2020年12月31日木曜日

はじめに(2010/Dec/29更新)

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2016年8月15日月曜日

「シン・ゴジラ」(庵野秀明監督、東宝、2016)

 面白い。こういう映画が見たかった。ハリウッドで描かれる怪獣は、パシフィック・リムですら、現実の生物の延長と思われるため通常兵器が全く効かないなどのトンデモ要素(しかしそれこそが怪獣映画の醍醐味である)がなくなる傾向にある。一応2014年のギャレスゴジラは通常兵器が効かなかったかな。もちろんハリウッドの怪獣映画はそれはそれで面白いのだが、このような伝統的な怪獣映画はやはり日本産がイメージに合っていることを印象つけられた。そしてそのような怪獣をいかにして倒すかの攻防戦はさすがにエヴァンゲリオンの庵野監督だけあって非常に面白い。

ディザスター・ムービーとプロジェクトX

 さて、この映画は2011年の東日本大震災での被害や政府の対応を参照しており、その意味であの出来事をエンターテイメントに昇華出来てよかったねと思っている。恐らくその最たる例が被害者となる個人をほとんど描かなかったことであろう。一般市民を描くと、基本的には右往左往したり避難する姿しか描けず、その結果安易にお涙頂戴なシロモノになってしまう。この映画では組織の上層部ばかりが出てくるが、多くの震災報道・震災小説では被害者に代表される個人しか描いてなかったので、そのアンチテーゼとも理解できる。
 ただし、怪獣モノってのはその巨体から個人と対比して描かなくちゃ面白くならないから、怪獣映画として面白いかどうかは別物だ。怪獣退治や対策を主軸とした作品といえば「MM9」(山本弘)が挙げられるが、「MM9」は身近に出現する色々なバリエーションのある怪獣を出したから一般市民への被害もある程度は想像できるけど、今作のゴジラ(というか近年のゴジラ作品に見られることだが)は被害者(正確には人間との対比による恐怖)を感じることは難しいだろう。良くも悪くもあの傑作である平成ガメラ3部作と同程度なわけで、平成ガメラから何年経過したのかと考えれば実質的には全く成長していない。正直、ゴジラでなくて別の怪獣でも、極論すれば異星人の宇宙戦艦でも内容に影響はなかったと考えている。
 そこをあえてゴジラにしたってのはゴジラに対する愛なのだろうとは思うが、登場人物はゴジラを知らなくても、観客はゴジラが人間を滅ぼすなんぞできないことを知っているので、危機感に上限を設ける結果になったと思う(いくら放射能火炎をやビームを放って東京を火の海にしたとしても、同じ庵野監督だったら、「巨神兵東京に現わる」の方が怖かったし、他には平成ガメラのレギオンなどの切迫感には遠く及ばなかった)

現実VS虚構

 つまり、ゴジラがアポカリプスの象徴(そして悲しいかな本物のアポカリプスには規模も程度も遠く及ばない)と位置付けられ、今作のような作品になったのはある意味で悲劇であるのだ。変に伝統やテーマ付けをされてしまったせいで、その本質はエンターテイメント性であったにも関わらず、シリアスな現実を描くことを求められて、そして現実は虚構なんかが想像できないほど規模が大きく深みがあり複雑で、それでも優しいことを見せつけられてしまった。
 僕はこの「シン・ゴジラ」は数多の震災後文学の1バリエーションでしかないと考えている。危機(9.11テロでもオウム事件でも東日本大震災でも阪神大震災でも戦争でも良い)が起こった後で、被災者や救助隊や為政者を描いた作品というのが様々現れた。そのほとんどは悲しいかな全体像を見せるため、または個人をクローズアップさせるために一見して必要でないと判断されたところはあっさりと切られていた。「シン・ゴジラ」も良く出来た政治映画であるが、現実を描いているわけでなく、現実を戯画化して初めて映画として形になっているわけで、普通の虚構であると言わざるを得なかった。同じ虚構であっても、平成ガメラの怪獣プロレスをやりながらSFもテーマも盛り込めるフットワークの軽さは怪獣映画の歩むべき未来の1つとして大切だろう。願わくばガメラがまた復活してくれないかな。

リベンジされる第二次世界大戦
 この映画で面白かったのは第二次世界大戦と符合する箇所が出てきたことだ。その象徴である原子爆弾を落とされたのは1945年。シン・ゴジラと同じくアメリカによってだ。
 しかしシン・ゴジラでは見事にもこの危機を回避した。
 中露が主張しアメリカも同意する中、国連によりゴジラ(in Tokyo)への核攻撃が決定される。ACR包囲網のさなか、日本は何とかフランスを説得し時間を稼ぐ。そして対ゴジラ作戦も過酷だ。ゴジラに対してホース車とタンクローリーで対峙する。そして何と民間志願者までも募って特攻部隊を結成したのだ。ヤシオリ作戦と言えば聞こえは良いが、実際は極めて不安感あふれる絵面だった。ゴジラが立ち上がったら一瞬で作戦が崩れるよね? 同じ対ゴジラ戦でも超兵器を作れた1984版ゴジラに対して、シン・ゴジラはまるで竹槍で戦闘機に立ち向かう様。おお、ガンバスターよ、何十年かの時を経て蘇ったか。
 ある意味で、日本が再び世界の敵となり、原爆を落とされるシチュエーションを作るため、ゴジラという存在が使われたとも言えよう。確かにアメリカだったら怪獣が自国に現れても核兵器を使う予感はするが(パシフィック・リムやギャレスゴジラでそういうシーン、言及はされていた)、それを逆手にとって日本に非を持たせず日本人にとっての危機感を想起させる――つまりアメリカによる核攻撃だ――作りは上手いと思った。

かつて存在したと言われる美しいニッポン

 そしてそこで描かれる日本は前半の半分ギャグを交えた停滞した会議や官僚制の描写から、後半の国の存続のため自律的に行動する官僚・企業によって「希望」として描かれる。「日本もまだやれる」「危機というのは日本をも成長させる」……正確な表現は覚えてないが、登場人物にこのような発言をさせ、それこそ死を覚悟して自分の責務を果たす姿は格好良く映るものの、これが虚構なんだなと実感させられる。それも悪い意味での虚構だ。
 対ゴジラの作戦が軌道に乗ったのは結局トップが変わり権力を手に入れたからだ。つまり、何かを成し遂げようとすれば、今の日本ではクーデターしか選択肢がなくなってしまう。主人公である矢口の描かれ方もなかなか深読みしがいがある。序盤の巨大生物を信じず、また対策をさっさと実行に移さない官邸に苛立つシーン。僕も1回目観た時は矢口の立場だったが、2回目以降時は総理の立場になった。はっきり言って矢口は異常である。明らかにありえない選択ばかり信じ、その結果、この作品がゴジラだったから正しかったものの、ゴジラがいない世界では絶対にクラーケンやネッシーを信じるトンデモ官僚になっていたと思う。ある意味で、人間同士の小さいようだが今の社会を成立させるために必要な対立はゴジラという外敵によってあっさりと無効化され、そして総理大臣以下ほとんどが消えたことで矢口がやりたい放題できたという棚ボタ的展開。これを虚構と呼ばず何と呼ぶのだろう。そう、日本人、いや人類は外敵が現れて初めて団結できるのだ。核兵器を放つアメリカという敵によって。


ゴジラは続くよ、どこまでも

・それはともかく、ゴジラ、CGがしょぼくないか? 特に蒲田を進むアレ、どこからどう見ても作りものっぽかった。さすがにゴジラそのものはかなりリアルだったが、それでも血液が流れる時のCG的液体表現は「我こそはCGだ」と言わんばかりで、きつかった。
・文句は言ったが、面白いんだよな―。映画館に来ていたガキンチョも楽しんで見られていたようで、優れた作品は世代性別(恐らく国籍さえも)問わずに面白く感じるのだと思う。
・もっとも、あくまで「日本人向け」であり、日本人に興味がないと面白く感じないだろうってのはある。東京に核を打ち込まれると困るというのは日本の事情を知らないと理解できないんじゃないかな。
・ヤシオリ作戦の立案時はほぼ物語も佳境に入り、消化試合状態だったので、ヤシオリ作戦が最後の最後で失敗して緊張感を持続させたほうが良かった気がする……単に個人的な好みの問題だが。
 ところでやはり怪獣映画は怪獣の活躍と破壊を見せなければならないと思った。

2016年7月13日水曜日

「帰ってきたヒトラー」(デヴィット・ヴェント監督、コンスタンティン・フィルム、2015)

 フィクションとノンフィクションの虚構の違いについて考えてしまった。
 この作品は、ヒトラーが(理由は不明だが)現代に蘇ったらという仮定を元に作られており、蘇ったヒトラーのことを彼本人だと思わない大衆がなぜか蘇ったヒトラーの発言(もちろんヒトラーの発言は第二次世界大戦当時の意味そのままだ)に納得してしまうという黒い可笑しさを皮肉を込めて描いている。
 ありえないことが起こった。大衆はヒトラーそのものには距離を置くくせに、ヒトラーのそっくりさんには迎合する。だから、大衆はダメだ(第二次世界大戦当時と変わっていない)という論法で組み立てられている。
 僕は昔の記事ではそういう文脈で小説版を評価した。小説版は確かに面白かった。ヒトラーが復活するなんてファンタジー中のファンタジーだが、だからこそ大衆がそれと認識しないままヒトラーを担ぎ上げる不気味さを描けていた。ヒトラーの一挙一動は「痛快」で、自分の中のヒトラーなるものの存在を意識させられた。そして映画版はその小説版を元に……アレンジした。それは恐らく致命的な誤りだろう。

 この作品の肝は上で書いた「ありえないこと」をどう受け止めるかにかかっている。小説は、フィクションは虚構の世界だ。だからありえないことを起こして問題ない。というよりも、ありえないことを元にして真実を明らかにするのがフィクションの力だと思っている。しかしノンフィクションはあくまで現実を描かなければいけないわけで、現実でありえないことを前提としてノンフィクションを作ってもおかしな結論になるだけだ。
 そう、映画版は、一部ノンフィクション(ドキュメンタリー)を紛れ込ませている。後で書くが、たぶんこの映画の中で致命的な点だと思う。映画ライターを職業にされている方の言葉を引用しよう。
そうした笑いの中に、映画はすごい策略をさしはさんでゆきます。ザヴァツキとともに全国行脚する下り、この多くの部分がなんと本物のドキュメンタリーなんですね。
渥美志穂氏)
 はっきり言って、一般的に現実の世界を生きる西ヨーロッパの大衆は死んだ人が生き返るなんて想定してないだろう。つまり、このヒトラーが偽物ってことはわかりきったことで、さらに原作小説はドイツでもヒットしたのだから(杉谷伸子氏曰く「ドイツで200万部を超すベストセラー小説」)、ヒトラーが町中を歩いていたら十中八九「帰ってきたヒトラー」の映画や何らかの企画だと考える可能性が高い。
 とすると、この「ドキュメンタリー」にはかなり現実が歪められた映像が撮影されるのではないかと想定できる。この映画のヒトラーと共に写真を撮った人々は、本当にヒトラーに賛同するために行ったのだろうか。単に有名な俳優と共に記念に撮っただけという可能性はないのだろうか(つまり、ダースベーダーと共に写真を撮る人はダースベーダーの意思や政治的態度に賛同するとまでは言えないのではないかということ。もちろん現代のドイツで何が何でもヒトラーの写真を撮ることそのものが禁じられているなら別だが……)。
 また、ドキュメンタリーパートで撮られたヒトラーに迎合して過激な発言をする人々だが、単に雰囲気に飲まれただけという感じがする。つい最近あったイギリスのユーロ離脱投票で、大して考えもせずに投票したっぽい人間が散見されたように、その場の雰囲気などで迎合したり反発したりと考えを左右するのが人間の本質ではないかと僕は考えるのだ。日本だって有名になりたい、衆目を集めたいという理由で対して考えもしてないであろう極論を叫ぶ人間はいるわけで。
 もっとも、ここらへんはドイツでヒトラーや人種ネタに対してどこまでが許容範囲なのかわからないのでなんとも言えないか。

 そして、僕が一番この映画を評価できないのは、ドキュメンタリーと言っておきながら操作が行われている点である。これは致命的だと思う。
(前略)多くの人は引いていくんです。でも中には強く賛同して残る人たちもいる。映画の中ではそうした確信的に右寄りである人しか残しませんでしたが、話しているうちにうっすらと、外国人敵視などに同調する人はかなりいました。
渥美志穂氏)

 この作品を見る限り、ヒトラーの偽物に出会ったドイツの大衆はかなりの割合でヒトラーに賛同して今晩からすぐにでも「最終解決策」を始める感じだが、どうも撮影した時はそんなでもないらしい。とすると、これって明らかにドキュメンタリーとしては反則じゃないの? この「編集」が許容されるのなら、逆にヒトラーの偽物が現れても大衆は無視していました的なストーリーも作れない? 映画はドキュメンタリーパートの結果から現代のドイツ国民の多くは不寛容であると結論し、だから現代ですらヒトラーの脅威は去っていないというテーマに結びつけていたが、ドキュメンタリー自体が編集されていれば結論は異なってくる。

 さらにもう1点。
 映画のロジックでは常にヒトラー(的思考)に石を投げないとNGらしい。ヒトラー役の俳優と撮影することを咎めていたのだから。しかし、その理屈なら原作小説もNGではなかろうか。ヒトラーに対する前提が共有されていなかったら、それこそ英雄ヒトラーを描いた小説である。少なくとも原作小説はいわば褒め殺し的な、ヒトラーの活躍を描き大衆から支持されることで再び昔のドイツが到来するという警鐘を皮肉交じりに鳴らしていた。極めて文脈に依存した作品である。
 邪推になるが、恐らくだから映画は原作小説より反ヒトラー色が強かったのだろうと考える。

 最後に、細かい点を。
・フィクションの肝であるヒトラーの復活についてだが、キリスト教的な偉人行為と捉えることもできないだろうか。原作小説では徹底的に宗教が省かれていて違和感はなかったが、映画で実際の街の映像を見せられると宗教面が出てこないのは意図的な感じがした。宗教関係にも撮影出来ていれば映画の見どころになったろうに。
・ユダヤ人であるクレマイヤー嬢を「説得」するシーンは原作小説のクライマックスなのに、省かれていたのは痛い。クレマイヤー嬢ですらヒトラーを受け入れるからヒトラーは恐ろしいという理屈になっていたのに。
・ドイツでは人種差別発言は許容されるけど犬殺しは非人間が行うもの的扱われ方なのね。


 そんなわけで手放しには楽しめなかった映画である。良い意味でフィクションの虚構だったものが、ノンフィクションでは悪い意味で嘘に変わってしまっていた。確かに原作小説は風刺であると事前情報がなければ読解しづらいが、それでもヒトラーやそれを支持する大衆の恐ろしさの描写でははっきり言って原作小説に及ばない出来である。

2016年6月25日土曜日

「エクス・マキナ」(アレックス・ガーランド監督、ユニバーサル映画、2015)

 「奇子」(手塚治虫)を思い出した人もいるかもしれない。外の世界を見たことのない無垢な存在が、その無垢さで破局をもたらす構図はまさしく「奇子」である。
 登場人物は4人。言葉を交わすシーンはほぼ常に2人同士でしか話さない。舞台も別荘というか実験施設というか、背景の変わらない無機質な空間。それなのに、極めて緊張感がある、物語の結末を早く見たいと思える作品に仕上がっているのは驚くべきことだろう。
 近未来的な印象を与える別荘の中で行われた人工知能に意識があるかを確かめる実験。人工知能は恋愛を擬態し、人間を欺き逃げ出す、というのがこの作品のあらすじである。先にも書いたとおり、登場人物も舞台もあらすじも至ってシンプルながらここまでのボリュームがあるのには驚きである。

 この作品のキモは表向きのテーマをAI(人工知能)の発達としたところにある。ラストシーンを見ればわかるが、本当のテーマは明らかに異なる。最初に挙げた「無垢な存在が利己的に振る舞う(この場合は恋愛を擬態する)ことで俗物どもを陥れること」とでもしようか。別に人工知能とする必要もなく、古代から定番のファム・ファタールを髣髴とさせる内容である。恐らく、このテーマをストレートに人間を使って描くと、それこそ「奇子」のようにグロテスクな作品になってしまうのだろう。人工知能という覆いをかけることによって、グロテスクさが薄められ、さらに中盤までの人工知能による自我の有無という視聴者の興味のフックが得られる。極めてよく練られている。

 冷静に考えて、普通の人間とまともに会話できる人工知能なら、嘘をつくということも考慮に入れられるべきだ。嘘とまで言わなくとも、人間の持つ認知の歪みが今作の実験に何かしらの影響を与えている可能性があるはずだ(そもそも同じ人間を対象にした心理関係のアンケートでも被験者の数を増やしバイアスを防ぐ努力をしているのだから)。実験者と人工知能とで行われる会話の内容自体も人工知能の自我を問う質問として不適当な気がする。そもそも人間とそれなりに会話が成立する今最先端のAI女子高生「りんな」やbotのように意味不明な罵声を浴びせる生身の人間を見てみると、会話だけで自我が計れるなどということがあるのだろうか。さらに女性形ロボットに恋心を抱かせることで男性(主人公)を欺かせて、それで何がわかるのだろう。
 そんなことを考えてみると、主人公たち人間サイドは人工知能からテストを仕掛けられたようにも思える。人間とはどのように振る舞う生き物なのか、的な。

 人工知能を開発したIT企業家はよくよく考えると変な行動を取っている。自分の会社の社員とはいえ、1人だけ酒に酔いつぶれて寝るなどあまりにも無防備すぎる(結果、酒が原因で破局が起きたし)。あんなに酒を飲んで急性アルコール中毒になったらどうするつもりだったのだろう。未知のテクノロジー満載の空間で意図せざる停電が発生して不審に思わなかったのだろうか(主人公も人工知能が生みの親を欺いて停電を引き起こしたと聞かされた時、ヤバイと思わなかったのかね)。
 ある意味で、人工知能以上に行動が変であり、だから途中から人間2人と人工知能1体の立場が逆転したようにも見えた。早い段階で視聴者に人工知能が人間なみの知性を備えていると確信させ、劇中の主人公たちが人工知能のテストをしているつもりなのに、それをメタ的に視聴者に眺めさせるのは上手い。人工知能の知性を計るという面倒な部分をすっ飛ばすことで物語はまるで恋の駆け引きに敗れた男2人というイメージをつくり上げる。その意味で、先に書いたように今作の本当のテーマは人工知能ではなく人間的知性同士の駆け引きなのだろう。

 人工知能の知性というキーワードだと、ニール・ブロムカンプ監督の「チャッピー」の方が人工知能らしい知性を描いていて好印象。もちろんあくまで男を欺く存在として描いた今作と、肉体をは精神・知性の仮の住処として描いた「チャッピー」とでは印象が異なるのも当たり前。今作は目を見張るような視点の広がりはないが、その分各人の経験にそって身近な苦い思い出をかきたててくれるかもしれない。

2016年4月20日水曜日

キングスマン(マシュー・ヴォーン監督、Marv Films、2015)

 キック・アスの制作陣が集ったと聞いてある意味で納得した。クライマックス……の一歩手前で厳かな曲が流れ、派手な映像で逆転を演出する。キック・アスのあのシーンも、このキングスマンのあのシーンも、ノリは一緒で、されどキングスマンには笑い出してしまうユーモアも同時に持っている。よく考えると凄惨な光景だがこんなに楽しく描ける制作陣は素晴らしいな、と。
 そもそもこの映画でアクションシーンは売りの1つで、しかも音楽やカットの切り替わりもあいまって何となく明るいのだ。ナイフを体に刺したり銃を撃ってはいるが、流血シーンは最小限なので全然痛くなく、むしろ軽快なダンスを踊っているかのようで笑ってしまう。なんで面白いのかわからないけど、こんな感じの軽妙なシーンを撮れるのはやはり才能なんだろうな。

 映画の内容は古きスパイ映画へのオマージュと時代に即したネタという感じだ。正直、スパイ映画自体全く見たことないのだが、昔のスパイ映画はこんな感じなのか? どちらかというとアメコミヒーロー+ルパン三世的な印象を受けた。「ひみつ道具」という言葉に弱い人は絶対に観るべき。
 監督がイギリス人という先入観があったが、それに違うことなく、定職のない若者・大学という階級・昼間からパブへたむろする男たちとイメージ通りのイギリス人をこれでもかというほど描いている。あとはクラブってやつがあれば完璧だった。キングスマンという組織が(恐らくイギリスの公的機関と同様)基本的には大卒のエリートたちから構成されており、そしていわゆる労働者階級を見下し、ついには敵に迎合する輩も現れる様(少しネタバレ)はイギリスの階級社会に対する批判的な視線が読み取れる。キングスマンにとって守るべき平和というのは自分たちエスタブリッシュが属する社会なのではないかと思わせられるシーンがちらほらとあるからだ。
 そんな中で主人公及び味方サイドは階級的な先入観がない人というお決まりのパターンで、敵側はどれもこれも選民思想を持った方々。ま、2時間の尺であまり深いところまでは描けないよね。物語中の敵はスティーブ・ジョブズ! もとい、アメリカ人のIT企業家。ジョブズというよりもエリック・シュミットの方かも。伊藤計劃の「虐殺器官」のような発想と手段を元に人間は地球にとって悪玉なので人減らしを試みるというデビルガンダムのようなことをやらかす。正直、発想の割には手段がみみっちいしスケールも小さいので、もしや制作陣はアメリカIT企業がとことんまで嫌いなのかなと思ってしまう。普通、もっと国家規模の事件にするだろう!
 もっとも、この映画の設定は結構隙だらけなのでどうでも良かったり。例えば虐殺システムはIT企業家が常に掌紋認証し続けないと動かないのだが、全自動にしろよ、とか。ツッコミ部分をスルーできるかで評価が分かれると思う。

 そして描かれる「あの」シーン! 絶体絶命のピンチの中、敵のシステムを見事に利用した逆転劇のはずだが、威風堂々をBGMにスローモーションで頭を爆発させる(流血なし)ギャグシーンとしたのは狂ってるとしか思えない! ちなみに爆発の煙は人によって異なり、赤とかオレンジとかカラフルで綺麗である。……冷静に考えると頭を爆発させるsimカードを受け込む時に火薬も色々取り揃えたってことだから、敵のIT企業家も狂ってやがる。

 そんなこんなで事件を解決して母親を救いに行く主人公で幕を下ろすのだが、あまりにも紳士的な立ち振舞で少し困惑した。個人的に主人公はスターウォーズのジェダイ社会で言うとオビ=ワン・ケノービ的と思っていて、育ちも良くなく規則を破る人間だと勝手に考えていたので、パリッとしたスーツに身を包んだ紳士っぽい姿は何か違うと思ったけど、まあ細かい話です。

 どこまで本気でやっているかがわからない作品。もしかして本気で全編コメディとして作ってるのか? と思うほど。とりあえずBGMも素晴らしく切れの良いアクションは必見。何度でも観れる。

「12人の蒐集家/ティーショップ」(ゾラン・ジヴコヴィッチ、東京創元社、2015)

 面白い。ブラックとまでは行かないものの、一筋縄ではいかない不思議な読後感。何よりもコレクターの不条理な感覚が再現されている。
 コレクションを集めるというのは最初は楽しいのだが、途中で義務的になり自分の意思では止められなくなる。もしコレクションの対象物に飽きてしまったら、新たに集めずに今まで貯めたコレクションを楽しい思い出として愛でればそれはそれで幸せに暮らせるのだが、集めること自体が目的になっている場合は悲劇だ。なぜ集めているのか自分でもわからずひたすら貯め続けるだけになる。ある意味でこの本に出てくるコレクターはそんな人達ばかり。

 「12人の蒐集家」に出てくるコレクターはある種の人間コレクションをしている。夢や希望、思い出を集めるコレクターは、はっきり言ってこの手の作品では定番だと思うけど、それが11種類も出てくれば圧巻。そして人間をコレクションするという見る/見られる関係の非対称性がコレクションという比喩を越え、例えば男性の女性に対する視線とか(定番だけど)の現実世界へリンクしたものになっている。最終話でそれを(物語を発展させず)あっさりと捨てるのだからコレクターの習性を熟知していると唸ってしまった。何を隠そう僕も今までに色々集めては飽きたら捨てるを繰り返した人間で、最近ようやく飽きないためにそもそも気軽に集めないという解決策を学んだのだ。そんなコレクターの冷徹さ、人間を見る視線の非人間性を描いた素晴らしい作品である。

 中編の「ティーショップ」も面白い。物語に惹かれる終わりのない感覚を端的に描いた作品だ。主人公の女性は物語のお茶というメニューを頼んだことで喫茶店にいる人々から次々にお話を聞かされ、ついには彼女も語り手の1人になるストーリーだが、語られる物語というのがループ構造となっていて読んでて面白い。物語のお茶として語られるそれぞれのお話の主人公と、それを紡ぐ語り部はたぶん性別・年齢が一致しており恐らく語り部の人生が物語のお茶の中でエピソードの1つになっていると想像している。さて、この中編の主人公である女性は、ループしている物語のお茶の中でどのような立ち位置になったのだろうか。読者である我々は続きが気になり……それは主人公の女性が物語のお茶を飲み続けたのと同じなのだ。彼女が物語のお茶に捕らえられたのと同じようにこの中編の続きが気になる我々は確かにこの作品に捕らえられている。もし語り部の1員になってしまったらどのような物語を紡ぐのだろうと考えてしまう作品だ。
 「ティーショップ」は「12人の蒐集家」とは直接の繋がりはないが、物語=語り部の人生そのもののコレクションとして考えると多少は関連が見えてくる。「ティーショップ」で物語の聞き手が語り手に取り込まれたように、「12人の蒐集家」でコレクターはコレクションされる対象の人間に深く関わり、そんなコレクターたちもさらなる上位のコレクターの蒐集物になってしまった。そして「ティーショップ」「12人の蒐集家」ですらこの書籍として客体化されるという入れ子構造になっており、では読者である我々は……という疑問を抱かせてくれる。

 とはいえ単に空想世界のお話として読んでも面白い。何かに似ていると思っていたが、星新一のショートショートの後味である。少し不思議な、幻想的なお話。ただ、せっかく似たモチーフでまとまっているのだから共通点を見出すともっと面白く読めると思いこのような感想文にした。

2016年4月3日日曜日

「ひつじのショーン スペシャル ~いたずらラマがやってきた~」(アードマン・アニメーションズ、2016)

 選り抜き傑作選と新話の合同上映。ひつじのショーン自体は面白いので「ああ、こんな話があったなあ」と懐かしむ目的で楽しめる。

 冷静に考えて、動物を擬人化したこの世界で家畜の売買ネタってなかなかにブラックだなーと感じた作品。
 おとなしいラマを競売所で偶然買うことになったけど、そのラマ3匹は実はとんでもないいたずら好き・・・・・・というか暴れん坊で、何とかおとなしくなるよう催眠にかけて再び競売所で売りに出す、というストーリー。
 人間と同じように動物も感情を持つこの世界でラマや他の家畜を売買するのって大昔の奴隷売買と同じ感じがし、見方によっては相当危うい作品である。それもあって、今回ラマに被害を受けてもあまり牧場主には同情できなかった。ラマが乱暴者とは言え、飼い主の都合で催眠をかけられ売買される奴隷の悲劇といったものを感じてしまったよ。
 また、今回のショーンは空気が読めず自分勝手だった。仲間に迷惑をかけてもそれを感じ取れないいやーな面が強調されており、いつものショーンらしくないなと思った。なお、ストーリーの最初から最後までセリフなしの仕様なので、当然仲間からの抗議も言葉で行われず、ある種の空気を読む才能が必要な映画である。

 あと、これはたぶんうがち過ぎな見方だけど、平和だったコミュニティによそ者がやってきて、秩序が乱されるというストーリーは時節柄今のシリア難民とかをイメージしてしまった。この映画では最後までラマ達と牧場主達はわかりあえなく、解決策は催眠術をかけて競売所に売る(=難民を送り返すに近い)ことだったが、ご都合主義と言われようとこの映画くらいはラマと牧場主が多少は心を通わせる描写を入れて欲しかったなあと思った。もしそんなストーリーだったら、ご都合主義だと文句を言うと思うけど(笑)。