2020年12月31日木曜日

はじめに(2016/Dec/29更新)

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2017年9月19日火曜日

サディスティックサーカス2017Autumn

 行ってきたよ。ちなみにサディスティックサーカス2017Springはこちら

 出し物1つ目はMr.アパッチ。ジャグリングである。格好良くて最高。はしごの上に乗ったりお手玉やったりしてた。何とはしごの上で7つの玉でお手玉してたんだぞ、すごくない?
 2つ目はPAIN SOLUTIONの前半。前半だからショッキングではなかろうと思ってたら針刺しショーおっ始めやがった。J型の針を人体にぶっ刺して、たくさん刺したら紐につなげて空中に吊るし、ブランコみたいにブラブラさせる。さらに紐を1本ずつ切ってた。最終的に乳首の針1本で空中に吊り下がってたけど、乳首って強いんだね。陵辱エロゲのアレとかコレとか、実際には無理だろうと思ってたけど、意外とできるんだ。で、針刺しだったから幕間に血を拭いてた。まだ血はあまり出てなかったけど。
 3つ目はMiMi Le Noirっていうストリップ? 乳首と性器に銀塗ってた。おっぴろげたりしてた。プロポーションすげえ。
 4つ目のVeronica Waiteはポールダンスの人。ポールダンスってただ棒に体をこすりつけるだけと今まで思ってたけど、棒に登って逆さになったりだとか、完全に曲芸だ。もしやポールダンスはわざとセクシーな女性で人目を引かせて曲芸に注目させるのか。
 5つ目の浅草駒太夫。ストリップ60年選手らしい。音楽に合わせて踊るのは大衆演劇みたい。なかなか服を脱がないのだが、ストリップってそんなもの? まあ最終的には脱いだのだが上品。そして個別にお客さんに服をかけて1人ずつ性器を見せてた。これは笑いが起きた。
 次は金粉ショーのthe NOBEBO。金色の体にカラーライトが当たってきれいに輝いてた。この金色の体って前回のゴキブリコンビナートのツタンカーメンみたい……。金色の体がプルプルするのが見所という理解でOK?
 7つ目のDead Lift Lolotaはまるでアイドルみたいだった。レディビアードさん、ジャンプする時スカートを押さえないのが隣の人と対照的だった。男性はこういう所で男性だとわかるのね。いらん知識が増えた。Shade氏の曲がどれだったのかわからん。
 8つ目はノガラという軟体人間ショー。スーパー組体操みたいなものである。曲芸的な技は素晴らしい。軟らかな骨格だが、足の筋肉がムキムキなのを見逃さなかった。やはりこの手の体を使った演技をする人は筋肉質なんだ。
 その後はインターバル。フェティッシュバーの紹介。前回から気になってたけど、スタッフのお兄さんお姉さんの写真集って作ってくれないのだろうか。せっかくのお召し物、ちゃんと全員のを落ち着いて見たい。顔出しがアレなら仮面でも被って作ってほしいなあ。
 後半戦。
 最初から数えて9つ目のCAROUSELはMiMi Le NoirとVeronica Waiteがユニット組んで空中ブランコショー。宙に吊るした紐に体をぶら下げて組体操してた。きれいで格好良くて、すごい。曲芸は本当に見てて感動する。
 10番目はついにPAIN SOLUTIONの後半。まさか出血ものなのか、と思いきや、鼻に釘を差し込んだり、ガラスを食べたり、包丁の上に立ったり、針を体に刺したり、釘の上に立ったりしていた。何だ、これならあまり刺激的じゃないじゃない、と思っていたらやってくれました。最後に針を刺したり抜いたりした。出演者は3人で、それが全員で針芸するものだから迫力がとんでもない。体中に血が垂れてて床に落ちてたよ。この出し物が終わったら1人気絶と言うか貧血のお客さんが出たけど、さすがにスタッフも慣れっこみたいだった。PAIN SOLUTIONの人も心配そうに出てきて優しいなあ。演者が3人でよくまとまってたと思う。
 11番目のおベガス!。相変わらず元気になる。直前の流血ショーの口直しなのか? Pカップの方はよく見ると乳袋になってた。
 12番目は浅葱アゲハという空中パフォーマンスの人。ここらへんになると眠さが徐々に強くなる。ミヒャエル・エンデのモモをテーマにしたパフォーマンスらしいが、CAROUSELとやってることが被ってる。とは言え、ストリップしての空中パフォーマンスできれいだった。
 13番目はついにゴキブリコンビナート。「君の直腸が食べたい」というミュージカル(?)。えーと、「君の名は」と「君の膵臓を食べたい」が元ネタかな? 内容はどうでも良いが、最後に針金を口に貫通させてだんご3兄弟みたいになってた。君らも刺すのか。PAIN SOLUTIONとやってることは同じだが、痛みを素直に顔に出しているので余計に痛そう。ぶっちゃけ刺し芸としては素人っぽいが、痛みを感じず格好良さのあったPAIN SOLUTIONに比べてやたらに生々しい。
 14番目の早乙女宏美+琵琶デュオによる切腹ショーは琵琶を生で聞けて嬉しゅうございました。耳なし芳一がモチーフで切腹ショー。切るのが上手い。ちなみに今回は針刺しショーも切腹ショーも注意のアナウンスがなかった。
 そして最後に縄縛ショー。奈加あきら+紫月いろはのユニットらしい。正直、眠くて半分寝てた。ショーの大半は縛るシーンなので見てなくても特に問題なかった。やっぱ縛られる体に負担がかかるんだーと思った。

 という訳で相変わらずアングラショーである。今回は6時間ベンチに座っており、お尻が非常に痛かった。前回とは色々違うのが楽しめた。まあ、ネタがわかってても、目の前で曲芸するのはやはり迫力があって良い。次回も行きたいなあ。

「ダンケルク」(クリストファー・ノーラン監督、シンコピー・フィルムズ、2017)

 面白い映画である。最初は全く状況説明とかが行われず、お話がわからなかったが、仕掛けがわかった瞬間から一気に引き込まれた。
 この映画は撤退戦を抽象化して描いた作品なんだな。そのためドイツ軍は具体的に描かれず、戦闘シーンもほとんどない。そのため戦争映画と言われてもかなり異色作なのではなかろうか。

 実はこの映画の中で名前が出る人の方が少ないのだ。スタッフロールのキャストは「登場した順に書くよ!」と書かれており、それもフランス兵だとか列車に張り付いたおっさんとかそんな調子。町山智浩氏の解説(「町山智浩『ダンケルク』を語る」)を読むと、陸編の主人公がトミーっていう名前らしいが、映画見ている最中は知らなかった。トミーって呼ばれたり自己紹介するシーンってあったっけ? それほど名前の出てこない作りである。
 ちなみに最も存在感が強かったのはチャーチル首相で、この映画を見たら誰でもチャーチルファンになるのではないか。チャーチル首相そのものは画面に映っていなかったが、撤退の判断やその手段などで間接的に語られ、滅茶苦茶有能に描写された。まさか第二次大戦が終わって即首相の座から追われたとは誰も思うまい。
 そのように姿を現さないチャーチル首相が存在感があったほど、個人の名前は登場しない。そればかりか各固有名詞やイベントの抽象度は高い。最初に書いたようにドイツ軍の描写は全くされず、イギリス軍はテーマがテーマだけに戦闘シーンよりも撤退するシーンに重きを置かれて描写されている。フランス兵に至っては最初に銃撃戦、次に船でイギリスに逃れようと桟橋で待つシーンがほとんど。フランス兵の個人は陸編で出てきた1人しかいなかったのではなかろうか。

 実のところ、舞台がダンケルクの街である必然性もなく、この映画がガンダムの1シーンと言われても違和感はないと思う。登場人物は映画に必要な設定しか持っておらず、その意味で誰でも良い。ドラマのようなストーリーも背景もないけれど、逆に今スクリーンで起こっていることが全てであり、観客はその瞬間その瞬間を注視する必要がある(多分これがこの映画を語る際に使われていた「没入感」や「追体験」なのだろう)。ドラマを必要以上に作らなかったは、観客と登場人物に乖離を作らないためだったのではないかと思う。キャラクターが個性を持つと観客が客観的に見てしまうからね。でも不思議と、物語で語られるわずかなセリフから、キャラクターたちの背景が読み取れる(というか、過剰に読み取ってしまえる)。ある意味で二次創作遊びをしやすいのだ。
 特に船組のお爺さんは色々背景があることを暗に語っており、「個人」性はこの作品でも屈指。勝手に過去を考えてしまい、それにより感情移入はかなりできる。名前出てこなかった気がするけど(出てたらごめんなさい)。
 考えてみれば、単なる撤退する人だった陸組と、ドイツ航空機を迎撃するドラマを繰り広げたものの戦闘員以上の存在ではなかった空組に対して、海組のキャラクターは別作品と思えるくらいそれぞれのストーリーも感情も描かれていた。最初の2つが軍隊であり、一方でドラマらしいドラマのあった海組の登場人物が民間人であったわけで、戦場に自分の意思で参加する理由を描かなければ登場人物がペラペラになるし、そしてそれを描いたら必然的にドラマが生まれるわけだ。

 最初は群像劇だと思ったけど、群像劇というほどキャラクターの背景も出来事もない。メインの人物はいるけど誰も主人公と言うほどの活躍を見せない。いわゆるハリウッド脚本術的なストーリーが進む内に変化する主人公のような存在はこの映画には出てこないのだ。戦争は人間性を剥奪する的な表現があるけど、それを地で行った作品とでも言うべきか。
 何にせよ、商業作品でこんな作りにしてしまい、それでヒットを飛ばせる監督って勇気も実力もあるなあと思った。

「エイリアン: コヴェナント」(リドリー・スコット監督、20世紀フォックス、2017)

 エイリアン: コヴェナントを公開日当日の朝イチで見てきたが、見事なまでにおっさんと爺さんばっかりであった(僕もそんなおっさんの一人だが)。カップルや女性グループがいなかったことが、この映画の対象層を表していて納得した。そういやプロメテウスもおっさんと爺さん天国だった気がする。
 でエイリアン: コヴェナント、前作のプロメテウスの続きであり、エイリアン1の前日譚という位置づけなのだが、前作プロメテウスの設定の甘さが今作でも見られる。最もダメな設定なのは、エイリアン: コヴェナントでは事件が訪れるのは目的地に航海する途中で面白そうな惑星を見つけたから、というバカ理由で辛い。事前に何年も準備した計画を勝手に変えるなよ……。これでも良い年した惑星入植者のクルーなのである。
 そして未知の惑星をろくに探査せず人間の探検隊を送り出し、当然未知の病気に感染する(映画内ではこれがエイリアンの胞子みたいなもので、いつものエイリアンによる悲劇が訪れるのだ)。一方、探検隊を送り出した母艦は惑星の上空で待機しているが、母艦お留守番組の1人は探検隊にパートナーがいて、なかなか帰って来なく様子のわからない地上にヤキモキしている。夫婦を乗せるならもうちょっと感情コントロールをしとけよ。と言うか、主人公の夫が冒頭で死ぬのもそうなんだけど、物語の展開に色恋沙汰を使いすぎて、この連中が本当に他の惑星に入植できるとは思えない。こう言っちゃアレだが、B級ホラーで調子に乗って殺される大学生と知能や行動原理が変わらない。エイリアンはホラーだからキャラクターや物語もB級にしてしまったのだろうか。
 前作プロメテウスもそうなんだけど、プロット部分で引っかかりが多い。この感想の冒頭で書いた寄り道でエイリアンの惑星に行ってしまったという噴飯モノを始めとして、今回は展開のほとんどが自業自得感半端ない上に未知の凶暴な生物を見てながらそれでも単独行動する頭の悪さが状況を悪化させる。頭が悪いと言えば、未知の惑星に住んでた人間(?)を簡単に信用してしまうのもそう。当然エイリアンを植えられ、その後のエイリアン地獄の元凶となるわけだが、こんな怪しい人物をよく信用する気になったなと悪い意味で感心した。単にエイリアンに襲われるシチュエーションだけ作れれば良かったのだろうか。
 さて、そんな文句ばかりの今作で見どころがあったのは、エイリアン誕生に絡んだお話。作中の合成人間は人間に作り出されたから「創造」を行うことができず、創造を行いたいので人間に手をかけたというディスコミュニケーションを主題にしている。これ自体は僕は評価しておらず、エイリアンの創造って元は異星人の技術だよ、とか、彼が行ったのはせいぜい稲の品種改良だったりレゴブロックを組み替えるくらいで、稲やブロックそのものを作ったわけじゃないよ、と茶々を入れたい。しかし、人間が理解できる悪しき欲望でも、人間に敵対する異星人でもなく、それらとは無縁な別の意図でもってエイリアンが作られたという設定はなかなか面白かった。もちろん、現実的にはAIのコミュニケーション実験で人間が理解できない言葉を用いて会話し始めたみたいなニュースがあり、合成人間は創造できないという前提は意味をなさない。でも展開が負の方向へのご都合主義だったこの映画の中で、映画の設定としてこの映画独自のテーマ(「創造」的と言ってもよかろう)だった人間と意思疎通が出来るけど倫理が合わない合成人間の欲望という問題は観客に強い衝撃をもたらしたと思う。
 あとは、やっぱり「創造」に拘ってたのはキリスト教的な価値観が根底にあるからか? 創造主をもっと強くせねばカタルシスが得られないと思う。

 なお、この映画は町山智浩氏の解説がなくちゃわからん。
・「町山智浩 『エイリアン: コヴェナント』を語る
 なるほど、創造主への反逆だったのか。人間がスペースジョッキー(プロメテウスで語られた人間を作った宇宙人)に反逆するシーンがないので、個人的には映画の構造として美しくないと思う。合成人間が人間に反旗を翻すなら、人間がスペースジョッキーに反逆するテーマと対比させた方が良かったと思った。

2017年9月13日水曜日

ゲームが人生に繋がっていると感じた瞬間

 僕の親は貧乏性である。
 これは親が生まれ育った環境に起因する。ど田舎で育ち、多くは語らないけど10代の頃かなり困窮していたらしい。そのため今でもお金を大事にする。多少ストイック過ぎていて、今時(といっても僕ももう歳だが)の子供としては付いて行けない部分も多々ある。それでも親の生き方というのは尊敬している。
 そんなわけで、親は日々の生活でも極めてお金の支出を抑える。具体的には皮膚にあまり触れない生活必需品は近所の安売りスーパーの値引き時にメーカーを問わず大量に買い込む癖があるのだ。ゴミ袋とかフローリング掃除シート、ロウソクやDVDメディアなど、僕が把握していないものも含めて家には大量に物資がある。断捨離やらミニマリズムなどとは程遠い生活だ。

 僕自身も昔からこういうものだと思っており、自分の行動の一部だった。ただ、親と同様、見苦しくはならないようにしているつもりだ(親はモノを大量に買うくせに見栄えを気にするのだ)。
 それが成功したのか他人から指摘を受けることもなく、今ではこのリスのように貯めこむ習性を意識することもほとんどなかった。
 しかし転勤のため会社の机を整理していたら久々にびっくりしたのだ。

 事務用品が大量に出てくる出てくる。さすがに反省。自分でも把握できない分量はまずい。使ってないシャープペンの芯がある。使わない色のマーカーがある。恐らく将来も使わない。
 ここでふとオンラインゲームが連想された。ウルティマオンライン(UO)。
 オンラインゲームはオフラインゲームとは異なり基本的にリセット不可能である。原材料を消費して製品を作る場合、どんなに貴重な材料でも「作る」ボタンを押すと消費されてしまう。成功するか失敗するかは運のみ。そういえばオンラインゲームの最大の敵は乱数やリアルラックと言われてたっけ。

 だから成功率が低い製品を作るなら誰でもやることは1つだ。そう、原材料を出来る限り貯めるのだ。もちろんある程度貯めこむのは当たり前。ゲームは、特にオンラインゲームは、その寿命を長く保たせるためにプレイヤーのコレクション欲を掻き立てる設計をしている。必要な原材料以外もあれもこれも買い占めるなんてことはまあ普通に見られるだろう。悲しいかな僕はUOしか知らないが、UOでは例えば同じアイテムでも外見が異なっていたり、期間限定の配布イベントなどを行っている。漏れ聞こえてくる限りでは他のオンラインゲームも同じだと思う。
 さらに言うと、オンラインゲームでは究極的にはリアル時間の奉仕が成功につながりやすいので、廃プレイ自慢も加熱しがちである。「アイテムをたくさん集めました」。そのアイテムを集める苦労を知っている人々にとってはこれ以上ないほどの自慢となるだろう。

 とはいえ、単純に収集が楽しいのも貯めこむ理由の1つ。戦闘でレアアイテムを得る快感。ひたすら釣りや掘りを行って原材料(素材)を貯める楽しみ。世には銀行残高の増加を見るのが趣味という人もいるが、そんなのに近いのかなと想像している。いざとなれば素材も換金できるしね(人の少なくなりがちな今のUOでは素材の買い取り価格は安定しているのでかなり長期に渡って貯めても大丈夫、のはず……)。原材料集めは単純作業になりがちだが、逆にだから延々と出来るといった面もある。

 長々と書いたが、僕はUOにおいて延々と素材を貯めるスタイルを採っていた。将来的な装備の作成とか目的はあったはずなのだが、いつの間にか素材集めが目的となってしまった。半休止状態の今見てみると、驚くほど貯め込んでいる。
 ふとリアルの生活を思い浮かべる。リアルの生活はお給料という上限があるので貯め込めないが、でも好きな服とか着心地の良い下着とかはまだ新品で大量に持ってるぞ。
 リアル生活を反映する傾向が強いほど、ゲームでの生活もリアルと変わらなくなっていくと感じたのだった。これが単に敵を倒す・装備を作るだけのゲームだったらここまでリアルが反映されることもなかったろうに。結局、ゲームでロールプレイとか言うけど、意識しないと「リアルの自分」からは逃れられない。

「多重人格探偵サイコ」(原作:大塚英志・作画:田島昭宇、角川書店、2016、全24巻)

 この作品はなかなか感想を書くのが難しく、世間的には有害図書指定を受けた、と説明するのが一番簡単かな? 僕にとっては一時期大塚英志氏の評論が好きで、その創作論の具体例として読んでいた。
 とは言え、リアルタイムで単行本を買っていた時はストーリーがとっちらかっていると理解した記憶がある。当ブログでも記事にしており、ここで書いた文句の大半は全巻通して読んだ今現在も感想としては変わっていない。とは言え、本作品が完結して全巻読んでみた感想でも遅まきながら書いてみよう。

 まず自分でも驚いたのはむかし16巻くらいまで読んでたはずなのに途中から全く覚えていなかったこと。飛行機で船に突っ込むシーンってまだ物語半ばだったんだ。それこそ15、16巻くらいの記憶になっていた。こう言っては何だが、前半主人公ってキャラクターが立ちすぎていて、完全に後半主人公を食ってるんだよね。前半の主人公は多重人格という謎を持っており、読者が感情移入しやすい人格や冷酷な人格があって、その正体について読書の興味をかきたてる。後半の主人公は、前半主人公の性格を分解したような優しい担当とか冷酷担当みたいなペラペラのキャラであり、特に神秘さも感じせず、それがエピソードやページ数の割に印象が薄れる原因だったと思う。
 また、10巻くらいで既にガクソの陰謀(暗躍)と多重人格者のオンパレードの様式が完成されており、しかも限られた人物で物語を発展させてるので、誰も彼もが黒幕であるガクソ関係者で場合によっては人格のコピーされた人というワンパターンな作劇となっている(読んでて一番アレだったのは、「◯◯という人物が実は××だった!」というのは1回目は驚くんだけど、その後「でも××ですらなくて、実は△△だったのです!」とひっくり返される点。キャラクターに対するイメージが混乱するので止めて欲しかった。というか、最初からわかりやすい伏線を張って欲しかった。この作品の世界観として、ある人物の肉体的または精神的なスペアが自分でも知らずに別人として暮らしてるという設定があるんだけど、この設定のせいで「□□というキャラクターは**というキャラクターのスペアだった!」という展開が何回も出てきており、それもあって食傷気味である。このネタをほぼ全ての登場人物でやられたら、さすがに飽きるよ。)。原作者がどういう方法を用いて各エピソードを組み立てていたのかはわからないけど、どうしても大塚英志氏なのでタロットカードを用いているのではないかと思ってしまう。それほど個々の要素の組み合わせを変えまくったような似たような内容だった。

 全巻通して読んでて思ったのが、物語の世界観としてガクソ自体行き当たりばったりとしか思えないし、有力者のスペアが多すぎて作中世界の日本は政治家とかに後始末させた方が良いのでは? と思えてくる。以前書いた感想ではガクソに思想があるみたいなことを書いたのだが、ちゃんと読むとガクソも一枚岩ではないし、興味本位で手を広げたということが明確に書かれている。なので、読者からすると悪役とまでは認識できないし、それはラスボスですら何がやりたかったのかわからない読後感をもたらす。人間のスペアやら人格の再生やらにからめて、天皇の純粋化(?)やキリストの復活や太古の昔から延々と体を乗り移っていたラスボスやらが風呂敷を広げるが、結局は具体的な内容が書かれるわけではないし……。それよりもラスボスが太古の昔から人格コピーしてたんなら、わざわざガクソを隠れ蓑にせずにさっさと行動すれば良かったのではないか? と思った。
 あとは前半主人公の復活。普通のエンターテイメント作品なら感動的なシーンだが、大塚英志氏は以前にマンガにおける死ぬ体みたいなことを語っており、だから前半主人公を殺してそれがわかるように解剖シーンを入れた、とどこかで語っていた。僕がその発言を読んだのはもう10年近く前だと思うので、多重人格探偵サイコの連載終盤とは事情が異なるのかもしれないが、結局その作品論の失敗ということとなり、大塚英志氏の創作論として読んでいた僕にとっては何だかな~と思ってしまった。よくよく考えると、ひたすらスペアやら人格の復活やらが描かれる本作品で死んでしまう体なんて絵に描かれた餅にしかならないだろう。先に書いたように天皇やキリスト関連のような現実とのリンクが失敗していることからも考えると、大塚英志氏の創作論・作劇論の評価をかなり落とさざるを得ないと思う。

 とまあ一気読みした割には色々文句を言ってしまった。何だろうなあ。初期のバーコード殺人者を追い求めるエピソード集が一番良くできているので、単なる探偵ものにした方が良かったと思う。下手にガクソのような悪の組織や日本を巻き込む陰謀を考えだしたために、現実で陰謀や悪の組織のリアリティがなくなっていくのに作品にはマンガ的な悪役が存在するという半分ギャグみたいな作品になってしまったと思う。そして悪役ということで風呂敷を広げすぎて作中世界が何でもかんでもガクソに紐付いてしまい、それだけの技術を持ってながら何でガクソは目的を達成できてないの? という疑問を読者に抱かせた。以前の感想文では「陰謀論めいた話になってしまい現実に追い越されたチャチさ」と表現したが、今回最後まで読むとまさにチャチく終わったと思う。
 僕のように大塚英志論として読む人はどれくらいいるのかわからないけど、何かの参考になれば幸いです。

2017年8月20日日曜日

「とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢」(ジョイス・キャロル・オーツ、河出書房新社、2013)

 ある種の精神的な病、トラウマ、神経質な人物が事件を引き起こし、それが現代アメリカの問題を表している作品、とでも言うべきか。日本人の僕からすれば訳者解説での説明が必要だが、読めばなるほど、と思えた。とは言え、技巧は良いのだが、作品のテーマや内容に大して技巧がアンバランスに勝っており傑作とは言いがたかった。
 それが一番出ているのは、ストーリー部分。ストーリーはかなり類型的で、ホラーや奇妙な味系を読む人からすれば途中まで読むと落ちがわかる作品がちらほら見られる。人物構成も重なっている作品があることから、そのため読んでて飽きやすい。

 それが一番表れたのは「私の名を知る者はいない」。ラストで女の子が赤ちゃんを殺すのかなと思ってたら本当に殺してしまった。猫も女の子の悪いことをシンボルであり、読みやすかったが意外性はない。
 それに対し、面白かったのは「とうもろこしの乙女」。小説の構成的に、複数の視点がガンガン入れ替わり、そしてそれぞれの語り手は必要以上のことを地の文でも話さない。だから最初読むとわかりにくいんだけど、わざとらしい自己紹介などがないだけリアルさを感じた。しかし内容としては鍵っ子である小学生の女の子が、人とは違うという自意識をアンデンティティに持った別の女の子に監禁されて「儀式」を受けるということ。監禁した女の子は犯人扱いされないように学校の先生を陥れるんだけど、被害者の女の子の母親がテレビに出て騒がれてる優越感に浸り、わざわざ被害者の母親に接触して疑惑を掻き立てたりする。まあ、何だ、アメリカでの幼児に対する犯罪者の扱いやら、無実を叫んでも犯人と断定するマスメディアやら、小学生も汚染されるマリファナやら、幼い子を1人で留守番させた親へのバッシングやら、「アメリカ」的な問題点をたくさん盛り込んだ読み応えのある作品ではあるんだ。それだけに、事件のあらましとしては数十年前のキレる17歳のようなサカキバラ的な若者の闇を知ってる人からすればショッキングではない。日本も20年近く前に通った道である。読者としては、女の子が生きて帰れるのか否か、というところしか興味が持てなくなる。
 で、読者の興味を掻き立てるラストシーンだが、幸せな家族を描いたものの、それまでに挙げた問題点を解決することなく終わってしまっている。マスメディアの責任はどうなった? 虚偽を信じ込んだ警察は? 女の子が変な思想を抱くようになった経緯は? 驚くことに、そこら辺が一切解決されずに物語は終わってしまった。えー、嘘でしょ。

 つまり、あまり作り込んだ作品はもしかしたらこの作者は不得意なのかもしれない。そう感じたのが、「ベールシェバ」。この「ベールシェバ」というタイトルは相応の意味があるが、実はわからなくても作品を読む上では問題ない。極めて削ぎ落とされた内容で、男が捨てたかつての妻の子が、父である男に対し復讐するのだが、その子が言う糾弾は男の見に覚えがなくて……という作品。当初は男が悪いのか、と読者も思うんだけど、次第に女の子に不気味さを感じるようになり、実は女の子が事実でないことを信じているのでは? と思えてくる。ラストシーンも解説がなく、奇妙な味のような読後感。しつこい設定が解決されない「とうもろこしの乙女」に比べるとこれくらいの方が読みやすかった。ところで面白かったのは、男は当初自分の子に欲情したりするのだが、その女の子の体の描写が一昔前のお色気小説のようにしつこい点。これは一体何の効果を狙ってのことだろうか? (言っちゃあ悪いが、本文中でそこまで美人だとは書かれてもないし……)。

 「化石の兄弟」は個人的に好きな作品。設定の現実さに対し、描写は極めて幻想的。訳者解説で暴力性が云々と書かれているが、半分ファンタジーかかった雰囲気のため生々しさはまったくない。ストーリーは、略奪者である兄と収奪される側である弟の双子の兄弟が生まれてから死ぬまでの生き様を描いた、という内容。しかし徹底的に兄と弟との関係に絞って書かれているのがこの作品の特徴。「兄」と「弟」とは何かの比喩だと思うんだけど、わからん。
 一方、同じように双子の兄弟をテーマにした「タマゴテングタケ」はモチーフが「化石の兄弟」に似ているのと、一方で「化石の兄弟」の特徴だった雰囲気がなく、普通の小説っぽい。登場人物もたくさんいるし。それゆえ何らかの不安感を描きたいのだろうと思うんだけど、見どころがなくて微妙なのだ。

 不安感と言えば、「頭の穴」は微妙だった。いかにもアメリカ的な妻との関係が悪く雇っている看護師に心が動いている美容外科医の男。破産寸前でさらに流血や手術が苦手という仕事と自分とが合っていない。美容外科医とは手術というよりもカウンセラーという側面が強いと書かれ、顧客の不安を鎮めるため頭蓋穿孔手術を渋々決行し、そして破滅する。主人公の美容外科医も彼の顧客たちもそろって不安を感じているのが特徴で、いわば負の感情同士がぶつかりあってストーリーを進める。
 ……でも、僕はここまでの不安感は抱いてないので、かなりしらけながら読んでいた。一番困ったのは、前半の美容外科と後半の頭蓋穿孔手術を「精神的な希求」でつなげる点。確かに美容外科は精神面が大きいと僕もどこかで読んだことはあるが、一応外見に影響し成果が出る美容外科と100%怪しい手術である頭蓋穿孔を並べられても説得力が感じられなかった。どうやら筆者はそれなりに頭蓋穿孔のことを調べたらしいが、逆にそれが「精神的な希求」という患者のあやふやな欲求に対し変に具体的な発言としてチグハグな感じとなっている。
 そしてラストで描写されるスプラッターさは悪趣味というか、真面目に調べたであろう頭蓋穿孔の希求をメチャクチャにして、何がやりたかったんだろうと思ってしまう。

 一方、女性が抱える不安として「ヘルピング・ハンズ」。湾岸戦争や退役軍人をテーマにしており、これまたアメリカ的。不安とか寂しさとかを描いているが、この単行本では何回も出てくるテーマだから正直食傷気味。


 という訳で、僕とは合わなかった。全体的にどの作品も似ており、掲げたテーマの割に尻切れトンボ気味だと感じる。その癖技巧はあるので客観に引き戻されやすく作品に入り込めない。