2020年12月31日木曜日

はじめに(2016/Dec/29更新)

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2017年2月17日金曜日

ネットと問屋買い



 世の中にはグラハムビスケットなどというそれはそれは美味しいお菓子があったのじゃ。
 これを一番食すものは悪魔の呪いに遭う。そのような言い伝えがあり、みなスーパーなるところで少しずつ仕入れ、いつかはお腹いっぱい我が物にすることを夢見てたのじゃ。



 そんな中、愚か者がネットショッピングなるものを駆使して買うことを考えた。周りの者は彼を止めた。誰だって破滅の道に進みたくはなかろう。
 しかし愚か者は愚かにも欲望に抗うことができずにポチってしまった。



 一時の気の迷いは身を滅ぼす。彼が正気に戻ったのは4箱のグラハムビスケットを受け取ったときじゃった。これを買った代償は約5500円。いくら美味しいとは言えお菓子に使うにはあまりにも大きすぎた。
 そもそもグラハムビスケット(チョコクリーム)は定価が120円。スーパーなどで買うと100円+税。お菓子としては安いのじゃ。
 しかしたわけ者は送料・税込みで一袋あたり95円の道を選びおった。確かに安くなった。だが、さすがに60袋は多すぎだろう。1週間に3袋食べても20週間=約5ヶ月残ってしまう。

 そんなわけで皆の者、ネットショッピングはほどほどにな。くれぐれも机上の計算で得になることだけを考えてはいかん。人間には体の限界がある。

2017年2月7日火曜日

「銀行強盗にあって妻が縮んでしまった事件」(アンドリュー・カウフマン、東京創元社、2013)

 不思議な不思議な、物語である。幻想的というか、明らかに比喩の塊で、単に文章を読むだけではこの本を楽しめないだろうと予感させる。

 この本は、銀行強盗、つまり人生の大切なものを奪われた人たちの顛末を描いた物語だ。ただし、その大切なものは今の現状では失われた存在であることが示唆されている。語り手である「僕」の「妻」も夫との出会うきっかけのものを大切に身に付けているが、夫との関係はギクシャクしている。現状で人生にとって欠如しているものが強盗に奪われた大切なものに象徴され、その人生の欠如を回復しなければ不思議な出来事によって破滅してしまう、そんな物語なのだ。
 とはいえ、上にも書いたように物語自体は非常に抽象的で破滅の様子も何かの寓話を読んでいるよう。夫が雪だるまになったエピソードは子供向け絵本のようだし、母が大量に分裂して一斉に風に飛ばされたエピソードはたぶんバッドエンドなんだろうが何となくウキウキする楽しさまで感じさせられる。1つ1つのエピソードはマザーグースのようなよくわからない終わり方をしている。1度本を読んだ後、彼ら彼女らが何を失っていて、その結果どんな終わり方になったのか解き明かすのも面白い(考えてみたら、この謎解き遊びは甲田学人氏の「断章のグリム」に似ている)。

 そんな中で描かれる「僕」と「妻」の顛末は場違いなほどリアリティがある。「妻」は夫である「僕」との夫婦関係がうまく行っておらず、銀行強盗によって(なぜか)縮んでしまう。当初「僕」は問題視していなかったが(恐らく面倒なことを考えたくなかったので問題視しないように努めていたんじゃないかな)、「妻」は解決策を探りさらには自分が消えてしまう日まで計算する。そして、何を思ったか、「僕」にも自分の子にもそのことを伝えていないのだ。
 実は僕も自分の大切な人を数年の闘病後に亡くしており、その人が実はかなり重症だったらしいが誰にも言ってなかった、という経験がある。実は今でもなぜ誰にも言わなかったかわからない。心配させたくなかったのかもしれないが、周りの人からすれば突然亡くなったように見えるわけで、それはそれで辛いのだ。何にせよ、病状を言うか言わないかはその人の選択で、僕は自分の経験をこの本に重ねながら読んでいたのだった。

 実際の所、「妻」のエピソードはある意味わかりやすい。詳細に書かれているので何が「妻」の人生に欠落し何が得られたのかがイメージしやすいのだ。特に地の文は夫である「僕」の語りとなっていて、「妻」を見る視点が徐々に変わっていくのを感じ取れる。「妻」が消えてしまう最終日は、恐らく「僕」も彼らの子供も最後の日だとわかっていなかったはずなのだが、触れ合う時間を大切にしようとする。子供がひたすら「妻」に甘え、「妻」も自分の身を顧みず子供をあやすのは母親ってそうなんだよねと感じる。結果として、心が通じ合え、「妻」は消えずに済んだ。

 そんなわけでハッピーエンド気味ではあるのだが……。同時に不満もある。結局、一家がバラバラにならなかったのは「妻」の死を身近に感じたからであり、何となくこれで良いのかなという気にさせられる。誰かが死の危機に瀕しなきゃ家族はまとまらないの? そうしてまとまった家族をハッピーエンドとして取り上げるべきなの? 個人的にはラストシーンは感動したものの、今挙げた不満があるので、「妻」はこのまま消えて「僕」に後悔させるべきだったと考えている。
 実は物語的にも「妻」は特別な位置付けをされている。実は「妻」は唯一消える日がわかっている人物なのだ。他のエピソードでは消え去るタイミングが唐突に見え、回避は不可能に感じる。もしかしたら注意深く考えれば他の人々も消える日を予見できたかもしれない。しかし、作中では「妻」だけがいつ自分が消えるのかを知っており、そのためにたぶん心の準備もしただろうし、行動にも現れていたと思う。そうして得られたハッピーエンドは果たして良いものなのか考える必要はあるだろう。

 でも、そんなことは重箱の隅を突くようなもので、この作品の肝は不条理なエピソードの数々と「妻」の一家を襲うリアルな喪失の様子だろう。「妻」の消滅が現実のものとして理解する過程、それに伴う行動の変化、家族の葛藤を味わうだけでも十分に満足できる。

2017年1月26日木曜日

「クリムゾン・ピーク」(ギレルモ・デル・トロ監督、レジェンダリー・ピクチャーズ、2016)

 ある種のマンガ的な登場人物がズラズラ現れ、美しい屋敷の中で演じられるサスペンス……との評が一番適切であろう。ジャンル的にはホラー(幽霊映画)なんだろうけど、主人公のお嬢様があまりにも頭悪すぎて誰かの助言なしでは生き残れないから幽霊を登場させました、と言われても不思議ではないほど幽霊要素は薄い。戯画化された人間ドラマが見どころで、誇張された登場人物たちが過度にシリアスにもアップテンポにもせず、お上品な映画に仕立て上げている。幾つか読んだことのある19世紀のイギリス怪奇小説を映画化すればこんな感じになるんだろうなと思った。

 登場人物はこれでもかと言うほど浮世離れしている。あまりにも現代人とかけ離れているので彼らが変な行動を取ってもイライラする事はない。現代とは時代が違いますよーという設定をうまく使っている。主人公は箱入り娘で夢見がちで小説家志望という1人では生きていけないタイプ。まあ、だから父親が亡くなって(殺されて)、身一つでイギリスに渡ってしまったのだが。
 そんな主人公をたぶらかすのは胡散臭いイギリス人の姉弟。貧乏貴族で本作の舞台、クリムゾン・ピークのお屋敷を持っている。お金に困っておりイケメンの弟が結婚詐欺と妻の財産強奪を繰り返すことで生計を立てている。なお、姉は弟と恋仲で殺人を厭わない性格。弟に対する姉の執着が事件を明るみに出し、そして破滅を導いたのだから筋金入りである。弟は姉の言うことにひたすら従順に従い、実は弟って姉のことが好きじゃないのでは? とも感じてくる。それくらい主体性がない。唯一クリムゾン・ピークの粘土掘り事業に夢中になってるが、これたぶん私生活が姉に支配されてる鬱憤を粘土掘りで有名になる夢で紛らわしてるんじゃないかな。でなきゃ誰が見たってダメそうな粘土掘りにあそこまでお金突っ込むのも不合理だぞ。
 ともかく、現代の僕達とは当然生活も人生もメンタリティも全く異なる人々なので感情移入などせずに見ることが出来る。それもあって彼らがわけわかんない行動しても大きな心で受け止められるのだが。

 そんな中で現れる幽霊ってのは主人公を助けるためだった。だったのだが……真夜中いきなり出会うと怖いよ。これから幽霊になる予定のある人は、おどろおどろしい外見になるかもしれないと考えておこう。幽霊になったら、極力明るいところで愉快な雰囲気で人間に声を掛けないと逃げられてしまう。場合によっては筆談でも良い。この映画って幽霊がそういう気遣いをすればそもそも主人公が危険な目に遭うことはなかったのでは、と思ってしまうのだが、それは後の祭り。まあゴシックホラーのための舞台装置としてスルーを。
 そして幽霊が実は主人公に警告を与えていたという事実がわかって、それで幽霊の登場が終わったのかなーと思いきやラストシーンで結婚詐欺姉弟の姉の方から受けた襲撃から主人公を守るために現れる弟の幽霊(弟は嫉妬に狂った姉に殺された。どこのエロゲだよ)。なんというか、それまで怖い外見だった幽霊がいきなりVガンダムのラストみたいな人の意志が! 的な超自然的な力になっていて終わりよければそれで良しという気にさせられる。
 本当のラストシーンで姉弟が仲睦まじく物悲しげに幽霊となるのはこの手の映画の基本だろう。

 というわけで面白かった。
 何よりも素晴らしかったのは映像。木の葉が落ちる屋敷。幽霊より不気味な夜の廊下。粘土だとわかってても恐ろしい赤い粘土。登場人物たちが着る服も時代がかっていて様になる。屋敷のシーンはどこを切り取っても絵のように美しく、幽霊や赤い土がその後の展開を不気味に暗示している。
 あまり怖くないので、ホラーが苦手な人も見て損はない。

2017年1月22日日曜日

「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」(ピーター・トライアス著、中原尚哉訳、早川書房、2016)

 最高の作品である。普段僕は文庫を買っているが、ハヤカワ文庫だと分冊になる&巨大ロボット(作中では「メカ」と呼ばれる)のイラストがつかないので大判を買ったが、当たりであった。
 フィリップ・K・ディックの「高い城の男」が作者によって言及され、数多の書評サイトもまずはそれとの比較を行っているが、僕は読んでないからわからない。もちろんこの本は「高い城の男」と関係ないので、普通に単体の作品として楽しめた。

1.歴史改変SF、らしい
 僕はあまり歴史改変SFを読んでこなかったので本作のような本格的なのは初めてである。だから実はツッコミどころも多いのだが、概ねジャンルの作法を知らない人間でも違和感は感じなかった。
 一番のツッコミどころはドイツの実態が全く描かれてないことだろう。もちろん、今作は日本をテーマにした作品だからなのだが、ホロコーストなどを行ったドイツが勝利した光景を具体的に描写するのはNGだったんじゃないかなあと密かに考えている。そもそもドイツはアーリア人至上主義を掲げていたはずだからいくら同盟国とは言えアジア人である日本とは反目するはずだし(作中でもすでに世界の覇権に向けた日独のにらみ合いが起こっている)。僕としてはもう少しドイツの姿を描いてほしかった。
 一方で同じく同盟を組んでいたイタリアは完全に蚊帳の外。設定でも良いから出てきただろうか。それくらい存在感はなかった。

2.ゲーム小説
 この単語はあいまいなニュアンスを持っているが、僕が本書を読んで感じたのはアイテムを得たり人物に会ったりしてフラグを立てることで物語が展開するプロットがわかりやすいということ。もちろん悪いわけではない。ないのだが、登場人物の行動基準をうまく書かなければフラグ立てのために行動しているのがまるわかりになってしまう。特に久地楽のメカとモスキートのゲームの下りはなくても良かったような……ごにょごにょ。あらすじとか宣伝文句では本書の売りだったメカもゲームも1要素の扱いだったので、そこはもっと掘り下げてほしかった。

2.アメリカナイズされた軍国日本のディストピア
 物語は第二次世界大戦で連行された日系人の収容所から始まる。アメリカで刊行された本書でこの問題に切り込めるのはすごい。そして見どころなのはアメリカ人を悪し様に描いていること。日系人は住んでいたアメリカの資産を取り上げられ収容所に連れて行かれ、そして悲惨な生活を送っていた。この小説は勝者である日本の視点から描かれた設定だが、それでもこの問題をここまで描けるのは素晴らしい(なお、本書によると日系人だけでなくアジア系も収容対象とされたのだが本当なの?)。
 そこにアメリカに勝った日本人が収容所を「解放」しに来るのだが、なかなか皮肉が効いている。アメリカ政府の拘束が解かれたかと思ったら、今度は日本の天皇崇拝を強制されるのだ。当然天皇を文字通りの神と信じていない人には死が待っている世界であり、解放されたアジア系の収容者の1人もそれが元で射殺される。読者は、いや作中の日本に感情移入していた日本人読者は、この描写でふと現実に引き戻されるのだ。この勝利した日本も所詮イデオロギーで動いている粗暴な国であると。
 物語が動き出しても「平和」で「正義」の日本は暗部があっけらかんと描かれている。軍人至上主義で身分制に近い社会。官憲や特高(特別高等警察)が当然ながら市民の生活を監視しており、不穏分子と判断されれば弁明できずに殺される(絶対ソ連のカリカチュアにしてるだろ)。間接的にしか描かれていないが、日本本土出身と日本外とでは待遇の差が激しい。特高は人体実験も手を染める怪しげな部隊とつながっているし、その後の波乱が読めてしまう。そう、この作品は日本に忠実な昭子がプロパガンダに疑念を抱きそれを口にする物語でもあるのだ。

 とは言え対する日本からの独立を目論むアメリカ人ですら清廉潔白には描かれていない。日本に反抗するジョージ・ワシントン団はヤバイ感じのテロリストだ。そもそもジョージ・ワシントン団は現実とは少し異なったキリスト教を信仰することで結束を強めている。あれだ、タリバンに近い。日本に対抗する思想が自由とか平等などではなく、変形キリスト教による洗脳チックな依拠ってのもまた狂ってる。まさに天皇を中心にした神の国か変形キリスト教的神国かの2択で個人的にはどちらも遠慮したい。
 また、USJというアメリカを支配している日本領では特高すら把握していない(=日本政府が管理できていない)秩序が生まれている。強いものは正義みたいなわかりやすい連中が違法ゲーム賭博などを行い日本の支配が一筋縄で行かない。史実の日本が東南アジアに攻め入っても撤退したように、USJの支配も長くは続かないことが仄めかされている。そんな中で語られる自由は非常に実態がない。USJに滅ぼされた思想、そして人々の希望として、理想を求めるものたちが追う今はなくなってしまった残骸。自由を求めたものはベンも、ベンの両親も、昭子の兄も全て死んでしまったことが自由の儚さを表している。
 日本的なガジェットが多いため一見日本について書かれているように見えるが、あくまでアメリカの理念を問うている小説だと言えよう。特にトランプ氏が大統領になった今、いや、大統領になって2年後の2019年に読むとどんな感想を抱くだろう。

3.SFガジェットと悪趣味描写
 いくつか挙げると、インターネットとそれにつながるモバイル機器とハッキングは万能だと思った。昔のSFでは未来描写を行ってもインターネットなぞなかったのだ。
 メカ(巨大ロボット)は出てこないというか、万能すぎて活躍させられなかった感がある。だから久地楽は必要ないと上で書いてしまった。
 テクノロジーレベルは正直わからん。上に挙げたような肉電話が作られたり、人体を変化させられるウイルスを作ったり、死体の脳からの記憶抽出が研究される一方で、使われている言葉のせいかレトロさを感じられる。冒頭の肉電話(生身の肉体を電話に改造することで金属探知機にも引っかからないスパイ仕様のもの、らしい)的有機組織と無機物が融合した世界観かと思いきやそうでもなかった。
 それにしてもキャラクターの放蕩さや狂気に近い自由を描写するのにいちいち裸が乱舞するのは筆者の趣味なのか
 不満もないわけではなく、経済状態が気になる。これだけの特高・軍隊を維持するためには日本政府も相当支出をしていると思うんだけど。それによる社会の悪化を描いてほしかった。そもそも本書では無法者か特権階級の生活しか描かれず、一般市民がどんな暮らしをしているのかわからなかった。戦前の日本を継いでるなら、やっぱり庶民は特攻に怯え経済統制で困窮する農民やブルーワーカーなのかな。
 あ、でも原爆により天皇のお世継ぎが生まれず、それが非国民判定に用いられるのは日本人にはない発想であった。面白かった。

4.終わりに
・ラストシーンは主人公であるボンクラ大尉の過去の真実を描くもの。この真実を知るか否かで読者のボンクラ大尉を見る目が変わる。それまで言及されていた「事実」とは異なる=嘘が明らかになる、というのはこの作品全体の構成(読者は知っているけど、第二次世界大戦で日本とドイツが勝つのは嘘なんだぜ)とも繋がって、手が込んでいる。
・訳者自身による本書の紹介として歴史改変のポイントを説明したものがネットに転がっていたのだが、訳者解説に書いてくれよ……と思った。歴史改変って読者を納得させられるかで読む意欲が変わるのだから、本に付けてほしかった。なんというか、売り方が下手だなあと感じる。
・全体的には良質のエンターテイメントである。

2017年1月12日木曜日

「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」(ギャレス・エドワーズ監督、ウォルト・ディズニー、2016)

 2016年の最後にこんな大作を持ってきたなんて今年は豊作だなあ。

 今作は完全に外伝。そのためおなじみのキャラはほとんどいない。そのため時たま出てくるダース・ベイダーが「そう言えば今作はスターウォーズの1作品だったんだ」と思い起こさせてくれる。とは言え、魅力的な宇宙船やエキゾチックな風景の惑星、色々な姿を持った宇宙人たちはスターウォーズらしさを全く損なっていないく、それでいてキャラクターが一新されたことで新鮮さを印象付けている。
 視聴者にとっても完全に新規のキャラクターたちが主人公だったので、どこの馬ともしれない奴らが集まって英雄的行為を成し遂げるという物語のテーマとも、見ていてシンクロした。そして、あくまでも外伝であり多くのキャラクターは本編との整合性を取らなくて良いため、本家スターウォーズではありえないような展開(ラストは主人公たちが死ぬ)を成し遂げた。外伝だから色々なストーリーを試みられるっていうのは、ガンダムで言う正史みたいなものであろう。
 何にせよ主人公たちをフォースと無関係の存在にしたからこそ描けた物語や描写が色々あった。
 その筆頭が、フォースに接したことのないはずの登場人物たちが盛んに言及するフォースという新たな宗教だろう。個人的にはもっとフォース成分を薄めたほうが良かった気がするが、とりあえず主人公サイドはフォースの使い手はいない。そもそも時系列的に昔であるエピソード1~3を見ただけだと、フォースの使い手=ジェダイの騎士は権力者と結びついており大衆がフォースの力に接する機会はなかった印象を受ける。そしてジェダイの組織はエピソード3で壊滅しているので本作の反乱軍にフォースの使い手がないってのは当然であろう。チベットの修行僧に似たチアルートもフォースの加護があったかなかったかわからない描写に留めている。個人的には序盤でフォースを一笑した主人公たちが中盤以降フォースにすがるのはいまいち理由つけが薄いと感じたが、それもあってフォースの宗教性が際立って見えた。正直、今作ではおなじみのジェダイの騎士は出てこないのだから、一般人を主人公に置いた外伝ではフォースは敵が用いるものと描写して主人公たちは一切言及しないほうが物語がスッキリしたと思う。

 ちなみに一般人と書いた主人公ジンだが、生まれはデス・スター設計科学者という偉い人の娘。「神話」の主人公は特別な生まれである……と看過したのは誰だったか。スターウォーズシリーズは(エピソード1~3を除くと)一貫して特別な生まれである人間を主人公に配置し、家族との対峙や自分のルーツの探索と共に物語を進めてきた。言ってしまえば「家族の物語」という名の「血筋」の英雄譚を描いているし、今作もそれは変わらない。主人公のジン以外の主要メンバーになると急に家族の影が薄くなるのも今まで通り(エピソード4~6もハン・ソロとか、エピソード1~3もオビ=ワン・ケノービとか、サブキャラは完全に「役割」として登場していたね)。
 それでもやはり、いわゆる名もなき人々の大作戦というか……。後世には名前も語り継がれないことがわかっていながら、文字通り希望を信じて過酷な作戦に挑む彼らは強い印象を残した。その後に続くエピソード4以降を思うと体を張ったパス回しを行っているので、組織に埋もれがちな会社員からすると感情移入できるんじゃないかと思う。

 全体的に、少なくともタイムラインや登場キャラクターが強固な壁として存在していたエピソード1~3に比べれば伸び伸びと作られたと感じる。見ていて後のエピソードの伏線を今作った・消化したというフラグ立てシナリオではなかった。主要キャラが全員死亡するラストシーンはエピソード4~6との整合性を持たせるためとは言え、極めて美しく、予定調和の美であった。
 今作を見た後、エピソード4を見るとまた感慨深いだろうな。

2016年12月20日火曜日

「スーサイド・スクワッド」(デヴィッド・エアー監督、ワーナー・ブラザース、2016)

 いやー、キツイな。見栄えのする画面に対してストーリーが物足りない。
 まずプロットがとっ散らかっていた。メインストーリーはエンチャントレスの暴走によって起きた事件とスーサイド・スクワッドの活躍なのだが、それにジョーカーとハーレイ・クインのメロドラマが繰り広げられる。これ、どっちかで良かったんじゃないかな。ジョーカーがトリックスターになっており、何のために出てきたのかわからん。
 登場人物だってまともすぎる。悪人には悪人なりの美学や論理やたとえ狂っていても価値観があるはずなのだが、出て来る彼らは一般人の思考で動く。どこかで見たことある展開だと思ったら、ガーディアンオブザ・ギャラクシーの連中と変わりない。このキャラクターがまとも問題はスーサイド・スクワッドを利用しようとするアマンダ・ウォーラーの方が存在感があるとか、ジョーカーが本当にハーレイ・クインを助けるために行動していて全く狂っていない様に見えるとか、いろんな悪影響を及ぼしている。結果として、しみったれた小悪党という印象が拭えなかった。
 とは言え彼らは人間離れした能力があると言われており、そんなのが首の爆弾で何とかなるのかね。当然のようにジョーカーが解除しちゃうし……。
 この映画を撮るなら、前半の登場人物紹介を圧縮して、スーサイド・スクワッドの結成とそれが活躍する事件を1度挿入した後で、エンチャントレスの暴走を描かないとスーサイド・スクワッドの有効性やその危険性を観客に納得させられないぞ。

 それに対して映像はなかなか格好良い。が、上に書いたとおりストーリーがダメダメなので華やかな絵を切り貼りしたという印象が強かった。
 とりあえずアレだ、前からこのブログで書いていたと思うが、アクションシーンでスローモーションになるのはいい加減やめようよ。日本の昔の特撮とかで、決めシーンで3回リピートするのと同じダサさがあるよ。多少ハリウッドに慣れ親しんでる人なら多くの映画で見る技法なんだから、それも相まって失笑モノだよ。いや、もしかして歌舞伎の決めポーズみたいに様式美にするつもりなのだろうか。ハリウッド映画って歌舞伎と違ってリアルな絵面だから変な美学は持たないほうが……。
 と思うくらいに映像は美しい。特にジョーカーの見せ場はそれだけで1枚の絵になるほど凝った美しさがある。それだけにストーリー部分とのギャップが目立ってしまう。見てる最中にプロットのダメさを指摘できるのでどうしても映像だけが浮いちゃうんだよなー。


 良くも悪くも、ハリウッド的な観客に受けるノウハウを結集させた映画というイメージが強い。もちろん本当はどうだかわからない。もしかしたら制作陣は本気で新しい表現を生み出そうとしていたのかもしれない。でもできあがったのは「どっかで見た」という印象の強いものであり、この映画ならではの味付けはない。
 この映画の最大の問題点は、上記の問題を抱えているにも関わらず、金返せと怒鳴るほどひどいものではない(それどころか僕みたいに手間ひまかけて感想文を書こうと思えるくらいには楽しい映画だった。この感想文では不満点を述べているので悪印象が強いかもしれないが、普通に楽しめ……そしてこの「普通」が問題なのだ)ところだ。
 つまり、映画で面白さを与える公約数的な手法が確立されているということであり、それに従って映画を作ると単なる過去作のパロディにしかならないということ。具体的には、ちょっとした悪い奴らが亀裂を乗り越え世界を救う……それってガーディアンオブザ・ギャラクシーで見たよ! ……どこにでもある作品になってしまう。上でグチグチ指摘したように他の作品との差別化をする細部もあまり作り込まれていない印象を受ける。
 これでは映画という文化自体がジリ貧になってしまうと思うんだ。