2010年8月16日月曜日

「現代語裏辞典」(筒井康隆、文藝春秋、2010)

 つい最近のことだ。会社の近くの丸善で本を物色していた時のこと。文芸コーナーに野球マネージャー本があって、堀江貴文と藤原正彦本が両隣にあった。その側に「現代語裏辞典」があった。
 筒井康隆の本を読むのは久しぶりで、今はどんな立ち位置の作家なんだろうか。僕の知っている頃は前衛作家という印象があったので(だけど2000年代だから、その僕の認識も時代遅れではある)、今の「巨匠」的扱われ方からすると本人にとって幸せなのかなあ。
 で、「現代語裏辞典」。辞典型風刺というのだろうか、今勝手に僕が作ったネーミングだけど古きはA・ビアスに始まってちょこちょこと傑作が出たりするジャンルだ。一般的な辞書に見せかけて皮肉とか風刺とか、ひたすらおふざけを書き連ねる本だね。個人的には、それを大真面目にジャーナリスティックに行うと、モネスティエの「大全」シリーズになると考えているがそれはどうでも良いや。
 もともと僕もA・ビアスの「悪魔の辞典」が好きだから、「現代語裏辞典」は名前を見ただけで「悪魔の辞典」系の作品だとわかった。著者が筒井康隆でもう、ビンゴ。それで読んだのだけど……。

 うーん。うーーん。
 どうしよう。
 ネットで検索すると面白いと言っている人が多いしなあ。
 僕にとっては「悪魔の辞典」の思い出が濃すぎて素直に楽しめなかった。いや、もっと言うとつまらなかったんだ。項目1万語以上あります! はうれしいのだけど、多すぎて説明が短い。週刊アスキーとかファミ通とかの大喜利ライクなネタ集に成り下がっているっぽい(そういえば週刊アスキーにはデジタル用語を解説する連載「松井のおもしろゼミナール(松井のIT用語)」"松井英樹" というものがあってだな。内容的に毒のない「現代語裏辞典」なのだよ。つまりそれこそ本当の内容自体はともかくとしても、外見が週刊アスキーレベルになってしまうということで。だからこそA・ビアスが偏執的に用意した濃すぎる例文が光るわけだ)。
 これって辞典を辞典せしめている要素がないんだよね。その言葉が名詞なのか形容詞なのか、それとも副詞? 活用は何? 用法・例文・類語などは? そして50音の見出しがないのもダメ。
 それらを書かずに言葉の説明に終始してしまっている感じが拭えなかった。僕の今言った要素は「悪魔の辞典」そのものの特徴なので、差別化をはかろうとしたのかもしれないけど、僕にとっては辞典ものに必要なリアリティを欠かした内容になってしまった気がする。
 特に僕にとって致命的と感じたのは例文がなかったことだ。上にも書いているが、語句の定義と例文が辞典としての肝だと思っている。その定義が短い上に(ついでに筒井康隆の本を知らないと楽しめないネタも出てきているし内容は……いや、ここでは語るまい)、例文が皆無。どんな文脈で言葉を使っているのだろう。どうして面白いのだろう。なぜわざわざこんな定義としたのだろう。その欠如こそが「現代語裏辞典」の問題点である。何度も書くが、A・ビアスはなぜその言葉にその説明を当てはめたのかを証明するためにわざわざねちっこく例文を描写しているのである。
 ただ、「悪魔の辞典」は何だかんだ言っても古いのだ。そしてキリスト教の影響がプンプン漂っている。日本に合った現代風の「悪魔の辞典」を読みたければ是非どうぞ。決してA・ビアスの「悪魔の辞典」と読み比べないこと。

 ところでレビュアーの人たちって「悪魔の辞典」と比べたりしなかったのだろうか。一応筒井康隆は「悪魔の辞典」の翻訳をしてるっぽいし、「悪魔の辞典」自体有名だと思うんだけどな。「現代語裏辞典」がそこまで褒められるほど、「決定版」(from Amazonレビュー)だとは僕には思えないことだけは書いておこう。









 僕はこの連載を生で読んでいないのだが、後書きの方に「現代語裏辞典」はネットの会議所で作られたみたいなことが示唆されている。そして協力者の名前が列挙されている。もしかして今までの僕は完全に勘違いしていたのではあるまいか? 辞書としての擬態がなされていないのは問題外としても、内容の薄さと短さはネタ元が大勢(しばしば素人を大量に含んで)いたからではないだろうか。素人川柳とか大喜利みたいな感じで。それならどう仕様も無い。