Tellurは、……現在色々物色中です。

「ワン・モア・ヌーク 」(藤井太洋、新潮文庫、2020)

2020年3月6日  2020年3月6日 
 どうもこの本は2020年3月5日~11日を描いた作品らしい。というわけで、本書が出てすぐに現実に追い越されるため急いで読んだ。

 物語は、ISIS(イスラム国)の残党によって核を持ち込まれ日本人の協力者によって核爆弾が作られたことによるテロリズム(政治的な目的があるため正しく「テロ」だ)に対し、ISIS戦士・協力した日本人・かれらを追うCIAに雇われたエージェント・偶然から事件に巻き込まれる2人の刑事という4サイドの視点で描いた作品。登場人物はそれぞれ自分の主張と任務があり、シナリオの都合でネジ曲がった部分は感じられない、極めてリアルな作品である。

 この作品を紹介する上で一番簡単に言い表せるのは、「ゴジラの出てこないシン・ゴジラ」、かな。組織と個人コンフリクトを描き、組織が組織として活動する格好良さを描いている。特に専門外のプロフェッショナルを集めてミッションに挑む序盤はまさにシン・ゴジラの対ゴジラ会議のような面白さがあったのだが、物語が進むに連れて4サイドの主人公が強調され、プロフェッショナルたちサブキャラの影が薄くなったのは惜しい。とは言え、組織を描いた作品としては当然のテーマであるかもしれない(シン・ゴジラはそこの描き方は巧みだっただけで)。

 ただ、正確にはシン・ゴジラからフィクション(ゴジラ)を抜いて近年の政治や文化ネタ(想定外の出来事やら硬直した権威やら善意の押しつけやら風評被害やらアメリカへの反感やら)とヒロイック性を加えた作品と表現でき、それだけにシン・ゴジラにもあったフィクション的なヒロイック性が極めて強調されたグロテスクな作品になったことが否めない。

 それが1番際立つのが主人公の1サイドとなるテロリストを追う2人の警官。何と独断でテロリストの情報を秘密にして自分たちだけで解決しようとする。擁護しておくと、これは自分たちだけが知っている情報を持ち、上に報告しても取り入れられず、良い解決法を見つけたことによる「善意」から来るのだが、結局は核爆発は起こらずとも臨界を起こした挙げ句テロリストの目的の1つを達成させた体たらく。うーん、ダメでしょう、これは。

 実のところこの作品、テロリストに協力する日本人主人公が飛び抜けて万能の能力を持っており、彼女とISIS戦士主人公が手を結ぶことでCIAや警官ら日本政府サイドにとって「想定外」の出し抜きが連続して起こり読者をハラハラさせるのだが、そこでスタンドプレーに走るのはいかがなものかと思うのだ。結局、何が起こっても責任なんて取れないし取りようがないのだから。

 物語のエンディングを書いてしまうと、核の臨界はテロリストに協力する日本人主人公の「自己犠牲」でもって処理される。核爆発という最悪の事態は免れたものの、それなりにマシと言う程度であり、さらに言えばもっと「想定外」の隠し玉をテロリストが用意していれば核爆発が起こっても当然だった。作中ではみんな頑張て良く出来ました的な終わり方だったが、日本政府サイドの主人公は完全敗北と言って良いレベル。「未曾有」の大危機の中で対応した警官主人公は政治家を評価する時の「結果ではなく努力」という基準がエピローグで用いられ、上で書いたヒロイック性と結び付くことでスタンドプレーの罪を問われないまま終わる。これをグロテスクと言わず何と言おう。この軽さは、組織として動き責任をとったCIA主人公、テロリストとして散ったISIS戦士主人公、その場しのぎの「自己犠牲」ではあるが事件を収めたテロリストに協力する日本人主人公と比較することで明確になる。

 そもそも警官主人公が暴走した理由である組織への不信が恐らく今後の日本社会を考える上でのキーワードになるだろう。この作品、リアルなだけに日本社会に対する不信を表に出した作品としても見事。CIAとかISIS組織は一枚岩ではないにしても足を引っ張る連中は少なく、組織としての目的をみんなで共有しておりそれぞれのミッションを成功させてはいるのだが、それと比較される日本政府はグダグダ。シン・ゴジラで「御用学者はダメだ」みたいなことを言われてたシーンを想起させる会議があり、ダミーの爆弾に対して反論を耳にも入れず戦力を全部投入してしまったり(これってイタズラに極めて弱いよね……)、恐らく都民を避難させる際も必要未満のことしか言わずにとりあえず危険区域から出て行かせたんだろうし、一回方針が決まるとそれを変えることはできないと組織のメンバーすら諦める始末。その全ての結果が上にも書いた警官主人公のスタンドプレーと核臨界になる。要素要素は僕も納得できるし、体験したことはある。それで本書の中では今後の日本がやるべき提言みたいなことが書かれているが、そんなことより、いやそれも含めて日本人が日本社会を信頼するグランドデザインを描かなければ本当に大変なことになると感じた。何がアレかと言えば、現実にはこんなシナリオ的に有能な警察官もいないと思われる(そもそもテロリストの協力者を何でここまで信じられたのだろう、結局裏切られたのに)ので余計に事態は悪い。

 そうそう、エピローグを「自己犠牲」を行ったテロリストに協力する日本人主人公の視点で描くことで、何か良い雰囲気にしつつ暴走した警官主人公の罪を見えづらくしているのは姑息だと思う。上にも書いたヒロイックさを強めすぎた欠点である。



 もう1つ惜しい点を書くと、市民が、大衆の影が薄かったのもシン・ゴジラからの退行であろう。テロリストに協力する日本人主人公は東日本大震災に関連した悲劇を口にし、著者自身も大衆によるデマや科学への拒否が本書を執筆した(というか創作に対する)動機の1つと語っているらしいが、それなら余計に大衆の姿を描くことは必要だったと思う。本書で大衆が書かれたのはテロリストに協力する日本人主人公の同僚っぽいサブサブキャラを除けば、主に都心から整然と避難完了した結果(皮肉を言うなら「規律正しい日本人」という日本人の自己認識そのものだね)と事件に対する関連死という数字しかない。僕も最初は日本政府側主人公が親兄弟を心配する素振りすら見せず淡々と任務を遂行していく姿を格好良いと思いながら読んでいたが、大衆の様子が描かれないことに気付いたらそれが単なる不要な要素の切り捨てではないかと思ったのだ。本書のテーマを書くなら、大衆を描写すべきだった(というか核爆発によって被害を受ける大衆の姿が描かれない本書で、何で登場人物がここまで危機感を持っているのか、東京の事情に詳しくない人は理解できるのだろうか?)。

 本書著者の良き読者ではないが、いくつかの短編を読む限り、「リアル」な作品を描こうとしたら極めて同時代性が高くなり数年後に古びている作風だと認識している(「行き先は特異点」)。まさに本作もそうだと思う。

 未来からのイチャモンになってしまうけどとりあえず書きたいのは、後手後手で最悪から2番目の結末になった作中の日本だが、詳細は語らないものの住民の退去は完了させられているのは褒められるだろう。現実の3月5日なんて、コロナウイルスで現状(日本にウイルスは入ってきたのだからそれ前提に行動しよう的な話)を明言せず、大丈夫ですと警戒してくださいと言い張り、戒厳令を狙っているとしか思えないのだから。

 正しく現実に追い越された作品であろう。
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