2020年12月31日木曜日

はじめに(2019/Dec/29更新)

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2018年11月12日月曜日

コジ・ファン・トゥッテ(日生オペラ2018秋)

 日生オペラのコジファントゥッテを見てきた。事前にこの作品は現代では性差別の問題に当たるという情報を得ていたが、この舞台を見た限りだと確かにそうだと思う。劇中の倫理観も古すぎて歴史的な価値を主張するにもちょっとつらいものがある。ある人はそこまでひどくはないと書いていたが、アレンジのせいかもしれないけどなかなかひどかったぞ……。

 演出家は現代風にアップデートするためにいろいろな工夫をこらしたみたいで、今作は元々女主人公が人間だったがAI(ロボット)ということになった。それはそれで頑張ったっぽいのが観ていて(パンフレットにも書いてあるし、舞台背景とかもその努力は見て取れた)感じたが、やはり性差別そのものは消えてない。むしろ女主人公を人工知能にしたので、女性とモノは一緒というグロテスクな構図になってたと思う。

 ストーリーは、
「姉妹と付き合っている男主人公2人が悪いおっさんにそそのかされて恋人は浮気をしない人間かテストした。見事に姉妹が堕ちて浮気相手(男主人公2人が姉妹の本性をさらけ出させるため! に変装)と結婚しようとしたとき、男主人公2人が女主人公姉妹を責めて元サヤに収まる」
って流れ。全体的になんか既視感がある。この手のお話、2chの浮気をとっちめる系のスレッドにありそう。あと、妹が先に堕ちて姉を引き込もうとする流れなど随所随所にエロマンガネトラレ物の類型とそう変わらないシーンがあった。強く迫れば女なんて堕ちるとか、エロマンガでやる分には良いのだけど、良い歳した大人が真面目に観るものかね(演出の都合かもしれないけど変装した男主人公が妹に比べると貞淑だった姉を落とすシーンは、口説いてるだけに見えて、実は無理矢理体の関係になったようにも見えた)。

 僕が思うに、台本自体に①男ー女の性差別と、②男性間のマッチョイズムと、③階級の問題が絡んでいる。いやそもそも、大人が大人に対してこの手の悪質なテストをする時点で言語道断なんだけど(圧迫面接とか偽の論文を投稿して査読を調べるとかが可愛いものだと思えるほど)、それは置いてといて、つまり①男の浮気は許されるけど女には貞淑さを求める、②恋人の貞淑さを賭けにするみたいな内輪のノリを現実でやらかす、③船をチャーターしたり偽の結婚式を立ち上げたりとやりたい放題やれる賭けの胴元がそこまで裕福でもなく知識も経験も少ない若い男女4人をおもちゃにする、ところが問題だと思う。これで人間の本質とかが見えてくるのかね。
 ついでに本公演だとさらに、悪いおっさんの助手となって姉妹を騙す女中の立ち位置が不明だったし(作品全体はどこかの研究室で、姉妹は男主人公2人に作られた人工知能のはずで、じゃあ女中の設定は?)、そもそも生身の女性に振られたので代わりに人工知能を作ってテストしますってところが浮気しない設定にすれば良かったのでは? としか思えない。観ているときは設定が活かせてないなあと苦笑いをするレベルだったが、改めて思い返すとアレンジがひどい。パンフレットには人工知能をテストする=「エクス・マキナ」を引き合いにだしていたが、「エクス・マキナ」は情報を有していてテストする男がいつの間にかテストされる側になっていたり情報を有していないことに気付いたりとかなり入り組んだ作品だったぞ。表層だけなぞってもダメだと思う。

 さて、じゃあどんなアレンジなら満足か、と言われると難しい。僕が観たコジ・ファン・トゥッテは女主人公2人が常に2人で行動していたので、いっそ男主人公2人も(ついでに悪いおっさんであるドンさんも)キャラ上は女ってことにして、女6人のコメディにした方が今風になったのでは? と思った。男性キャラが他人をテストする構図は、マッチョイズムにしかならないので、たぶんキャラ上全員男性にしたら別の生々しさが出るだけだと思う。もしくは年端の行かない子供の遊びという形にして主役6人の年齢を大幅に下げるとか……。
 オペラである以上、音楽とセリフが結びついているので変えようがないのは仕方ない。この作品は舞台で見るより音楽だけを聞くのが今後は良さそうである。

「魔界転生」(日本テレビ開局65年記念舞台)

 明治座の口演のやつを観てきた。実は、僕にとって魔界転生は甲賀忍法帖に比べると設定の壮大さに比べて派手さで劣るイメージがあり、小説を読んだだけではなぜ歴史上の強者達が復活する魔界転生が地味なのかわからなかったが、舞台を見て発見。
 それは、敵があくまでも普通の人間なのだ。忍法帖シリーズみたいに異形の力を用いず、悪魔の力で復活したものの必殺技も持たずに単に殺陣するのみ。柳生十兵衛も必殺技と呼ぶにふさわしい必殺技は持ってないが、あくまでも人間であることを考えればその地味さが渋い格好良さになる。敵の転生衆どもは人間を超えてるくせに派手な技の1つや2つも放てないのか!
 たぶんそれが舞台としてのリアリティになっていると思う。必殺技をもっているとアニメや映画になってしまうだろう。舞台でそれは……難しいだろう。それはわかっているが、やはり転生衆はその強さを示すため必殺技を放ってほしかった。原作小説も今回の舞台も、結構あっさりと転生衆は殺されてるからなあ。

 舞台そのものはガンガン動いて派手にライティングがかかっている。ただし、事あるごとにスクリーンに映像を投影されるのがちょっと僕には期待はずれだった。特に島原の乱の合戦シーンはかなり映像で見せられていたんだけど、映像を見るなら映画で良いじゃん……と思わないでもない。舞台は生で役者の芝居を見るのが醍醐味なんだから、映像は多用してほしくはなかった。ただし、役者に上から映像を被せる表現は、例えば首を切られるとか迫力があって良かった。舞台における映像とはこうやって役者と融合させる方向でいかなくちゃね。

 ストーリーは多少アレンジが入っている。今回の舞台は女性枠に淀君が参戦。ただ散々盛り上げてた割にはあっさりと退場してしまった。淀君の成仏は物語の後半で良いのでは……と思ったけどそうすると柳生十兵衛が魔人殺しの剣を手に入れられないのか。ストーリーが破綻なくまとまっているため物語の展開に不満があっても文句を言いづらいのが辛い。

 演技は主人公の人と浅野ゆう子氏と松平健氏が飛び抜けて優れていた。他の人、特に若い人ら、はシーンによってちょっと首をひねるところもあった。僕が気になったのは時々すごく滑舌が悪くなってセリフを聞き取りにくくなったりするところ。浅野氏・松平氏に比べると声が響かないので早口になったりするとセリフが聞き取れないときもあった(もちろんエロイムエッサムの呪文は聞き取れなくて当たり前とわかっているので、別のセリフで、です)。他には叫び系の声が喉からウギャーと出してるだけなのでなんというか、ダサい。日本の役者はもっとましな叫び声を発明しないと演技がダサくなってしまうぞ。

 とは言え全体的には非常に満足。質の良いストーリー、格好良い舞台、素晴らしい演技、本当に見てよかった。

2018年10月29日月曜日

「竜のグリオールに絵を描いた男」(ルーシャス・シェパード、竹書房文庫、2018)

 もしも我々の世界に、我々自身が認識できる形で人間を超えた存在がいたら? その存在はあまりにも巨大で、何の力を持っているかすらわからず、我々と意思疎通はできなく、されど完全な無機物とはみなせず意思を持つ存在と思えてしまう。要するに手垢のついた呼び方をすれば「神」なわけで、この本は「神」が人々の見えるところに鎮座している社会で起こった事件を描いた短編集である。
 歴史上、中世などでは神は身近に感じられてたと思われ、その感覚がこの本では中心のテーマとして描かれている。登場人物の思考は現実世界の人々に極めて近いため、ファンタジーを描いたというより神と共に暮らす社会のシミュレーションが作者はやりたかったのだなとわかる。

 そのような前提で読む前に、世界観の説明をすると、この世界には大昔に偉大な魔法使いに封じられた巨竜グリオールがいる。グリオールは身動き取れないが長年に渡り成長し続け、ついには土地のような巨体となる。人々もなぜか肥沃なグリオール近くの土地に住むが、実はグリオールは精神干渉の術を常に起こしており、周辺の村人やついには少し離れた崖の竜ですら意のままに操ってしまい……。

 表題作「竜のグリオールに絵を描いた男」は人生を1つの事柄に捧げてしまう狂気を主人公の男を通じて描いている。ちなみにその狂気は男だけではなく、男を支援する街全体にも感染している。巨大な竜に描かれる絵画のための絵の具や、絵を描くための足場や人足など、竜を殺したいのはわかるけどそこまで挙国一致するか? というレベルだからだ。そう、この物語はあくまで壮大なプロジェクトを進める主人公の人生を要所要所を通じて描いたものだが、その背景として膨大な人々の人生が狂わされ、殺されたことが仄めかされている。つまりはある種の政治体制とその帰結の途方もない愚行を「絵をもって竜を倒す村」を通じて描いているのだが、プロジェクトの音頭を取る絵描きはそこまでのカリスマ性を持たず、それを支援する村も取り立てて独裁的というわけでもなく、淡々と狂気をひた走るおぞましさが竜に絵を描くというファンタジックな題材の裏に隠されている。

 次の「鱗狩人の美しき娘」は事件に巻き込まれかけた妙齢の娘が竜の体内に逃げ込むことでその体内に住み着いていた寄生動物のような成れの果ての人間達と共に数年間過ごす物語。社会から疎外された主人公が逃げ込んだ先の社会にも馴染めず、袋小路に陥る絶望感が読んでてキツイ。これ、似たような経験したことある人にとってはトラウマを呼び起こしそう。実際のところ、主人公も全くの無実というわけではなく、過失とは言え悪人を殺してしまったのが竜の体内に逃げ込んだ原因であるため、ある種の刑務所物語とも読める。多感な時期を社会から隔離されると社会に戻ることが難しく、だから刑務所とか少年院での教育などが大切なんだと感じた。

 「始祖の石」は法廷ミステリー。竜を崇める宗教団体の教祖が普通の男に殺され、その理由として男の娘がこの教団に異様に入れ込んでいたためとわかり、一方で犯人の男は竜に操られたから自分は無実だと主張して……というあらすじを読んだだけでやっかいなお話。主人公は犯人の弁護を引き受けることになった若い男性で、彼が事件を調査するたびに変化する証言と読み進める内に変化する各キャラの印象がポイント。犯人の男からして娘を教祖に取られて逆上した血の気が多い男かと思いきや、人生に絶望した覇気のない顔を見せ、何か隠している風でもあり、もしかして娘のことを異様な目で見ているのではと読者に思わせ、ついにはほんとうの意味で真犯人だと確信させる。出てくるキャラクターがどいつもこいつも信用できなく、それに竜に操られる意思という主題が絡んだ盛り過ぎな作品。中途半端に知恵がついて竜によるマインドコントロールの知識を得た上、いっちょ前に裁判なんぞやりおったせいで竜に操られる人々は自由意志があるのか、罪を問えるのかという問題を生み出してしまった。今、再び人間に自由意志はないとした説も出ているが、将来的に社会への影響が出るのだろうか。

 ラストの「うそつきの館」。上3つの作品では竜が神のアナロジーであることはそこまで強調されていなかったが、この作品は冒頭で竜が超越的な存在だと明言してしまっている。そんな竜が戯れに1人の男と1匹の雌竜を操った挙げ句に男を「解放」する物語。人間と異形の異類婚姻譚は近年日本のサブカルチャーでも1つのジャンルを築いているが、それらとは一線を画す破滅的なストーリーは一読の価値あり。いや、もともと異類婚姻譚は物悲しい終わりになりがちなのだが、この作品は妻との別れの後で希望を抱かせ、それを同族である村人による処刑という形で潰し、その死は実は肉体からの自由だと希望めいたことを仄めかすんだけど、でもよく考えたら結局は竜の手の上だもんなあと暗鬱とした気分にさせる。そんなねじれ曲がった希望のない物語。竜が我々の世界でいう神と明言されているせいか、作者にとって神や自分の運命もこの作品の主人公のように暴力的でひねくれたものに見えているのかなと思った。


 そんなわけで現代版の神を信仰する人々の小説として読み、非常に面白かった。どれもスッキリとした単純なハッピーエンドにはならない作品。物語が尻切れトンボのように思えたり本当に破滅していたり(唯一完結した作品っぽかったのは主人公が最後に復讐心を抱く「始祖の石」というのも面白い)。竜という神に触れた人間どものちっぽけさが強調される。
 一方で、竜による精神操作というのも物語の設定として人々に共有されているだけで、実際に明確な出来事としてあるわけではない。そのためもしかしたら主人公やサブキャラクター含めた人々は単に妄想を抱いていただけでは? という疑念も生まれる(「始祖の石」で竜を恐れる陪審員と恐れない裁判官&検察という図式が印象的であった)。
 それも含めて面白い作品だった。恐らく読み直すと新たな発見があり、何度でも読める作品だと思う。

2018年10月24日水曜日

「ジュラシック・ワールド/炎の王国」(J・A・バヨナ監督、レジェンダリー・ピクチャーズ、2018)

 リアルタイムで映画館で観たが、感想文を書くタイミングを逃し書かないままズルズル来てしまったので、箇条書きだが公開する。
・前半(イスラ島)と後半(ロックウッド邸)でお話がぶつ切りなのが気になった。火山パニックである前半は恐竜、あまり絡んでないし。
・相変わらずヒロインは「可愛い女」だね(一応ラストで活躍するけど、基本的には男に恋愛面含めて頼る女的位置づけで描かれている)
・恐竜が多少キャラクター化されている(忠犬のように可愛いヴェロキラプトル、頼れる肉体派のティラノサウルス、突撃隊長のケツァルコアトルス、火砕流に巻き込まれるアパトサウルス(ブラキオサウルス?)は涙を誘った)ので、生き物ではなくマスコットになってしまった
・だからこそ主人公サイドの恐竜保護・恐竜愛護が説得力を持つんだけど、感情100%で動くのがアレ
・ジュラシック・パークシリーズは遺伝子操作が人間のコントロールを離れたら……というお話なので、狂暴な人工恐竜の災厄はテーマに沿ってはいるんだけど、何か違う気がする。僕にとってのジュラシック・パークシリーズは「実際の」恐竜のお話だったので、「エイリアン作り出すぞー!」というノリとは相容れないなあ
・前作から登場してる悪い遺伝子学者にしても、今作から登場した金儲けを企む連中にしても、悪役を作ったことで話がチャチくなった。1作目のジュラシック・パークは悪い人はいても、直接のカタストロフィに関わっていないので人智の及ばなさが表現できてたのに。
・でも後半のロックウェル邸での追いかけっこは面白かった。ジュラシック・パークシリーズの肝は閉ざされた空間で怪物に追われる人間であることがよくわかった。そういう視点で見ると2作目や3作目が首をひねる内容だったのが理解できる。
・悪役が言ってた「主人公もパーク経営で金儲けをする側」って問題は解決されてない(というか、絶対にその問題をピックアップするために投げかけただろ)。
・善と悪の区別がつかないまま物語が終わり、人間社会は混乱に陥るってのは今らしくて良い
・続編なんぞ作ったら今作ラストの素晴らしさがなくなるので、もうジュラシックワールドも打ち止めで良いと思うよ。

2018年10月4日木曜日

「あだ名で読む中世史」(岡地稔、八坂書房、2018)

 傑作。西洋の歴史にすこし興味を持つと、二つ名(あだ名)が学術の場でも使われていることに気付く。僕が最初にあだ名を意識したのはリチャード獅子心王だった。あだ名で歴史上の人物を呼ぶのは非常にオタク的な気がするのだが、歴史学者たちはどう考えているのか、いったいどれだけの人々があだ名を持っているのか、それぞれのあだ名の元になった逸話はあるのかなど、野次馬的に知りたい好奇心を満たしてくれそうなので読んでみた。

 内容は、一番始めにあだ名が後世まで伝えられている理由や、悪口ではないのかという疑問への回答や、あだ名が最初に用いられた時期など、西洋中世史に興味を持った人が抱く疑問に簡潔に答えてくれている。さらに西洋史においてあだ名が人物を見分ける効力をカール・マルテルの時代を生きた数人の「カール」の特定によって実証する。歴史ってこうやって研究するんだ、と感動。こう書くと単なる学術書っぽいが、もちろんそんなことはなく、取り上げた人たちの歴史的な偉業やゴシップも満載でエンターテイメント度はそこそこ高い(先行研究の批判や史料検証なども行うので100%楽しい読み物とまではいかない)。もっとも、本文の研究に興味がない人でも巻末のあだ名大辞典(総勢300名、54頁分!)をパラパラみるだけでも十分元が取れると思う。
 本文では当たり前のように出典や参考論文などもかなり記載されており、著者の主張は信頼できると思う。学術的な内容はかなり丁寧に書かれており、先行研究への反論などを本文中で行うほど。一般書ではあるが半ば論文に近い体裁となっている。

 一度読んでもしばらくしたら再び読み返せる面白さ。「カール」の特定は学術研究ながらミステリー的な側面もあり楽しめた。何より西洋史が好きならあだ名(二つ名)の効能について学べるのは重要だとわかるだろう。単に情報を仕入れるだけでも、歴史をテーマにした解説書としても、研究の手法を学ぶ本としても楽しく読めると思う。

立ち読みの思い出

 ふとした時、中学生頃、毎日学校帰りに立ち読みしてたのを思い出した。……念のために書いておくが、あのときはまだ立ち読みが苦笑いで黙認されていた、そういう時代だったのだ。マンガ雑誌はエロも含めて一切シュリンクをかけられてなかった。ある書店では僕と共に毎日、同じようなメンバーが立ち読みをしており、高校生も大学生っぽいのも、フリーターっぽいのも、スーツを着たお兄さんもおっさんもいた。スーツを着た人たちは当然、サラリーマンのはずだが、中学生の帰り時間に立ち読みするなんてどういう仕事だったんだろう?

 ぼくが通ってたのは2つの書店と1つのコンビニ。書店の1つは品揃えもよく、頻繁に通っており、鮮明に覚えている。ここがいつも同じようなメンバーで立ち読みしていた所だ。常に立ち読み客がいたにも関わらず、経営は盤石だったみたいで、僕が中学を卒業してから15年近くお店があり、入っているビルのリニューアルと共に消え去った。一方、コンビニはマンガが入れ替わる頻度が少く、いつの間にか行かなくなったな。そして記憶も曖昧で、たぶん他の思い出と混じっている気がするのは書店のもう1つの方。
 確か昔のマンガのリブートやコアなマンガを読んでた気がするが、これがこの書店の出来事なのか、他の書店でも立ち読みしてたのか、全く思い出せない。書店自体もいつの間にかなくなってしまい、それで通えなくなったのだ。しかもその頃はあまり足を向けてなかったのでずいぶん経ってから閉店の噂を聞いても全く残念に思わなかったし。頻繁に通っていた書店の方は鮮明に覚えているというのに!
 しかし、不思議なことに、思い出として懐かしいのは記憶があやふやな書店の方なのだ。人があまりいなかったことや、古い本が積まれていたこと、親と共に行ってマンガをねだったことなど、すべてが良い思い出だ(親にマンガを買ってもらったのは別の店のような気がするが、他にお店が見つからないんだよね……)。
 えてして、美しい思い出となるのは不確かなものなんだなと、なぜか立ち読みしたはずのマンガが浮かんできて思った。