2020年12月31日木曜日

はじめに(2010/Dec/29更新)

 *Internet ExplorerとGoogle ChromeとFirefoxでの表示確認済。ただし、Firefoxだと一部の表示が乱れます。*

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2016年12月1日木曜日

「ペルーの異端審問」(フェルナンド・イワサキ、新評論、2016)

 面白い。え、これ、ノンフィクションという体のフィクションじゃなかったんだ。
 そう思えるほど自由奔放な奇人たちが描かれる。

 一般に異端審問というと、ガリレオだったりスペイン宗教裁判だったりと陰惨なものとして描かれがちで(もちろんこの作品でも裁かれた人は不幸な結末を迎えている)、その内容については二の次であった。
 この作品は暗いイメージの異端審問について、一部の極端な例かもしれないがとびっきり笑え、でも暗黒の時代でも動物的な衝動はあったのだとなぜか感動でき、さらに教会の権威が今より遥かに強かった時代にキリストと相思相愛だと言い張る女性が現れたりと不条理さにしんみりしてしまうような実際の裁判記録を小説として仕立て上げたものである。ちなみに欲情とか淫靡とか煽られてるけど、この作品自体はまったくエロスの欠片もありません。あくまで中世にも人間らしさはあったという題材として取り上げられたという印象を受けた。

 最初にノンフィクションという体のフィクション~と書いたけど、この作品は短編が十数話連なっており、それぞれの短編は小説というよりはルポルタージュに近い。教会が力を持っていた頃の変人をテーマにしており、会話文なんてほぼ出てこない。今の時代からしても変人度は高く、だから創作だろうと思っていたのだった(後書きを読むとどうも実際の裁判記録から構成したらしいので、その時点で本当にノンフィクションだと気付いた)。
 ある意味で、時代が時代だから単に異端として刑を受けたのだろう。現代でこんなことをしでかす人間がいたらマスコミが持ち上げて時の人にしてしまうんだろうな。
 意外と昔も今の人々とやってることは変わらないってことを知れてよかった。

2016年11月25日金曜日

ポケットモンスターサン

 昨日やっとクリアした。非常に面白く、濃度の高いゲームだった。
 ポケモンというゲームは、ひたすら主人公を無個性にし続けている。後の作品に「……!」だけで会話をする異色のキャラとなった初代の主人公レッドが象徴的で、各作品の主人公はゲーム内で一言も話さず、脇役たちがそれぞれの思惑で動く中、まるでブルドーザーのように突き進むことで物語が紡がれる。
 はっきり言うと、そんな意図的に個性を消された主人公なので物語らしい物語なんてあるわけはなく、逆にだからこそプレイヤーはかつての自分や今の自分、将来の自分に主人公を重ねて冒険ができるのだ。クリアするまではゲーム内での自由度はそこまで高くはないけど(つまりフラグを立てないと自由にエリア移動ができないってことね)、クリア後を見据えた冒険する目的ってのは非常に自由度が高く、逆にプレイヤーがそれぞれゲームの楽しみを見出さないと楽しく遊べないかもしれない。だって、ポケモンはクリアしてからの方が遊べる要素は高いのだから、と僕は考えている。
 そんな僕だから初代のような世界の危機的災厄はなく、でもポケモン世界の裏側をそっと垣間見れ、でも別に遊び方は自由だよ、と放り投げられたストーリーというか設定が最高だと思っている(というか、今でこそ伝説ポケモンは世界の起源になったりと大々的に描かれるわけだが、かつてのようにいろんな断片的な情報を元に人間との関わりがほのめかされた「伝説」のポケモンに戻してほしいな。ミュウツーの神秘性ってそこにあると思うんだ)。そりゃストーリーがあればそれはそれで面白いけど、よっぽど上手に作ってくれないとひたすら世界の危機という名の伝説ポケ設定を延々と見させられることになるからなー。

 とは言え、なんだかんだでブラック・ホワイトやXYなんかはストーリーもけばけばしくなく、冒険を楽しく出来ていたので、サンムーンに対しても密かに期待していたのだった。事前の情報公開でジムがなくなったとか、主ポケモンとか、よりにもよってウルトラビーストとか色々変えられた要素があって不安にはなったが、それでも心の底では信頼しており、サン・ムーン両方を予約していた。

 賭けに勝った。
 別格である初代を除けば最高のストーリー。男の子主人公を選択したせいか、偶然であった美少女との出会いと大切な人を救って成長しての別れを描く王道の物語として読めた(ただし一言も話さない主人公なので細部は脳内補完必須)。舞台が南の島々に限定されているせいか、訪れる危機も何となく牧歌的で、一切同情できない悪人が出てこなかったのも好感。いや、主人公が感情を見せないので、本当の悪党が現れてもプレイヤーだけが盛り上がってしまうので、ゲームとのズレを感じてしまうんだよね。その点スカル団なんて単なるチンピラで世界征服なんて大それたことを考えてないっぽいので、こいつら後で改心するんだろうと妙な安心感がある。
 ストーリーはリーリエが軸になるが、演出が憎い。主人公では当然ながらストーリーを動かせないので、リーリエが案内役になる。最初は単なるサブキャラかと思わせて実は悪役と因縁があり……と次々に展開させる。そのままでは主人公が蚊帳の外になってしまうのだが、何とリーリエは主人公と仲が深まるのだ。男の子主人公にあからさまに好意を抱き、そして自分の生き方を見つけて去るエンディングは非常に美しかった(なお、女の子主人公でも楽しめるらしい)。
 さらに、そういう少年少女の恋愛もの・少女同士の友情ものとしてだけでなく、今作は基本に立ち戻り冒険をイニシエーションとして捉えようとしているのだと気付く。ジムの代わりの試練システムだね。ジムは確かにポケモンの原点だと思うけど、そもそもジムを攻略する動機をプレイヤーに見つけさせる必要がある。世界を見るため島巡りをし、その過程で試練をこなすというのは大人になるための儀式としてより自然だと思う。

 というわけで、満足してストーリーをクリアしたが、これ、クリアした後の方が大変なんだよな。4Vメタモン、シンクロ個体、赤い糸、バトルタワー。
 やばい。

2016年11月19日土曜日

歳をとったと思ったこと

 昔々、まだ若かった頃、本や映画に耽溺していた。
 親は僕に比べて映画も本も興味がなさそうだった。僕が次々に本を買うのに苦言を呈し、自分は同じ本や決まった作家を何回も何回も見かえしていた。
 一度なんで新しいものに手を出さないか聞いたことがある。

 「疲れるんだよ」

 一言そう言われた。僕は正直、親は文化的なものに興味がないのかなと思っていた。
 そして僕も良い歳になって、何となくその時の親の気持ちがわかった気がする。

 とにかく集中が持続しないのだ。学生時代ならネットゲームに朝から晩までハマり、それこそ寝る間も食事の時間も惜しんで遊べたのに、今は自分の生活と比べて程々になってしまう。元々飽きっぽいからかなと思っていたが、何か違う。飽きたなどとは別の理由で夢中になれる時間が年々短くなってくる。
 ふと、親と同じように、僕も体力や集中力が衰えているのだとわかった。
 歳をとるというのはこういうことなのだろう。大人になると保守的になるというが、そうなのだ。行動する気力が失われ、意思の持久力も減る。
 今後新しいことに夢中になれるのかな。

2016年11月11日金曜日

あらゆる意味で記念日となった一昨日へ

 アメリカ大統領選挙でトランプ氏が勝利した。
 正直、なんだかんだ言ってもクリントン氏が大統領になるだろうと予定調和的な楽観を抱いていたので驚いた。
 勝因や敗因などは今後分析されるらしいが、いくつか調べた中では相当の分断がアメリカ国内であると感じた。同時に、20世紀後半以降進められていた価値観に対する拒絶が全世界的に起こっているのだと。
 ナショナリズムやあいつズルいなどという生の感情が力を持ってしまい……それに対抗する勢力は別のナショナリズムとこれまた別の感情なのだろう(ええ、イスラムを念頭に置いています)。
 これは個人的な希望だが、トランプ氏が大統領になってもアメリカも世界も急激に変わるということはないだろう。既存の体制はそんな簡単に変わるには強固すぎる。でも、知らないうちに少しずつ理性でなく感情で世界が動き、その変化は数十年後にやっと観測でき、そのときに実は世界は動いていたのだと気付くのではないかと思う
 「希望は戦争」という言葉は今まで実感がなかったが、なんとなくこういうことだったのかとわかった。
 変革を望み、そして実行に移せてしまった人々に乾杯!

2016年8月15日月曜日

「シン・ゴジラ」(庵野秀明監督、東宝、2016)

 面白い。こういう映画が見たかった。ハリウッドで描かれる怪獣は、パシフィック・リムですら、現実の生物の延長と思われるため通常兵器が全く効かないなどのトンデモ要素(しかしそれこそが怪獣映画の醍醐味である)がなくなる傾向にある。一応2014年のギャレスゴジラは通常兵器が効かなかったかな。もちろんハリウッドの怪獣映画はそれはそれで面白いのだが、このような伝統的な怪獣映画はやはり日本産がイメージに合っていることを印象つけられた。そしてそのような怪獣をいかにして倒すかの攻防戦はさすがにエヴァンゲリオンの庵野監督だけあって非常に面白い。

ディザスター・ムービーとプロジェクトX

 さて、この映画は2011年の東日本大震災での被害や政府の対応を参照しており、その意味であの出来事をエンターテイメントに昇華出来てよかったねと思っている。恐らくその最たる例が被害者となる個人をほとんど描かなかったことであろう。一般市民を描くと、基本的には右往左往したり避難する姿しか描けず、その結果安易にお涙頂戴なシロモノになってしまう。この映画では組織の上層部ばかりが出てくるが、多くの震災報道・震災小説では被害者に代表される個人しか描いてなかったので、そのアンチテーゼとも理解できる。
 ただし、怪獣モノってのはその巨体から個人と対比して描かなくちゃ面白くならないから、怪獣映画として面白いかどうかは別物だ。怪獣退治や対策を主軸とした作品といえば「MM9」(山本弘)が挙げられるが、「MM9」は身近に出現する色々なバリエーションのある怪獣を出したから一般市民への被害もある程度は想像できるけど、今作のゴジラ(というか近年のゴジラ作品に見られることだが)は被害者(正確には人間との対比による恐怖)を感じることは難しいだろう。良くも悪くもあの傑作である平成ガメラ3部作と同程度なわけで、平成ガメラから何年経過したのかと考えれば実質的には全く成長していない。正直、ゴジラでなくて別の怪獣でも、極論すれば異星人の宇宙戦艦でも内容に影響はなかったと考えている。
 そこをあえてゴジラにしたってのはゴジラに対する愛なのだろうとは思うが、登場人物はゴジラを知らなくても、観客はゴジラが人間を滅ぼすなんぞできないことを知っているので、危機感に上限を設ける結果になったと思う(いくら放射能火炎をやビームを放って東京を火の海にしたとしても、同じ庵野監督だったら、「巨神兵東京に現わる」の方が怖かったし、他には平成ガメラのレギオンなどの切迫感には遠く及ばなかった)

現実VS虚構

 つまり、ゴジラがアポカリプスの象徴(そして悲しいかな本物のアポカリプスには規模も程度も遠く及ばない)と位置付けられ、今作のような作品になったのはある意味で悲劇であるのだ。変に伝統やテーマ付けをされてしまったせいで、その本質はエンターテイメント性であったにも関わらず、シリアスな現実を描くことを求められて、そして現実は虚構なんかが想像できないほど規模が大きく深みがあり複雑で、それでも優しいことを見せつけられてしまった。
 僕はこの「シン・ゴジラ」は数多の震災後文学の1バリエーションでしかないと考えている。危機(9.11テロでもオウム事件でも東日本大震災でも阪神大震災でも戦争でも良い)が起こった後で、被災者や救助隊や為政者を描いた作品というのが様々現れた。そのほとんどは悲しいかな全体像を見せるため、または個人をクローズアップさせるために一見して必要でないと判断されたところはあっさりと切られていた。「シン・ゴジラ」も良く出来た政治映画であるが、現実を描いているわけでなく、現実を戯画化して初めて映画として形になっているわけで、普通の虚構であると言わざるを得なかった。同じ虚構であっても、平成ガメラの怪獣プロレスをやりながらSFもテーマも盛り込めるフットワークの軽さは怪獣映画の歩むべき未来の1つとして大切だろう。願わくばガメラがまた復活してくれないかな。

リベンジされる第二次世界大戦
 この映画で面白かったのは第二次世界大戦と符合する箇所が出てきたことだ。その象徴である原子爆弾を落とされたのは1945年。シン・ゴジラと同じくアメリカによってだ。
 しかしシン・ゴジラでは見事にもこの危機を回避した。
 中露が主張しアメリカも同意する中、国連によりゴジラ(in Tokyo)への核攻撃が決定される。ACR包囲網のさなか、日本は何とかフランスを説得し時間を稼ぐ。そして対ゴジラ作戦も過酷だ。ゴジラに対してホース車とタンクローリーで対峙する。そして何と民間志願者までも募って特攻部隊を結成したのだ。ヤシオリ作戦と言えば聞こえは良いが、実際は極めて不安感あふれる絵面だった。ゴジラが立ち上がったら一瞬で作戦が崩れるよね? 同じ対ゴジラ戦でも超兵器を作れた1984版ゴジラに対して、シン・ゴジラはまるで竹槍で戦闘機に立ち向かう様。おお、ガンバスターよ、何十年かの時を経て蘇ったか。
 ある意味で、日本が再び世界の敵となり、原爆を落とされるシチュエーションを作るため、ゴジラという存在が使われたとも言えよう。確かにアメリカだったら怪獣が自国に現れても核兵器を使う予感はするが(パシフィック・リムやギャレスゴジラでそういうシーン、言及はされていた)、それを逆手にとって日本に非を持たせず日本人にとっての危機感を想起させる――つまりアメリカによる核攻撃だ――作りは上手いと思った。

かつて存在したと言われる美しいニッポン

 そしてそこで描かれる日本は前半の半分ギャグを交えた停滞した会議や官僚制の描写から、後半の国の存続のため自律的に行動する官僚・企業によって「希望」として描かれる。「日本もまだやれる」「危機というのは日本をも成長させる」……正確な表現は覚えてないが、登場人物にこのような発言をさせ、それこそ死を覚悟して自分の責務を果たす姿は格好良く映るものの、これが虚構なんだなと実感させられる。それも悪い意味での虚構だ。
 対ゴジラの作戦が軌道に乗ったのは結局トップが変わり権力を手に入れたからだ。つまり、何かを成し遂げようとすれば、今の日本ではクーデターしか選択肢がなくなってしまう。主人公である矢口の描かれ方もなかなか深読みしがいがある。序盤の巨大生物を信じず、また対策をさっさと実行に移さない官邸に苛立つシーン。僕も1回目観た時は矢口の立場だったが、2回目以降時は総理の立場になった。はっきり言って矢口は異常である。明らかにありえない選択ばかり信じ、その結果、この作品がゴジラだったから正しかったものの、ゴジラがいない世界では絶対にクラーケンやネッシーを信じるトンデモ官僚になっていたと思う。ある意味で、人間同士の小さいようだが今の社会を成立させるために必要な対立はゴジラという外敵によってあっさりと無効化され、そして総理大臣以下ほとんどが消えたことで矢口がやりたい放題できたという棚ボタ的展開。これを虚構と呼ばず何と呼ぶのだろう。そう、日本人、いや人類は外敵が現れて初めて団結できるのだ。核兵器を放つアメリカという敵によって。


ゴジラは続くよ、どこまでも

・それはともかく、ゴジラ、CGがしょぼくないか? 特に蒲田を進むアレ、どこからどう見ても作りものっぽかった。さすがにゴジラそのものはかなりリアルだったが、それでも血液が流れる時のCG的液体表現は「我こそはCGだ」と言わんばかりで、きつかった。
・文句は言ったが、面白いんだよな―。映画館に来ていたガキンチョも楽しんで見られていたようで、優れた作品は世代性別(恐らく国籍さえも)問わずに面白く感じるのだと思う。
・もっとも、あくまで「日本人向け」であり、日本人に興味がないと面白く感じないだろうってのはある。東京に核を打ち込まれると困るというのは日本の事情を知らないと理解できないんじゃないかな。
・ヤシオリ作戦の立案時はほぼ物語も佳境に入り、消化試合状態だったので、ヤシオリ作戦が最後の最後で失敗して緊張感を持続させたほうが良かった気がする……単に個人的な好みの問題だが。
 ところでやはり怪獣映画は怪獣の活躍と破壊を見せなければならないと思った。

2016年7月13日水曜日

「帰ってきたヒトラー」(デヴィット・ヴェント監督、コンスタンティン・フィルム、2015)

 フィクションとノンフィクションの虚構の違いについて考えてしまった。
 この作品は、ヒトラーが(理由は不明だが)現代に蘇ったらという仮定を元に作られており、蘇ったヒトラーのことを彼本人だと思わない大衆がなぜか蘇ったヒトラーの発言(もちろんヒトラーの発言は第二次世界大戦当時の意味そのままだ)に納得してしまうという黒い可笑しさを皮肉を込めて描いている。
 ありえないことが起こった。大衆はヒトラーそのものには距離を置くくせに、ヒトラーのそっくりさんには迎合する。だから、大衆はダメだ(第二次世界大戦当時と変わっていない)という論法で組み立てられている。
 僕は昔の記事ではそういう文脈で小説版を評価した。小説版は確かに面白かった。ヒトラーが復活するなんてファンタジー中のファンタジーだが、だからこそ大衆がそれと認識しないままヒトラーを担ぎ上げる不気味さを描けていた。ヒトラーの一挙一動は「痛快」で、自分の中のヒトラーなるものの存在を意識させられた。そして映画版はその小説版を元に……アレンジした。それは恐らく致命的な誤りだろう。

 この作品の肝は上で書いた「ありえないこと」をどう受け止めるかにかかっている。小説は、フィクションは虚構の世界だ。だからありえないことを起こして問題ない。というよりも、ありえないことを元にして真実を明らかにするのがフィクションの力だと思っている。しかしノンフィクションはあくまで現実を描かなければいけないわけで、現実でありえないことを前提としてノンフィクションを作ってもおかしな結論になるだけだ。
 そう、映画版は、一部ノンフィクション(ドキュメンタリー)を紛れ込ませている。後で書くが、たぶんこの映画の中で致命的な点だと思う。映画ライターを職業にされている方の言葉を引用しよう。
そうした笑いの中に、映画はすごい策略をさしはさんでゆきます。ザヴァツキとともに全国行脚する下り、この多くの部分がなんと本物のドキュメンタリーなんですね。
渥美志穂氏)
 はっきり言って、一般的に現実の世界を生きる西ヨーロッパの大衆は死んだ人が生き返るなんて想定してないだろう。つまり、このヒトラーが偽物ってことはわかりきったことで、さらに原作小説はドイツでもヒットしたのだから(杉谷伸子氏曰く「ドイツで200万部を超すベストセラー小説」)、ヒトラーが町中を歩いていたら十中八九「帰ってきたヒトラー」の映画や何らかの企画だと考える可能性が高い。
 とすると、この「ドキュメンタリー」にはかなり現実が歪められた映像が撮影されるのではないかと想定できる。この映画のヒトラーと共に写真を撮った人々は、本当にヒトラーに賛同するために行ったのだろうか。単に有名な俳優と共に記念に撮っただけという可能性はないのだろうか(つまり、ダースベーダーと共に写真を撮る人はダースベーダーの意思や政治的態度に賛同するとまでは言えないのではないかということ。もちろん現代のドイツで何が何でもヒトラーの写真を撮ることそのものが禁じられているなら別だが……)。
 また、ドキュメンタリーパートで撮られたヒトラーに迎合して過激な発言をする人々だが、単に雰囲気に飲まれただけという感じがする。つい最近あったイギリスのユーロ離脱投票で、大して考えもせずに投票したっぽい人間が散見されたように、その場の雰囲気などで迎合したり反発したりと考えを左右するのが人間の本質ではないかと僕は考えるのだ。日本だって有名になりたい、衆目を集めたいという理由で対して考えもしてないであろう極論を叫ぶ人間はいるわけで。
 もっとも、ここらへんはドイツでヒトラーや人種ネタに対してどこまでが許容範囲なのかわからないのでなんとも言えないか。

 そして、僕が一番この映画を評価できないのは、ドキュメンタリーと言っておきながら操作が行われている点である。これは致命的だと思う。
(前略)多くの人は引いていくんです。でも中には強く賛同して残る人たちもいる。映画の中ではそうした確信的に右寄りである人しか残しませんでしたが、話しているうちにうっすらと、外国人敵視などに同調する人はかなりいました。
渥美志穂氏)

 この作品を見る限り、ヒトラーの偽物に出会ったドイツの大衆はかなりの割合でヒトラーに賛同して今晩からすぐにでも「最終解決策」を始める感じだが、どうも撮影した時はそんなでもないらしい。とすると、これって明らかにドキュメンタリーとしては反則じゃないの? この「編集」が許容されるのなら、逆にヒトラーの偽物が現れても大衆は無視していました的なストーリーも作れない? 映画はドキュメンタリーパートの結果から現代のドイツ国民の多くは不寛容であると結論し、だから現代ですらヒトラーの脅威は去っていないというテーマに結びつけていたが、ドキュメンタリー自体が編集されていれば結論は異なってくる。

 さらにもう1点。
 映画のロジックでは常にヒトラー(的思考)に石を投げないとNGらしい。ヒトラー役の俳優と撮影することを咎めていたのだから。しかし、その理屈なら原作小説もNGではなかろうか。ヒトラーに対する前提が共有されていなかったら、それこそ英雄ヒトラーを描いた小説である。少なくとも原作小説はいわば褒め殺し的な、ヒトラーの活躍を描き大衆から支持されることで再び昔のドイツが到来するという警鐘を皮肉交じりに鳴らしていた。極めて文脈に依存した作品である。
 邪推になるが、恐らくだから映画は原作小説より反ヒトラー色が強かったのだろうと考える。

 最後に、細かい点を。
・フィクションの肝であるヒトラーの復活についてだが、キリスト教的な偉人行為と捉えることもできないだろうか。原作小説では徹底的に宗教が省かれていて違和感はなかったが、映画で実際の街の映像を見せられると宗教面が出てこないのは意図的な感じがした。宗教関係にも撮影出来ていれば映画の見どころになったろうに。
・ユダヤ人であるクレマイヤー嬢を「説得」するシーンは原作小説のクライマックスなのに、省かれていたのは痛い。クレマイヤー嬢ですらヒトラーを受け入れるからヒトラーは恐ろしいという理屈になっていたのに。
・ドイツでは人種差別発言は許容されるけど犬殺しは非人間が行うもの的扱われ方なのね。


 そんなわけで手放しには楽しめなかった映画である。良い意味でフィクションの虚構だったものが、ノンフィクションでは悪い意味で嘘に変わってしまっていた。確かに原作小説は風刺であると事前情報がなければ読解しづらいが、それでもヒトラーやそれを支持する大衆の恐ろしさの描写でははっきり言って原作小説に及ばない出来である。