその肉を貪る。殺戮できるものががなくなったときだけ、ゴルカモルカへの義務を完全に果たしアルフロスタンは移動する。長い遊牧の旅の道が交わった時やゴルカモルカからの兆しが領域の特定の場所に惹きつける時、アルフロスタンもまた意図的に出会う。そのような邂逅はVosok Torr(幾多もの土地を破壊するための部族間の同盟)または”偉大な邂逅”として知られる。これらのときに、様々な部族の常冬の嵐が合体し、フロストロードたちは素晴らしい仕事の前夜にごちそうをシェアする。めったにないことだが、国や軍の命運の知らせである。叙事詩的調和の嵐が始まる時Vosok Torrが狩りに出ると、捕食神を祝福することとなる。

 ビーストクロウ・レイダーズのゴルカモルカへの崇拝もまた、ゴルカモルカを崇拝する多くのものと結びつき、そしてアルフロスタンが他のオゴール部族と戦うのは珍しいことではない。ガットバスターは普段ビーストクロウ・レイダーズと同盟関係にあるが、奴らのもたらす激しい寒さを警戒している。グロットとオルクもまた目的が同じならビーストクロウ・レイダーズと共に戦う。より良い食べ物が提供されなければアルフロスタンはグリーンスキンに襲いかからない。しかしボーンスプリッターはビーストクロウ・レイダーズと獲物をめぐり対立関係にあるため仲が悪い。

 「ゴルクの拳」として知られるゴルドラックの出現はとてつもない数のアルフロスタンを引きつけた。たくさんのビーストクロウ・レイダーズがゴルドラックの所行にゴルカモルカの意志を見出し、無限の獲物の約束によって魅了される。他の奴らは他の好戦的な連中のようにゴルドラックが体重を投げかけながら、ゴルドラックを単なるアイアンジョウのリーダーと見ている。それでもなお、まるでゴルカモルカ自身がゴルドラックの名前をビーストクロウ・レイダーズに囁いているかのごとく、ゴルドラックの出現は数百ものアルフロスタンが狩りの道を変えるのを見て、Torrbadのハスカルドですら風の中で変化をささやく。

1.3 常冬の嵐(The Everwinter)
 まるで神ゴルカモルカが背後から冷たい二筋の突風を吹き付けるかのように、凍った影がビーストクロウ・レイダーズにくっつく。彼らは死の冷たさを永遠に避けようとしながら嵐の端に乗る。ここは凍った荒涼と氷河の嵐の間の先端で、常冬の嵐はいつも突然の激しい吹雪と雪の風として現れる。しかし各アルフロスタンの冬は彼らが通ってきた大地やフロストロードに応じて異なる姿を取るだろう。Fraya部族は敵をホワイトアウトさせる凍った霧に包まれる。一方、Sovanheng部族の到来はあまりに寒いため空気が青い空の下で凍るくらいの澄んだ寒さによって告げられる。Olgost部族の襲撃に続く風はCryptwyrd砂漠の遺産で、その磨かれた突風は常冬の嵐の先端を凍った砂嵐に変える。

 常冬がどんな姿をとっても、ビーストクロウ・レイダーズは常冬の嵐に免疫があるわけではないので注意を払う必要がある。厚い筋肉と脂肪の層は奴らの体温を保つが、奴らは霜で覆われた世界にずっと澄んでいる。新鮮な獲物は奴らの腹を温め、強さを保つが、それもわずかな間だけ。すぐに奴らは凍えないよう移動せざるを得なくなる。アルフロスタンが寒さに打ち負かされたという警告の物語がある。オゴールたちは動きが遅くなり、奴らが移動を完全にやめるまでに奴らの肌を覆った分厚くなる氷の層は奴らを氷の荒れ地に生えた輝く像に変える。賢い長老たちは怒る神の息吹によってアルフロスタンが氷になるのを見つめる人々に語りながら氷河と氷の柱の荒れ果てた土地を指す。ビーストクロウ・レイダーズの冷気が取り囲むため、旅人たちはバカでも自暴自棄でもない限りこのような地に迷い込まない。不用心な人はこのような運命のオゴールに加わってしまったり、もっと悪ければ開放してしまう。

 常冬の嵐の寒さと同じように、実際にはオゴールを殺すことはできない。何世紀もあるいはそれ以上凍りついているかもしれないが、ビーストクロウ・レイダーズは寒さでは死なない。その間オゴールたちは、獲物を夢見ながら空腹が胃をかじっているが、眠っている。凍ったアルフロスタンを溶かすのは大抵の場合戦いの熱気である。雪に埋まったオゴールの周りにこぼれ、吹き出し、投げつけられた新鮮な血が、魔術の炎が、オゴールたちを牢獄から完全に開放できる。氷の枷から解かれ、オゴールたちは最も近くの獲物に襲いかかり引き裂く。冬眠が長ければ長いほど、アルフロスタンは自身を峡谷にする必要が多くなり、その前に全ての王国は消え去るかもしれない。オゴールが開放されるとすぐ、嵐の雲が部族の上で渦を巻くため、食べなければいけないだけでなく乗らなければならない。それは、もう一度奴らが氷の牢獄から抜け出せたとしても冬が奴らの戻りを待ち構えていることを思い出させるのだ。

1.4 領域のビーストクロウ・レイダーズ(Raiders of the Realms)
 アルフロスタンは全領域で戦争をする。各部族は奇妙な土地や腐った部族、血に飢えた軍隊を抜けて行く先々を襲撃し略奪する。何世紀にも渡りビーストクロウ・レイダーズのオゴールたちはモータルレルムに広がった。一握りのアルフロスタンから、奴らは成長し数えきれないほどの襲撃部隊に何回も分かれた。一部の部族はその旅路で生きとし生けるものを細切れにする小規模の遊牧狩猟民かもしれない。その他は巨大な集団で、その部隊は地平線に広がる。大小に関わらず、ビーストクロウ・レイダーズの襲撃は挑発や慈悲がない。広大な敵の軍隊は野蛮で凶暴な部族にとってオゴールたちが殺し貪欲に食い尽くす獲物でしかない。

 ビーストクロウ・レイダーズは肉に関して広く知れ渡っており、犠牲者が隠れようとする場所はどこでも探し出す。Aqshyではたくさんの数のアルフロスタンが古のデュアーディンのレルムロードに入る表面を見放した。

 このことが進行中、それらのアルフロスタンは奴らの合体した常冬の嵐が火山の麓を冷やした一方で、スケイブンとファイアスレイヤーを食べて太った。上記の王国では、地下のオゴールの侵攻が明滅するカルデラの明かりのように徴付けられた。Ghyranではビーストクロウ・レイダーズは、シルバネスとナーグルの手先をごちそうとして、Jade Kingdomsの谷と森の中を狩りした。多くのアルフロスタンは、ツリーロードアンシェントの自然の質感やドライアドの新鮮な味に関する渇望の発達により、シルバネスのハートウッドに関する味覚を獲得する。アルフロスタンはそんな長い死体を食べることについて嫌ではない。新鮮な肉を好むものの、オゴールの特筆すべき体質は腐った肉や古代の骨すらも十分な食事に変えるところだ。Shyish Nightlandsの広大な闇の中、ビーストクロウ・レイダーズはゾンビの群れやフレッシュイーターコーツをごちそうにした。ナガッシュはビーストクロウ・レイダーズの部族を特に嫌っている。戦争は通常死の神からの贈り物で、その働きにより死の軍はより強大になる。オゴールたちが大地や王国を破壊した時奴らが戦場に命を吹き込めるものを何も残さないことはナガッシュと配下の将軍たちを不愉快にする。

 ガットバスターのオゴールたちとは異なり、ビーストクロウ・レイダーズは自分の血縁を大切にしない。なぜなら奴らは常冬の嵐が奴らの死に際に体を主張し、その嵐を否定することで蛮行の義務が発生すると信じているからだ。その間、ディーモンや幽霊やセラフォンのような魔術を起源とする生き物は、その霊的な肉体が何の満腹感も与えなく、そしてしばしばビーストクロウ・レイダーズがやってくる前に狩りができそうな土地を台無しにするので長い間アルフロスタンの敵であった。それからストームキャストエターナルもいる。当初、シグマーの戦士たちはアルフロスタンにとって混乱の元であった。なぜなら彼らは獲物の香りがしたがその肉体は死の瞬間に消えてしまうためだ。しかしオゴールたちは、ストームキャストが獲物を隠すことを強要する野火みたいなことをすぐに学んだ。そのためアルフロスタンは熱心にその目覚めで残された大虐殺に続く。

1.5 氷と雪の時代(Ages of Ice and Snow)
 虐殺の世紀はビーストクロウ・レイダーズをモータルレルムを横断する長い旅へと追いやった。ビーストクロウ・レイダーズと彼らの乗り物の大声が聞こえる場所はどこでもすぐに破壊がやってきて、他の土地は常冬の嵐に屈する。

  • 最初のアルフロスタン 伝説の時代、Baergut Vosjarlと彼の部族が最初のアルフロスタンとなった。何世紀もの間、彼らはゴルカモルカの軍勢で斥候と追跡の精鋭として戦った。この時、最初の常冬の嵐がビーストクロウ・レイダーズを襲った。Vosjarlの戦士たちは今は古きフロストロードとしていまだ世界中をさまよっていると言われている。
  • 冷たく結ばれた兄弟関係 ビーストクロウ・レイダーズとファイアスレイヤーの報酬目当ての一座は冬の風が進みur-goldルーンを求めてスケイブンのLost Realmroadを一掃した。
  • 終わりなき進軍 Olgost部族はCryptwyrd Plateauで姿を消した。長年の狩りでCryptwyrdの影人はOlgost部族が、過酷な荒れ地の風によって毛皮がほとんどなくなったストーンホーンの行進に変わっているのを見た。
  • 冬の戦士たち TorrbadのハスカルドAsgerはリーダーがティーンチアルカナイツに殺された後のJarkan部族のフロストロードになった。アルフロスタンの常冬の嵐と融合した変化の魔術と魔術的な寒さがAsgerの肉と血、彼の戦士と獣に働きかけ、オゴールの肉とその騎馬の皮を氷河のような青に変えた。歩くたびに奴らの皮膚から剥がれ落ちる急速に作られる霜の層によって、アルフロスタンは新しい獲物を探す旅に出た。
  • 嵐と雪 Gilt Realmgatesの戦いの中、Cerulean CometsストームホストはHeroth部族と共に戦った。オゴールはストームキャストの支援の中戦ったが、その同盟は霜のオーラによってその後ずっと輪になった(?)。
  • 長き狩り フロストサーベルとイエティがChamonのTwelfth Lantic Empireの破壊をもたらしたアイスブロウハンターのSkal。何十年もの間冬の怪物たちは注意深く人間の王国を粉々にして襲撃し殺した。
  • 偉大な邂逅 スカイファング山ChamonのCloudblight Wastesから屹立した頃、様々な領域からビーストクロウ・レイダーズの部族を惹きつけた。魔術的峰の影で、常冬の嵐が吹きすさぶ中、肉を分け与えるために12ほどのフロストロードが集った。ゴルカモルカへの捧げ物の後、オゴールの族長たちは巨大なVosok Torr(幾多もの土地を破壊するための部族間の同盟)を形成した
  • 死の寒さ Horfarg部族がGrimskullオルクとCinderlandsの熱地で戦った時、グリーンスキンによって殺された人々の魂はナイトホーントの悪意がオゴールの側で戦うまでビーストクロウ・レイダーズの目覚めの中の冷たい世界へ引き寄せられた。
  • Sjy Roadsの狩人 Chamonの上空でOlwyr部族はSky Roadsとして知られる浮遊橋の格子を旅していた。奴らはがらくたの海賊たちと翼を持つ獣人を彼らを殺すことで脂肪を増やしながら捕食した。しかし、細い橋が意味するのはストーンホーンやサンダータスクを安全に操れるのは最も習熟した乗り手だけということなので、奴らの部族はモーンファング騎兵を集わせた。
  • アイアンジョウとビーストクロウ Manticore Realmgateを取り巻くDreadholdを倒すため、アイアンジョウのメガボスGrakgobはSvard部族と安心できない協定を結んだ。ケイオスの守り手はモーンファング騎兵の軍団とゴアグランタの集団の前で、突撃の轟音を奏でる大地が揺れる中、敗れ去った。
  • ケイオスの傭兵 Vintrbad部族はアーケイオンの軍勢で戦った。傭兵オゴールたちはヘルフォージ金属を拾い集め、ゴルカモルカへの本来果たすべき忠誠が消えてないのに鎧を悪魔のシンボルでペイントした。
  • 凍った稲妻 BraggothのSvard部族はストームホストの到来により氷から開放された。オゴールたちはすぐさまストームキャストを攻撃した。
  • ゴルクの拳 ゴルドラックは獣の領域に現れ、生きとし生けるものはその強さに震えた。かのアイアンジョウのメガボスはとんでもない数の戦士を広がる「戦だ!」に引き連れた。その中には数百ものビーストクロウ・レイダーズの部族もいた。戦いの中、ビーストクロウ・レイダーズは事態がより暴力的になったときオルクを食べる良い言い訳を確保するためゴルカモルカはオルクよりオゴールを寵愛したと言い立ててわざとグリーンスキン共を怒らせた。






2.ビーストクロウ・レイダーズの象形文字(Mark of the Beastclaws)

省略

3.ビーストクロウ・レイダーズのアルフロスタン(部族=部隊構成)(Beastclaws Alfrostuns)

どのビーストクロウ・レイダーズのオゴールも部族が生き延びるための役割を持つ。その中でも最も重要な役割はハスカルドが担っている。ビーストクロウ・レイダーズのオゴールたちを指揮する力を認められた強力なストーンホーンやサンダータスクにまたがる戦士や狩人たちだ。ハスカルドたちはその部族のヒエラルキーの中でフロストロードのすぐ下の位置にいる。伝統的に、フロストロードはどのハスカルドが次の狩りでJorlbadとEurlbadを指揮するか決める。指揮できる資格は戦いごとに、誰が以前の部族で重要だったかに応じて変わる。各々のハスカルドは彼らが率いるJorlbadやEurlbadを構成する部隊を、自分たちが選ばれたのと同じように選ぶ。彼らが獲物より強いと証明している間だけ前衛の中で最も強いと認められるのだ。
 Jorlbadは部族の最も名声のある部隊だ。戦闘部隊(Fighting Hand)として知られ、部族で分配されたライオンの肉にありつける。Jorlbadのハスカルドは大抵の場合、フロストロードを除いた部族メンバーの中で最も熟練した戦士である。JorlbadがEurlbad(狩猟部隊Eating Handとして知られる)を引き連れる。名声が多少少なくてもそのEurlbandの役割はJorlbadに比べ少しも軽くはない。Eurlbadは部族の前衛によって駆け抜けられた土地を守るために激しく戦う。その牙はどんな抵抗も粉砕し、肉と変える。それぞれの異なる役割にも関わらず、JorlbadとEurlbadの構成は似ている。それぞれストーンホーンにまたがったハスカルドによって率いられるだろう。ハスカルドの隣はThegnと呼ばれるストーンホーン騎兵が守り精鋭部隊を構成する。それを受けてSklagと呼ばれる隊長に率いられるモーンファング騎兵部隊がいる。モーンファング騎兵部隊の規模は部族によって異なり、いくつかのJorlbadとEurlbadは一人のハスカルドと片手で収まる数のモーンファング騎兵しかいない一方で、ストーンホーンとモーンファングを大量に集めたJorlbadやEurlbadもある。
 Torrbadは部族の中で独特の役割を持つ。TorrbadのハスカルドはJorlbadやEurlbadのハスカルドと異なりシャーマン的な役割を担い、Torrbadを指揮するとき死のみを待つ。部族のサンダータスクによって構成され、Torrbadは冬の伝令官であり、フロストロードは敵にたいしてその凍える能力を用いる。その木枯らしはアイスフォールイエティのような冬の生命を引き連れTorrbadとして戦いに臨む。
 主な戦闘部隊を越え、部族の端っこにいるのはSkalである。フロストロードに直接報告することでSkalは部族を獲物いっぱいの土地へ案内する。Skalを構成するアイスブロウハンターは大きな自治権を持っている。アイスブロウハンターの直感を信頼する代わりに、フロストロードが直接命令を下すのはめったにない。

 全てではないにしろ、ほとんどの部族は1つのJorlbad、1つのEurlbad、1つのTorrbad、1つのSkalで構成される。一部の部族はストーンホーン騎兵のみによって構成され、一部の部族はTorrbadのハスカルドによって支配されたようにサンダータスクとイエティによって構成される。それから戦争や常冬の嵐によってメンバーがバラバラになった部族もあり、モーンファング騎兵が孤独にさまよっていたり、フロストロードを見失ったアイスブロウハンター部隊だけがあったりもする。

4.有名なアルフロスタン(Known Alfrostuns)

Ayroth:Ayroth部族はGordrakkの「戦だ!」の恐ろしい熱気に当てられた。フロストロードであるHrothgurと配下のオゴール戦士たちはその目にオルクの狂気を宿す。
Fraya:Ayroth部族は凍った霧をまといScarlandsを横切る。戦士も巨獣も幽霊のよう。殺して食って、消える。
Heroth:記載なし
Horfarg:記載なし
Jarkan:Jarkan部族は常冬の風を操れると言われている。ミステリアスなフロストロードは嵐と会話する者として、風の中でゴルクの声を聞いたという逸話によってのみ知られている、。
Olgost:Cryptwyrdの荒廃の砂嵐によって傷跡を残し、Olgostは重く屍肉を食うストーンホーンを飼うボロ服と骨に身を包んだ野蛮な砂漠の遊牧民である。
Olwyr:Olwyr部族はスカイロードの恐ろしい化学的稲妻の嵐に触られた。雪が舞う中で奴らの電気的な常冬の風のチラチラだ。
Sovanheng:フィスト・オブ・ウインターとしても知られるSovanheng部族はフロストロードであるVorgrun Losharによって率いられる。Losharは生命の領域でのナーグルやシルヴァネスとの永い戦いでの古参兵でもあり、双方の側につく恥知らずの傭兵として名声を稼いできた。しばしば同じような戦いの道筋をたどって。事実、LosharはGhyranの運命について気にせず、どんな者でも最も多くの肉をくれる者のために戦う。Jade王国では奴らは食ったシルヴァネスの数からSplinterguts(木片オゴール)としてしられる。
Svard:激しいストーム・オブ・シグマーは領域をまたいで吹き飛ばした。改められた同名と神の覚醒の中で、Svard部族のオゴール戦士たちは奮起した。千年前、神話の時代、フロストロードであるBraggoth Vardrukと配下のオゴールたちはゴルカモルカの凶暴な軍団の中で戦った。その失われた日々の中で伝説の時代に奴らはおとぎ話で語り継がれるGhurのGolden Hunting Ground(ビーストクロウ・レイダーズの腹を満たせるほど広いといくつもの噂を持つ大地)を探した。不運と魔法使いの裏切りはBraggothに魔法の嵐を引き起こさせ、奴は何千年も凍りついた。近年、シグマーの嵐の雷がSkyblind Tundraと呼ばれるBraggothの氷の牢屋を壊し、Svard部族は再びモータルレルムに現れた。異世界からの戦士Braggothと彼の部族はまだGolden Hunting Groundを探している。おとぎ話な楽園があるかどうかに関わらず、オゴールたちは奴らの探求に立ちふさがる全てを破壊するだろう。
Vintrbad:冷酷なVintrbad部族はアーケイオンの軍団に兵を供給している。そして奴らはしばしば混沌の印を持つ子を生み、奴らの常冬の嵐はしばしば大振動を引き起こす。

5.マジックアイテム(Magical artifacts)

省略

6.出典(Source)

Destruction Battletomeのビーストクロウ・レイダーズの章より
内容は省略

2019年3月29日金曜日

「ビット・プレイヤー」(グレッグ・イーガン著、山岸真訳、ハヤカワ文庫、2019)

 久しぶりのグレッグ・イーガンの短編集だぞ! 今度はどんなヤバい世界を見せてくれるのか!?

 最初の「七色覚」はナノテク(技術名はどうでも良い)で人間が本来持っている以上の色覚を密かに身に付けた人々が、周囲の普通の人間を自覚なく見下し、それでも普通の人間による社会で成功できずにいる姿を描いている。超人・超能力者の苦悩を描いた作品と言い表せるのだろうけど、グレッグ・イーガンはそこに一捻り加えており、超人が必要とされる分野はテクノロジーで代替するため超人の仕事がない、という技術に仕事を奪われる社会をも描き出す。普通の人々が持ってない能力は技術開発で対応してしまうので多少能力を身に着けたレベルの超人では太刀打ちできないのはなかなかにリアル。超人は迫害を怖がるのと同時に選民思想をも抱いており、能力を公表しないので余計に仕事にありつけないわけだ。この手の社会をシミュレーションする描写はグレッグ・イーガンの真骨頂である。結局主人公たちは色覚の拡張を社会に開放することで大金持ちになったのだが、逆にいえば自分たちの秘密(拡張された色覚を生身の感覚で捉える)を手放してしまったことでもある。これからは拡張された色覚が社会のスタンダードになるので超人も普通の人間へと戻ることができるのだが、果たして社会性がほぼないと思われる超人第一世代は「普通」の社会で幸せに生きられるのだろうか。ハッピーエンドの中にも苦さをほのめかす終わりであった。
 「不気味の谷」は記憶の大部分を受け継がせ(サイドローディング)たアンドロイドは元の記憶の持ち主とどこまで同じでどれくらい異なるかを論じた作品だ。こう書くと小難しいように思えるが、ストーリーはセレブ脚本家からサイドローディングされ遺産を受け継いだアンドロイドが、遺産を守るため自分が元の脚本家と同等であることを証明しようと欠落した記憶の内容を調べる物語。つまり全体はミステリー風味で、読み進める内にどうやらその脚本家は何らかの殺人事件に関わっていることがわかってくる。SFというよりミステリーであり、正直、サイドローディングされたアンドロイドがわざわざ記憶を調べる動機が薄い気がする。とはいえここはグレッグ・イーガンお得意のコピーされたり補助脳を埋め込まれた個人はどこまで元の本人を再現できているかというテーマなので多少ご都合主義的なのは構わず読めてしまった。サイドローディングされたアンドロイドは元の人格とは別個なんだけど同一のものと言い聞かせるような物言いをするのは面白かった。それにしても忘れていた記憶を求めるなんぞ厄介な事件に巻き込まれるフラグでしょ……。
 「ビット・プレイヤー」は目が覚めたら重力がおかしな状態になった洞窟に直前の記憶を失っており、そこに居合わせた住民と議論する中でそこが仮想世界だとわかり、自分たちが複数の人格から混ぜ合わされたAIだと考え、この世界の管理者の鼻を明かす細工をする……というストーリー。近年のグレッグ・イーガンお得意の独自の物理法則のある世界モノ+マトリックスみたいなお話。もちろん短編だから人類の未来に関わるような深刻な危機が起きるわけではないのだが。最初に読んだとき、重力が変になった描写が全く想像つかなかった。正直数回読んでも頭の中にその風景を描けない。それにも関わらず住民の女性と重力の作用などについて延々と(この議論の結果仮想世界だとわかるのが前半のハイライトだが本当に長かった)議論するところを見ると彼ら彼女らの元になった人格は相当物理学に造詣が深いようで……。別に仮想世界を脱出したりするわけではないから特段これ以上の感想は書けないや。
 「失われた大陸」は「ゼンデギ」みたいなイランモノかと思ってたらタイムスリップ+難民モノになっていた。タイムスリップもドラえもんみたいに時間旅行機に乗って過去や未来に行くわけではなくムーンゲートを通って平行世界に行くらしい。ストーリーが進むとタイムスリップは全くお話に絡まなくなるのだが、これ、タイムスリップを入れる意味あったの? タイムスリップのきっかけになった<学者たち>と「将軍」の争いも現実世界の何かを暗示しているようで正確なところはわからず、そしてストーリー後半はまったく触れられなくなるわけで、全然世界観が理解できなかった。もしかしたら何もわからないまま難民暮らしを余儀なくされた主人公の境遇を読者に追体験させようとしているのかもしれないが、タイムスリップ要素があるせいで必要以上に意味不明なものになったと思う。1日中収容所に入れられて何ができるわけでもない難民の無力感と重箱の隅をつつき一方的に難民に正しさ(あらゆる意味での)を判定する官僚の理不尽さ、何が原因かもわからず難民にならざるを得なく置いてきた家族への心配など普通の小説以上に我が身に降り掛かった出来事的な感覚で読めた。それだけに世界観を混乱させるタイムスリップは邪魔だよな、と思う。
 「鰐乗り」はグレッグ・イーガンお得意のデータ化された人類が人類とは異なる知性とコンタクトするお話。1万年以上生きてて退屈だとか、自分のコピーをバラ撒けるとか、SF読まない人は入り込めないかもしれないが、僕にとっては「ビット・プレイヤー」とか「失われた大陸」よりはわかりやすい作品だった。銀河中心部で今までコンタクトを拒否していた種族の様子を知ろうとする奮闘を描いているのだが、読んでて余計なお世話という言葉が頭の中をちらついた。少し前にケン・リュウの「生まれ変わり」(感想文はまだ公開してない)で異文化とのファースト・コンタクト時の善意の押し付けを描いた作品(「ホモ・フローレシエンシス」)を読んだからよけいにそう感じたのかもしれない。少なくとも、自分たちの行うことに対して一歩引いた議論や思索を行うのがケン・リュウだとすれば、干渉しないことが前提(「シルトの梯子」参照……ってこの作品の感想文は書いてないのか!)だが好奇心と進歩が正義だとしてガンガン進むのがグレッグ・イーガンの特徴かと感じた。この作品でも結局のところ、コミュニケーションを拒絶していた種族が絶対に人類その他種族に関わりたくないことがわかって満足です、的な終わりになっており、それ最初からわかってたことじゃん……と読んでて思った。凡庸な作家なら無理やりコンタクトを取り、それが原因で何らかのトラブルに発展するんだけど、グレッグ・イーガンの場合は変に理性的で相手を尊重するのでお話としてカタルシスが得られないのである(その癖ちょっかいだけは人一倍出すので行き過ぎた進歩思想も碌なもんじゃないと思う)。
 最後を飾る「孤児惑星」は「鰐乗り」の亜種みたいな作品。未知の惑星を調べよう(またかよ!)と現地に赴いて調査をしていると、彼らが属している銀河文明では到底実現できない超技術が存在していることに気付き、現地民とコンタクトを取り……というストーリー。最初は「鰐乗り」テーマの繰り返しかなと思っていまいち乗らなかったが、実は冒険小説としての面が強く非常に面白かった。誰も行ったことがない地に行き、その秘密を解き明かし、隠れていた人々に接触し、すったもんだの末理解し合うという要素がすべて入っている。もちろんその構図は「文明国」の人間が「未開」の現地民を開化させるステレオタイプであり、本作の主人公もその構図から逃れきれていない。僕もそこらへんはわかって上で、でも、未知の惑星の超技術探検ってSFファンの夢じゃないかと思っている。風呂敷を広げまくったSFガジェットと言い、僕の好みの作品だ。


 解説を書いた牧眞司氏はグレッグ・イーガンについて短編の方を評価しているらしい。「ディアスポラ」好きな僕としては賛同できない部分もあるが、思い返せばワンアイデアを中心に登場人物の無駄な議論や内省など人間ドラマを省き人間や社会が変化する様子とその帰結を描ける短編作品は確かに質が高いと思う。本短編集でも長めの作品は登場人物が余計な行動をして無駄にページが増えるからな。他の作家なら人間ドラマと言い訳もできるが、グレッグ・イーガンの場合キャラクターが冷静かつ頭が良いので馬鹿な行動がそれだけ目につきやすいのだ。
 本短編集の中で一番好きなのは「七色覚」。SF的センスとガジェットと人間ドラマと社会的テーマが違和感なく融合していた作品で何度も読み返せる。SFだからこそ描ける物語であり、このような作品をサラッと出してくるから僕はグレッグ・イーガンが好きなんだよなと改めて思わせてくれた。

2019年3月18日月曜日

「ファースト・マン」(デイミアン・チャゼル監督、ユニバーサル・ピクチャーズ製作、2018)

 町山智浩氏が「冷たい映画」と語っていたので、どんな気持ちの悪さがある映画なのかと思ってみていたが、普通の精神を持った人を描いたまともな映画だよ。むしろ僕はハリウッドに出てくるアメリカン共の発狂したような明るい感覚についていけないので(最終絶叫計画シリーズは例外だ)主人公であるニール・アームストロングにかなり感情移入して映画を見ていた。夫としてはアレだったのかもしれないが、映画で描かれる限りでは知り合いになりたい、友達になりたいと思わせる好人物だと思うよ……。
 実際問題としてこの映画が本当にアームストロング博士の内面を再現したのかは本人のみにしかわからないが、少なくともストーリー的な整合性は取れていると思う(というか取るように制作陣が四苦八苦したのはわかる)。冒頭で亡くなった娘さんもクライマックスで「ああ、そういう風につながるのか」と思わされたし(とは言えそんなにしつこく過去を忘れなかった執念にはちょっと引いた)。
 ハリウッドのエンターテイメント的な底抜けの明るさや大笑いするような作品じゃないけど、地を這うような努力と情熱に浸りたい人は見るべき。

 以下小ネタ。
 時間の経過表現が本当にさり気なく用いられるので、ぼうっと見ると単に描写がつながっていないと勘違いしてしまう。序盤で娘さんがなくなった後、アームストロング博士の奥さんがいつの間にかお腹が大きくなり、ついでいつの間にか次男が現れていたが、それだけ時間が経った表現かと感心した。とは言え、長期間の話をシーンの切り目を意識させず自然につなげているため、アームストロング博士が楽しく子どもたちと遊んでいるかと思えば心を閉ざしていたりと感情の起伏が激しすぎる人のように思えてしまった。
 宇宙を客観的に描くシーンで物音がしない。この映画は傑作だ! というのは冗談だが、「インターステラー」で意識したんだけど、真面目に宇宙を描いた作品はちゃんと宇宙では物音をさせないのが最近のトレンドなのだろうか。いや、宇宙で音が発生しないのはそれで正しいので素晴らしいことだと思う。

「呪いの都市伝説 カシマさんを追う」(松山ひろし、アールズ出版、2004)

 というわけで、1つの都市伝説に絞って考察する本を紹介。著者はいわゆる研究者ではないので、都市伝説の収集量や系統立てや分析に限界はある。もっというと、本書の内容は様々な時代・地域で流行ったバリエーションを記録しただけで、それから先の分析については尻切れトンボ気味であることは否めない。とは言え、ネットや口コミの普及も今みたいに広まってなかった時代、そもそも都市伝説というものが一部の好事家にしか知られてなかったであろう時代に「噂」のように廃れやすいものを聞き取り調査をした功績は大きいと思う。
 本書の価値はここまでは素人でもできて、ここから先は専門家でないとできないという線引を見えるようにしたところだと思っている。

 さて、内容の方に移る。都市伝説や怪談の本で「カシマレイコさん」と呼ばれる存在は、調べてみると幾多のバリエーションがある。1970年初頭から今まで、ほぼ日本全国で噂されたお話なので、それはもう尾ひれがつくのも当たり前と言える(僕に限ってみれば、実は「カシマさん」のお話は聞いた覚えがない。1990年台に小学生で、怪談が好きだったのだが、なぜか「カシマさん」という単語に聞き覚えがないのだ)。都市伝説を聞き取る系の本に収録されているお話は恣意的に特定のバージョン選んだのではないか? と疑念がわくだろう。
 著者がネットで集めたお話を集計してみると、大まかに「カシマさん」の都市伝説が広まった流れが見えてくる。「カシマさん」のルーツを探ると共に噂で描かれたディテールの変遷を調べ上げる作業は本書の面白さの1つだ。本書でもいろいろ紹介されているが、「カシマさん」のバリエーションの多さは同じ人物(妖怪?)とは思えないほど幅広く、素人の印象論ながら別の怪談と混ざっているのではないかと勘ぐってしまう。著者は丁寧に変遷を描き、原「カシマさん」とも言うべき「カシマさん」の一番古い噂を、さらには「カシマさん」が誰なのかを探る。

 結論を言うと、結局、調べきれていない。時代は1970年台初頭、場所は北海道夕張炭鉱の鹿島地区、ここで広まった踏切事故の噂が、炭鉱が閉鎖され日本各地へ散らばった炭鉱マンと共に日本各地へ伝播したのではないかという仮説を挙げている。本書で述べられた「カシマさん」と第二次大戦の負傷兵との関連は結局それっぽい仮説を出したものの証拠はない。
 そもそも噂や都市伝説で明確なルーツがわかる方が稀である。今でこそツイッターなど文字のコミュニケーションが発達し、根気強くたどれば噂やデマの発信元を特定できるが(そう考えるとデジタルの文字というのはお話の変化も起こりにくいし都市伝説の媒体としては不向きだと思う。くねくねなどもネットで広まった割にはリアルで知ってる人は少ないわけで。)、噂を公的に記録する媒体が新聞や雑誌くらいしかなかった時代を調べるのはこれ以上は難しいだろう。
 都市伝説という記録に残りにくいお話を調べた本として1人の都市伝説ファンとして面白かった。

「怖い女 怪談、ホラー、都市伝説の女の神話学」(沖田瑞穂、原書房、2018)

 「怖い女」、というより、「女性の怖さ」とはどのような要素なのかについて世界中の神話や日本の神話・言い伝えを元に考察した論説。女性の怖さ=底なしの母性であることが最後に明かされるのだが、世界各地の神話を参考にその母性の描かれ方を紹介している。もちろん神話が言い伝えられた文明の概略などは書かれていないので神話の記述が文明特有のものなのか判別がつかないのだが、それでも同じようなモチーフ・ストーリーが地理的に遠いと思われるところでも見られるさまは圧巻。神話をネタにした本でしばしば見られる日本神話や北欧神話、ギリシア神話、インド神話はもちろんのこと、スラブや南米、東南アジアの神話も収録されている(数は多くはないが、確かアフリカの神話もあったはず)。ボリューム的にも多少神話に興味を持った程度の人が楽しく読めるような内容。そのため神話マニアには物足りないと思われるが、そういう人は専門書を読んでくれ、という話なのだろう。女神転生シリーズなどで女神に興味を持った人にも最適。神話に興味を持った人が特定のテーマを調べる取っ掛かりとして良い本だと思う。



 と、ここまで大絶賛したのだけど、ちょっと引っかかる部分もいくつかある。
 僕が一番気になったのは、長年言い伝えられた神話や伝承と作者がわかっている創作小説や現代都市伝説が全て並行に扱われている点。もちろん、江戸時代の怪談などは創作小説とは言え神話や伝承の仲間にして良いと思う。
 しかし現代の都市伝説や小説を神話として扱ってしまって良いのか? 例えば都市伝説は、つまり多くの人が興味を持つお話は、多くの人に興味を持たせるために今で言うコピペも改変も行われて新たなバリエーションになることが多いのだが(都市伝説愛好家はそういうのも含めて好きなのだ)、オリジナルを見極めないとその都市伝説のもともとの要素が読み取れないことに注意しなければならない。無数のバージョンがある中で、本書の主張に合うバージョンも探せばあるし現在進行系で新たなバージョンが作られているわけで、なぜそのバージョンを取り上げるのかを考えねばならないと思う。
 また、現代小説で言えば、スター・ウォーズが神話の手法を参考にしているように、現代の創作はそれまでの神話や伝説をエッセンスとして取り込んでいるのだから、神話が作られた時代に考えられた怖い女像を取り込んでいる可能性はないのだろうか? 現代の感覚として妥当なのだろうか?

 本書の中には「ひきこさん」という都市伝説が取り上げられている。口裂け女やカシマレイコさんと同じような女妖怪……なのかな? このヒキコさん、いわゆる都市伝説としてはかなり眉唾モノではないかと僕は考えている。都市伝説好きにはたぶん知られているはずなのだが、このお話って創作の可能性が指摘されているのだ。このサイトで「ひきこさん」を調べると経緯が載っている。初出のサイトもほぼ特定されているし、広まった時期もわかっている。何より、「ひきこさん」のお話ってコピペが広まっているみたいで、つまり掲示板などに書き込まれた文字情報が「ひきこさん」の話題っぽいのだ(以上、全て前述サイトより。そして本書でも「ひきこさん」のお話は伝わっているコピペの内容とほぼ同じ……)。もちろん僕は前述サイトの検証内容を確認していないので、当該サイトが誤っている可能性もなくはないのだが、かなりディテールがはっきりしているので検証内容が正しいと判断している。少なくとも、「ひきこさん」のお話は口裂け女みたいな本当に自然発生して口頭で語り継がれたものとは異なるため、創作怪談の可能性の指摘くらいはすべきだと思う。
 もう1ついちゃもんをつけると、カシマレイコさんって言い伝えのバリエーションはかなり多い。本書でも簡単に紹介されているが(紹介内容のディテールの抽象さと2パターンのお話は「ひきこさん」の紹介のされ方とは正反対であることに注目)、電車に轢かれたり乱暴されたりして脚を失って夢の中で現れるってのが一般的なんだろうけど、トイレで出てきたり、腕がなくなったりと別の都市伝説と混ざっているのでは? とも思えるお話も多い。都市伝説のそういう側面を指摘せず論評するのは扱いが雑なのではないかと思う。

 現代小説を元に元来の神話と共通した女性の怖さを語ろうとするのは正直論外である。江戸時代とかは新生児の死亡率も今とは比べ物にならないほど多かったし、明治や大正時代ですら親が生活のために子供を売ることだって当たり前だったわけで、そういう時代と現代を比較して「こういうところが女性って怖い」と言われても、その怖さの意味が異なるのではないかと僕は考えている。はっきり言うと、現代小説は商業的な成果が求められるのでホラーと称するジャンルであれば過剰なまでの残虐描写が求められるのだ。本書で挙げられた現代小説ではそこらへんの事情に考慮せずミステリー系もホラー系もまとめて論評しているが(もちろんストーリーのエッセンスで考察しているから個々の描写は関係ありませんと言われたらそうなんだけど)、残虐表現として一般的な範疇のミステリー系と過激さを要求されるホラー系と人が殺されてもその描写があっさりしている旧来の神話を比較してもそれって意味あるの? と思う。本書が現代小説の書評であれば問題ないのだが、神話との共通点を挙げ女性の怖さを一般化しだすと、話半分に聞かざるを得なくなる。

 というわけで、神話や口頭伝承を比較しているだけなら面白かったのだが、現代のお話をターゲットにした途端怪しくなった印象を受ける。著者も、昔の幽霊などの女の祟りは特定の人物のみを対象にしていたが、現代の小説は無差別だ、と書くのであれば、それ単にホラーとジャンル分けされ過激さが求められただけなのではと疑って検証して欲しかった。
 ついでに、最後の方でユング派の学説が出てきたときは笑ってしまった。精神分析って、特に伝統的なタイプのフロイトやらユングやらって結構誤った部分も多くて臨床的には使えないはずなのだが……。というか、フロイトやユングって心理学以外の人からの人気が高い印象を受けるのだが、何で彼らはここまで怪しい学問に取り憑かれているのだろう?

2019年3月14日木曜日

「砂糖の空から落ちてきた少女 」(ショーニン・マグワイア著、原島文世訳、創元推理文庫、2019)

シリーズ1作目「不思議の国の少女たち
シリーズ2作目「トランクの中に行った双子

 様々な異世界に行って帰ってきた子供たちが集まる学園小説第三作。前作とは異なり、ストーリーが動く。死者の国など第一作目で言及されていた異世界にも行き、その風景が具体的に描かれるのは面白い。強い個性を持った少年少女の冒険物語であり、育まれる友情やピンチを切り抜ける機転、分量は多くないとはいえ手に汗握るアクションなどその手のジャンルが好きならばワクワクする。

 そう、あらすじを読むとワクワクするんだけど、内容は少し微妙だったのだ。それはなぜかと言うと……。

 1つ目に、この小説がクエスト小説だからである。主人公たちはアイテムやイベントのためにある場所へ行き、そこでさらなるアイテムやイベントが必要とわかり次の場所へ行く……。そうやって異世界を移動するのがこの作品の構図なんだけどお使い要素があからさますぎる。普通、主人公たちをバラバラにするとか偶然違う事件に巻き込まれて、でも最終的に冒険の目的に繋がるみたいなテクニックがあると思う。前作もそうだったんだけど、ストーリーテリングが単純なのが欠点。

 2つ目は、僕がスレてるだけなのかもしれないのだが、主人公の女の子が太り気味で太ってることに悩む内面が描写されてでもステレオタイプにしたくないから運動ができることにしてるけど、「太っている」ことに作者自身がこだわり過ぎで主人公=肥満と結びついてしまっている。読んでて感じたのは、太っていることをもうちょっとスルーした方が良いと思うのだが、それだと太っていることに対する黙殺だと批判されるのかな。それでもやたらに太っていることを強調され、対比して言い訳のように運動ができるとこれまた強調されるよりマシだと思う。本書を読んだ限りだと太っていることが半ばギャグのように多用されており(登場人物の1人もうんざりしてる素振りを見せる)、逆に太っていることに変なバイアスを与えると思う。

 3つ目、これが一番重要だと思うんだけど、異世界のパラメータであるナンセンスやロジックやヴァイスやヴァーチューが特にそれっぽい描写もなされず終わる。お菓子の世界は法則のあるナンセンスが支配すると言われているが、ナンセンスらしさは母が亡くなったのに産んでもない子がいるという描写であり、それすら未来からやってきたで済んでしまい(子が徐々に消えるところなどはバック・トゥ・ザ・フューチャーの描写とそっくり)、ナンセンスらしさが感じられなかった。第一作目はナンセンスに行った子は非常にやかましく考え方も我々から見て突飛だったが、今作では悪い意味で普通の人になってしまっている。このシリーズの中で異世界が異世界らしい不思議さを感じられるのはナンセンスだとかロジックだとか、そういった要素であり、地面がお菓子みたいなわかりやすい描写じゃないと思うのだ。「1日かかる距離」が本当に地面が伸び縮みして1日かかるというのは面白かったけど、異世界っぽさはそこがハイライトだったな……。もうちょっと本編に絡まないシーンを増やして異世界としての存在感を増やしても良かったと思う。


 駄作じゃないし、第一作目を読んでのワクワク感はまだまだ残っているんだけど、小説の作りとして喜べない部分が多かった。設定の多くを語らずあくまでミステリーだった第一作はだから面白かったのかもしれないと今から考えると、そう思う。

 何だかんだで設定は面白いため、シリーズはまだまだ続くということで、今後も付き合って読もうかと思う。


 それにしても、前作の感想文でも書いたんだけど、女性の体の描写がフェティッシュ気味なのは作者の趣味なんだろうか。最近あまり見なかったので何だか気恥ずかしい。

2019年2月17日日曜日

「黒き微睡みの囚人」(ラヴィ・ティドハー 著、押野慎吾 訳、竹書房文庫、2019)

 面白い。歴史改変SFの要素のある幻想小説めいた探偵小説といったところか。
 1930年台後半のロンドン。共産主義がナチス党を破り政権を取ったドイツから逃れロンドンの難民街で探偵業を営んでいた主人公”ヘル・ウルフ”の元へ、同じくドイツから逃れる中で行方不明になったユダヤ人女性捜索の依頼が入る。かつてユダヤ人のドイツからの追放を主張していた彼だが生活のためその依頼を受ける。しかし彼を監視する何者かが起こした殺人の犯人にされ、アメリカのスパイが共産主義との戦争に備え再び彼をドイツ総統の地位に立てようと目論見、ヨーロッパ追放を掲げるイギリスファシスト党の重鎮から同族嫌悪の目で見られ、ユダヤ人女性の情報を得るため接触したルドルフ・ヘスは何者かに殺され……という夢を現実の世界でアウシュビッツに閉じ込められた小説家ショーマーが正気と狂気の狭間で見ていた、というストーリー。

 ヒトラーが政権を取れなかったら……という発想の歴史改変SFかと思いきや、実は収容所に囚われたユダヤ人作家ショーマーの夢か妄想かそういうものだったとわかり、でももしかしたらショーマーこそがヒトラーの夢なのでは? と思わせる余地もある中で、ショーマーのパートはストーリーが動かないにも関わらず囚人として悲惨さが増していきヒトラー改めヘル・ウルフのパートは探偵小説として殺人や陰謀に巻き込まれ毛嫌いしているユダヤ人の女性と関係を持ったりとなかなかにエンターテイメントしている。単純にナチスを告発した小説とは言いづらく、とはいえアウシュビッツの描写があるように楽しいだけの小説でもない不思議な読後感のある作品だ。
 著者はかなり当時のことを調べているらしく、ヒトラーの女性関係や性的嗜好など色々な知識が増える。もちろんそのようなゴシップまがいの話だけではなく、イギリスファシスト党を組織したオズワルド・モズレーなど

 この作品が面白いのは、一貫して主人公は「ウルフ」と呼ばれヒトラーの文字はわずか1シーンしか出てこないこと。登場人物もヒトラーの名前を呼んではいけない的雰囲気を醸し出している。ナチス党やナチズムすら数えるほどしか出てきていない。さすがに歴史改変SFとはいえヒトラーをその名を出して主人公にしてしまうのは問題だったのだろう、と当初思っていたが、たぶん演出として名前を出さなかったっぽい。ヒトラーの名前を出すシーンで別のアイデンティティを受け入れたのだから。
 正直、この作品のヒトラー……いや、主人公ヘル・ウルフはかつて見せていたはずのカリスマ性など微塵にも持っていない。この世界の彼は共産主義に破れロンドンに逃げ出した身。ナチズムの特徴である反ユダヤ主義は時代遅れとみなされ、イギリスでは反ヨーロッパ移民がトレンドとなりウルフも対象となっている。ウルフは職業上も身分的にも弱者であり、ユダヤ人やロンドンの警察官や依頼人の女性から暴力を浴び続ける(そして女性から暴行を加えられると性的に興奮する)。彼の特徴だった口弁の巧みさは見る影もなく、格好つけたセリフを吐いても実力が伴わず、プライドは高いのだが客観的にみると着替えも持ってない独り言の多い貧乏人といった描写をされている。はっきり言って哀れである。作中でも彼に暴行を加える輩の冷酷さと比較することで彼の無力さは際立つようになっている。相変わらず心の中で演説しててその内容は史実の彼そのものなんだけど、血で汚れたスーツにぶつくさ文句を言いSMに興じる彼は極めて人間臭く、憎たらしい警察官や粗暴なユダヤ人実業家を配置することでウルフ=ヒトラー可哀そう! と読者に思わせるようになっている。
 このヒトラーに対する描写は読んでてハラハラするところ。「帰ってきたヒトラー」以上にエンタメである本書で人間臭く内面を持った存在としてヒトラーを描いて大丈夫なのかと思ったのだ。訳者解説によるとどっかの賞も受賞しているらしく、この作品がちゃんと欧米の読書界で受容されているらしいのだが、時代が変わったのかそれとも僕の想像以上の文学的な内容があるのか……。

 さて、この作品の面白いところは主人公が不法移民であるところだ。彼が史実で行い多くの人が余儀なくされた状況に身を置かせ、さらに現在の問題ともリンクさせる。非常に上手い手法である。過去の栄光を失った主人公は憎んですらいるユダヤ人からの依頼すら引受け、生活を営んでいる。彼の仲間だった者たちは共産主義やユダヤ人におべっかを使いそれなりの地位に就いたのに対し、彼はなぜかしがない探偵でしかない。彼がなぜ探偵なのか、美意識的なものがあるらしく彼もそれを叫んでいるのだが、僕にはわからなかった。しかし総統になったであろう人が移民、そして探偵にしかなれなかったことでの自信とアイデンティティの喪失は徹底的に描かれ、日記や独白で延々と書かれるかつてのナチズムはむしろ主人公の挫折の象徴となってしまっている。彼の住んでいるロンドンは反ユダヤ主義をアップデートした反移民主義が主流で、ウルフそのものが時代遅れとなっているのだ。途中、彼はユダヤ人の身分証を手に入れたことで移民としてユダヤ人としての立場を得て、最終的に他のユダヤ人と共にパレスチナ移住を行う。あれほど嫌っていたのにユダヤ人としてのアイデンティティを構築して、だ。史実とは全く異なる結末はSFだからこそできるもので、そして僕たちは彼の犯した結末と比較して所詮虚構とはいえ立場も信念も揺らいでしまうとわかるのだ。

 一方、それとは正反対の結末をたどる収容所の作家。読者からすればたぶん生きては出られないだろうなと思っていて、やはりそのとおりだった。史実を生きるショーマーの見るウルフは全てを奪われ残った結果の逃避でしかなく、そして夢の中ですらロンドンから追われパレスチナに逃れるユダヤ人は悲惨とすら言える。最後に救いがあるような描写があるが、現実が辛いから死で救われるってのはあまりにも悲しいことで、でも当時のユダヤ人はそのような状況に置かれていたのだと教えてくれる。

 楽しく読めた。しかし同時に恐ろしさも味あわされた。小説として上手く、感情移入度が高いので余計に反移民やホロコーストの恐怖を感じた。良い作品である。

2019年1月18日金曜日

「シュガー・ラッシュ:オンライン」(リッチ・ムーア監督、ウォルト・ディズニー製作、2018)

 変化するということへのポジティブさ・肯定的な描写に対し、変化を拒否することへの否定的な展開が極めてストレートだった作品、というところか。たぶん昨今のトランプ現象を念頭に置いているんだと思う。社会全体が「変化」することについて基本的に僕は肯定的なんだけど、個人の「変化」を強制することはちょっと気分良く見れなかった。正直、今作を見る限りではたとえバックラッシュと言われようと、「変化」は急すぎると判断せざるを得ない。

 ストーリーは、前作で友情を育んだ少女と大人の男(明言しないけど、描写を見る限り恋愛だよね……)だが、少女が住んでいたゲーム機が壊れたので修理するためインターネットの世界を冒険する、という物語。途中で少女はすっごくドキドキするレーシングゲームに出会い、もともと住んでいたゲーム機に帰らないと宣言して、彼女と友情を育みたい大人の男は変えるために騒動を引き起こし、最終的に彼女の判断を尊重して分かれるというもの。

 僕としては、少女の行動が一切理解できなかった。壊れたゲーム機には彼女だけが住んでいるわけではなく、仲間たちもいるわけで、それを放り出して自分だけ理想的なゲーム世界に残るってそれは自己中すぎないか?
 いや、そもそも彼女のレースに対する熱意はある種の中毒患者がより強い刺激を求めるのに似ているのでは、と見ていて感じた。彼女が残りたがったレーシングゲーム世界は、レーティング的(最低でもPG-13では? というか明確な暴力描写があるわけだからもっと高くてもおかしくないのでは?)に彼女の年齢(10歳前後だよねえ)と合わない気がするんだけど、ディズニー的にはそれでオッケーなの? それでもって少女がもっとスリルを、もっとレースをと主張するのだから、ゲーム中毒・オンライン中毒は友情を壊すしもともとの行動の動機すら忘れる有害なものなんだなと改めて思った。
 まあ、そういう少女に友情を求める大人の男も気持ち悪いことこの上ないんだけど、変化のない元の世界へという動機があるにせよ、当初の冒険の目的を達成しようとするから好感を持てる。この作品の範囲だと、少女はより強い刺激のためにすべてを捨てるだけのヤバい人にしか見えないし、たぶん今後もっとハードなレーシングゲームが現れたらそれまでの友情も思い出も投げ売って移住しちゃうんだろうなと想像できる。アメリカってそういう文化なんだろうか?
 そういうのが「変化」として肯定的に描かれてしまうと、僕は「変化」に対しては誠実でないと評価してしまう。

 それにしても最後の大騒動を引き起こしたウイルスを捕まえてないはずなんだけど、大丈夫なの? 細かくプロットを見るとおかしなシーンが盛りだくさんあるんだけど。
 ディズニープリンセスだったりストーム・トルーパーの友情出演みたいなどうでも良いシーンでお茶を濁してないで、キャラクターの動機とかストーリー展開にもっと力を入れなければダメだと思った。

「親がうるさいので後輩(♀)と偽装結婚してみた。」(コダマナオコ、一迅社、2018)

 正直、僕が昨今の百合ブームに乗れないなと思っているのは、百合というものが単なる萌え族のおかずでしかないことが透けて見えるからなのだ。
 アメリカを中心に起こっている性的マイノリティのムーブメントは現実問題として性的マイノリティがマジョリティよりも権利を制限されていることに発しており、その運動は重要だと思う。それに比べて日本の百合ブームはどんなに性的マイノリティを肯定的に描いていてもマジョリティ(いわゆるヘテロセクシュアル)のおもちゃという枠組みが強固に残っているし、そもそも彼女らが直面している現実的な問題を描く気がなく「萌え」として消費している(女性キャラだけが出てくると期待されたアニメに男性キャラが出てくるだけで侮辱的なあだ名を付けられることを考えたらオタクが本気で女性同士の愛だの恋だのを考える気なんてないとわかるだろう。ちなみに「ケムリクサ」を念頭に置いてます)。
 それは百合をプッシュし続けて長い一迅社であっても同じで、「百合男子」について文句を書いたことがある。この作品が描かれたのは昔である上、僕は2巻以降読んでないわけだが、それでもこんな偏見垂れ流しまくりの作品を出版してしまうなんて信用できないなと思っていた。

 本作を読んで驚いたのは、そんな一迅社にしてはなかなかやるじゃないってこと。この作者が描いてアニメ化になった「捏造トラップ-NTR-」はそこそこ頭の良い女子高生が主人公なのに途中から体を売って生活しているような描写が出てきてどこまでリアリティがあるのか、そもそもドロドロの展開にするために最悪手を選び続けているのではないかと思っていた(アウティングという問題が現実には起こってはいるけど、現代ってまだ女性同士の関係をバラすことが脅しになるっていう時代なの? 今どきはそういうのバラしたほうが叩かれると思っていた)。

 本作はそれとは打って変わって明るい作品で、それでも物語の背景として女性が直面している生き辛さを描いており、はっきり言ってしまうとそういう問題に物語中で答えを出しているわけではないのだが、その軽さ・明るさが今後の社会を作る上で必要じゃないかと思ったのだ。悲劇の恋愛にすると物語的な起伏もあって面白いのは確かだが、性的マイノリティの問題ってそういう風にマジョリティからネタにされるものではないから。問題はまだまだ山積みだけど明るく、希望を持って、そういうものだと描いて、そういうポジティブさで社会を変えて行くのもまた必要なんだろうなと思った次第。

 「無酸素恋愛」は表題連作とは別の短編。若くしてアイデンティティを失うって大変だなあと他人事のように感じた。まあでも、スポーツやる学生は実績出せなかったときのことを早めに考えた方が良いと思う。勉強って結構早い段階で自分が対して頭の良くないことがわかってしまうんだけど、スポーツやってる人って何でそういうのがわからないのか今まで不思議だったし、今後も僕は不思議に思うだろう。自分が空っぽになって他人を求める感覚がわからず、この主人公の気持ちがそこまでわからなかった僕は恋愛に向いてないと痛烈に感じた。

「ひもてはうす」(石ダテコー太郎監督、バウンスィ、2018)

 石館監督の作品は好きで、極力見ていたが、今作は期待外れだった。
 その大きな原因は、1話15分という放送時間に対し、レギュラーキャスト6人と今までで一番の大所帯となっており、キャラクターもキャストも掘り下げが不足していたからである。そもそもキャストは石館監督初である洲崎氏を除けば全員2回目以上の出演であり(最小公倍数では「gdgd妖精s」+「てさぐれ!部活ものシリーズ」。最大公約数では「gdgd妖精s」+「直球表題ロボットアニメ」+「てさぐれ!部活ものシリーズ」+「キュートランスフォーマー」と書けば新しさがないのがわかるだろう)、キャストの掘り下げは今までの実績に大きく依拠しており今作ならではの新鮮味がなかった。
 さらに、石館監督アニメの売りであるだろうアドリブパートも、そもそもキャスト6人がフルに揃った回があったんだかなかったんだか、そういう状態なわけで、声優アニメとしても見どころに欠けた作品だった。アドリブパートで声優が全員揃わないのって「てさぐれ!部活もの すぴんおふ プルプルんシャルムと遊ぼう」でもあったけど、あれは「プルプルんシャルム」のプロモーションアニメみたいな位置づけだから問題にならなかったのであり、完全新作の今作で同じことをやられると不完全なアニメという印象しかもたらさない。
 もちろん個々のネタは面白いものがあったので惜しいなあと思う。いつもの石館監督の通り、新人声優3人を起用した方が良かったのではないかな。製作的にマンネリだったかもしれないけど、アニメとしての既視感をもたらさずに済んだと思う。

2019年1月14日月曜日

「トランクの中に行った双子」(ショーニン・マグワイア 著、原島文世 訳、創元推理文庫、2018)

 この作品は「不思議の国の少女たち」の外伝的続編であり、前作である「不思議の国の少女たち」を読まなければ内容が理解できないと思う。
 この作品の問題点は、「トランクの中に行った双子」単体では世界観がわからず、面白さが前作に依拠してしまっていることである。前作では異世界から戻ってきた子供たちというテーマで異世界を描写し、逃避文学と現実とのすり合わせを丁寧に物語にしていたのだが、今作は悪い意味で単発のエピソード集にしか過ぎない。4年という年月を薄めの文庫本1冊にまとめるのは難しかったのだろうと同情するが、Aという出来事がありました、その数年後、Bという出来事が起こりました、そしてさらに数年後、Cという出来事が起こりました……というプロットはさすがに2018年末のエンタメ系長編小説としてはお粗末である。不思議の国のアリスなんかは心理描写が押さえられ、エピソード集が寓話っぽい雰囲気を醸し出しているが、この作品は登場人物の感情ががっつりと書かれた現代の小説であり、余計にエピソードのぶつ切りが物語に入り込ませない効果となる。
 というか、世界観の前提となる異世界のルールが異世界に行った子供視点だからとはいえかなりどうとでもとれるためファンタジー的な面白さすら薄いと思う。吸血鬼が実在する異世界で、それがメインテーマのはずなのに、山に棲む人狼だったり深きものどもっぽい半魚人(?)が存在したりと吸血鬼ってこの異世界の中心的存在ではないのでは? と思ってしまう。
 結局、文庫本1冊で描いたのは前作の犯人の素顔であり、本来前作で描く内容であった。前作の某キャラたちを掘り下げたいという人以外は読まなくても大丈夫だと思う。

 なお、時々主人公の少女の描写がフェティシズム特盛になるんだけど、どこまで日本風に言う「萌え」を意識したんだろう。

2019年1月10日木曜日

「NOVA 2019年春号」(大森 望 責任編集、河出文庫、2018)

 なんか懐かしい名前だ。最後のNOVAはもう10年ほど前なのか……。日本を代表するSFアンソロジーの1つだったイメージがあるので、今後も続いてほしい。
 最初の「やおよろず神様承ります」(新井素子)。どうも僕は新井氏の一人称文体とは相性が悪いことがわかった。短編集のテーマ以前に文体が合わなかった。いちいち地の文でツッコミが入って痛い上に話が進まなくてつまらない。玄関の呼び鈴が鳴って2、3会話して不思議ちゃんだったからとりあえず扉を開けるだけの描写で3ページ使うのって無駄じゃない? 昔はスレイヤーズとかその亜種の一人称小説を読んでいたが、この作品が無理ということはもはや当時夢中になって読んだスレイヤーズなどももう読めないに違いない……、と少し悲しい。それはともかく、小説としては家事に追われる主婦が「優先順位の神様」を知ることで生活にゆとりが出るお話で、この程度のことも自力じゃできないなんて昨今のマニュアル人間はどうしようもないと感じた。たぶん作者は主人公の主婦に同情的だと思うんだけど、会社員やってたなら仕事の順番付けは基本だと思う。
 「七十人の翻訳者たち」(小川哲)は歴史を絡めた物語論。作中で描かれている「物語ゲノム」ってどこまでが現実の理屈なんだろう。SFとしてのギミックは神の描写をした原点の聖書を解読すると、神が見えてしまうという”感染する言葉”的なアレ。同じように歴史とSFを融合させた小説だと、「円」(「折りたたみ中国」収録)が挙げられるが、「円」に登場するキャラクターが極力時代的な違和感を感じさせないように描写されていたのとは異なり本作では紀元前のエジプトで現代用語がガンガンに使われていたのが萎えた。
 次の「ジェリーウォーカー」(佐藤究)は普通のパニックSF。正直、ある程度ジャンル小説を読んだ人間なら最初の数ページを読んだところでラストとオチまで予想できてしまう。予想がどう覆るのかが楽しみで読んだら、まさに予想通りだった。これはこれで想像つかなかった。なお、2018年から3、40年後なのに未だにダークウェブが捜査の手が及ばないアングラ世界とするのはリアリティに欠ける。あのWinnyですら、そしてShareですら解析され、Warez鯖は多分盛り上がってないのだからダークウェブも10数年したら下火になると思う。むしろ、警察が些細な犯罪を見逃すのが暗黙とされ、実名で違法データをやり取りする未来の方がそれっぽいよ。
 「まず牛を球とします。」(柞刈湯葉)は良い意味で予想外だった。最初読んだときは反食肉運動に当てつけた培養肉SF(そんなジャンルはないけど)かあ、と思っていたが、遺伝子工学が人間の存在意義に与える影響にまで言及される瞬間はゾクゾクする。培養肉そのものは実験でできているし(これ読むと実用化も秒読み段階?)目新しいものではないです。
 「お前のこったからどうせそんなこったろうと思ったよ」(赤野工作)は自分に合わなかった。オタクはキモい。SFとしては、本当に対戦ゲームが決定論の世界であるなら(同時に想定外のミスで勝敗が変わるカオスな世界なら)、その内容をもっと全面に出すべきでは? と感じた。徹頭徹尾ゲームから発展しない内容で、作者のキャラ的にはそれを求められるのかもしれないけど、SFアンソロジーの1作としては内容が薄すぎる。
 「クラリッサ殺し」(小林泰三)は仮想世界の仮想世界的ネタ。レンズマンシリーズは知らなかったが、特に違和感なく読めた。この世界が仮想世界かもしれない! 的なテーマはP. K. ディックでお馴染みのテーマでレンズマンというテーマから主人公たちの世界は仮想世界だというのが我々読者にとっては確定なんだけど、そのことにいつ気付くんだろうと楽しめた。なお、ミステリーのトリックとしてVR使うのは興が冷めるからやめたほうが良いと感じた。VRという凶器は何でもありすぎる。話は変わるが、一人称小説なら「やおよろず神様承ります」よりこっちの方が好み。ただし「クラリッサ殺し」は典型的な女言葉が時々出てきてそのわざとらしさに萎える。「やおよろず神様承ります」の文体で「クラリッサ殺し」のボリュームが理想である。
 次の「キャット・ポイント」(高島雄哉)は発想的な意味で一番SFっぽかったように感じた。というか本短編集は全体的に正統派なSFテーマを盛り込むとディテールがアレな感じに思えるので、この作品のような少し・不思議の方が安心できる。猫の集まるところは広告が注目されやすいという発想は面白かったし、その事実を発見(観測)してしまったことで猫が消え去ったというシュレーディンガーの猫と絡めた展開も巧みだった。
 「お行儀ねこちゃん」(片瀬二郎)は多少小説読んでる人にとって、物語的なオチは序盤から見えてくる(2パターンあって、主人公かその恋人のどちらかが死ぬんだろうなーとわかる)。それに向けた展開として、猫の死骸を動かすプログラミングが生命そのものだと主人公が認識するのだが、ルンバは生きている的なヨタと変わらなかったな。本当にある機械を見て生きていると誤認するならそっちを突き詰めてほしいし、操り人形のちょっと複雑な代物レベルで生命だと勘違いするのは妄想でも混ざっているか暑さで頭がやられたとか考えないと納得できなかった。
 「母の法律」(宮部みゆき)は本短編集中第三の女性一人称小説……まあもう一人称の文体でグチグチ言うのは止めよう。内容は、被虐待児を救う架空の法律「マザー法」を巡って外面の幸福とドロドロした中身を描いている。この小説の設定として、SFとしてのキモは被虐待児に処せられる記憶調整措置。虐待の連鎖を防ぐため、虐待の記憶が蘇って感情が不安定になることを防ぐために虐待された記憶と、虐待した親に関する記憶をすべて封じるという乱暴な施術。記憶の改ざんは「子どもの頃の思い出は本物か: 記憶に裏切られるとき」にも書かれているように割と簡単に起こりやすく、それだけにリアリティのある設定である。物語は「マザー法」によって温かい家庭を得た主人公が養母の死と共にそれまでの家庭を離れ、反マザー法の活動家から実の母が犯罪者だと教えられ、不安に思う中会いに行ってしまうというもの。おっさんである僕からすれば、そもそも思い出せもしない実母に会いに行く意味ないのでは? と思ったし、主人公にとっての破局を引き起こしたのは物語で悪役として描かれた反マザー法活動家でなくおせっかいな姉だったので主人公に恨みでもあるのでは? と勘ぐってしまった。いや、主人公の語りからすれば実母に会う理由なんてないわけで、トラウマ(バターナリズムな記憶調整だが、その意義や調整内容はそこそこ市民に明かされてるっぽい)に自分から近づいてトラウマになるんだから世話ないなと思った。まあ子供だから仕方ない。
 ラストの「流下の日」(飛浩隆)。おお、結構政治に踏み込んだ内容だ。「美しい国」っぽいスローガンの元、「家族」の概念を拡張することで日本経済を、社会を再生させた政府。それは一方で、国民を管理する生体コンピュータが利便性を与えると共にアンケートなどの形で個人の思考を収集することで成り立っており、反旗の日を伺う人々がいる……という物語。SFとしては普通の管理社会・ディストピアモノなんだけど、個人的に一番面白かったのは「家族」の拡張だな。2018年現在、この作品中最大の虚構。「美しい国」っぽいスローガンを謳う総理が性自認が男性の肉体は女性で、女性を妻とし、クラウドの養子(これって名義だけってこと?)を推奨し、まあ色々と現実の日本と正反対のことをやっているわけだが、もちろん現実の日本で「家族」を強調する人々とは真逆の考えのわけで。「家族」の概念は拡張されたと言うけれど、でも基本になっているのは伝統的と見られてる家族観なのだ。特に子供は各家庭で育てましょう、みたいな。この作品の設定として子供をたくさん生んで育てれば偉いという価値観があるんだけど、現代人なりのの教育とかを行うなら家庭だけで育てるのって難しい気がする。いっそ子供は国家が取り上げて集団で育てるとかの方が設定との齟齬は少ない気がするなあ。どうせ現実の日本での美しい家族と作中の「家族」とはかけ離れてるんだし。


 というわけで、2019年だ! 最新だ! 見たことない! という作品は少なかったが、面白い作品は本当に面白かった。ベスト作品は猫の集会所と観測行為と広告を繋げた「キャット・ポイント」かな。発想も素晴らしいし理屈が面白かった。そこでシュレーディンガーの猫を使うのか、と。「まず牛を球とします。」は最初はただの培養肉小説かと思っていたがいつの間にか人類の黄昏的な物哀しい物語になるのが良かった。
 多少SFを読み慣れた人からすると物足りない部分もあるが、2018年~2019年のテーマとして参考になった。

「チェコSF短編小説集」(ヤロスラフ・オルシャ・jr. 編、平野 清美 編訳、平凡社ライブラリー、2018)

 チェコのSFの歴史を俯瞰してみた。もちろんこの1冊で全てがわかるわけではないが、おとぎ話のイメージがあり、あのカレル・チャペックを生んだチェコという国のSFを味わってみたかったのだ。
 「オーストリアの税関」(ヤロスラフ・ハシェク)は1912年に書かれた作品。SF的なテーマはサイボーグなのだが、読者としては税関におけるやり取りが印象に残る。どうやら作者はそもそも関税を批判する目的でこの作品を描いたらしく、人工物だらけで税関に引っかかる肉体というアイデアはその副産物だったらしい。風刺のために空想度高めの舞台を用意するチェコ人すごい。というわけで、この短編集が優れているのは、そのような背景をちゃんと作品・作家ごとに書いてくれることで、以下の作品を理解する上でも助けになった。
 「再教育された人々──未来の小説」(ヤン・バルダ)は1931年に書かれたとは思えないほど現代的なディストピア小説。元は長編だった作品の一部を収録したとのこと。子供を産んでも家族から取り上げて国が集団で育てる制度をめぐり、それに反抗する人たちが裁かれる姿を描く。最初は共産主義への批判かと思ったが、チェコが共産化したのは1948年とのこと。すると、ドイツのナチス政権すら1933年なので全体主義をテーマにしたディストピア小説として極めて初期の作品だと思われる。というか、全体主義の悪しき面を予言していると言っても過言ではない。こんな作家を知らなかったとは……。
 「大洪水」(カレル・チャペック)はオチのある小話。取り立てて面白いかと言われると首をひねるが、ナチスの圧迫を受けている時勢とは思えないほど明るい小説であった。
 「裏目に出た発明」(ヨゼフ・ネスヴァドバ)もある種のディストピア小説である。ロボティクスが進み、人々は働かなくても生きられるようになり、人間が就く仕事の価値が極めて高くなり、その結果暇を持て余し何のために生きるのかわからなくなる……まあ労働礼賛小説としての側面がないわけではない。この作品が書かれたのは1960年とのことで共産主義真っ只中。むしろ、こんあ時代に共産主義が目指したような世界で憧れの職業がデザイナーみたいなチャラチャラした仕事とした皮肉っぷりは素晴らしい。なお、この作品はまだまだ価値を失っておらず、ベーシックインカムが真面目に論じられている現代こそ読まれるべきだと思った。
 「デセプション・ベイの化け物」(ルドヴィーク・ソウチェク)は、印象に残っていない……。
 「オオカミ男」(ヤロスラフ・ヴァイス)は吸血鬼と並ぶ民間伝承モンスターである狼男を科学を下敷きにした物語。狂人めいた医師が脳を移植する実験で友人の脳を犬に移植してしまい、その犬(人格は友人)が逃げ出し復讐する様を描く。だが復讐が完了すると、犬(元は人間)は次第に血の味を欲してしまい、夜な夜な犬の本能のままに人を狩ったというオチで終わる。行き過ぎた科学への批判とかそういう印象は受けず、同時代最新(1976年)のホラーを描こうとした感じがある。
 濃厚な作品のさなかに味わう軽やかに見えて切れ味の良い作品が「来訪者」(ラジスラフ・クビツ、1982年)。数ページしかないアイデア小説であり、オチがバレてしまうと面白さが失うと思う。ただ、初めて読むときは「そう来たか!」と感心した。アメリカの普通のSFっぽい。
 「わがアゴニーにて」(エヴァ・ハウゼロヴァー)。解説によるとフェミニズムをテーマにした作家とのことで、確かにジェンダーへのこだわりがこの作品でも溢れていた。また、この作家が得意としたのがバイオというか肉体改造系らしく、その2つが融合してディストピア感満載の独特の味わいとなっている。この作品が面白いのは成人男性の出番が極めて少ないことだ。その理屈は作品内で書かれているが、女性家父長制の全体主義的な団地(クラン)と男性が支配と言わないまでも女性と同じように生きる自由だけど退廃的と主人公から見られる都市が対比され、女性が偉いと作品内で主張しながらその女性コミュニティに潰され自死から逃れられなかった主人公(女性)を描く視線は恐ろしいほど冷たく感じた。共同体への批判は明確に込められており(この作品では共同体=全体主義=女性として描かれている)、この作品が描かれた1988年はまだ共産政権だったのに出版できたのかと驚いた。
 「クレー射撃にみたてた月飛行」(パヴェル・コサチーク)はケネディ大統領の暗殺? をネタにして偽史っぽいものを作るSF読んでる人なら「ああ、あの手ね」というその手の作品。実在した人間をファンタジーの世界で動かす奇想っぷりが売りなのでなかなか表現しづらいのである。
 「ブラッドベリの影」(フランチシェク・ノヴォトニー)は異星人とのコンタクトもので、正直僕には合わなかった……。解説ではブラッドベリに触発されたとか、ネットの感想を読むとブラッドベリが云々と書かれていた。僕は本当にブラッドベリと相性が悪いんだなと感心した。ごめん。
 最後の「終わりよければすべてよし」(オンドジェイ・ネフ)はナチスの反ユダヤ政策を題材にした作品で、2000年発表。こういう描き方でも良かったのかと感心。時間旅行を扱っているがそこら辺の理屈は全く説明がされず、当然タイムパラドックスもなんとなく読者に納得させて終わる。もちろん単なるジャンル小説というわけではなく、ジャーナリズムの非人間性という近年話題になっているテーマと絡めたかなり現代的な作品。なんだけど、なんとなく古きほのぼのとした印象を僕は受けてしまうのだ。テーマ自体は本当に現代の問題を描いているが、それを支える時間旅行というガジェットが昔の作品みたいで……。ぶっちゃけ、タイムパラドックスの設定次第では正反対の結末も描けたので、SFとしては少々粗が目立つ。でもまあ、終わりよければすべてよし! (念のために書いておくと、「終わりよければすべてよし」なのは皮肉と思われる。作中で個人の復讐は果たせたけど、作中の出来事を引き起こした社会の倫理には全く触れていないからだ。ナチズムは全く「終わった」出来事ではなく、ナチズムを生み出す土壌はまだ現代に残っている。2018年にこの作品が翻訳されたのは良いことだと思う)。


 本短編集を通して読むと、全体的にディストピア感あふれるというか、主人公などがチクリとひどい目に遭う傾向が強いと感じる。ただし、実のところ読んでてそこまでひどい目に遭う人たちに同情というか感情移入はしてなかった。キャラクターの性格は、古いお話が多いためかわからないが、かなりあっさりと書き表され、まるでおとぎ話を読んでいる気分だった。本短編集に掲載された作品がどこまでチェコのSFを代表しているのかがわからないが、本短編集を読む限りではチェコのSFは理屈や設定、つまりハードSFへの指向は持っておらず(作中に出てくるSFガジェットの大半は理論が設定されていないことが多い)、あくまで題材として時間旅行や宇宙旅行を選んだという印象を受けた。そのためSFの外見で中身はブラックなおとぎ話というか寓話となる独特の味わいとなっている。
 チェコについて全然詳しくない僕にその理由は思いつかないが、やはり社会主義体制の中で現実をそのまま書いた小説は禁じられており題材をSFというかファンタジーにするしかなかったのだろうかと考える。それと関連して科学というものに対する冷徹というか無関心な視点も英米SFを読んでいた僕にとっては新鮮だった。特にアメリカのSFだと科学や技術に対する信頼があって、それらは人間の生活を良くするものだという前提で書かれている。科学技術への批判はその裏返しのようなもの。日本も基本は同じようで、中国では技術への信頼がさらに凄まじい。一方チェコのSFは全体的に科学そのものに無関心で、だからSFとしての理屈付けが薄く、科学が人々の生活を良くするわけではない的な小説になるのかもと思っている。やはりこれも共産主義に対する反感が原因なのか。まあ、ここで書いた感想は本短編集を読んで受けた印象なので、もっと色々読んでみたいなと思った。

「バッドアート展」

 東京ドームシティ内で開催されている「バッドアート展」なるものに年末行ってきた。恥ずかしながら、このような収集が真面目に行われていると知らず、また海の向こうでこの手の作品だけで美術館を作ったことも知らなかった。
 どういった作品があるのか興味があって行ったわけだが……。

 バッドアートの定義がわからないので正直、ムーブメントにはならないだろうなと感じた。一応、美術館の運営者はそれなりの基準を持っているらしく子供の作品は対象外だし(アール・ブリュットでまとめられるアウトサイダーアートも同様に対象外ということか)、地方のお土産なども対象外らしい(雑誌の宝島とかでネタになるあの手のやつを除外するためか)が、テーマも技法もレベルもバラバラの作品を見比べても正直数作見終わったらあとは惰性で眺めてただけだった。それぞれの作品に付けられる受けを狙った説明文は絵画という文化に対し軽薄な印象を与え、せめてどんな意図で収集したのか真面目に解説すればバッドアートを集める意義も出るんだけど、と残念である。マルセル・デュシャンの「泉」など本場のアート作品でもバッドアート展示物と同程度かそれ未満の作品は多数存在するが、それらはアーティスト自身による解説やアート界隈の評判などで底上げしてもらえて羨ましいという気になる。
 そう、ここで言われるバッドアートって、製作者が無名だったり知られなかったりで好意的な評価を得られなかっただけなんじゃないか。バッドアート展で展示されている作品の中にはそれ単体でも質が高く感じる作品もわずかながらあったため、それらがアートと言われるもの(例えば村上隆氏の作品とか)と何が異なるのかを探求とかしてみても良かったのではないかと思う。
 まあ、そんな不満を美術館側が聞いたら、そういうのも含めてバッドアートを通して考えてください、みたいに主張するのかもしれないけど、作品をそのまま展示して終わりにするのであれば美術館じゃなくてもできるから。作品の背景の追求とそれを大衆に向けて解説するのが美術館の役割と考えており、それがなかったらそれこそ雑誌のVOWにしか過ぎないわけで、バッドアート美術館の人はもう少し自分らが収集するものが何なのかを考えるべきだと思った。

 そうそう、今展覧会はカタログ(パンフレット)の類がなかった。仕方ないか。売れなさそうだし……。