2020年12月31日木曜日

はじめに(2016/Dec/29更新)

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2018年4月24日火曜日

「メカ・サムライ・エンパイア」(ピーター・トライアス著、中原尚哉訳、早川書房、2018/4/18)

 ワタクシ、前作に惹かれてしまい、早速この作品も買ったのだ。それも銀背で。文庫本に小ささは魅力的だが、分冊になるくらいなら銀背1冊の方が取扱いが良くて便利だと思う。

 ともかく、ピーター・トライアスのメカ・サムライ・エンパイア(ナカグロ多いな)、前作が軍人と特高警察のバディものだったのに対し、今作は学園モノになって青春劇に変わった。今まで読んできたのが偏ってたのかもしれないけど、欧米作品で学園モノってかなり新鮮。登場人物も、落ちこぼれの主人公に、悪友に、ヒロイン力の高い優等生に、ごきげんようを操るお嬢様と隙のない作品になってる! そうそう、忘れてたが、当然今作は巨大ロボットに乗って戦うシーンが豊富にある。前作は巨大ロボットのシーン、いらないとまで書いてしまったが、それとは正反対だ! 主人公が巨大ロボットに乗る! 巨大ロボット同士で戦う! 正統派のヒロインがいて敵味方に分かれてしまう! サブヒロインもよりどりみどり!
 日本の深夜アニメフォーマットに限りなく近いんだけど、これ、アメリカでヒットできたんだ……。

 本作では学校と呼べるものは3つあり、最初の舞台はジョックスとナードが出てきそうなコテコテのアメリカの高校、次にスターシップ・トゥルーパーズ的な軍隊学校、最後にエリート士官学校とシチュエーション豊か。主人公の立ち位置も落ちこぼれて挫折(事件発生)→努力と根性で一人前に(事件発生)→経験豊かでそこそこ強い(最後の事件発生)と徐々に強くなる感じ。それでも「最強」と呼べるほどではなく、ラストバトルではある種お荷物だったわけで、簡単に無双をさせないという筆者の決意を感じさせる。ストーリー的には、学校に入って事件が発生して、主人公がそれに対峙して強くなるという形で話が進むのでダメダメな主人公に感情移入してても唐突に強くなった感じはない。むしろリアル世界で取り柄のない人間こそ、今作の絶妙な強くなり方(モブより強いけど、最強チームの中では最弱)に惹かれると思う。

①A・NI・ME!
 キャラクターの配置が深夜アニメを彷彿とさせる。巨大ロボットにしても作中世界の技術にしても映像映えしそうである。とは言え、訳文の関係なのか、キャラクターがかなり類型的なアニメキャラなので実写はキツイかも。
 特に民間軍事会社に入った後は年齢にそこそこバラツキがあるはずなのに、学園モノとしてお約束が踏まえられてるのは面白い。ヒロインも常に数パターン出てきて、彼女らの「属性」通りに振舞う。
 擬似的に三部構成にしてあるためか、ヒロイン・サブヒロインとの関係は学校ごとのシチュエーションが異なる。ヒロインとして丁寧に描かれる第一部、群像劇ながら先生やら親友の彼女が登場しそこに正ヒロインが現れる第二部、第三部に至ってはエリート学園に入学して半ばハーレムに……。
 しかもこの作品はもちろんヒロインとのお話だけでなく、ちゃんと巨大ロボットに乗って戦ってる。前作はなぜか巨大ロボットのシーンが少なく、007的なスパイアクション気味であった。確か前作の感想文では一部の巨大ロボットのシーンはいらないとか暴言吐いた気がする。今作は主人公の成長が巨大ロボットに乗ること、乗って強くなることと同意なので、ストレートに巨大ロボットモノとして楽しむことができる。……その代わり思想面では多少の後退が見られるのだが。

②ナチスVS大日本帝国
 ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン(USJ)というアメリカナイズされた大日本帝国を、占領されたアメリカの地から皮肉な目線で眺めていた前作に比べると、今作は大日本帝国への皮相な視線は見られない。それは、今作がナチス対大日本帝国ってことで日本側が前作ほどには悪し様に描かれてないのだ。USJもすでに長い時が経っており大日本帝国によるアメリカ大陸占領も当たり前のようになっている。個人的には前作のUSJを通じてアメリカの理念を問い直す作風が好きだったので今作でアメリカ的思想が影も形もなくなったのは悲しいけど、仕方がないのか。面白いのは、大日本帝国が意外と徳の高そうな統治をしているのに対し、ナチスは人種差別がひどく総統崇拝者は狂人っぽく描かれていること。ナチスは否定せねばならないが、大日本帝国はそこそこオッケーなのか? イデオロギーの衝突がなくなったため、エンタメ性は上がったが、深さは薄れたと思う。

 先の話に関連するが、もともとアメリカに住んでた白人の様子は描いていない。今作で登場する白人はナチス関連のアーリア人。もちろん主人公の階級が学生だからってこともあるけど、バリエーション豊富なアジア人のラインナップに比べるとわざとだとわかる。USJはアジア系がマジョリティとしてちゃんぽんになって、アジア人にとっては天国みたいな形で描かれるんだけど少し大日本帝国を美化し過ぎな気がする。それとも、現実のアメリカがアジア人差別がひどいと著者が考えており、それに対するカウンターとして描いているのかな。
 ただし描写が少ないけど主人公らの優雅な立ち位置はエリート兵士の卵だからってのを要所要所で書かれる。一般の労働者が出てこないストーリーだから作中の大日本帝国の負の側面は見えないんだけど、前作を踏まえると一般市民にとっては生きづらい社会であり、しかしそれが巧妙に隠されているのが今作での皮肉な視点と言ったところか。そもそも兵士は使い捨てられるシーンが繰り返し描かれ、主人公が強くなっても兵士である以上は所詮は歯車でしかなく、物語の最後に主人公は仲間と共に軍に反抗するんだけど、それすら恐らくもっと権力を持った人の手の平の中っぽいことが暗示される。
 続編は大日本帝国のユートピアを描いて、いきなりドン底に叩き落とす作風になってほしい。作中の大日本帝国はアジア人からすればある種の理想かもしれないけど、天皇への忠誠が必須で、生活は特高に監視され人体実験も行われている世界であるため歪みは広がってると思う。9.11みたいにテロが起こって、巨大ロボットが絡み、最終的にUSJの理念を否定するストーリーを読みたい!

③巨大ロボット
 前作は表紙詐欺で……いや、もうウジウジと過ぎたことを言うのをやめよう。今作は素晴らしいものになったではないか。
 世界観としては巨大ロボットが普通に兵器となっている世界で、戦車とか戦闘機は一切出てこない(と記憶している)。大日本帝国はメカ=巨大ロボットを運用しており、表紙とか見ると二足歩行のように思えるのだが(シルエットを見てガンダムみたいと思った人は多いだろう)、カニ型だったり、カモシカ級(どういう姿だ)やニホンザル級(これもなんなのだ)などとてつもない巨大ロボットが色々出てくる。武器だって剣や短剣、槍の他に分銅や鞭などよりどりみどり。対するナチスはエヴァンゲリオ……ではなく細胞を使用した生体巨大ロボット。作中の描写からは半ば死体を利用したサイボーグのような存在で、表紙を見るとその姿はまるっきりKAIJU。正統派の巨大ロボットものであるこの小説のせいで「パシフィック・リム:アップライジング」が吹き飛んでしまった。ハハッ、残念だったな。
 そればかりではない。この作品は戦争に巨大ロボットが実用化されているという設定のため、シミュレーションや訓練シーンや操作の様子、果ては各人に割り当てられた試作機をカスタムするなど巨大ロボットモノに関連する戦闘以外の要素をフェティッシュなまでに丁寧に書いている。操縦席は頭にあるけど、頭が破壊されたら操縦席が自動的に腹部に退避するため、頭を破壊したら即腹部も破壊する訓練……ってそんなマニアックな設定は必要だったのだろうか。もちろん巨大ロボットファンは喜ぶ。こういう細かな設定を見てると、やっぱりアニメっぽいというか、この手のお約束がわかっている人へのアピールポイントにしてるんだなあと思う。



 総合的な感想としては、ぜひとも読んだほうが良い。できれば前作「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」を読んでからがベスト。ツイッターとかでは最初に今作「メカ・サムライ・エンパイア」を推す人が多いけど、USJの成り立ちや葛藤を知らないままエンタメ性高い今作を受け入れるのはまずいと思う。解説では大日本帝国のディストピア云々と書かれているが、それは前作を読んだ人だから行間から受け取れるわけで、今作単体だと大日本帝国が勝利した歴史改変美少女巨大ロボット学園モノとしか認識できないと思う。
 それはともかく、さんざんアニメみたいだなんだと書いたけど、全体的な印象としてはコアなオタク向けではなく、普通の小説読みを対象にしていると思う。ストーリーは王道で挫折して乗り越えるという流れ出し、ご都合主義的なキャラはいない。上でマニア向けとか書いてたシーンは非オタクにとってはリアリティを出すための要素でしかない。なんだけど、オタクからしたら俺たち向けの匂いを感じ取れるわけだ。かなり巧妙な作品だと思う。

 そうそう、メカ・サムライ・エンパイアも前作ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパンも登場人物の名前の漢字はどうやって決めてるんだろう。なんとなく著者も漢字の選定に関わってるイメージだけど……。少なくともクジラはもうあの漢字の並びじゃないと世界観が感じ取れなくなってしまった。

「パシフィック・リム:アップライジング」(スティーヴン・S・デナイト監督、レジェンダリー・ピクチャーズ、2018年)

 「パシフィック・リム」の続編だ、いえ~い! ……いえーい。 ……いえ……い?
 これが前作のファン(少なくとも僕)の感想である。

 シナリオは前作の感想文でさんざんけなしていたため、正直そこまで期待していなかったが、後述する続編ということも相まってなおさらひどかった。もう1つ後述するが、今作は怪獣と巨大ロボット(イエーガー)とそのパイロットのキャラ立ても不完全のためジャンル映画としても失敗した印象を受けている。

【「続編」という悲劇】
 前作でストーリー的には完全に終わっていたのだ。そこに付け足しても蛇足にしかならない。そもそもなぜ太平洋の裂け目を閉じたのにイエーガーパイロットの訓練をしているのだろう。今作を見終わった後だと、イエーガーを配置しようとしたからそこを侵略者に付け込まれて怪獣が召喚したって構図なので、イエーガーを廃棄すれば良かったのに……という感想しか浮かばない。
 あと、エイリアン3でもそうだったんだけど、前作の登場人物を殺すことで物語を展開するのはやめよう。やめようよ……。
 前作で怪獣とドリフトしてしまった博士が黒幕になるのは捻った展開で面白かったんだけど、黒幕すぎて視聴者へ危機感を与えることが出来なかったのは問題だと思う。前作は何だかんだで地球の危機ということで多少の粗を吹き飛ばす勢いがあった。

【キャラ立て不足感】
 さて質問です。今作で新たに登場したイエーガーは3体ありますが(ブレーサー・フェニックス、セイバー・アテナ、ガーディアン・ブラーボ)、それぞれパイロットは誰が乗ったでしょう? さらに、それぞれのパイロットってどういう経歴でどんな関係だったでしょう?

 この質問に即座に答えられる人はどれくらいいるだろうか。正解はWikipediaの当該項目を参照。パイロットで印象深いのって、主人公であるジェイク・ペントコスト、顎おっさんのネイサン、一応ヒロインのアマーラ、整形外科医の息子、ロシア人の女、怪獣の血を浴びて怪我した男くらいであり、僕はパイロットの半数近くをモブとしてしか認識していなかった。
 前作の場合、ロシア夫婦と中国3兄弟は大破シーンもある上、夫婦や兄弟として認識できるので、人数の割にキャラ立ての不足感は感じなかった。それに対して今作は、そもそも主人公の紹介シーンが長い(と言っても前作と同じくらいだけど)割に、新たなパイロットが大量投入されて余計にモブパイロットの影が薄くなってしまった。前作の主人公ペアを据え置きしちゃいけなかったのかなあ。
 モブパイロットが覚えられない問題に対しては、スーサイド・スクワッドと反対のメソッドで、各パイロットのキャラを立てるシーンを序盤に入れたほうが良かったと思う。時間に余裕があればイエーガーも。今作はジプシー・アベンジャーですら印象が薄いからなあ。アクションフィギュア買うかと聞かれたら、拒否するレベル。
 怪獣に至ってはもはや言葉も記憶も出ない。今作は絶対怪獣映画じゃないよ。今作の怪獣って特殊能力があったっけ?

【設定の破綻】
 これが最大の問題なのだが、はっきり言って設定が破綻しているとしか思えない。イエーガーの肝であるドリフト(ブレインシェイク)なんだけど、前作では夫婦や親子、兄弟の方が心を重ね合わせやすく、前作の感想文で主人公とヒロインがろくなイベントもなくドリフトできたのに文句を言った覚えがある。今作では誰も彼も訓練所で顔を合わせだだけの連中が簡単にドリフトしている。技術の発展? 訓練の効率化? うーん、そういうことにしても良いのだけど、ドリフトに適合するパイロットが少ないからイエーガーを大量に運用できないはずなんだけど、ゴニョゴニョ。
 ついでに最後のシーンもあれだよね。超デッカイ怪獣を倒すのが成層圏からの自由落下。え、これで倒せちゃうの? しかもこれでジプシー・アベンジャー壊れちゃうの? 前作ではバーニアを吹かしてたとは言え、同じ様に空から自由落下するシーンがあったため、ジプシー・アベンジャーってジプシー・デンジャーより脆い印象を受けた。ラスボス怪獣を倒すのといい、もうちょっと創意工夫をだね……。



 と、文句を言っていたらキリがない。偶然、同じ時期に「メカ・サムライ・エンパイア」読んでたけど、そっちのほうが巨大ロボットものとして魅力的だったなあ。そういや「メカ・サムライ・エンパイア」のバイオメカって怪獣としても読めるから「メカ・サムライ・エンパイア」の印象が「パシフィック・リム:アップライジング」を上書きしておる。
 真面目な話、ふと思ったが、もしかしたら「パシフィック・リム」の設定で描ける要素ってもしかしたら1作目の時点で相当消費してしまったのではないかと感じた。パートナーとの対立、パイロットの過去とその克服、ライバルのイエーガー、チーム戦、空を飛べないイエーガーが空を飛ぶ方法、怪獣、カミカゼアタック……etc。「パシフィック・リム:アップライジング」は前作で足りないと不満を言われていたシーンを色々入れたらしいが、自家パロディにしかなってないのが何ともかんとも。ヒロインであるアマーラの過去なんぞ前作の森マコそのものなので、本気でパロディにしているのか偶然似ただけなのか今でも首を捻っている。
 最後に、この作品で僕が一番唖然としたのは、最後の決戦の舞台は東京なんだけど、そこにガンダム像が出てきてストーリーに一切絡まないこと。直前のシーンでイエーガーが破壊されていたため、てっきり実はガンダム像がイエーガーだった! と盛り上げるのかと思ってた。全くストーリーに絡まないあのガンダムの意味ってなんなんだろう。

2018年4月23日月曜日

人生と連動したランス10

 ツイッターでちょこちょこ書いたが、今年の春から公私共に生活が激変した。みんな、プライベートの時間がなくなるとか自由なお金がなくなる、趣味が続けられなくなる、と言う理由がわかった。こりゃ今まで通りの生活は無理だ。僕はUOにお金を払い続けるつもりだが、ログイン時間はほぼなくなったし、今後は今までのペースでは遊べないだろうな。少なくとも有料アイテムの購入はできなくなるだろう。たぶん、こうやって趣味から足を洗う人が多いのだと思う。

 そんな中で僕が幸せだったのは、比較的時間に余裕のあるときにランス10を遊べたこと。ランス10は長い間遊び続けていたランスシリーズ最終作という思い入れもあったのだが、個人的にはゲームの内容と自分の人生がリンクする感覚があり、余計に熱中した。
 特に第二部。ランスの子供がみんなで旅に出て、1人1人の思い出を作り、人生を楽しいものだと学んでいく物語。それが僕にとっては今までの自分の人生を思い出してしまい無常観に襲われるのだ。これからの新しい生活が楽しみでないわけがない。でも、ある程度の歳まで好き放題やってしまい、好き放題やることに慣れた人間としてはなくなってしまうものもまた大きいなあと思う次第。それはどうもお互いにそう思っているらしく、ならどっちも不満は相殺されるから良かった良かった。
 このブログも元々あまり書いてはないけれど、さらに更新する頻度が少なくなるのではなかろうか。実際、4月からアニメは見てないし、読書のペースも下がっている。

 そういう時、ランス10の第二部を何となく思い返して、心を慰める。プレイヤーが操作して進める大きな出来事もあれば、アドベンチャーシーンで数クリックでしか語られない事件もある。それでも1つ1つが「あなた」の……つまりは「わたし」だ……経験した思い出であり、ゲームを越えて現実世界の「僕」が形を変えてこれから経験するかもしれない出来事なのだ。「あなた」とプレイヤーに語りかけたのはルドラサウムを隠すためのシナリオ上のテクニックだったのかもしれない。でも無数のプレイヤーの中で、少なくとも僕は単なるゲーム以上に人生に対する勇気をもらった。僕はあまり人付き合いが得意な方ではないけど、それでも友情って良いなあと素直に思え、今も残っている人間関係を大切にしようと思ったのだ。思いもよらなかったが、サブカルチャーをこのように愛好できるのは幸せなことだと思った。
 まだ全てのイベントを見てないまま新しい生活に入ってしまったが、次に遊べるのはいつなんだろうか。

2018年4月10日火曜日

民泊の思い出

 もう10年以上も前、学生の頃にオランダに1人旅行をした。
 細かい日付は忘れたが、4月のある日で女王の誕生日だった。当時はユースホステルを常用しており、当然ユースホステルも取れず、現地で探せば良いと考え、そのまま行ってしまった。
 当然、宿が取れず、途方に暮れていたところに現地の人の家に泊まったのだ。近年報道される民泊のニュースを見て、こんな記憶が甦ったので忘れないようメモしておこうと思う。

 アムステルダム初日は夜、宿が取れなかったため、レッドライト街で1晩過ごしたと思う。駅で野宿(というか駅泊)できたかは定かではない。3泊くらいの旅行を計画していたため、初日は何とかなったが2日目の夜が大変だった。
 そんな中、2人組みの男に出会った。見るからに怪しく、欧州系とは思えない外見で、英語もイントネーションが独特だった。もちろん当時も今も僕は欧州系の外見なんて知らないも同然なので、特に当時はそんなことは気にしなかった。英語だって、オランダは英語ネイティブの国ではないし、訛りがあっても気にならない。とは言え、ホテルに勤めてないような服装で「Hotel?」と客引きをする姿はまともな商売じゃないんだろうな、と思わされた。
 それにも関わらず彼らの「ホテル」に泊まったのは、さすがに2晩続けて徹夜は辛かったためだ。今では考えられないが、当時は僕も若く無謀だった。思い返せば、自分なりに警戒したとは言え、よくもまあ何も盗られず命も無事だったろうと思う。

 彼らの「ホテル」は普通のアパートの1室。家具は備えてあるが、使うのが怖く、ベッドで寝ただけだった。それももしかしたら何か盗られたりするんじゃないかと思いながら。当然寝不足で頭痛がする中、宿泊代はユースホステルの2倍くらいを請求された。泊まるときに予め聞いておけば良かったなと思いながら支払った。正直、受けたサービスに比べて異様に値段が高かった。今から思えばこれが民泊の走りだったのだろう。

 そんなこんなで3日目だが、観光どころではない。3日目も宿が取れず、夜ハンバーガー屋で佇んでいると、店内にいた1人の男性から声をかけられた。学生である僕より年上だったが、若々しく、昨日の2人組みのような怪しい雰囲気は出していなかった。
 適当に世間話をしつつ
 ――どうした、どこに泊まるんだ? 泊まるところがないのか?
と聞かれ、Yesと言ったところ、じゃあ自分の家においでよと言われて、ついて行ってしまった。前日、半ばボッタクリのような民泊に遭ったにも関わらず。無謀さって怖い。

 彼は芸術家だったらしい。名前は忘れてしまったが、彼の家に入ると彫刻とかがあった。彼は僕をもてなすため、馴染みの店に連れて行くという。せっかく泊めてもらったので、ありがたくついて行ったら、そこは何とゲイが集まる店だった。
 どうやら彼はゲイらしい。もちろんお店に入った1階は普通のバーで、ゲイビデオが放送されているのを除けばロンドンとかにあるバーと変わらない。ただ、どうも2階はゲイが出会うそういう空間らしい。僕自身はストレートではあるものの、そこまで偏見がないつもりだったのだが、頭でそう考えていても突然のことでフリーズし誰とも話せなくなってしまった。彼はしばらく友達と会話していて、やがて僕の姿を見て、どうやら僕が完全にストレートだと気付いたらしい。たぶんまだ夜は早かったものの、僕を連れて帰った。今から思うと別に危ないわけでもないのだから、僕はもっと他人と交流すれば良かったのだ。

 翌日彼とは分かれた。彼はお金も要求せず、本当に好意で僕を泊めてくれたのだった。
 たぶん、世間の中でもとびっきり優しい人だったのだろうと今では想像できる。彼としても、どこの馬の骨ともしれない観光客を泊めるのは勇気がいただろう。

 僕はそれからというもの民泊のような宿は利用せず、今後も民泊に泊まる気はない。「民泊」というとビジネスライクな響きがあるが、上で書いたような怪しさや欲望がつきまとう印象が強いためだ。僕自身はそのようなリスクを受け止める覚悟はできていない。

2018年3月22日木曜日

「ランスX 決戦」(アリスソフト、2018)

※ネタバレしてます&普段はキャラクター名を出さずに感想を書く方針ですが、キャラクターの多いこの作品は名前を出さないと書ききれませんでした。。。

 ついに終わってしまったというべきか、やっと無事に完結できたと言うべきか……。思えば同じく横綱と呼ばれたelfが消える中、よくもまあ作り続けたものだと思う。
 本作ランスXは「平成を駆け抜けたゲーム」と評されることもあるシリーズだが、まさにあの時代に生まれた奇跡であり、今まで29年10作品一貫して同じ主人公・同一世界観・同じレギュラーキャラクターを登場させストーリーを紡ぎ続き、そして業界も徐々に衰退し日本のゲーム業界自体が変動する中でついに完結したとんでもない作品である。ランスシリーズは色々と他作品の追随を許さない特徴があるが、最大級の幸運は、エロゲー黎明期であるあの時代に生まれたことだと思う。
 ランスシリーズは、エロゲーはもとより、そこらのコンテンツでは太刀打ちできない設定量を誇るが、少し調べると分かる通り後付で継ぎ足され(ランス3時点では無敵結界がなかったしそのため魔剣カオスも強い剣程度であった)、時には製作中にいきなりストーリーが変更され(ランス3でパットンは死ぬ予定だったが、助けるためにハンティが作られた)、ファジーさと呼ばれるアリスソフト特有の設定のブレがあり(魔王トロス……)、そもそもストーリーに絡まないキャラクターはいるは忘れられたキャラクターはいるは(ランス1のヒカリはやっとランクエ=8で登場し、ノア・セーリングはランクエでノア・ハコブネという名前になっていたり)、ギャグとしてストーリーと合わないような設定も混じっており(ランクエ時のリズナの後日談=魔人化)、その癖無駄に設定だけは作り込み(フレッチャー・モーデルの過去とか)、そしてなんとシリーズの途中で一度完結編を作ってしまう(鬼畜王ランス)!
 そのせいで旧設定やら新設定やらいつの間にかの設定の変更が入り乱れ、設定ファンサイトの「ひつじ村別館」ではファンの議論がエライこととなっており、ランスシリーズ以外だと絶対にブーイングの嵐になることは容易に予想できる。逆に言えば、ランスシリーズだから、ランスシリーズは昔からそういうものとして設定の甘さをファンが好意的に脳内補完し、設定の厳密さよりも様々なキャラクターが自由に暴れることを望み、ファン人気が高い作品すら「番外編」として正史扱いせず、結末の1つが提示されていても前に進み続けたストーリーをファンが受け入れたという面はあろう。
 そこまで期待されていたランスXはどうだったかというと……。



 元々僕がランスシリーズに触れたのはそこまで早くなく、エロゲー歴的には10数作目、それもエスカレイヤー→大悪司→ランス5D→鬼畜王ランス→ランス6→それ以降とそれ以前のアリス作品という順だったと記憶している。順番が少し違うかもしれないけど。ラインナップ的には織音氏―むつみまさと氏時代を遊んでいた。最初はそこまで熱心なファンではなかったが、大悪司でアリスソフトの信者になり、今でも遊んでいる唯一のエロゲーメーカーとなっている。ファイブスター物語を好むような設定オタクでもあるため、ランスシリーズにはドハマリし(同時にアリスソフト特有の大らかさに度肝を抜かれ)今に至っている。
 つまり僕は別に昔からのアリスソフトのファンではなく、ランスシリーズもシリーズ中期(5D以降)のファンでしかない。最近のランス君はヌルいというか大人になったと言われているが、まさに大人になって以降の姿しか知らず(鬼畜王ランスは思い入れないし)、その完結編としてランスXにはとても興奮し睡眠時間を削って遊んでいた。
 舞台はヘルマン革命(ランス9)が終わって1年後。ついにケイブリス軍が人類へ攻めてくるところから始まる。前作ランス9は徹頭徹尾人間同士の物語となっており、魔人が絡まないのは意図はわかるが少々不足気味だと思っていたが納得。ランスXのこのボリュームを見ると下手にランス9で魔人を退場させたらつまらなくなる。プロモーションムービーの魔人の紹介ラッシュを見ると大興奮だ。これぞシリーズ最終作、と言わんばかり。1体でも1国の軍が束になってかかっても倒せない魔人が、9体も10体も紹介されて、どうやって戦うの? って感じ。
 (ゲーム世界の)常識では絶対にどうしようもない魔人だが、主人公であるランス君は類まれなる才能を発揮してなんと次々に撃破していく。これに興奮しなくて何を楽しむのだ。正直、設定的に多すぎるため初ランスシリーズが今作な人にはキツい気がするが(実際、ランス10攻略まとめwikiや先のひつじ村別館を見るとルドラサウムのことを知らなかったり、知ってても強いボス程度の認識の人も多そうだ)、過去1作でも遊んでいたら今作をプレイすると良い。

 ゲームジャンルは……なんと呼べば良いのだろう。スゴロク式のマップは、あくまでADV画面と分岐をプレイヤーにわかりやすく見せるためのもので、これ自体さり気なく画期的だが、戦闘システムは独自性の固まり。スマホカードゲームは全然知らないんだけど、今のカードゲームってこういうのなの? 膨大なキャラクターをカード集めで表現し、カードを集めることと味方を強くすることと戦闘キャラを選ぶことが見事に融合しててちょっと凄い。もしアリスソフト独自のシステムなら、まだまだアリスソフトは健在だと感じた。ちゃんとボードゲームを遊ぶようになってわかったが、ランス03のカードをオープンしてダンジョンを進むシステムとか、自分の手番で行える行動の上限が決まり敵も同じ様に行動する地域制圧型シミュレーションとか、大量のカードを集めることでランダム性を薄めて攻略の定石を作る今作のランスXとか、アリスの作品はボードゲームなんだなと改めてわかった。
 戦闘システムは見事でバランスが良い。もちろん、魔人を特殊条件で倒したり、一気に2体倒す(通称2枚抜き)なら攻略情報というか定石必須(それですら確定キャラだけで何とかクリアできそう)なんだけど、単純に力押しでも十分遊べ、戦闘システムへの理解が少しずつ深まるに連れ、様々な戦術を取れるのが素晴らしい。カードドロップ率の関係でセーブ&ロード必須の難易度なので(ここは不満。カードを集めて強くするシステムなら、100%ドロップで良かったと思う)、詰まれば攻略方法を変えてみてトライすることができるので攻略の楽しみがあったと思う。力押しだけじゃない攻略法を思いついた時、このゲームの奥の深さを感じると思う(僕がそう思ったきっかけは、魔人レイをタイマンで倒した時。正面から戦うとカウンターで負けるが、カオス投擲ランスを投入してみるとなんと簡単に勝てた)。

 一方で、システム周りは文章スキップはあれどシーンスキップはないので時間がかかるなど多少の不満はある。
 また、繰り返しプレイをする際、引継の仕様はちょっと足りなかったと思う。ランスXはセーブデータを駆使しても4周くらいはするはめになると思うのだが、お気に入りのカードを数枚でも良いから引き継げたり、食券イベントコンプリートでキャラクリが付くと繰り返しプレイのモチベーションは上がった。食券だけど、1プレイ当たり入手できる食券数に限りがあるので全てのイベントを見るには相当時間がかかる。しかも食券を投じれるキャラもランダムで決まるので、正直面倒だし同じ展開ばっかりで飽きる。大悪司の周回システムを参考にして欲しかった。
 ついでにべた褒めの戦闘システムだが、敵に応じてデッキ(ゲームの用語ではリーダー)を組み替える必要が何回もあるので、デッキを3つくらい記憶できれば手間が省けたと思う。ランクエでもパーティを3、4パターン記憶できたと思うので、パッチで実装されて欲しい。

 キャラボイス? 当然正史のランスシリーズだから付かない。大悪司ですら一部の戦闘ボイスに声があった(「ああーん」って言ってた 笑)から名実ともにボイスなし。というか、今どき完全ボイスレスゲームでここまで売上があって、話題になったのは凄い。

 音楽はPromotion Movie、魔物界、Normal Battle、Oh-Boss、underworld、天上、決戦、the end、Grand Ending Movieなど何度も聞きたい曲がありサントラまで買ってしまった。特に戦闘曲は雑魚戦ですら攻略方法を考える必要もあって、どれも印象に残った。Hシーンが我が栄光の日でないのが残念だったが、これはもしやクリアA最後のあのシーンのため? できれば最終作なので何度か我が栄光の日を聞きたかった。

 ストーリー的には、やはりランス君は世界のバグというか主人公なんだなと思った。メンタルが完全に他の登場人物と異なるというか、半ばプレイヤーと同化しているのだ。好戦的とも見えるんだけど、正確には常識や世界のシステムに挑戦し続け、最後にクリア方法を見つける存在なのだ。ルドラサウム視点では、主人公はルドラサウムでキャラクターは単なる登場人物でしかないが、でも実はランス君こそが主人公でルドラサウムですら登場人物の1つでしかないってのが今作を通しての印象だった。そう、だからランス君が主人公を降りたとき、ランス君はシィルちゃんに告白という独自の行動を取ってしまい、シリーズも完結してしまうしかなかったのだろう。
 エンディングもそこまでやるか! というレベル。美樹ちゃんが魔王に覚醒したり、ケイブリスが魔王になるシーンなんて当たり前。魔王問題を解決していない美樹ちゃんが元の世界に戻ってしまったり、神の国に殴り込むエンディングや、美樹ちゃんを氷漬けにして魔王化の解決策を探すエンディングなど様々なバッドエンドが用意されている。僕はクリアCからB、Aの順にクリアしていったので、余計にクリアAへの思い入れができた。エンディングのバリエーションというか、設定の語り具合は完全に鬼畜王ランスを超えている。

 衝撃的だったクリアAのエンディングもよくぞやってくれた、という展開だった。そもそもランス君のことを知ればシィルちゃんが弱点で、そして意外にシィルちゃんの扱いはぞんざい(身の安全的に)だということがわかる。魔軍との戦争中はランス君も主人公補正があったが、では主人公補正がなかったら……? というのがあのエンディングだ。元々世界観的には簡単に人が死んでおり、ギャグとは言えランス君も簡単に人を殺す(ずざー!→ぎゃあー! のテキストの流れで処理されるシーンが今までのシリーズで何度あったことか)。客観的に見て、ランス君は良いことも極めて悪いこともいっぱい行っており、恨まれる人には事欠かない。ランスXで英雄としての側面が強調されれば強調されるほど忘れていた負の側面の存在が大きくなり、復讐されるのだ。シィルちゃんを殺したのが魔人でもミネバみたいな敵役でもなく、顔見知りの雑魚でしかないバードであったのは完全に意図的だろう。戦争中ランス君は何度も運良く切り抜けていたが、そのような主人公的な振る舞いをすればするほど、正史となるシィルちゃんの死亡が大きな印象を与えるわけで。



 賛否の入り乱れる「第二部」。無邪気で冷酷な創造神であるルドラサウムが1人の人間としてこの世界を旅し、家族と出会い、友達を作り、楽しさを見つけて人間に愛着を持たせ世界の終焉を阻止するという本当の結末まで(それこそ鬼畜王ランスよりもさらに踏み込んで)描いたエピソードであり、ランス君がシィルちゃんに愛の告白をするというこれまた結末を描いてもあり、子供=ルドラサウム=プレイヤーから見た偉大な大人=ランスシリーズに「自分らはもうロートルだ」と言わせランスシリーズからの卒業を促し(ひつじ村ではアリスソフト内の世代交代の比喩でもあると書かれており、確かにそうかもしれない)、スタッフロールでランス君の大往生を描くことでシリーズの完結を宣言する。そればかりでなく、ルドラサウムという無邪気な子供と評される創造神(そう言えば、ランス君も「大きな子供」と呼ばれていて、ルドラサウムが対比されている)が他人の遊びを外部から眺めるよりも自分で遊んだほうが面白く愛着が持てると気付くゲームをテーマにしたメタ性もあるし、ランス君の子どもたちというランス君のいない旅を描くことでランス君がいかに魅力的だったかプレイヤーに思い出させる内容でもあった(第二部は途中まで薄いとか類型的とか言われているが、クルックーの意図したゲームバランスであると共に、ランス君がいないことを強調した結果でもあるだろう。イブニクルみたいな珍道中にしなく、ほんわか感動ものなのは制作陣がわざとやってると思う。また、ご都合主義や幸運はランス君も普通にあったりするんだけどランス君だからで大目に見られているってことを改めてプレイヤーに感じさせる効果もあった)。
 だから、ランス君が正気を取り戻した以降の怒涛の展開、どう考えても勝てない相手に立ち向かってしまうありえなさ、そして見事に勝ててしまうとんでもなさは、改めてランス君の偉大さ、ひいては本当の意味でランス君はルドラサウム世界の主人公なのだとプレイヤーに気付かせるようにしているのだろう。血の記憶との戦いで「俺様の活躍を見てるか」というようなことを喋っていたが、子供たちに向けているようで、恐らく魔王の血を通して勘づいたかもしれないルドラサウムへのセリフでもあり、さらに第四の壁を破ってプレイヤーにも投げかけている。思い返せば、ランス6ではそのまんまのスキル「主人公」を持っていたり、ランスXでもアリオス戦で「俺様は主人公」という趣旨のセリフを吐いていたではないか。
 そのためルドラサウム世界のルールばかりか、最終的にコンピューターゲームの構造まで相手にしたランス君の冒険はこれ以上描くことはなくなってしまったわけで、物足りなく感じる面はあっても、あとはもう完結しかない。鬼畜王ランスの「冒険へ……」エンディングでお茶を濁すこともできただろうに、ここまで描ききってくれて良かった。まあ、調べると納得できない人は結構いるみたいだけど、むしろ言い訳できないくらい完結させてしまったことで自分たちの思い描いていた結末と違う不満なんだろうな。僕としてはこのエンディングを見てしまえば、事前に予想されていたエンディングは正直、ちゃちいというか、物語が小さいというか、ランス君の完結としてはつまらないと感じた。

 それにしても、個性も強烈で戦闘力も強いランス君の子どもたちに囲まれても存在感を失わない長田君は第二部の癒やしだった。主人公が最初に出会う人物が長田君、そしてロッキーであることは色々と深読みできてしまう。設定的にはモブでしかないキャラクターでも世界(ルドラサウム)を救うキーマンになれるというのは、第一部で魔軍を退けたランスを絶望に追いやったのが、プレイヤーすら忘れていたバードであったことと対比されてると思う。ランス君はある意味で第二部でも主人公を奪うくらい名実ともに主人公であったが、そんな主人公を別にすれば世界を変えるのは有象無象のその他大勢なんだよ、と言っているようだ。

 最後にスタッフロールで流れる本当の「その後」。最初見たときはショックを受けたが、暇があれば何度も見返して、始終楽しそうな冒険を続けるランス君にはやっぱり涙は似合わないなと思った。ランス君の冒険はここで終わったけど、スターシステムとして今後も別作品にゲストキャラで楽しそうに出るはずだから、それを楽しもうかな、と。
 ある意味では本当の意味での「純愛」をテーマにした作品だったんだろうな。ランス君が性欲に忠実で、手を出しまくるから見えにくかっただけで、シィルちゃんとの関係が特に今作ではストーリーに関わってくるのだから。



 まだ全部はクリアしてないけど、今はそんな感じ。これほどリアルタイムで遊んで良かったと思った作品はない。今はネットが発達しすぎて頭でっかちになりがちなので、変な先入観を仕入れる前に通り一遍でも楽しさを見出し、意味を見つけ、やり遂げて良かった。こんな作品を送り出してくれたアリスソフトをこれからも応援し続けようと思った。
 ところで、今作はグナガンとご褒美CGは出てこないのかな?

 印象に残ったキャラは、
ランス君:問答無用で大好き。大往生まで見せてくれた。
シィルちゃん:ヒロインというか、裏主人公。思えば、戦国ランスよりランクエ・マグナムを経てランス9の最後で復活するまで出番がなかったのだから、満を持しての展開となった。普通、囚われのヒロインや攫われのヒロインは出番が少なくなって印象が薄れるはずだが、ランスXではランス君はシィルちゃんが好きってのが前提なので存在感が大きいのが面白かった。
クエルプラン:裏ヒロイン。魔王システムを何とかするためには1級神以上の協力が必要のためヒロインに抜擢されたと思っている。何だかんだでランスシリーズには珍しい健気な子で可愛かった。
サテラ:言動が矛盾していて人間らしいと思った。第二部でランス君を魔王にしようとするんだけど、魔王化を拒否することに理解を示すホーネットがむしろ魔王に従うだけに過ぎないのが互いの立場をよく表してて良い。ランス君に対してちょっとバカだって言ってたけど、サテラも結構バカだよ……。そんなボケもツッコミもできるキャラだからヒロインとして抜擢されたんだろうね。
アリオス:良い意味で本物の道下。むしろ道下を極めたので1周回ってキャラが立ったと思う。プレイ中はものすごく同情した。それにしてもコーラからあんなに意味深なセリフを吐かれ続けてるんだから、少しは疑いなさいw
アールコート&ウルザ&クリーム:参謀ズ。この人らは秘書に欲しかったな。基本的には3人1組で動いてたけど、ランス君への態度や悲観的・楽観的・現実的な考え方の違いなど個性はあった。
パステル・カラー:へっぽこ女王で良い。泣き虫じゃなくなったけど、とにかくポンコツ。性質上、ギャグ要素を一手に引き受けていた。よく考えると、娘のリセットと共にランス君の夫婦家族としてはかなりの登場回数になるんだな。
リセット・カラー:第一部であまり登場する機会がないなと思ってたら、そういうことだったんだね。娘であり、かつみんなのお姉さんで、それでもダークランスの妹という新しい属性を切り開いたと思う。
魔想さん:第二部のキーパーソン。娘であり、父の代わりであり、ヒラミレモンであり……、とこれまた業の深い性癖を持ったお方。
かなみちゃん:こんなに強いかなみちゃんはかなみちゃんじゃないやい。娘は良かった。鈴女とはもちろん別人だが、ちゃんと忘れてなかったんだな、って。
ラ・ハウゼル:1周目の一番最初に挑んだ魔人で、ここまでギャグ要素が盛りだくさんの魔人戦で度肝を抜かれた。その後、ガルティア討伐に出かけてメディウサ放送とのギャップに驚いた。でもハウゼル可愛い。
レイ&メアリー:鬼畜王ランスからどういう風にアレンジされるかと思っていたが、2人共救われて良かった。戦闘でも使えて強くてお気に入り。

2018年3月20日火曜日

「折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー」(ケン・リュウ編、中原尚哉他訳、早川書房、2018)

 面白い。SF作家という領域でアジア系の作家(特に中国系)はほとんど興味を持ったことがなかったが、唯一の例外がケン・リュウで、そのケン・リュウが編んだアンソロジーということで本書を買ったのだ。編者であるケン・リュウは「紙の動物園」や「母の記憶に」で叙情性の高いSFを書いており、作品のモチーフやウェットさを考えると中国系というルーツにかなり自覚的な作家だと思う(もちろん1行なんかじゃ評ずることができないのはわかっているが)。そんなケン・リュウが、中国人が書いた知られざるSFをアメリカに紹介するために編んでいるわけで、嫌でも期待は高まってしまうだろう。
 そもそも中国におけるSFの地位は他ジャンルに比べて高くなくとも、すでに中国内ではSFファンもかなり多く、質の高い作品は多かったらしい。正直、僕がそのことを知らなかったのは単に勉強不足だったっぽく、確かに本書を読むと中国SFのトップは問題意識もテーマも欧米日本のSFと遜色がない。ケン・リュウによる序文や収録された作家による中国SFについてのエッセイ(筆者による解説みたいなものだった)によると中国では欧米SFの翻訳も行われそれを受けて中国内で自国語によるSFの発展が起こっているようだ。同じようなことは日本でも行われているのだが、それを外から眺めると、鍋の中で出汁が濃くなっていくようにもしかしたら変な方向に発展する可能性もあったのに、よくもまあ他国人から見てもSFとして普遍性を持つに至ったなあと感慨深い。中国ではネットの検閲があったり、グローバルなサービスが受けられず独自で発展したウェブサービスが多いことを聞いていると余計にそう思う。
 あえて傲慢な書き方をしたが、中国SFが何をもって中国SFとして成立しているかと考えたかったためだ。一応ケン・リュウは序文の中で、中国SFは三者三様で広がりもあり、国籍としての特徴はないみたいなことを書いており(アメリカSFの特徴を挙げるのと同じだって)、ポリティカル的にもケン・リュウのファンとしても本書の内容からわざわざ中国チックな特徴を見出すのは邪道だと思う。しかし、僕は全ての表現=コンテンツは社会の反映だと考えており、中国という属性を強調して編まれた本書から中国っぽさを入れずに評ずるのはむしろ不誠実だと思う(先のアメリカSFの例えは、そもそもSFがキリスト教的な真理の探究と科学技術の融合で生まれたジャンルであるため、欧米のある種のガジェットをテーマにした空想小説が他国から見てSFになると考えており、問い自体が矛盾してると思う)。もちろん本書1冊を読んだだけでは中国SFという広大な世界は見えてこないのだが、勇み足になることはわかっていながらも中国SFとは、ひいては日本SFとは何なのかを考えていきたい。


 それぞれの作品は、ケン・リュウによる著者略歴や作品解説が付いているが、作家の経歴も多彩で読み応えがある。
 恐らく本書は収録作品の順番も考慮されて編まれたのではないかと想像しているが、最初の「鼠年」(陳楸帆)はコテコテの中国らしさが溢れ出てSFらしさというより中国さの奔流に圧倒された作品である。遺伝子改造による肉体的な強化というガジェットはあれど、鼠害は蝗害と共に中国では歴史的に悩まされたネタであり、それを就職できなかった大卒を集めた軍隊が駆除するという筋立てに中国らしさを感じない人は感度の低さを反省すべきである。鼠を狩っているつもりがその実狩られ、それに気付くと共にこの世界の「ゲーム」のルールに気付く。この作品では軍隊という社会における鼠狩りというゲームだったが、少し見方を変えるだけで資本主義にも共産主義にも適用できる射程の広さには驚かされた。主人公が瀕死の怪我を負った挙げ句、単に自分が「ゲーム」の駒に過ぎないことを気付くだけって展開は涙を誘うのだが、そもそも現実では「ルール」すらもわからないことが多いわけで(僕もいまだにわからない)、それを悟った主人公は幸福だと思う。
 同じ作者の「麗江の魚」も、ある種の「ルール」や「ゲーム」に気付くという構図だ。GDPを上げるために時間感覚を圧縮する=セカセカさせる技術と、長命を実現させるために時間感覚を伸ばす技術という2つの技術をフックとして、それが社会に与えた影響とその技術は実は……というネタバラシがハイライト。懸命にも「ルール」に気付いた主人公は身の回りの全てが作り物だったと知ってしまうのだが、P・K・ディックみたいな感覚であった。関係ないけど、客室乗務員をナンパする描写が否定的に描かれていないことに驚いた。
 同じ作者の「沙嘴の花」。AR技術とフィルム型ディスプレイによりアップデートされた中国の雑多な民衆を描いた作品である。上位接続権限のある検索が上手い人を巫師と呼んでお金を払って占ってもらうのは中々皮肉が効いている。今作も、「実は作中のアレはAR技術だったのです」的な世界のルールを暴く(作中では主人公は騙す側だけど)お話だったりする。
 ハードSF・ソフトSFというジャンル分けがあれど、どちらにも該当しない作品やジャンルをまたいだり行き来する作品はどう呼ぶ? という問われたらどう返答するだろう。僕はそんなの幻想文学と呼べば良いじゃないかと思ってしまうのだが、「ポリッジ(おかゆ)SF」と名付けたのが夏笳という作家で、そのポリッジSFを体現したと思われるのが「百鬼夜行街」。読めばわかるがケン・リュウの「良い狩りを」「烏蘇里羆」的なファンタジーとSFの融合のようなことを行っている(そのものズバリは次の次「龍馬夜行」の方が近いけど)。しかし今作品は単なるファンタジーとSF的ガジェットの融合だけでなく、そこにAIの人格や「本物」の人間の条件という最先端の問題を組み込んでいる。
 「童童の夏」(夏笳)は介護問題を扱った作品。ザ・技術発展万歳、ハッキング万歳とも言うべき技術発展とそれがスタートアップで広がることで社会が変革していく有様を肯定的に捕らえていた。そもそも後の「神様の介護係」(劉慈欣)と共に親の介護は子が行うべきみたいな東アジア特有の儒教イズムが根底にあって、これが欧米SFならもっと違う展開になったと思う。それはともかく、少子高齢化により介護不足が深刻化する中、解決策がAIではなく中に人間が入ることによる遠隔操作型ロボット(ついでに子供のお守りもできます)というのはユニーク。これって寝たきりに近い四六時中面倒を見る必要のある老人には不向きだけど、さすがに中国でもそんな人らはケアハウスに預けるのだろうか、と気になった。この遠隔操作による介護ロボットという発想も面白いが、この作品では何とその先として介護ロボットを老人が遠隔操作することで老老介護を実現させるという手段に出てしまう。いや、作中ではなし崩しに肯定的に広まってるけど、介護業者として必要な安全面の保証とかされてない(はず)なので、実はヤバいだろう。……冒頭でハッキング万歳と評したのはそういうことで、技術を通じて社会を変革させることへの信頼感というか積極性が、この作品では前面に出ており、深センの発展とか合わせて考えるとこのイケイケムードが中国らしいと感じた。
 「龍馬夜行」(夏笳)は先に「童童の夏」で書いたようにスチームパンク的作品。人類が死滅した世界での機械仕掛けの龍馬と蝙蝠の行脚は、やはりAIの人格という問題を描いている。中国的や物語とSFガジェット満載なんだけどどことなく現実感のない龍馬と蝙蝠が語るお話。最終的に龍馬が天に召されるところも含めておとぎ話みたいな感覚があり、確かにこれはSFのポリッジなんだろうなと納得した。
 「沈黙都市」(馬伯庸)は一言で表すならディストピアSF。AIによる検閲効率を高めるため、インターネットの書き込みは禁止用語ならぬ使用可能語(作中では「健全語」と表現)しか使えず、さらには他人と会話するのも検閲機能がついたマスクを着用しなければならないというコテコテのディストピア物である。面白かったのは、ディストピア物は主人公などに身の危険まで迫ってきてディストピアを打ち破る展開が定番だと思うんだけど、この作品ではガス抜きができる秘密クラブを見つけてそこで満足してしまう所だ。その秘密クラブは実質上エリートによるエリートだけが入れる集まりで、会話だけでなく肉体的にも「自由」に交わすことができる。そのため主人公が恋愛感情に悩むなど日本で言う部活モノみたいな微笑ましい光景が中盤まで繰り広げられてしまう。外では検閲が行われているという世界観でだ。もちろんそれは終盤の急転直下な展開を際立たせるためのもの。皮肉にもプログラマーである主人公が開発した機械によって秘密クラブは知らぬ間に摘発され、ついには使用可能語も0となり、交わす言葉もない……というラスト。英米のSFならディストピアを聞くと反対運動を起こしたり、その気でなくとも反政府運動に取り込まれたりして体制と対峙する主人公/展開が定番と思っていたため、今の居心地が良ければそれで良いと言わんばかりに特段体制へのアクションを起こさない主人公は新鮮だった。将来的に使用可能語は0になるのは作中に示唆されており、それにも関わらず主人公は秘密クラブでガス抜きができる特権性。自分の身に体制の手が伸びて初めて反体制運動を考える(しかしその想像も具体性を欠いており僕から見たらかなり危うい)後手後手さは政治と暮らしが直接繋がって「いない」感覚を上手く表現しており、現在の中国の政治を考えるとまさに中国らしいと思う。とは言え、実は日本も政治と暮らしが分断されており、この作品が日本を舞台にしていても成立すると思うのだが。
 もちろん中国SFだからと言ってなんでもかんでも政治や体制と結びつけるのは間違いだし、つまらないわけで、「見えない惑星」(郝景芳)なんかはひたすら想像を広げ未知の惑星の姿を描いた作品と言えよう。ケン・リュウ的には「選抜宇宙種族の本づくり習性」「上級読者のための比較認知科学絵本」に似ている作品であり、マイクル・コーニイみたいに適度なストーリーとロマンを与えればSF要素も含めてかなりの傑作になりそうな異星の姿を複数ブチ込んでスタニスワフ・レムみたいなアイデア集SFにしてしまったのは、作者の自信の現れだと思った。作品の性質上、ストーリーというストーリーがないので紹介しようがないが、これでもかと不思議な惑星とその住人の生活が描かれ、読んでいて楽しかった。
 同じ作者が書いた表題作の「折りたたみ北京」(郝景芳)。これなんてまさに中国……とは言わなくとも、中国のような発展している国でなければリアリティがないと思うんだけど。人口問題を解決するため、時間帯によって都市が折りたたまれ広げられ、それぞれ活動できるグループが分けられている……分けられる基準は貧富というか身分の差だ。物語はお金を稼ぐため、一番貧しい第三層から最も裕福な第一層へ密入国(?)する男を描いているのだが、読み進めるに従ってそもそも第一層の住人もあまり幸せそうじゃないのではないかと思ってしまう。そもそも、第三層自体折りたたみ北京市に住めている点では住めなかった人々に比べてラッキーなわけで(折りたたみ北京市以外の人は作中で描かれないのは不気味だけど)、第三層の人々は貧しくても生きるか死ぬかレベルではなく、将来の展望や社会の把握ができるレベルでは教育を受けているみたいなのだ。もちろん第一層の人は第三層の人々に比べて食事も娯楽もとてつもなく贅沢なのだが、それでも折りたたまれる時間は活動していないはずで、しかも階層の異動は禁止されることも含めて自由が制限されている点では第三層と同じなのである。ディストピア社会において飢えさせず生活レベルをある程度保証し平等にディストピアを与えていれば知識人も労働者も大学生も企業家も警察も満足するみたいなテーマを感じた。ディストピアと書いたが、登場人物が自分たちの社会に一切の疑問を持たないのが特徴である(付記すると、正直、僕はこのような社会なら実現しても受け入れるかなと感じてしまった……)。
 「コールガール」(糖匪)はケン・リュウによる紹介によるとシュールレアルなイメージだの言葉遊びだのと書かれており、まさにその通り。お話を売る少女、お話の化身である犬、究極のお話に魅入られた客の男。確かに寓話であり、何について語っているのか議論はあるだろうが、僕の理解では究極の存在(「世界の本質」と作中では表現されているが、キリスト教的な神だと思う)への憧れについての物語だと理解した。
 ケン・リュウによる紹介でメタファーだと多層的だの夢だの、読むのに面倒臭そうな書かれ方をしていた「蛍火の墓」(程婧波)。とりあえず寓話が指している中身がわからなかったので評することはできない。とは言え、単なるおとぎ話としても面白くて一貫しているので、特に寓話として読まなくても良いかなという気分になった。
 「」(劉慈欣)は、翻訳作品として初めてヒューゴー賞を受賞した長編の1章を短編向けに変えたという作品だ。ケン・リュウの紹介でもやたらに褒めちぎられ、ハードルが上がる中、確かに素晴らしい傑作だと感じた。物語としては何重にもテーマがあり、アルゴリズムを扱った数学SFでもあるし、国を滅ぼすサスペンスの要素も含まれ、さらには歴史改変SFでもある。古代にコンピューターが開発されている、というテーマは数あれど、兵隊に旗を振らせることで0と1を表現して兵隊を大量に集めることで処理性能を増やすというアイデアは恐れ入った。何よりも凄かったのは、やってることが簡単で描写が具体的な分、この兵隊コンピューターは実現可能なのではないかと思わせられる点。たくさんの兵隊がひたすら旗を振って不老不死の真理を計算するというアイデアは中国でないと書けないと思う。
 「神様の介護係」(劉慈欣)は「円」と同じ作者が書いたとは信じられないほどトボけた味わいのある作品だ。介護問題ということで「童童の夏」(夏笳)のように東アジア的介護の姿が描かれるが、介護の対象は地球に生命を蒔いた神様(インテリジェントデザインかよ!)なわけで、これにはキリスト教徒も介護に関わるしかない。作中に出てくる神様と介護する家族が中国系のため中国における介護問題的イメージが離れないけど。この作品が面白いのは、介護問題だけではなく、移民問題をも扱っている点。いや、むしろメインテーマは移民かもしれない。そもそも地球の家庭数が15億(作中)しかないのに対し、地球に現れた神様は20億もの数。神様が持っていたオーバーテクノロジーを対価とし、各国政府はその技術を喜んで受け取り、それぞれの家庭も暮らしが良くなると期待する有様。惑星に生命を蒔いたり星間飛行をする技術がそんな卑近なわけないでしょー。そんなこともわからない大衆は結局、オーバーテクノロジーを今の地球の技術で解読できず、暮らしも良くならないと知るに連れまるで日本昔ばなしの意地悪爺さん婆さんのように神様を虐待し始める。ついには家出した神様がスラムを作って集団生活するという爆笑ものの展開。これぞ風刺。そう、この作品はあくまでも物語として書かれているからどこか老人もとい神様虐待を行っても、移民もとい神様へ差別としか思えない言動を行っても牧歌的な印象があるが、これは誇張しているものの現実でも起こっているのだ。移民として優れた技術や能力を持った人しか受け入れず、受け入れたとしても使い潰したり、それとも人道的理由から移民を受け入れても数に恐れを成してしまうし、そもそも少し数が多いだけで社会がたち行かなくなる移民という制度への疑問。作中でも結局、人間側による問題解決が行えず、神様たちを地球から去らせるという方法に出た。それも「地球人がここまで大変になるとは思えなかった。ゴメンよ」という趣旨のセリフを神様に言わせて。相手が神様ならその知恵を待てば良いのかもしれないが、同じ地球人相手であれば僕たちが何とかしないと何も解決ができないのである。ケン・リュウ的には「存在」「月へ」を連想した。



 中国SFの特徴として、本書を読んだ限りでは家族の有り様かなと思う。欧米の家族に比べると、やはり一族とか先祖などへの意識があり(もちろんフィリピンや韓国でも言える=中国というより東アジア東南アジアの問題意識なのかもしれないが)、それが介護などの問題にも繋がっている感じがある。あとは技術に対する信頼性。日本のSFだったらそこまで技術を善としないだろう、と思えるレベルで技術への信頼性が高い。よく評論が書かれる際に「現代的な問題」という用語で表現されるテーマがあるが、本書を読む限りでは中国SFでは問題が現代的であっても、問題の原因が技術に起因するというケースは少なく感じた。技術そのものではなく人間の運用に起因して問題が発生するという考え方は今の中国SF独自と言えないだろうか。
 とは言え無理に中国というタグを付けて読む必要がないのも事実(ケン・リュウが序文で書いたように)。僕の感想の通り、テーマはすでに欧米SFと同じくらい広く、その中の数編をつまみ食いしても全体像はわからないわけだ。そうは言っても僕なんかは中国系と聞くとウェットさを連想して、数人の作家は叙情性があったと納得するのだから中国系という前知識もあったら楽しめると思うんだけど。
 とりあえず気になったのは、ポリッジSFというジャンルと「円」の元となった「三体」。ぜひとも読んでみたいなあ。