2020年12月31日木曜日

はじめに(2016/Dec/29更新)

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2017年11月20日月曜日

「GODZILLA怪獣惑星」(静野孔文監督・瀬下寛之監督、ポリゴン・ピクチュアズ、2017年)

 3部作の1作目なんだね。パンフレットを読むまで全然知らなかった。だからラストシーンがあんなのだったのか。

 今作のゴジラは「シン・ゴジラ」とは方向性を変えて非リアルな方向性にしたとパンフレットに書いてあった。その目論見は大成功だろう。ツイッターで流れた感想に、「シン・ゴジラ」の方が云々というものがあったが、まさにこのような感想こそ製作者は待っていたと思う。
 そもそもゴジラシリーズは好きな作品が人によって異なれど、極めて空想特撮的であり、大人から大人気のVSビオランテですらスーパーX2が出てきて抗核バクテリアだのサンダーコントロールシステムだのワクワクするようなガジェット満載の作品なのだ。むしろ「シン・ゴジラ」が必要以上にリアルな、リアリティがあるという評判になったのは今後のゴジラ作品にとって不幸だろうと思う(既に言われてるかもしれないけど、人間サイドがあんなにリアルなのに戦車の一斉砲撃で倒されないってどういうこと? ってなるよなあ。特に今回の「GODZILLA怪獣惑星」で物理攻撃が効かない理屈が説明されていただけに。)。

 とは言え、今作で出てきた宇宙人だが、エクシフ星人(?)共はともかく、ビルサルド星人(?)はもう少し異星人っぽくして欲しかった。パンフレット見るまで黒人だと思ってたよ。っていうか、今作は黒人って出てきてるのか?
 実のところ、個人的には異星人が異星人っぽくたって別に問題はないと思っている。「スター・ウォーズ」は色んな人型異星人が出て来るが、だからといってシリアスさは損なわれていないし、むしろ仮面を被った悪役というギャグのような設定も普通に描けているではないか。キグルミショーでなくとも、「ガーディアン・オブ・ザ・ギャラクシー」とかアメコミ映画とか、非現生人類がそれなりのリアリティで動いているので、もう少し冒険してても良かったと思う(むしろリアルさを求めるならフジツボ型生命体みたいなコテコテの異星人にした方が良かったと思う)。


 さて、映画の内容だが、この作品から学んだのは怒りを感じたときこそ頭を冷やす重要さ、損切りを決断するのは大切ってことである。
 実は僕は、主人公が終始私怨で戦ってるように見えて終始感情移入出来なかった。実際問題、予期せぬ野生怪物が現れ被害を出した時点で撤退すべきなのに、そのまま作戦続行なんて勝利を放棄してるとしか思えない。ゴジラの恐怖を実体験した世代も少なそうだし、若い人らが焦って既存の秩序を変えようとして失敗した感がある。地球に降りるときから人員、装備が足りないだの何だの言ってたからなあ。
 とは言えわざとなんだろうな、と思う。主人公の行動に観客がツッコミを入れること前提というか。主人公の突飛な考えに対しろくな反論もなく、なし崩しに承認され、必要以上に頼りにされているわけで、観客としては主人公の考えを冷静な視点から眺める構図になっておる。


 という訳で、3部作の1作目だからか、設定も物語的にも物足りない点は多い。それでも「シン・ゴジラ」の呪縛を断とうとし、またアニメらしくゴジラ伝統の空想SFモノに回帰したのは良いことだと思うのだ。
 そうそう、今回のゴジラ、ゴジラに攻撃が通じないのも不思議な能力を持ってるのも、長い時を生きてる(?)のも、巨大化するのも「ゴジラだから仕方ない」と納得できたので、ゴジラである意味が十分にあったと思いますです。

2017年11月17日金曜日

「グウェンプール:こっちの世界にオジャマしま~す」(クリス・ヘイスティング、ヴィレッジブックス、2017)

 海外コミックを買う中で、DCやマーベルもの(いわゆるスーパーヒーローもの)は避けていた。だって世界観がわからないんだもの。日本で言うとガンダム世界みたいなものだと思う。詳しくない人からすると、同じような主人公が何体もいて、敵も同じような連中で、世界設定も同じようなもので、基礎知識が欲しいけど何読めばわからないってこと。
 さらに海外コミック特有の設定を省きがち(ここは日本のマンガがくどすぎるのだ)なのが世界観の把握できなさを加速させる。
 そのため、スーパーヒーロー系なら細かい設定を知らなくても雰囲気だけで理解できそうな「ザ・ボーイズ」のような捻った作品しか買わないのだ(「ザ・ボーイズ」はまだ完結してないので感想を書かないが、海外コミックは途中で邦訳打ち切りの可能性があるから、そろそろ感想文を書くべきだろうか)。そして「ザ・ボーイズ」後はそこまでスーパーヒーロー物を買わないだろう。

 と、思っていたが、いきなりコレだ。「グウェンプール」。表紙を見て、スーパーヒーロー関係ってことがわかったけど、あまりにも日本マンガ的なタッチで、アメリカ人のオタクがついにマーベルかDCで描き始めたのかと思ったのだ。それもデッドプールのパロディを。名前などからしてどう見てもデッドプールだったので、お布施してやるべと思って注文してびっくり。表紙詐欺かと思ったら中身も(一部分は)可愛い絵柄である(なお、海外の、特にアメリカのマンガは絵を描く人とストーリーを考える人が分かれてて、絵を描く人は数人で1チームみたいな構成をするので可愛い絵柄は全体の1/4くらい)。そして明るい! 「ザ・ボーイズ」とは大違いだ!
 そう、この作品で驚いたのはキャラクターの可愛らしさ。表紙の人以外が描いた回も色んなキャラクターに愛嬌がある。「ザ・ボーイズ」は可愛いキャラは弱いものを抱えているヒューイとフレンチーだけだったので、このきらびやかな世界に一気に引き込まれたのだった。

 とは言え中身はやはりスーパーヒーローもの。どうやらアメコミオタクの少女がアメコミ=スーパーヒーロー世界に行ったという設定らしい。そのためアメコミのネタを喋ったりするが、さっぱりわからん。わからなくとも絵を愛でてストーリーを読み進めるのに問題はないが、何となく寂しい。こんなことならちゃんとスーパーヒーローマンガも読んでおけば良かったかと思うんだけど、僕が本作を買おうと思ったのは「普通」のDCやマーベルでなさだったからなあ。「普通」の作品を買っても楽しめはしないだろう。
 また、海外コミックに必須の解説。相変わらず今月の新刊チラシみたいな形で本の間に挟まってるが、これ絶対に3年したらなくしそうだから、ちゃんと本文に綴じてほしいよなあ。それはともかく、解説を読んでやっとグウェンプールの立ち位置がわかった。いや、読んでもあまりわからん。取り敢えず、単発のキャラがパロディ遊びしてたらいつの間にかスピンオフになってたのか。スーパーヒーローものってどれもスピンオフのような気がするので、滅多にないことと知りつつもどのくらい凄いのかはわからない。とりあえず表紙のグリヒル氏が日本人ってことに納得。だから日本人好みの可愛らしさなのか。

 というわけで日本の萌え絵が表紙になったスーパーヒーローマンガ、アメリカでもこういう絵柄が徐々に受け入れられているのかと学ぶためにも買ったほうが良いと思う。

 次はリスガールだ!(また表紙買いかよ!)

「タイム・シップ」(スティーヴン・バクスター著、中原尚哉訳、ハヤカワSF文庫、2015)

 SFというジャンルを読む愉しみは、世界が変わる感覚を得られることである。自分が見ている世界は少しベールをめくれば異なる姿を持ち、それに応じて世界に対する自分の見方も変容する。しかしそれだけでは物足りない。世界の真理が知りたいだけなら最先端の物理学の本でも読んでいれば良い。SFの真価は、その変容に対峙する人間の感情や行動を描き出すことにある。変わってしまった人間は今後何を考え、どうするのか。SFがノンフィクションやジャーナリズムなどと異なるのは人間性への言及にあると考える。
 そんなSFの面白さを知った人間はひたすら世界が変わる感覚を求め続ける。もう身の回りの出来事に一喜一憂する物語には戻れない(とか言いつつ、そういうジャンルも普通に楽しんでるけど)。

 本作はH・G・ウェルズの「タイムマシン」の続編だが、単なる懐古趣味やパロディで満足せず、SFの最先端を描き出そうとしている。
 ネタはエヴェレットの多世界解釈。SFとしては2010年台後半にもなると流石に手垢が付きすぎているが、スティーブン・バクスターはそれを用いて独自の世界へ誘う。

 修正したい出来事があるなら、何でそれだけをピンポイントで回避しようとするのか。エヴェレットの多世界が確立しているなら、なぜ歴史の改変は禁忌とされるのか。人間が動物的な性質で災いを引き起こすなら、なぜ最初から人間を正しく作り変えないのか。

 多くのタイムトラベルものは本作のような人間性までを主題にしていないためか、タイムトラベルを泥棒を捕らえて縄を編む的な使い方しかしない。結果として、大掛かりなネタを使っているのに身の回りのこじんまりとした問題を解決することにしか使わないのだ。
 では、もしH・G・ウェルズが時間改変という概念を持っていれば、果たしてどのような物語を紡いだだろう。単に目の前の不幸を対処するだけだろうか。未来の世界で階級社会の行く末を描いたウェルズはやはり人間の変容を描くのではないか。

 スティーブン・バクスターが選んだ道は、徹底さであった。エヴェレットの多世界論によって時間旅行をするたびに変わる歴史と時間軸の中で、主人公と相棒は流浪者となってしまう。もはやタイムトラベルは彼らの手から離れ、傍観者を余儀なくされる。19世紀の人間である主人公はすでに歴史の改変や新人類の世界観にはついて行けず、文句と癇癪だらけになっているが、それでも「究極の改変」を見届ける。
 そもそも人間でしかない主人公は新モーロック族であるネボジプフェル、機械生命体の「建設者」の倫理を理解できないのだ。彼らが行う「究極の改変」は人間から見ると冒涜的で、主人公は蚊帳の外に置かれている。そんな主人公が人類の子孫たちと1つだけ共通する性質を持っており、それが主人公を旅に駆り立てる原動力でもある。
 個人的には僕をSFに誘うきっかけとなったグレッグ・イーガンの「ディアスポラ」をイメージさせ、そしてだから僕は「ディアスポラ」が好きなんだなと改めて思った。人間が人間でなくなっても人間の何かを受け継いだ存在がいれば、それは人間に変わりはない。

 というわけで、王道のSF作品である「タイム・シップ」。冷静に考えれば、劇中後半までは19世紀のテクノロジーで説明されているのでスチームパンクとも言えるかも? 単に究極のSFが読みたい人も、スチームパンクが好きな粋なお方も、人外が主人公で意味不明な技術が好きな面倒くさい連中も、みんな楽しめるぞ!

2017年11月1日水曜日

「ブレードランナー 2049」(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、コロンビア、 2017年)

 初めに書いておくと、僕は初代「ブレードランナー」をリアルタイムで見たわけでも当時の空気を知っているわけでもなく、「ブレードランナー」自体に思い入れは全くない。そのためネットで皆さんが大興奮しても何がそこまで素晴らしいかいまいちピンと来てないのだ。

・テーマ性
 神殺しだのアイデンティティだの都市と孤独だのと言ったテーマは読み取れるんだけど、初代「ブレードランナー」に影響を受けた作品群がオリジナルと呼ばれるようになった後の今の時代で本作品を見ても……と思った。個人的には、西洋の人はどうでも良いことで神に挑もうとすると感じるため、そろそろ神をあっさり超えて欲しいと願っています。
 アイデンティティの探究の描き方は下記の主人公のルーツを崩したように、嫌味ったらしくて素敵。

・オタクの夢
 主人公であるレプリカント捜査官にはAIの非実体的な彼女がいて、深い絆を作っている。それだけではなく、高飛車な女上司とも一定の緊張の元心を許し合っており、さらに敵の組織のヤンデレ女幹部、ダメ押しに怪しげなヤンキー売春婦なども彼に好意を寄せる。というか、終始アイデンティティに悩み任務に没頭する主人公をよそに彼女らの痴話喧嘩のような争いで物語は紡がれていくのだ。全員死んだり破壊されたりするけどな。
 また、アイデンティティといえば、主人公は単なるレプリカントと思いきや、実はレプリカントが産んだ子供本人ではないかという疑惑も生まれ、まさに絵に描いたような「主人公」。本人は悩んでいるんだけど視聴者はいよいよ物語も佳境に入ってきたと興奮する一方、あまりの恵まれっぷりに鼻白む面も。
 物語のクライマックスでそれらを全て実は偽装工作でしたと宣言し、主人公の戦う動機も生きる目的も粉砕したのは素晴らしかった。そうそう、特別な生まれだから主人公っていうのは王道ではあるのだが、今時のリアリティではないのだよ。では自らのアイデンティティを破壊された主人公が敵と戦う動機は何かということになるんだけど、そこは単なるヒューマニズムでなく復讐とか具体的な中身を持たせてほしかったな。

・映像映えする未来はやってこない
 舞台は初代「ブレードランナー」でも見られた雨の降るビルの立ち並んだ都会(何となく台北とか昔の上海っぽい)、雪の田舎、トータル・リコールの火星ような廃墟の歓楽街である。特に雨の降る雑多な都会は色んなサブカルチャーに影響を与え、「サイレント・メビウス」とかも確か影響を受けてるんだっけ? それだけにあの小汚い都会こそがリアルな未来と思われがちなのだが、実際に外を見回してみるとまったく異なることに気付くだろう、少なくとも日本の東京の東京駅とかは。そう、未来は綺麗なのだ。「ブレードランナー」的ではなく、「素晴らしき世界」のようなユートピアな光景が我々の目指す方向であり、「ブレードランナー 2049」の雨が降り歩道と車道が区別されておらず看板が並び売春婦が路上を彷徨い労働者が夕食を立ち食いする都市はデフォルメが過ぎる気がする。今はもう少し綺麗で秩序だっていると思うよ。
 一方で赤い土の舞う廃墟の建物は幻想的ではあるんだが、あまりにも綺麗過ぎると思う。放射線が飛び交っているのかな。それとも乾燥しているのかな。腐ったり朽ちたりせず全てが赤く染まるだけ(そういや窓ガラスも壊れてないんだっけ)なのは見ていて違和感があった。


 初代の「ブレードランナー」とは異なり、作中でかなり説明が行われている。それだけに神秘性が消えていると思う。もちろん僕は初代の神秘性もあまり実感できないんだけど、本作はそれに輪をかけて普通の映画になったと思う。
 それでもアイデンティティの喪失と生きる意味を描いた映画としてよくできている。

2017年10月10日火曜日

「裏世界ピクニック」(宮澤伊織、ハヤカワ文庫JA)

 確かこの作品を読もうと思ったのは都市伝説についての小説という触れ込みだったからだっけ。
 「裏世界」という諸星大二郎氏が描く異界のような世界を主人公2人が各々の目的で探検するという内容で、そこではくねくねみたいな都市伝説の存在が実在しているという設定。読み進めると都市伝説のキャラクターたちは認知論をベースにした理屈で存在しており……まあ「奇奇奇譚編集部 ホラー作家はおばけが怖い」と読んだ感覚は似ている……怪奇ネタを題材にしたSFと言った感じ。ホラー作品だと甲田学人氏のMISSINGの方が(方向性が違うから当たり前だが)圧倒的に怖かった。

 続きが気になるし、続けようと思えばいくらでも続けられる設定だとは思う。ただ、原理がはっきりと書かれているため、後はひらすら都市伝説の存在を理屈をつけて解説するしか方向性はなさそうで、ダレるかもしれない。今の文庫の終わりも中々良い感じなので、本書の雰囲気が好きな僕としては続きを読まずにこのまま本を置いたほうが良さそうである。

「奇奇奇譚編集部 ホラー作家はおばけが怖い」(木犀あこ、角川ホラー文庫、2017)

 ホラーには馴染みがない僕だが、知り合いから紹介されて読んだ。
 ホラー小説の文脈がわからないので不安もあったが、中々面白かった。むしろSFに近い。巻末にこの作品が受賞した日本ホラー小説大賞の歴代作品が載っているが、パラサイト・イヴとか輩出したんだね。そりゃSFとも親和性があろう。

 内容的を大まかに書くと、人間の持つ恐怖心を脳科学でハッキングする系列で、似た雰囲気の作品としては「裏世界ピクニック」(宮澤伊織、ハヤカワ文庫JA)が挙げられる(そう言えば「裏世界ピクニック」は感想文書いてないな)。超自然的な存在が世の中には実在しており、主人公には知覚できるので、進化論だったり脳科学だったり記号論や言語論などを用いて超自然的な存在がもたらす事件を解決するという内容。理屈がはっきりしているので僕としては恐怖を感じなかった(怖がりだから良かった)。
 むしろ読んでて面白かったのは、ホラーとしてのアイデアの方で、嗅覚や味覚など、視覚(定番)・聴覚(ラップ音)・触覚(ひんやりとした~みたいな)以外の怪奇現象についてだとか、花や虫の幽霊(確かに動物霊や付喪神があるなら、草花も虫も魚もミトコンドリアも幽霊になって問題ない)の可能性や描写だとか。たぶんSFならこの方向性を進めて情報論とかそっちのテーマになってエスカレートすると思うんだけど(冷静に考えたらクラークの「幼年期の終わり」も生霊という形でホラーに含めそうだし)、この作品はどうなるのか楽しみ。

 キャラクターや会話は今風というかリーダビリティは高い。特に僕は怪奇小説の感度が低いため翻訳調でおどろおどろしく書かれると飽きる可能性があるので、この文体はありがたい。キャラクターの過去の掘り下げをフックにして物語にのめり込めるし、本書で出て来る怪異はストーリーに関連する部分はオーソドックスな幽霊の姿なので怖さが想像つきやすい(花や虫の幽霊は実験例的な意味合いで出てくるので読み飛ばしても可)。
 よく考えれば人が死なない作品なので、陰惨な作品が苦手な人も楽しめると思う。
 あと、生まれる前の胎児が幽霊になって出て来る話は、これこそ諸星大二郎氏にマンガ化してもらうと面白いと思う。


 とは言えホラーを求める人が本書に満足するかはわからない。日本ホラー小説大賞ってラインナップ的に正統派のホラーなのかすらわからないし。やっぱりSF読みの方が楽しめると思うのだ。