2020年12月31日木曜日

はじめに(2019/Dec/29更新)

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2019年1月18日金曜日

「シュガー・ラッシュ:オンライン」(リッチ・ムーア監督、ウォルト・ディズニー製作、2018)

 変化するということへのポジティブさ・肯定的な描写に対し、変化を拒否することへの否定的な展開が極めてストレートだった作品、というところか。たぶん昨今のトランプ現象を念頭に置いているんだと思う。社会全体が「変化」することについて基本的に僕は肯定的なんだけど、個人の「変化」を強制することはちょっと気分良く見れなかった。正直、今作を見る限りではたとえバックラッシュと言われようと、「変化」は急すぎると判断せざるを得ない。

 ストーリーは、前作で友情を育んだ少女と大人の男(明言しないけど、描写を見る限り恋愛だよね……)だが、少女が住んでいたゲーム機が壊れたので修理するためインターネットの世界を冒険する、という物語。途中で少女はすっごくドキドキするレーシングゲームに出会い、もともと住んでいたゲーム機に帰らないと宣言して、彼女と友情を育みたい大人の男は変えるために騒動を引き起こし、最終的に彼女の判断を尊重して分かれるというもの。

 僕としては、少女の行動が一切理解できなかった。壊れたゲーム機には彼女だけが住んでいるわけではなく、仲間たちもいるわけで、それを放り出して自分だけ理想的なゲーム世界に残るってそれは自己中すぎないか?
 いや、そもそも彼女のレースに対する熱意はある種の中毒患者がより強い刺激を求めるのに似ているのでは、と見ていて感じた。彼女が残りたがったレーシングゲーム世界は、レーティング的(最低でもPG-13では? というか明確な暴力描写があるわけだからもっと高くてもおかしくないのでは?)に彼女の年齢(10歳前後だよねえ)と合わない気がするんだけど、ディズニー的にはそれでオッケーなの? それでもって少女がもっとスリルを、もっとレースをと主張するのだから、ゲーム中毒・オンライン中毒は友情を壊すしもともとの行動の動機すら忘れる有害なものなんだなと改めて思った。
 まあ、そういう少女に友情を求める大人の男も気持ち悪いことこの上ないんだけど、変化のない元の世界へという動機があるにせよ、当初の冒険の目的を達成しようとするから好感を持てる。この作品の範囲だと、少女はより強い刺激のためにすべてを捨てるだけのヤバい人にしか見えないし、たぶん今後もっとハードなレーシングゲームが現れたらそれまでの友情も思い出も投げ売って移住しちゃうんだろうなと想像できる。アメリカってそういう文化なんだろうか?
 そういうのが「変化」として肯定的に描かれてしまうと、僕は「変化」に対しては誠実でないと評価してしまう。

 それにしても最後の大騒動を引き起こしたウイルスを捕まえてないはずなんだけど、大丈夫なの? 細かくプロットを見るとおかしなシーンが盛りだくさんあるんだけど。
 ディズニープリンセスだったりストーム・トルーパーの友情出演みたいなどうでも良いシーンでお茶を濁してないで、キャラクターの動機とかストーリー展開にもっと力を入れなければダメだと思った。

「親がうるさいので後輩(♀)と偽装結婚してみた。」(コダマナオコ、一迅社、2018)

 正直、僕が昨今の百合ブームに乗れないなと思っているのは、百合というものが単なる萌え族のおかずでしかないことが透けて見えるからなのだ。
 アメリカを中心に起こっている性的マイノリティのムーブメントは現実問題として性的マイノリティがマジョリティよりも権利を制限されていることに発しており、その運動は重要だと思う。それに比べて日本の百合ブームはどんなに性的マイノリティを肯定的に描いていてもマジョリティ(いわゆるヘテロセクシュアル)のおもちゃという枠組みが強固に残っているし、そもそも彼女らが直面している現実的な問題を描く気がなく「萌え」として消費している(女性キャラだけが出てくると期待されたアニメに男性キャラが出てくるだけで侮辱的なあだ名を付けられることを考えたらオタクが本気で女性同士の愛だの恋だのを考える気なんてないとわかるだろう。ちなみに「ケムリクサ」を念頭に置いてます)。
 それは百合をプッシュし続けて長い一迅社であっても同じで、「百合男子」について文句を書いたことがある。この作品が描かれたのは昔である上、僕は2巻以降読んでないわけだが、それでもこんな偏見垂れ流しまくりの作品を出版してしまうなんて信用できないなと思っていた。

 本作を読んで驚いたのは、そんな一迅社にしてはなかなかやるじゃないってこと。この作者が描いてアニメ化になった「捏造トラップ-NTR-」はそこそこ頭の良い女子高生が主人公なのに途中から体を売って生活しているような描写が出てきてどこまでリアリティがあるのか、そもそもドロドロの展開にするために最悪手を選び続けているのではないかと思っていた(アウティングという問題が現実には起こってはいるけど、現代ってまだ女性同士の関係をバラすことが脅しになるっていう時代なの? 今どきはそういうのバラしたほうが叩かれると思っていた)。

 本作はそれとは打って変わって明るい作品で、それでも物語の背景として女性が直面している生き辛さを描いており、はっきり言ってしまうとそういう問題に物語中で答えを出しているわけではないのだが、その軽さ・明るさが今後の社会を作る上で必要じゃないかと思ったのだ。悲劇の恋愛にすると物語的な起伏もあって面白いのは確かだが、性的マイノリティの問題ってそういう風にマジョリティからネタにされるものではないから。問題はまだまだ山積みだけど明るく、希望を持って、そういうものだと描いて、そういうポジティブさで社会を変えて行くのもまた必要なんだろうなと思った次第。

 「無酸素恋愛」は表題連作とは別の短編。若くしてアイデンティティを失うって大変だなあと他人事のように感じた。まあでも、スポーツやる学生は実績出せなかったときのことを早めに考えた方が良いと思う。勉強って結構早い段階で自分が対して頭の良くないことがわかってしまうんだけど、スポーツやってる人って何でそういうのがわからないのか今まで不思議だったし、今後も僕は不思議に思うだろう。自分が空っぽになって他人を求める感覚がわからず、この主人公の気持ちがそこまでわからなかった僕は恋愛に向いてないと痛烈に感じた。

「ひもてはうす」(石ダテコー太郎監督、バウンスィ、2018)

 石館監督の作品は好きで、極力見ていたが、今作は期待外れだった。
 その大きな原因は、1話15分という放送時間に対し、レギュラーキャスト6人と今までで一番の大所帯となっており、キャラクターもキャストも掘り下げが不足していたからである。そもそもキャストは石館監督初である洲崎氏を除けば全員2回目以上の出演であり(最小公倍数では「gdgd妖精s」+「てさぐれ!部活ものシリーズ」。最大公約数では「gdgd妖精s」+「直球表題ロボットアニメ」+「てさぐれ!部活ものシリーズ」+「キュートランスフォーマー」と書けば新しさがないのがわかるだろう)、キャストの掘り下げは今までの実績に大きく依拠しており今作ならではの新鮮味がなかった。
 さらに、石館監督アニメの売りであるだろうアドリブパートも、そもそもキャスト6人がフルに揃った回があったんだかなかったんだか、そういう状態なわけで、声優アニメとしても見どころに欠けた作品だった。アドリブパートで声優が全員揃わないのって「てさぐれ!部活もの すぴんおふ プルプルんシャルムと遊ぼう」でもあったけど、あれは「プルプルんシャルム」のプロモーションアニメみたいな位置づけだから問題にならなかったのであり、完全新作の今作で同じことをやられると不完全なアニメという印象しかもたらさない。
 もちろん個々のネタは面白いものがあったので惜しいなあと思う。いつもの石館監督の通り、新人声優3人を起用した方が良かったのではないかな。製作的にマンネリだったかもしれないけど、アニメとしての既視感をもたらさずに済んだと思う。

2019年1月14日月曜日

「トランクの中に行った双子」(ショーニン・マグワイア 著、原島文世 訳、創元推理文庫、2018)

 この作品は「不思議の国の少女たち」の外伝的続編であり、前作である「不思議の国の少女たち」を読まなければ内容が理解できないと思う。
 この作品の問題点は、「トランクの中に行った双子」単体では世界観がわからず、面白さが前作に依拠してしまっていることである。前作では異世界から戻ってきた子供たちというテーマで異世界を描写し、逃避文学と現実とのすり合わせを丁寧に物語にしていたのだが、今作は悪い意味で単発のエピソード集にしか過ぎない。4年という年月を薄めの文庫本1冊にまとめるのは難しかったのだろうと同情するが、Aという出来事がありました、その数年後、Bという出来事が起こりました、そしてさらに数年後、Cという出来事が起こりました……というプロットはさすがに2018年末のエンタメ系長編小説としてはお粗末である。不思議の国のアリスなんかは心理描写が押さえられ、エピソード集が寓話っぽい雰囲気を醸し出しているが、この作品は登場人物の感情ががっつりと書かれた現代の小説であり、余計にエピソードのぶつ切りが物語に入り込ませない効果となる。
 というか、世界観の前提となる異世界のルールが異世界に行った子供視点だからとはいえかなりどうとでもとれるためファンタジー的な面白さすら薄いと思う。吸血鬼が実在する異世界で、それがメインテーマのはずなのに、山に棲む人狼だったり深きものどもっぽい半魚人(?)が存在したりと吸血鬼ってこの異世界の中心的存在ではないのでは? と思ってしまう。
 結局、文庫本1冊で描いたのは前作の犯人の素顔であり、本来前作で描く内容であった。前作の某キャラたちを掘り下げたいという人以外は読まなくても大丈夫だと思う。

 なお、時々主人公の少女の描写がフェティシズム特盛になるんだけど、どこまで日本風に言う「萌え」を意識したんだろう。

2019年1月10日木曜日

「NOVA 2019年春号」(大森 望 責任編集、河出文庫、2018)

 なんか懐かしい名前だ。最後のNOVAはもう10年ほど前なのか……。日本を代表するSFアンソロジーの1つだったイメージがあるので、今後も続いてほしい。
 最初の「やおよろず神様承ります」(新井素子)。どうも僕は新井氏の一人称文体とは相性が悪いことがわかった。短編集のテーマ以前に文体が合わなかった。いちいち地の文でツッコミが入って痛い上に話が進まなくてつまらない。玄関の呼び鈴が鳴って2、3会話して不思議ちゃんだったからとりあえず扉を開けるだけの描写で3ページ使うのって無駄じゃない? 昔はスレイヤーズとかその亜種の一人称小説を読んでいたが、この作品が無理ということはもはや当時夢中になって読んだスレイヤーズなどももう読めないに違いない……、と少し悲しい。それはともかく、小説としては家事に追われる主婦が「優先順位の神様」を知ることで生活にゆとりが出るお話で、この程度のことも自力じゃできないなんて昨今のマニュアル人間はどうしようもないと感じた。たぶん作者は主人公の主婦に同情的だと思うんだけど、会社員やってたなら仕事の順番付けは基本だと思う。
 「七十人の翻訳者たち」(小川哲)は歴史を絡めた物語論。作中で描かれている「物語ゲノム」ってどこまでが現実の理屈なんだろう。SFとしてのギミックは神の描写をした原点の聖書を解読すると、神が見えてしまうという”感染する言葉”的なアレ。同じように歴史とSFを融合させた小説だと、「円」(「折りたたみ中国」収録)が挙げられるが、「円」に登場するキャラクターが極力時代的な違和感を感じさせないように描写されていたのとは異なり本作では紀元前のエジプトで現代用語がガンガンに使われていたのが萎えた。
 次の「ジェリーウォーカー」(佐藤究)は普通のパニックSF。正直、ある程度ジャンル小説を読んだ人間なら最初の数ページを読んだところでラストとオチまで予想できてしまう。予想がどう覆るのかが楽しみで読んだら、まさに予想通りだった。これはこれで想像つかなかった。なお、2018年から3、40年後なのに未だにダークウェブが捜査の手が及ばないアングラ世界とするのはリアリティに欠ける。あのWinnyですら、そしてShareですら解析され、Warez鯖は多分盛り上がってないのだからダークウェブも10数年したら下火になると思う。むしろ、警察が些細な犯罪を見逃すのが暗黙とされ、実名で違法データをやり取りする未来の方がそれっぽいよ。
 「まず牛を球とします。」(柞刈湯葉)は良い意味で予想外だった。最初読んだときは反食肉運動に当てつけた培養肉SF(そんなジャンルはないけど)かあ、と思っていたが、遺伝子工学が人間の存在意義に与える影響にまで言及される瞬間はゾクゾクする。培養肉そのものは実験でできているし(これ読むと実用化も秒読み段階?)目新しいものではないです。
 「お前のこったからどうせそんなこったろうと思ったよ」(赤野工作)は自分に合わなかった。オタクはキモい。SFとしては、本当に対戦ゲームが決定論の世界であるなら(同時に想定外のミスで勝敗が変わるカオスな世界なら)、その内容をもっと全面に出すべきでは? と感じた。徹頭徹尾ゲームから発展しない内容で、作者のキャラ的にはそれを求められるのかもしれないけど、SFアンソロジーの1作としては内容が薄すぎる。
 「クラリッサ殺し」(小林泰三)は仮想世界の仮想世界的ネタ。レンズマンシリーズは知らなかったが、特に違和感なく読めた。この世界が仮想世界かもしれない! 的なテーマはP. K. ディックでお馴染みのテーマでレンズマンというテーマから主人公たちの世界は仮想世界だというのが我々読者にとっては確定なんだけど、そのことにいつ気付くんだろうと楽しめた。なお、ミステリーのトリックとしてVR使うのは興が冷めるからやめたほうが良いと感じた。VRという凶器は何でもありすぎる。話は変わるが、一人称小説なら「やおよろず神様承ります」よりこっちの方が好み。ただし「クラリッサ殺し」は典型的な女言葉が時々出てきてそのわざとらしさに萎える。「やおよろず神様承ります」の文体で「クラリッサ殺し」のボリュームが理想である。
 次の「キャット・ポイント」(高島雄哉)は発想的な意味で一番SFっぽかったように感じた。というか本短編集は全体的に正統派なSFテーマを盛り込むとディテールがアレな感じに思えるので、この作品のような少し・不思議の方が安心できる。猫の集まるところは広告が注目されやすいという発想は面白かったし、その事実を発見(観測)してしまったことで猫が消え去ったというシュレーディンガーの猫と絡めた展開も巧みだった。
 「お行儀ねこちゃん」(片瀬二郎)は多少小説読んでる人にとって、物語的なオチは序盤から見えてくる(2パターンあって、主人公かその恋人のどちらかが死ぬんだろうなーとわかる)。それに向けた展開として、猫の死骸を動かすプログラミングが生命そのものだと主人公が認識するのだが、ルンバは生きている的なヨタと変わらなかったな。本当にある機械を見て生きていると誤認するならそっちを突き詰めてほしいし、操り人形のちょっと複雑な代物レベルで生命だと勘違いするのは妄想でも混ざっているか暑さで頭がやられたとか考えないと納得できなかった。
 「母の法律」(宮部みゆき)は本短編集中第三の女性一人称小説……まあもう一人称の文体でグチグチ言うのは止めよう。内容は、被虐待児を救う架空の法律「マザー法」を巡って外面の幸福とドロドロした中身を描いている。この小説の設定として、SFとしてのキモは被虐待児に処せられる記憶調整措置。虐待の連鎖を防ぐため、虐待の記憶が蘇って感情が不安定になることを防ぐために虐待された記憶と、虐待した親に関する記憶をすべて封じるという乱暴な施術。記憶の改ざんは「子どもの頃の思い出は本物か: 記憶に裏切られるとき」にも書かれているように割と簡単に起こりやすく、それだけにリアリティのある設定である。物語は「マザー法」によって温かい家庭を得た主人公が養母の死と共にそれまでの家庭を離れ、反マザー法の活動家から実の母が犯罪者だと教えられ、不安に思う中会いに行ってしまうというもの。おっさんである僕からすれば、そもそも思い出せもしない実母に会いに行く意味ないのでは? と思ったし、主人公にとっての破局を引き起こしたのは物語で悪役として描かれた反マザー法活動家でなくおせっかいな姉だったので主人公に恨みでもあるのでは? と勘ぐってしまった。いや、主人公の語りからすれば実母に会う理由なんてないわけで、トラウマ(バターナリズムな記憶調整だが、その意義や調整内容はそこそこ市民に明かされてるっぽい)に自分から近づいてトラウマになるんだから世話ないなと思った。まあ子供だから仕方ない。
 ラストの「流下の日」(飛浩隆)。おお、結構政治に踏み込んだ内容だ。「美しい国」っぽいスローガンの元、「家族」の概念を拡張することで日本経済を、社会を再生させた政府。それは一方で、国民を管理する生体コンピュータが利便性を与えると共にアンケートなどの形で個人の思考を収集することで成り立っており、反旗の日を伺う人々がいる……という物語。SFとしては普通の管理社会・ディストピアモノなんだけど、個人的に一番面白かったのは「家族」の拡張だな。2018年現在、この作品中最大の虚構。「美しい国」っぽいスローガンを謳う総理が性自認が男性の肉体は女性で、女性を妻とし、クラウドの養子(これって名義だけってこと?)を推奨し、まあ色々と現実の日本と正反対のことをやっているわけだが、もちろん現実の日本で「家族」を強調する人々とは真逆の考えのわけで。「家族」の概念は拡張されたと言うけれど、でも基本になっているのは伝統的と見られてる家族観なのだ。特に子供は各家庭で育てましょう、みたいな。この作品の設定として子供をたくさん生んで育てれば偉いという価値観があるんだけど、現代人なりのの教育とかを行うなら家庭だけで育てるのって難しい気がする。いっそ子供は国家が取り上げて集団で育てるとかの方が設定との齟齬は少ない気がするなあ。どうせ現実の日本での美しい家族と作中の「家族」とはかけ離れてるんだし。


 というわけで、2019年だ! 最新だ! 見たことない! という作品は少なかったが、面白い作品は本当に面白かった。ベスト作品は猫の集会所と観測行為と広告を繋げた「キャット・ポイント」かな。発想も素晴らしいし理屈が面白かった。そこでシュレーディンガーの猫を使うのか、と。「まず牛を球とします。」は最初はただの培養肉小説かと思っていたがいつの間にか人類の黄昏的な物哀しい物語になるのが良かった。
 多少SFを読み慣れた人からすると物足りない部分もあるが、2018年~2019年のテーマとして参考になった。

「チェコSF短編小説集」(ヤロスラフ・オルシャ・jr. 編、平野 清美 編訳、平凡社ライブラリー、2018)

 チェコのSFの歴史を俯瞰してみた。もちろんこの1冊で全てがわかるわけではないが、おとぎ話のイメージがあり、あのカレル・チャペックを生んだチェコという国のSFを味わってみたかったのだ。
 「オーストリアの税関」(ヤロスラフ・ハシェク)は1912年に書かれた作品。SF的なテーマはサイボーグなのだが、読者としては税関におけるやり取りが印象に残る。どうやら作者はそもそも関税を批判する目的でこの作品を描いたらしく、人工物だらけで税関に引っかかる肉体というアイデアはその副産物だったらしい。風刺のために空想度高めの舞台を用意するチェコ人すごい。というわけで、この短編集が優れているのは、そのような背景をちゃんと作品・作家ごとに書いてくれることで、以下の作品を理解する上でも助けになった。
 「再教育された人々──未来の小説」(ヤン・バルダ)は1931年に書かれたとは思えないほど現代的なディストピア小説。元は長編だった作品の一部を収録したとのこと。子供を産んでも家族から取り上げて国が集団で育てる制度をめぐり、それに反抗する人たちが裁かれる姿を描く。最初は共産主義への批判かと思ったが、チェコが共産化したのは1948年とのこと。すると、ドイツのナチス政権すら1933年なので全体主義をテーマにしたディストピア小説として極めて初期の作品だと思われる。というか、全体主義の悪しき面を予言していると言っても過言ではない。こんな作家を知らなかったとは……。
 「大洪水」(カレル・チャペック)はオチのある小話。取り立てて面白いかと言われると首をひねるが、ナチスの圧迫を受けている時勢とは思えないほど明るい小説であった。
 「裏目に出た発明」(ヨゼフ・ネスヴァドバ)もある種のディストピア小説である。ロボティクスが進み、人々は働かなくても生きられるようになり、人間が就く仕事の価値が極めて高くなり、その結果暇を持て余し何のために生きるのかわからなくなる……まあ労働礼賛小説としての側面がないわけではない。この作品が書かれたのは1960年とのことで共産主義真っ只中。むしろ、こんあ時代に共産主義が目指したような世界で憧れの職業がデザイナーみたいなチャラチャラした仕事とした皮肉っぷりは素晴らしい。なお、この作品はまだまだ価値を失っておらず、ベーシックインカムが真面目に論じられている現代こそ読まれるべきだと思った。
 「デセプション・ベイの化け物」(ルドヴィーク・ソウチェク)は、印象に残っていない……。
 「オオカミ男」(ヤロスラフ・ヴァイス)は吸血鬼と並ぶ民間伝承モンスターである狼男を科学を下敷きにした物語。狂人めいた医師が脳を移植する実験で友人の脳を犬に移植してしまい、その犬(人格は友人)が逃げ出し復讐する様を描く。だが復讐が完了すると、犬(元は人間)は次第に血の味を欲してしまい、夜な夜な犬の本能のままに人を狩ったというオチで終わる。行き過ぎた科学への批判とかそういう印象は受けず、同時代最新(1976年)のホラーを描こうとした感じがある。
 濃厚な作品のさなかに味わう軽やかに見えて切れ味の良い作品が「来訪者」(ラジスラフ・クビツ、1982年)。数ページしかないアイデア小説であり、オチがバレてしまうと面白さが失うと思う。ただ、初めて読むときは「そう来たか!」と感心した。アメリカの普通のSFっぽい。
 「わがアゴニーにて」(エヴァ・ハウゼロヴァー)。解説によるとフェミニズムをテーマにした作家とのことで、確かにジェンダーへのこだわりがこの作品でも溢れていた。また、この作家が得意としたのがバイオというか肉体改造系らしく、その2つが融合してディストピア感満載の独特の味わいとなっている。この作品が面白いのは成人男性の出番が極めて少ないことだ。その理屈は作品内で書かれているが、女性家父長制の全体主義的な団地(クラン)と男性が支配と言わないまでも女性と同じように生きる自由だけど退廃的と主人公から見られる都市が対比され、女性が偉いと作品内で主張しながらその女性コミュニティに潰され自死から逃れられなかった主人公(女性)を描く視線は恐ろしいほど冷たく感じた。共同体への批判は明確に込められており(この作品では共同体=全体主義=女性として描かれている)、この作品が描かれた1988年はまだ共産政権だったのに出版できたのかと驚いた。
 「クレー射撃にみたてた月飛行」(パヴェル・コサチーク)はケネディ大統領の暗殺? をネタにして偽史っぽいものを作るSF読んでる人なら「ああ、あの手ね」というその手の作品。実在した人間をファンタジーの世界で動かす奇想っぷりが売りなのでなかなか表現しづらいのである。
 「ブラッドベリの影」(フランチシェク・ノヴォトニー)は異星人とのコンタクトもので、正直僕には合わなかった……。解説ではブラッドベリに触発されたとか、ネットの感想を読むとブラッドベリが云々と書かれていた。僕は本当にブラッドベリと相性が悪いんだなと感心した。ごめん。
 最後の「終わりよければすべてよし」(オンドジェイ・ネフ)はナチスの反ユダヤ政策を題材にした作品で、2000年発表。こういう描き方でも良かったのかと感心。時間旅行を扱っているがそこら辺の理屈は全く説明がされず、当然タイムパラドックスもなんとなく読者に納得させて終わる。もちろん単なるジャンル小説というわけではなく、ジャーナリズムの非人間性という近年話題になっているテーマと絡めたかなり現代的な作品。なんだけど、なんとなく古きほのぼのとした印象を僕は受けてしまうのだ。テーマ自体は本当に現代の問題を描いているが、それを支える時間旅行というガジェットが昔の作品みたいで……。ぶっちゃけ、タイムパラドックスの設定次第では正反対の結末も描けたので、SFとしては少々粗が目立つ。でもまあ、終わりよければすべてよし! (念のために書いておくと、「終わりよければすべてよし」なのは皮肉と思われる。作中で個人の復讐は果たせたけど、作中の出来事を引き起こした社会の倫理には全く触れていないからだ。ナチズムは全く「終わった」出来事ではなく、ナチズムを生み出す土壌はまだ現代に残っている。2018年にこの作品が翻訳されたのは良いことだと思う)。


 本短編集を通して読むと、全体的にディストピア感あふれるというか、主人公などがチクリとひどい目に遭う傾向が強いと感じる。ただし、実のところ読んでてそこまでひどい目に遭う人たちに同情というか感情移入はしてなかった。キャラクターの性格は、古いお話が多いためかわからないが、かなりあっさりと書き表され、まるでおとぎ話を読んでいる気分だった。本短編集に掲載された作品がどこまでチェコのSFを代表しているのかがわからないが、本短編集を読む限りではチェコのSFは理屈や設定、つまりハードSFへの指向は持っておらず(作中に出てくるSFガジェットの大半は理論が設定されていないことが多い)、あくまで題材として時間旅行や宇宙旅行を選んだという印象を受けた。そのためSFの外見で中身はブラックなおとぎ話というか寓話となる独特の味わいとなっている。
 チェコについて全然詳しくない僕にその理由は思いつかないが、やはり社会主義体制の中で現実をそのまま書いた小説は禁じられており題材をSFというかファンタジーにするしかなかったのだろうかと考える。それと関連して科学というものに対する冷徹というか無関心な視点も英米SFを読んでいた僕にとっては新鮮だった。特にアメリカのSFだと科学や技術に対する信頼があって、それらは人間の生活を良くするものだという前提で書かれている。科学技術への批判はその裏返しのようなもの。日本も基本は同じようで、中国では技術への信頼がさらに凄まじい。一方チェコのSFは全体的に科学そのものに無関心で、だからSFとしての理屈付けが薄く、科学が人々の生活を良くするわけではない的な小説になるのかもと思っている。やはりこれも共産主義に対する反感が原因なのか。まあ、ここで書いた感想は本短編集を読んで受けた印象なので、もっと色々読んでみたいなと思った。