2020年12月31日木曜日

はじめに(2016/Dec/29更新)

 *Internet ExplorerとGoogle ChromeとFirefoxでの表示確認済。ただし、Firefoxだと一部の表示が乱れます。*

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2018年8月10日金曜日

「うどん キツネつきの」(高山羽根子、創元SF文庫、2016)

 「日常系」というのは、キャラクターの他愛もない生活の様子をクスリと微妙な笑いを交えながら描く作品が多い。実は、僕にとっては、キャラクターの日常に挟まれる異様な何かをほのめかすことによって僕たちの普通さ・平凡さの儚さを浮き彫りにする作品と認識していた。いわゆるすこし・不思議系というか、藤子不二雄系列の作品だ。
 本書は紛れもない藤子不二雄に連なる「日常系」である。
 最初の「うどん キツネつきの」は確か年刊日本SF傑作選で読んだことある気がする。その時はまだ奇妙な味というかストレンジ系に目覚めてなかったから、拍子抜けした覚えがある。3姉妹が変な姿の生き物を「うどん」と名付け、飼う様子を10年以上描写した物語。もちろん大河的な描写ではなく、特定の時間の特定のエピソードを4つ描くだけなのだが、ペットの「うどん」が誰からも違和感を持たれず犬として3姉妹の生活に馴染み、しかもそれぞれのエピソードでも脇役の立ち位置しかないのは面白い。ラストシーンで「うどん」が何だったのかわかるのだが、そもそもこの作品はその手の推理を楽しむ小説ではないし、そして「うどん」の正体がわかるシーンが夢や幻なのではないかという理解もできてしまう。本作品のテーマは、側にいさえすれば中身が何でも良い存在である「うどん」を通じて、人がペットを飼う理由を探すことであり、それも理由をズバリ書くのではなく仄めかしてぼやかして、やっと読者に伝えるのだ。
 「うどん キツネつきの」で著者の作風がわかったところで、「シキ零レイ零 ミドリ荘」もまた仄めかしの作品である。多言語小説と呼ぶべきか、関西弁や移民の話す日本語、ネットスラングなど標準語でない言葉が大量に投入され、人間の相互理解がいかに不安定なものなのかを描写した作品。なんだけど、実際に作品にしてしまうと、いわゆる「役割語」の見本市にしかなっていないのが残念。最近話題になった小説の中の女言葉に関連し、この著者は女性の話し方に女言葉を用いず、その意味でリアリティがあったんだけど、中国人や東南アジア人(ベトナム? フィリピン?)がいかにもな外国人喋りをしているのがダメである。ネットスラングにしても、思いっきりギャグで書くなら良いのだが、多言語の1つにネットスラングってちょっと安易だよね。
 気を取り直して「母のいる島」。16人目の娘を産もうとして重体となった母のため故郷の島へ戻った主人公が、島に潜むテロリストと闘う物語。つまり主人公は15人姉妹の1人なのだが、会話が成り立つ大人組以外はキャラクターとして特段の書き分けがされていない。されていないんだけど、読んでる最中はそんなことに気付かずに自然に読めていたところが素晴らしい。姉妹たちの会話が自然だ、てことだからね。それにしても姉妹たちの人間離れした能力に、もしかしたら知性を強化されたネズミか何かかなと思っていたんだけど、特にそういうわけでもなく当たり前に人間だったのに逆に驚いた。絶対に人間以外の存在だと思ってたんだけどなー。
 「おやすみラジオ」はそれまでとは打って変わって不穏な雰囲気で始まる。誰が書いたかわからないネットの日記を読んだ主人公が日記の内容に影響を受け、好奇心から真実を確かめたくなる。その結果、実は主人公のように日記に影響を受けた人間がたくさんいることがわかり、現実に影響を与えてしまう。主人公は唯一、日記の書き手に会って真実を確かめるが、書き手の正体は……というストーリー。最初はネットを使ったホラーかと思いきや、いや確かにミームがばらまかれて個人の行動に影響を与えるのはホラーであるが、最後には文字通りの情報の洪水から避難するための方舟と直球のSFネタ。すごい。情報の洪水もそれまでさんざん伏線がはられており、しかもミームによって動かされる人間に自由意志はあるのかというテーマまで盛り込んでいる。もちろん短編なので問題提起だけなのだが、とてつもなく濃密な作品。
 最後の「巨きなものの還る場所」も「おやすみラジオ」のようにシリアスなテーマ。複数の時空で神話やおとぎ話が絡み、共通点が仄めかされ、最後に荒ぶる神というか怪獣というか巨大ロボットと呼ぶべきか、そんな存在が顕現する。比較神話学や物語論をかじったことをある人にとってはそこまで目新しいものではないが、人間の精神が似通っているみたいなテーマである。

 SFというより幻想小説の色合いが強い。もちろんSFであるか否かなんて意味のない区分けではある。なんでもない日常を丁寧に描けており、徐々に展開する上手さがある(逆に言えば大法螺を吹いたり序盤からトップスピードでクライマックスになる系の作品ではない)。現実に侵食する異物をじっくりと味わいたい人向けに。

2018年7月23日月曜日

「プロジェクト:シャーロック 年刊日本SF傑作選(2017年度)」(大森望/日下三蔵 編、創元SF文庫、2018)

 なぜか毎年買い続けている。ところで、収録されているタイトルと作者を東京創元社のサイトからコピペしたのだが、なんで収録順じゃなくて50音順で並べてるのだ……。収録順へソートするのが面倒くさいではないか!

 トップを飾る「ルーシィ、月、星、太陽」(上田早夕里)は海洋SFだ。人類が絶滅した後、人類の子孫である種族が独自の文明を築くため7つの海を冒険する物語……に繋がりそうな世界設定だけを書いた最序盤の作品。主人公の種族はそこまで独自性があるとは思えず、物語としてもよくあるというか、序の序しか描かれてないのでさすがに本作品単品だと微妙だと思う。去年の「プロテス」に比べると出来が悪い。
 「Shadow.net」(円城塔)は攻殻機動隊のアンソロジーということで、原作を読まない僕は面白いのか戦々恐々としていたが、原作を知らなくとも楽しめた。ただ、原作モノにありがちなことだが、世界観やキャラクターの説明が不十分なので何がテーマになっているかわかりにくいものがある。本短編で書かれたことって攻殻機動隊のお話からすると大問題なの?
 やっと続きモノでも原作モノでもない「最後の不良」(小川哲)。流行を否定するムーブメントを仕掛けた奴らは流行を生み出す連中だったというねじれをテーマにした近未来小説。短編だからか理屈に納得できないが(「流行を否定する」のが流行でないとわかる理由ってあるのだろうか。流行を生み出す連中は個性をクローズドサークル内で発散する道を選んだが、その程度で十分なの?)、これが「Pen」で連載されたという事実で全てを許す気になる。今は活字自体が一部の好事家向けとなっているので、ジャンルのクロスオーバーも許されてる気がする。市場が狭まるのにはこういうメリットがあるのかもね。
 「プロジェクト:シャーロック」(我孫子武丸)。表題作。近年はやりのビッグデータと人工知能、そしてオープンソースによる集合知をネタにした作品。過去の事件をデータ化しシミュレーションを行うことで難事件を解決するAIと、それに触発され難事件を作り出すAIを巡る騒動を描いた作品。モリアーティと呼ばれる難事件を作り出すAI、殺人を犯すシステムで似たやり方をどこかで読んだことあると思ってたら、諸星大二郎の「復讐クラブ」だ。ビッグデータの活用という点ではもうちょっと仰天する結果が欲しい……。
 造語でおなじみ酉島伝法「彗星狩り」。世界観がいつもの酉島氏とは違うのか、非常に読みやすかった。ビジュアル的なイメージがしやすいわけではないのだが、ストーリーがあり、描写が人間の理解の射程に収まっている。どんなシチュエーションで何が起こっているのかわかるため、酉島氏の作品にしては満足度が高かった(いつもは理解がイマイチなので実は買っても買わなくてもあまり変わらないのじゃ)。この作品を読めただけでも本書を買って良かった。
 「東京タワーの潜水夫」(横田順彌)は元ネタがミステリーのはずだけど、ユーモア寄りの奇想作品。本作はそもそもミステリーになっておらず、SFとしての側面が強調されている、のか? まるでコントを繰り広げているような噛み合わない会話が特徴的。SFとしてはどうかと思うが、かなり楽しめた。ミステリーから離れてもう20年近く経つんだけど、この手のミステリーなら読めるかも。ルーフォック・オルメス、読んでみたい! と思ったら本作品の掲載本はすでに売り切れ。発行数少なくないですか!? まあ、本編(?)である創元推理文庫版は普通に売られてるけど。
 「逃亡老人」(眉村卓)は……正直、そうですか、以外の感想が持てなかった。去年とは打って変わって、僕には相性が良くないようだ。作者がお歳を召されているからか、災害に対する諦観が強調されており、まだそこそこ若くて欲を捨てきれてない僕としては反発する。何よりも、実際に何らかの災害に遭った人に真正面からこういった台詞を吐けるのかね?
 ストレンジフィクション寄りの「山の同窓会」(彩瀬まる)は傑作。女性が卵を産み、おおよそ3回生んだら死んでしまう。そもそも山も海にも天敵がいるので死亡率が現実の人間社会とは比べ物にならないほど高い世界(まるでネズミとかマグロの群れみたいだと感じた)。男性だって生殖に体力が必要なのか、卵を生む女性と大差がない歳で死んでいく。そのようにかなり本能に支配されている「人間」の生き様を描いた作品。生殖を巡る個体と種の関係がテーマとなり、死の別れを克明に書き込んでいる。面白い。この作者の他の作品も読んでみたい。
 「ホーリーアイアンメイデン」(伴名練)は 強制的に「改心(洗脳)」させる力を持った女性についての、妹からの書簡体小説。書簡体小説なのに読みやすい、ストーリーへの興味を保ちやすいとかなり優れた作品だった。SF的なテーマは、自由意志の剥奪による新人類(伊藤計劃の「ハーモニー」で自我を捨てた人類みたいな)誕生的な内容だが、それよりも天真爛漫な姉に対する冷静で賢い妹の思い入れっぷりが目につく。姉の心に傷を残して自分が唯一の存在になろうと考え、姉の手に殺される計画を立ててその全ての経緯を複数の手紙にして送る妹のヤバさ! 姉だけだったらエロマンガにおける洗脳とか催眠ジャンルレベルのありきたりなお話なんだけど、そこに小さい頃から間近で暮らしされど全く洗脳されなかった妹成分(家族ながら世界で唯一の敵みたいな立ち位置)を付け足すと一気に不穏な物語になる。語り口が上手です。
 本アンソロジー中唯一のマンガ「鉱区A-11」(加藤元浩)。月面基地やらロボット三原則やら古風なSFミステリー。ホワイダニットは半分納得出来ないけど(人間と会話できるロボットなら言葉の裏側の矛盾も理解できるのでは?)、ミステリーの驚きは感じた。
 「惑星Xの憂鬱」(松崎有理)は軽い語り口による良い感じのユーモア半分人情半分の作品。冥王星探索および冥王星が惑星でなくなった経緯と冥王星から名付けられた兄妹を絡めた物語が変な人物も絡んで幻想的な作品となっている。長い眠りから目覚めた兄は、冥王星探査機のメタファーでもあるんだな。
 次の「階段落ち人生」(新井素子)。新井氏の作品はあまり読んだことがないが、これぞ新井文体である。昔の1人称文体かつラノベ的擬音語多用文体とでも言うべきか。よく転ぶ主人公だが、転ぶのには理由があり、主人公は時空の裂け目を感じ取る能力があって、裂け目に足を取られたからなのだという大法螺が展開されている。正直、時空の裂け目を巡る壮大な物語の序盤という感じがして、尻切れトンボ気味。この登場人物とシチュエーションで時空の裂け目というネタは展開させ辛いので、時空の裂け目は彼らの妄想で何にでも理由を見つけたがる人間の性質という路線にした方が話がまとまったと思うなあ。今のままだと、主人公は時空の裂け目を感じ取る能力(物理能力)と裂け目のパワー(?)で修復・治癒する能力(魔法能力)を持っていることになり、何でもありな感じがある。
 「髪禍」(小田雅久仁)はホラーSFと呼びたいところ、最終的にはホラーじゃなくなってしまったので単なる怪獣パニックものであった。中盤までの雰囲気が続けばホラーSFとして優秀だったのに……。髪を崇める新興宗教の儀式の場にサクラとして行った女性が経験する出来事を描いた物語で、序盤はこの宗教団体が「大髪主様」など独自の用語と教義の説明が混じりながら丁寧に描かれていく。不気味な雰囲気が出て面白い! と思っていたが、怪しげな教祖が怪しい儀式を行うと、まさか後継者が化物になってしまう! えー、そっちになるの? てっきり「裏世界ピクニック」的な認知論で処理されるものだと思ってたよ。異物を崇める宗教の民が異様な儀式を経て異形となるのって安易じゃない? 何をもってこのアンソロジーに入れたのかわかりませんでした。
 「漸然山脈」(筒井康隆)。あまり数は読んでないけど、いつもの筒井康隆文体。うーん、2018年にもなってこれを読まされるのは正直辛い。
 「親水性について」(山尾悠子)は集中力が途切れた。覚えていない。ごめんなさい。
 「ディレイ・エフェクト」(宮内悠介)は問題作。日常に非日常が入り込み、されどみんな慣れてしまった世界で破局を待つ作品。しんみりするのだが、逆にヤバイと思う。2020年の東京に1944年~1945年の東京が幻影の様に重なった。そんな異常現象の中、ある一家の心のすれ違いを描いた作品……なんだけど、東京大空襲という被害の前にあらゆる政治性を帯びた意見が(左右含めて)無視される世論の中、被害者としての日本と犠牲になった祖先が強調され、なし崩し的に幻影を巡る議論も物語も終わる。ある意味で今の日本とも絡み合ってリアルなのだが、諸手を挙げて褒められない。主人公一家の別れと仲直りが災害としての東京大空襲を背景にある種のロマンを持って描かれるけど、空襲ってそんな良いものではなかったと思うのだが。被害を引き起こした原因が、国民なのかマスコミなのか軍人なのか政治家なのかは小説として答えを出さなくても良いのだが、それを考える小説としての視点が本作を読む限りないのではないかと感じた。僕のスタンスは左翼寄りだからってのもあるかもしれないが、第二次世界大戦という要素をあまりにもお涙頂戴の素材にしすぎてないかと思う(仮想戦記やライトノベルは100%エンターテイメントということで許容範囲なんだけどね。この作品はもう少し視野が広いと思っているので批判せざるを得ない。)。
 創元SF短編賞受賞作の「天駆せよ法勝寺」(八島游舷)。仏教とSFの融合と言えば、少ない僕の読書遍歴からも、ブラックロッド(解説で言及されていた)や禅銃などを思いつく。仏教または東洋思想に基づくSFって中途半端に用語に馴染みがある分、エキゾチックに感じられるのだ。本作も仏教用語を漢字から何となく読者に理解させ、それを科学とつなげることで仏教科学とでも呼ぶべき世界観を無駄な解説を省いて描いている。造語によって精神世界とSFが融合するのは上の「髪禍」でも同じなんだけど、中途半端にリアル世界が舞台の「髪禍」に対し、現実とはかけ離れた本作の世界の方が何が起こってもむしろリアルに感じられて良いと思う。冷静に考えたら仏教には化物めいた存在も多神的な存在もいるのだから、ファンタジーでやりたいことは何でもできそうである。仏教SF、今後は絶対に流行るぞ。

 去年とは打って変わってハードSFに分類される作品が少なくなった。ハードSFは「ハード」の内容によっては近視眼的だから、なのかもしれないが、これはこれで寂しい。遠い世界の異種族系やストレンジ系や仏教系のSFは好きなんだけどオーソドックスなのも味わってみたいので、来年はぜひともよろしくお願いします。読者というのはわがままなのです。

「The Rabbits」(John Marsden著、Shaun Tan絵、1998)

 この作品が世に出たのは1998年らしい。そのため今の視点から色々言うのはフェアじゃない、とは思うのだが……。
 実は僕はこの作品が出版されていたことを知らず、この前ソフトカバー版を買ったのだった。英語だ、面倒だなと思っていたが何とか読み切れた。しかし内容に引っかかった。移民のアレゴリー? それともアメリカ大陸やオーストラリア大陸入植者? ショーン・タンのサイトでは植民地主義に関する話とのことだが……。

 ストーリーは、森の獣が楽しく暮らしてたところ、rabbitsがやってきて、最初は森の獣にも得だったが次第にrabbitsの数も増え、持ち込まれる動物が病気を広め、rabbitsは環境を破壊し森の獣を間接的に殺し始める。さて、森の獣にとってrabbitsがやってきたのは良かったのか。「我々(森の獣のこと)はrabbitsにどう対処すれば良かったのだろう」という森の獣のモノローグで終わる。

 この構図、最近見たような……。そう、今の情勢的には欧州やアメリカやオーストリアへの移民と取れてしまう。いや、中東からの亡命者やメキシコからの入国者、アジア系移民はrabbitsと違って先住者(白人)の土地を破壊(木を切ったり野生動物を狩ったり)したり病気を広めたりしない? それはどうだろう。文字通りの意味では白人の環境を破壊はしていないだろう。少なくとも移民が増えたら白人はネイティブアメリカンみたいに絶滅すると叫ぶ人はそこまで多くはないと思う(多いのかな)。今問題になっているのは手垢のついた言い方だが文化と文化の衝突であり、それが生活や住環境に影響し移民の排斥にまで発展している。そんな中で、そもそも植民地主義の歴史を寓話的に描いた本書が、今の、2018年に問題になっている移民とは無関係だと言えるのだろうか。

 僕にとってはrabbitsは移民とも読め、嫌な気分だった。植民地主義というのは明確な基準があって批判も簡単にできそうなんだけど、抽象化していくとどこかの段階で移民と構図が同じになる。それを区別するならば先住者と移住する人の違いを設定しなければならなくなり(つまり植民地主義と昨今の移民の違いは、先進国と遅れた国を設定してしまう)、新たな差別の構図となる。
 2000年以前の作品に文句をつけるのもなんだが、危ういものを感じた。

2018年7月6日金曜日

「ゲイルズバーグの春を愛す」(ジャック・フィニイ著、福島正実訳、ハヤカワ文庫)

 某読書会課題図書。
 SFでもなくホラーでもなく、かといってファンタジーというほどリアルな世界から遠ざかっていない……。それでいてガジェットは幽霊だったり時間移動だったり、魔法のような道具だったりする。こういう作風をなんと呼ぶべきかわからないが、ネットで検索したところ「『世にも奇妙な物語』風」というなかなか本質を突いた表現を見つけたので、それをお借りしよう。
 ジャック・フィニイの作品は初めて読んだが、現実に立脚していながら、その現実を越えたファンタジー(大塚英志氏の言葉を借りるならマンガ的リアリズム)に惹かれた作家だと読めた。解説によると古き良き時代への現実逃避とあるが、現実逃避? 確かにノスタルジックな作風なんだけど、逃避しているようには読めなかったなあ。日常に潜む少し不思議(S・F)さを昔を舞台にして描く傾向が強く、単なる昔は良かっただけの作品だとは思えない。筆者の興味はあくまでも今後・未来に向かっていると思うんだけど……。

 「ゲイルズバーグの春を愛す」。表題作。ゲイルズバーグの街でとっくになくなったはずの昔の電車や車が目撃される事件が起き、調べてみると街そのものが近代化に抵抗して起こったらしい、という内容。ちなみに上記あらすじだけでこの短編の全てを表している。時間移動に加え、街(共同体)のような概念が意思を持つというテーマ。まあ、過去への郷愁なんだろう。とはいえ、冷静に考えてみたら、過去を知らない若い住人も現れる中で単純に過去の光景を映すだけでは不気味としか受け取られないわけで、事実この短編でも過去へのロマンよりも奇怪な現象として書かれていた。ノスタルジーに浸らせない冷静な視点が、作者の特徴だと気付かされた作品。
 そんなわけでジャック・フィニイの魅力を自分なりにわかったところで2作目の「悪の魔力」。無名の骨董店で男が買ったメガネは服を透かし裸体を見ることができる魔法の道具だった。スケベ心が暴走しメガネで女性を物色しまくり、ついには着けた者を言いなりにする腕輪まで買う始末。しかし腕輪を着けたのが外見が悪い女性で、惚れられてしまい、逆に女性が骨董店で買った媚薬で男をモノにするという物語。これ、エロマンガでよくあるパターンだ! ドラえもん的というか、道具に頼ってズルするダメ男が欲望を暴走させ、しっぺ返しを食らうというお馴染みの物語である。面白かったのは主人公も外見が悪い女性も散策が好きという設定が冒頭に書かれているが、中盤以降は特に何の伏線にもなっていないところ。外見が悪い女性が無名の骨董店を知っていた理由として、つじつま合わせに追加されたのかなと邪推してしまった。
 「クルーエット夫妻の家」は打って変わって「ゲイルズバーグの春を愛す」みたいなノスタルジックなお話。今度は家が過去の思い出を映すよ。19世紀に建てられた家の建築図面で新たに建てた家が、当時の所有者の姿を映し出し、現在の所有者夫妻は次第に19世紀当時の姿に生活スタイルになっていく様子が非常に不気味である。ぶっちゃけ、不思議要素がなかったら単なる狂人の物語なわけで、単純な昔へのロマンとは言い難い気持ちの悪いお話。
 「おい、こっちをむけ!」。中島敦の「山月記」とテーマは同じ。芸術家志望の若者が大成できないまま死んでしまい、幽霊になった後で自分を芸術家と書いて墓石を掘るというストーリー。古今東西、こういう若者はいたんだなと納得。芸術は魔物である。
 次の「もう一人の大統領候補」はガラリと変わってユーモア小説。不思議なことを実際に起こしてしまう少年の巧みな手口が語られる。一種のミステリーである。読者はどうやってこの少年が虎に催眠術をかけたのかというトリックをハラハラしながら読むが、ラストで周囲の大人を騙したテクニックが政治家の資質とされ、それを見抜いた主人公を金で釣って仲間にする手口など皮肉が効いた作品である。
 「独房ファンタジア」はなかなかの泣かせる作品。死刑が目前に迫った囚人が独房の壁に面会や食事を忘れるほど魂を込めて絵を描いた。死刑執行の直前、無実の罪だったことがわかり、元死刑囚は出ていったが、壁の絵は男を待ちわびた家だった。あまりにもリアルな絵なので、描かれた家の扉を開けたら本当に独房の壁も開いてしまう系の作品かと思っていたが、きれいな終わり方だった。
時に境界なし」も時間移動のミステリー。そこそこの犯罪を犯した容疑者の足取りを追う警察官がそれに関わる学者(主人公)に話を聞く内に、時間移動で過去に連れて行ったとわかり、主人公に彼らを逮捕させるように強要する、というお話。ラストはその警察官が直々に過去に行って罪を償わせようとするものの、主人公の策によってそれが叶わない……のだが、小説として警察官を必要以上に憎たらしく描いたのがご都合主義的である。そもそも主人公は黙っていれば良いのに自分から過去に連れて行ったことを白状するわけで、それで警察官に脅されるのは自業自得である。しかもその後の対応も保身を考えたもので倫理的にどうかと。恐らく主人公に対する反感を和らげようとした結果が狂信じみた警察官となったのではないかと考えている。
大胆不敵な気球乗り」は次の「コイン・コレクション」でも見られる現実逃避ロマンスモノ。気球という非日常の閉鎖空間でロマンスが芽生えるけど日常に戻ってしまう切なさを描いている。「コイン・コレクション」と比較すると日常に戻るのは健全だなー、と思いました。
コイン・コレクション」は平行世界モノ。世の中には時々平行世界からのコインが紛れ込んでおり、それを使うと平行世界に行ける(自分の世界のコインを使うことで無事に帰ってこれる)。主人公はこの設定で何をしたかというと、倦怠期の奥さんに対する浮気であり、平行世界では元カノと結婚しているので自分の世界の奥さんに飽きたら平行世界に行こう! という構図。正直、平行世界への旅に何のリスクも書かれてないので(今の作品なら平行世界から連続殺人犯の自分が来てしまったとか、平行世界から来たことがバレるとか破急を付けると思う)、特殊能力を持った主人公による浮気物語以外の何物にもなってない。面倒になったら逃げ出せば気分も面倒な出来事もリセットできるという幼稚な現実逃避である(この作品が小賢しいのは、世の中の現実逃避作品はパッケージなどから現実逃避ジャンルだと主張し、その評価を甘んじて受け入れてるのに対し、「コイン・コレクション」は微妙な言い訳を延々と積み重ねてやってることは単なる現実逃避でしかないってこと)。
愛の手紙」も時間移動もの。古い机を買ったら、その中がタイムトンネルみたいになっており、元の机の所有者である薄幸の女性と手紙の交換を行うというもの。よくあるテーマであり、絶対に会えないとわかっているからこそ相手に恋でき、美化できるんだよね。この構図は相手が二次元であっても、顕微鏡で見た水滴の中の存在であっても同じ。この手のジャンルの王道なのでロマンティックな気分に浸れる。

 驚くべきことに、後から思い返しても全て内容を覚えている。どれもつまらない小説ではないというのがこの短編集の特徴である。ジャック・フィニイも「ゲイルズバーグの春を愛す」も初めてだが、SFとしての側面をことさら強調せずに物語の味付けとしてSF的要素を盛り込む手法は新鮮である。SFとしては、それぞれ時間旅行モノや平行世界モノなど1テーマごとに書かれ、王道の展開となるため、最近の作品に慣れた人からだと少し物足りない。もちろんジャック・フィニイがSFの始祖の1人ではあるのだが。最近の読者だと手塚治虫や藤子不二雄のSF短編集の方が親しんでいると思われるが、その原典なんだと改めて感じた。

「禅銃」(バリントン・J・ベイリー著、酒井昭伸訳、ハヤカワ文庫)

 いろんな意味でバリントン・J・ベイリーは時代を先取りしていたなあ、と改めて感じた。後退理論という空想科学、ストーリーよりも設定のほうが大事と言わんばかりに突如差し込まれる説明、銀河に散らばったのは良いものの人間の数が少ないから遺伝子改造された知性化動物(でも2級市民)、一方でロボットは知性を持つのに市民扱いされないので人権を求めストライキを行っている有様、そして当の人類は教育を施し若く(10歳とか)ても銀河帝国の要職に付け乱痴気騒ぎを繰り広げ、その癖若い女性では顔にシワを作り老成させるのが流行りだったり、ついでに物語後半で人間が生きたままバラバラに組み立てられ特に痛みも感じないとかいう悪趣味ぶり。これが1983年に書かれているなんて本当に信じられない。
 ストーリーは銀河帝国に滅ぼされようとした地球で、下劣な知性化猿が禅銃という武器を手に入れ、銀河帝国のお家騒動に巻き込まれる、というもの。異次元人が絡んだりもする。ぶっちゃけ、この作品の肝は収拾をつける気もなく次々に投入される奇抜なアイデアとヘンテコジャパニーズ&禅であり、ストーリーは後半になるに従って二の次(=いい加減)なもんである。あのシーン、なんで飛ばしちゃうの!? とかラストって「俺たちの戦いはこれからだ」エンドじゃね? とか色々言いたいことはあるが、そもそも今作はストーリーを味わうものではないのだ。
 胸焼けするほどの大量のネタが紙くずのようにちぎって捨てられる贅沢さを味わうべきだ。知性を持ったロボットが市民でない(=奴隷ですらない)のでストライキもサボタージュもやりたい放題で帝国のお偉いさんからさっさと人権を認めて奴隷労働させちまえよ、と愚痴をこぼすシーンはロボットSFのパロディとして現代でも通用するだろう。知性化動物やら人間が少ないので若い男女も帝国の高官になってるなんてアイデアはこれだけでもラノベ寄りSFの設定にできそうな具合。所有者の精神力に応じてとんでもないことができる禅銃に至っては評価不能。
 ストーリーはどうでも良いとしても、設定のために読んだほうが良い。

 ところで、銀河帝国のクーデターで人間に反旗を翻すのが豚なのは、オーウェルの「動物農場」があったからなのかなあ。

「多々良島ふたたび──ウルトラ怪獣アンソロジー」(7人の著者、ハヤカワ文庫、2018)

 薄々感じていたが、僕はウルトラマンではなく怪獣が好きだった。それも悪の組織から侵略のため操られるような目的のある怪獣ではなく、偶然長い眠りから目覚め不機嫌に街を壊す自然災害のような怪獣だ。僕が好きな怪獣作品も結構そういうのが多く(パシフィック・リムとか例外はもちろんあるけど)、「MM9」も初代が好きなのだ。
 実のところ、どうも僕は怪獣と退治するウルトラマンですら怪獣の1種と捉えているらしく、ガメラや正義のゴジラ的な理解しかしていない。怪獣が怪獣を倒すのは単なる縄張り闘いの結果であって、人間はそんな災害に巻き込まれて右往左往するだけの小さい存在に過ぎない。そのため同じ円谷プロ監修の小説であっても「ウルトラマンデュアル」より本作「多々良島ふたたび」に軍配を上げたのは当然のことであろう。
 そう、本作「多々良島ふたたび」はウルトラマン(ウルトラQやウルトラセブン、怪奇大作戦も含めて)に出てくる怪獣に焦点を当てたアンソロジーであり、怪獣の魅力が、さらには怪獣としてのウルトラヒーローが余すところなく描かれているのである。

 1番手の「多々良島ふたたび」(山本弘)はストレートなウルトラマンスピンオフ小説である。ウルトラマンもしくはウルトラQ本編を観ていないとストーリーの前提がわからない。作中での理屈の付け方や真相など正統派なスピンオフで作者が原作を愛しているのはわかるんだけど、もっと自由に書いてもらったほうが楽しかったと思う。
 「宇宙からの贈りものたち」(北野勇作)は……うーん。作者の作品では「かめくん」は好きなんだけど、「かめくん」以外の作品とは相性が悪いのだ。文章のテンポが僕の好みと合わないっぽい。実のところこの作品もどうも僕にとって苦手な部類だったらしく、3回くらい読んでも内容が頭に入ってこなかった……。ごめんなさい。
 「マウンテンピーナッツ」(小林泰三)。挿絵の絵柄も相まってポップな印象がある。「ΑΩ」の再来か!? と身構えていたがそんなことはなかった。調べてみると、「ウルトラマンギンガS」の外伝らしい。とはいえ、当該作品を観ていなくとも(僕は未視聴)特に不都合はないと思う。行き過ぎた環境保護団体・野生動物保護団体に対する皮肉が見られるが、ちょっと単純化が過ぎると思う。常識的に考えて、人的危害が大きいのであればそんな野生動物を保護する動きは高まらないのでは? しかも怪獣はおそらく日本を中心に襲っているはずであり(ここらへん「ウルトラマンギンガS」で説明があったのだろうか?)、地域の特殊性からも免ぜられると思う。一介の環境保護団体が政府すら超越する権限を持っていて、さらに住民を虐殺できるくらいの軍事力と兵力を持っているなんて設定、リアリティがあるのだろうか?(これがマフィアとかならあるあるなんだけど)。テーマは、ウルトラヒーローが人間同士のいざこざに介入することの是非。理屈からいえば人間が怪獣を製造して街に放てばウルトラヒーローは怪獣を倒せないこととなるため、本作の怪獣もそうした方がよりテーマを強調できたのでは? と思う。短編なのに主題が2つあり、どちらも徹底できてないのでちょっと尻切れトンボ気味。
 「怪獣ルクスビグラの足型を取った男」(田中啓文)はやっぱりダジャレ落ちだった。田中啓文をケイブンと読ませた時、「ああ、あれか」と思ったが、予想に違わずあれとなったのでむしろ安心。ダジャレ以外だと日本特撮愛を感じられるしんみりするお話であった。ラストまではへんてこりんなダジャレもネタもなかったと思う(ラストが変と言っているわけではない)。田中啓文氏の作品は語りが上手いんだよな(そしてついついダジャレを読んで脱力する、と)。
 「影が来る」(三津田信三)は怪奇大作戦系列の作品らしい。作品単品で事前の知識が何もなくても読み進められ楽しめたのだが、普通の怪奇小説だった。とはいえ、よく考えたら、ウルトラマン自体、本人ではない存在が本人と入れ替わって生活するというモチーフがあるためドッペルゲンガーとの親和性が高い。一見ウルトラヒーローとは関係ないように見えて、実はこれ以上ないほどウルトラマンのテーマに沿っている点で、読み終わってしばらく考えていたら本アンソロジー1の傑作だと思えてきた。ウルトラマンを意識せずとも読めるので万人におすすめできる。ウルトラマンは影も形も出てこないけどな!
 「変身障害」(藤崎慎吾)はこれぞウルトラマン(実際はセブン)をテーマにした作品、といった感じで興奮する。ウルトラセブンに出てくる退治された宇宙人が主人公とともに悩み、主人公の正体を探るシーンは、絶対に何かが起こりそうな不気味な雰囲気を持っており、すでに完結した作品だからこそできるものであろう。主人公とウルトラセブンが同調する理屈はファン向けの小説だからできそうな原理。主人公が妻子持ちのおっさんであることや、モブキャラとして出てくるかつて敵だった宇宙人の冴えなささは、この作品が紛れもなく大人向けなんだと主張している。
 最後の「痕の祀り」(酉島伝法)はいつもの酉島氏、と書くとアレなのだが、ウルトラヒーローやスペシウム光線を酉島氏的に処理するとこうなったみたいな作品。ウルトラマンが倒した怪獣の後片付けというこの手のアンソロジーでは必須のお話。面白かったのは、ウルトラマンを怪獣の一種として捉えており、スペシウム光線をヤバい光として描いている点。カレル・チャペックの「絶対子工場」が設定の元ネタっぽい。本作品ではウルトラマンを絶対子を放つ存在=宗教的な巨大な存在として描いているため、スペシウム光線が放たれる時周りにいると漏れ出たスペシウム(作中では絶対子)によって解脱してしまう……、というの設定。ラストは先の「影が来る」同様、擬似的な入れ替わりモチーフとしてウルトラマンアンソロジーらしい終わり方だったと思う。怪獣の死体処理をするのでウルトラマンが現れたら駆けつけなければならない(=息子の側からいなくなる)お父さんを見て、息子がお父さんはウルトラマンと勘違いするのは微笑ましかった。本作品中1番のしんみりするシーンだった。設定のぶっ飛び具合も本作品中1番だったけど。

 総括すると、ウルトラマンは怪獣なのだ。それはそれぞれの短編の作者も感じていたらしく、「変身障害」みたいにウルトラセブンは凡百の宇宙人と変わらないし、「痕の祀り」のようにストレートにウルトラマンと怪獣が同一だと描いた作品もある。仮面ライダーを例にとらなくても、やはりヒーローは怪物の1種の方がドラマが生まれて良いと感じた。