2020年12月31日木曜日

はじめに(2016/Dec/29更新)

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2017年7月27日木曜日

「夜の夢見の川」(シオドア・スタージョン/G・K・チェスタトン 他、中村融 編、創元社推理文庫、2017)

 この前感想文を書いた「街角の書店」の第二弾。今回も不思議なお話盛り沢山だよ。

 トップを飾るのはクリストファー・ファウラー「麻酔」。タイトルの段階では歯医者で麻酔を忘れられた/途中できれて阿鼻叫喚、と思いきや、麻酔はかかったんだけど、医者がマッドな素人で色んなところを手術され芸術作品にされてしまったという内容。グロテスクな作品のはずだが、終盤がぶっ飛んでおり、描写の割には嫌な感じが少ない。読者にダメージを与えるなら、いかにもなシチュエーションであり得そうな痛い描写をするはずだから、これは意図されたものかな。半分ギャグにもなっている「手術後」からすると、おそらくこの作品は読者を怖がらせようとするよりも単に悪趣味的な悪ノリを楽しんでたのかな―と思える。奇妙な味のアンソロジーとしてはなかなかの始まり。
 ハーヴィー・ジェイコブズ「バラと手袋」。不思議なモノを売るお店というジャンルで、本書の場合は子供の頃の思い出の詰まったガラクタ。傍目からは単なるゴミにしか思えない物のために、昔いじめていた相手の下で働いている人たちが半ばゾンビ化されたみたいで怖い。読んでて引くのは、主人公はこのガラクタ屋を、いじめてはいなかったが、明らかに見下しており、今でもそれを隠そうとしていない。ガラクタ屋の方も主人公を恨んでるわけではなく、復讐する様子もなく、淡々と主人公の思い出について交渉するのが変な緊張感がある(しかも「中性子爆弾のPRをしろ!」だって)。
 結局、主人公は無事に買い取ることができ、そしてお金以外の代償を払っておらず、ガラクタ屋がいじめられっ子だったことに物語的にケリをつけてないんだけど、そこのチグハグさが僕にとっては奇妙に感じた。

 キット・リードの「お待ち」。性の通過儀礼モノ……と書いてて今フッとわかったのだが、少女から女性に変わるってのは作中では「病気」として描かれていたのか! 読んでる時はこのことに気付かなかったのでいまいち印象がぱっとしなかったが、理解できたら名作に思える。
 母子家庭の母と娘が2人っきりの旅で不思議な街に行く。そこの人々は病気になると広場で自分を見せ、街の一般人から適切な治療を受けていた。母が病気になり、この街に留まる中、娘は親切な一家に泊めてもらう。母の病気が治らず滞在期間が延びる中、娘は18歳(結婚適齢期)になり、他の街の娘と共に広場とは別の場所で自分を見せることになった。昔ながらのモラルを押し付ける母に嫌気がするものの、娘は抗えきれず街のしきたりに身を任せ、醜い老男に「治療」(*作中では明言されない)されるのを待つ……。
 というあらすじ。最初はお母さんが病気になって、変な街でさあ大変って感じなのだが、徐々に母親の支配的な態度や街の若い女性に対する態度に違和感を感じ始める。そして、上記に書いたように少女から女性になる儀式が街の人からしたらロマンあるっぽいのだが、読者や主人公である娘からしたらモノ扱いされており、一方で主人公の母は貞淑さなど古びたモラルをよりによってこの街で押し付け、結果として娘は貧乏くじを引きまくることになる。ジェンダーと世代という問題をわかりやすく扱っている。

 フィリス・アイゼンシュタイン「終わりの始まり」。ゴースト・ストーリー。奇妙な味か? と聞かれると奇妙じゃないなあと思う。兄と妹の確執を亡き母が仲裁する内容なのだが、この程度で仲違いが治まるのだろうか。問題の根深さに比べて母親があまりにも軽く仲直りを勧めており説得力に欠ける。冷静に考えると、母親が生きていることを知った違和感は妹だけではなく兄も抱かなくてはならないはずだが、読む限りでは兄は違和感を感じていないようで、そこの非対称性が気になる。
 エドワード・ブライアント「ハイウェイ漂泊」はあまり心に残らなかった。感想文を書こうと思っても何も書けないや。
 ケイト・ウィルヘルム「銀の猟犬」はこれぞ奇妙な味という作品。主人公である女性にひっつく2匹の銀色の猟犬は何の象徴なのか。猟犬が現れてから主人公の夫に対する不満が爆発し、さらに父親の記憶を思い出す。猟犬が不気味なのは、この手の存在って普通は登場人物に危害を加えるのが物語の常なんだけど、この作品ではその手のわかりやすい危機は起こらず、消えてしまう。残ったのは猟犬によって現れた主人公と夫の間のしこりだったり、主人公が子どもたちから舐められていることだったり。物語は終わるんだけど、むしろこの後の人生のほうが気になる。もしかしたら、猟犬とは人生の転機の暗喩かもしれないと今考えたけど、それだと2匹いる意味はないか。やっぱりわからん。
 シオドア・スタージョン「心臓」。非常に短いながら意外性に溢れたラスト。奇妙さは抜群。あまりにも短く、ネタに依存した作品なので感想すら書けないが、ぜひとも読むべき。面白い。
 フィリップ・ホセ・ファーマー「アケロンの大騒動」はオチがすっきりしていて、奇妙な味ではないのだろうが、どんでん返しがあって苦い作品。個人的にはミステリーの味わいがあり、好青年と思われた人が実は……とか、怪しげな雰囲気を抱いた博士が単なる……だったりと真相が明らかになる楽しさがあった。死者が蘇ったら迷惑なので金をもらうってのが皮肉が効いてて良い。奇妙さはないけどよくできている。

 ロバート・エイクマンの「剣」は、作品の完成度とは別に大好きな雰囲気である。主人公がある街に行き、そこで興行されたショーの看板娘に惹かれ手に入れるも、娘の体に幻滅した、という作品。薄暗いサーカスの中で残酷な出し物が行われる中、出演した少女に惹かれるのはいかにもありそうな筋立てで、それが性的な関心にすり替わるのもあり得るお話。最終的に、少女はもしかして自動人形みたいな存在だったのではなかろうかと思わせる(もちろん別の解釈もできる)。何にせよ、観客の手で体に剣を刺されても血を流さないし、剣を刺され終わると1人ずつキスをして解散って描写と、興行師と共に主人公と3人で食事を共にするオフの雰囲気のギャップ、そしてベッドに入って様子がおかしいなと思っていたら手首が取れてしまうのがある種のエロティシズムを感じさせるのだった。
 G・K・チェスタトン「怒りの歩道──悪夢」も心に残らなかった。読み返してもいまいちピンとこない。
 ヒラリー・ベイリー「イズリントンの犬」。犬が喋ることで家庭が崩壊するお話なんだけど、冷静に考えると犬が喋らなくても詰んでいたわけで、実は犬の会話の有無は物語に影響しないと考えると奇妙なのかもしれない。犬に言葉を教えた女中は本来ならキーキャラクターのはずだが(それこそ一家の子供とかよりも)、途中から存在感を失うなど、読んでて手際の悪い部分が見られた。犬が喋るならもっと喋った恐怖を見せてほしかった。
 表題作であるカール・エドワード・ワグナー「夜の夢見の川」。確かに奇妙な作品だ。護送車の事故によって逃げ出した女囚人が駆け込んだお屋敷。そこで出会う女主人と妙齢のメイドは主人公である女囚人を怪しまずに受け入れ、逆に屋敷から逃がそうとしない。かつてこの屋敷に住んでいたことが示唆される女主人の娘、女主人は主人公をどうやら娘と重ね合わせてるみたいで、メイドは主人公にちょっかいを出す。一連の流れが架空の書物と重なり、真実は何なのか?
 館モノで百合あり、BDSMありの盛り込まれた作品でもある。というか、ホラー作品として認識してしまえば真実なんて気にならなく、怪しい雰囲気の三角関係に浸れて良い。奇妙な味ではあるんだけど、それ以外のフックがあまりにも大きすぎて普通の小説として感じられた。しっかしタイトルが美しくて良いなあ。「The River of Night's Dreaming」、格好良い。

 しかし、調べていたら、この作品ってクトゥルー関係という情報を発見したが本当なの?

 前作「街角の書店」よりは収録数が少なくなっており、その分1作あたりのページ数は増えたと思う。濃い物語を描けるようにはなったものの、合わない作品はひたすら合わないままページをめくるので良し悪しが別れるだろう。オチがわかったり、奇妙さがない作品も多く収録されているので、奇妙な味に抵抗を持つ人にも読んでほしいなあ。
 ぜひとも次のアンソロジーが出て欲しい。

「ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち」(ティム・バートン監督、20世紀FOX、2016)

 絵は素晴らしいけど設定とシナリオがとっちらかった作品、というのが見終わった後の感想である。
 特に設定面は致命的で、この作品はタイムループものというファンタジーの皮を被ったSFであり、さらにループだけでなくタイムトラベルも関わっている。つまり、物語の舞台は現代→1943年へタイムトラベルし、さらに1943年9月3日をループした後、1943年9月3日を経由して2011年で決戦を迎えるのだ(ラストシーンは2011年から再び1943年へ……)。これが複雑でなくて何と言おう。バック・トゥ・ザ・フューチャーですらもう少しわかりやすかった。正直、2時間程度で碌な説明もないまま時間軸を色々動かすのは無謀だったと思う。タイムトラベルの条件も特定の場所を通るだけなので、舞台が動く中盤以降は今のシーンがいつの時代なのかがわかりにくかった。

 シナリオ面で今一つだったのは、原作に続編があるせいか、主人公の成長が見られなかったことだった。現実世界で友人もなくいじめられ親からも理解されず居場所がない少年が、実は非凡な力を持っており、その力のお陰で異世界に行けて、さらに彼にしかできない任務を与えられ英雄的行いを成し遂げ恋人ができる。展開自体はジュブナイル系というより絵本でもよくありそうな行きて帰りし物語なんだけど(そもそもハリーポッター……)、本作の場合は元の世界に戻らないのだ! そもそも主人公は最後の戦いの果て、元の時代ではなく時間軸のずれた世界に放り出されるのだが(この時点でちょっと、ね)、恋人を求めてタイムトラベルポイントを何箇所も辿って、ついに恋人の世界に帰る! あれ、元の世界の親御さんはどうなったの? これ、シナリオ的にダメなんじゃなかろうか。
 さらにだ、主人公が暮らそうと決めたループ世界なんだけど、客観的に見て恐ろしい世界ではなかろうか。映画の序盤~中盤でループ世界が描かれるんだけど、ループしてるからみんな毎日何時何分に何の出来事がわかるか覚えている。逆にいつも通りのスケジュールで動かないと怒られる始末。永遠に生きることができ、食べ物とかも困る描写はないが、究極のディストピアである。
 そして主人公の恋人となる女性も、元々は主人公の祖父が想い人だったらしく、そこら辺の伏線も解決できずに終わってしまったっけ……。主人公の祖父に恋してたから主人公に脈はない、と言われていたが、いつの間にか両思いになっててびっくり。特に解決する必要のない設定ならなくても良かったんじゃないの、主人公の祖父の想い人設定。

 ビジュアルは面白い。空気より軽い少女、手から炎を放つ少女、ハヤブサに変身する女主人、無生物に命を吹き込む青年、夢の内容を目から映写できる少年……。コレラに加えて適役である化物と怪人がおり、怪人は悪趣味な描写で怪人っぽい。
 バトルシーンも迫力があり、骸骨の群れVS化物はいくら骸骨だと言っても手に汗握っていた。半透明な化物も半透明だから見にくいことはなく、色々観客から見やすいように効果を付けてくれていた。
 それだけに設定とシナリオが今一つなのは惜しいと言わざるをえない。やはり続きモノの第1作目を無理やり単独の作品に仕立て上げた弊害かねえ。

2017年7月19日水曜日

「貞子VS伽椰子」(白石晃士監督、KADOKAWA、2016)

 ホラーは苦手だが、この作品はタイトルからして笑わせにかかっていると感じたので、DVDで見てしまった。良い意味でも悪い意味でもその期待が裏切られた。

 この作品は、「フレディVSジェイソン」とか「エイリアンVSプレデター」的な人気のあるキャラクターをクロスオーバーで出してお祭りにしよう的な作品だと当初は思っていた。つまりホラー要素が薄いか、または単なるスプラッターになっていると思ってたんだ。
 でも実際に見てみたらちゃんとしたホラーになっていて面白かった。貞子と伽椰子という2要素がいて、ホラー要素が分散するかと思ったけど、意外と言っては失礼だが、上手くまとまっていた。もちろん設定は微妙に変わっており、例えば呪いのビデオは確か「リング」だと7日の猶予があったのに、今作では2日に変わっている。インターネットとかの影響でスピード感を出さねば古臭いイメージになってしまうので、良改変。ちなみにインターネットと言えば、呪いのビデオをネットにアップするシーンとかDVDに焼くシーンとかがあって今時の恐怖感はあったのだが、元ネタの怖さは薄れていたと思う。
 ただし、物語は基本的に呪いのビデオを中心として進むので、伽椰子&俊雄君はあまり見せ場がなかった。やっぱ呪いの家なんて向こうから物理的にはやってこれないから、人間が立ち入らなければストーリーに関われないんだよなあ。呪いの家系のエピソード&貞子を伽椰子にぶつけよう! のシーンは正直無理があった気がする……。
 ちなみにこの貞子VS伽椰子による呪いの対消滅を計画した霊能者が登場すると、いかにも呪いが解決できそうな雰囲気になる。それまでのリアリティのある日常描写とは一線を画すファンタジー感満載の姿だ。何と言っても、手でお祓い(?)すると本当に霊能力が発動したり、盲目だけど霊感のある少女を連れていたりとマンガ的に描かれている。今までの雰囲気を壊すキャラクターであり、同時にストーリーが終わるんだ、呪いが解決するんだ、と視聴者に安心感を与える。

 が、実はここまででタイトルにもなっている貞子と伽椰子が戦うシーンはない。そもそも映画全体を見ても、貞子と伽椰子が出会ってからラストになるまではスタッフロール含めて15分前後しかない。冷静に考えると、2人とも最終目的は人間を殺すことなので直接的なバトルにはならないんだよな。
 この映画は真面目にホラーをやっているが、ホラーをやってしまったためにインパクトが薄れた面もあると思う。例えばターミネーター2におけるT-800とT-1000みたいに延々と肉弾戦か超能力戦を行うことを期待していたら短すぎると思うし、はたまた単純に呪いによるキルスコア勝負を期待していたら被害があまりにも少なすぎる。幽霊が出るホラーという題材の限界なのかもしれないが、お祭り感満載の派手な映像にはなっていないのがタイトルに比べて残念だったと思う(この内容なら、「リングにかける呪怨」的なVS要素がなさそうな名前にした方が良かった)。

 最終的には除霊が失敗し、貞子と伽椰子が融合してとんでもない呪いというか化物になって霊能者もろとも登場人物は全員死ぬことを示唆して終わるんだけど、素体が素体だけにビデオを介するか、家に引きずり込まなければ殺せないと思うんだ。インターネットにビデオがアップされたと言っても、有名動画サイトから削除されてしまえば被害も拡大しないし、ねえ。
 貞子も伽椰子も既に攻撃力が極めて高いのだから、それをかけ合わせて更に攻撃力を高めたところで怖さは比例しないのであった。インターネットに拡散するなら、テレビでサブリミナル映像みたいにこっそりと放映されて、日本人の心の奥底に刻まれ(序盤のミームだ!)、ふとしたタイミングで心の奥の呪いが解けて殺しまくる(多重人格探偵サイコだ!)みたいに量を増やすか性質を変えるかした方が良かったと思う。

 と不満も書いたけど、「リング」と「呪怨」のリメイクを早回しで見るみたいな目的には良いかもしれない。どちらも今の時代に見るには時代遅れになった部分が目に付くので……。

「箱入りドロップス」(津留崎優、芳文社、全6巻)

 青春とは人生の初期に数年で終わってしまうから、光り輝くものなんだよね~と読み終わってから考えた。
 ジャンルは4コマ日常系ラブコメ。苦手な人は苦手なジャンルだろう。僕は実のところ、日常系や4コマ形式とは比較的相性が良くて、飽きなければ読めてしまう。6巻で終わるので手軽に読めると思って手を出したのだが……。

 このマンガの全ては箱入り娘と評されるヒロインが表している。学校にすら行ってなかった彼女が主人公の家の隣に引っ越し、それから共に同じ高校に通うシーンから物語が始まるが、何と言ってもヒロインの最大の特徴は1人で横断歩道すら渡れないってところだろう。家から出たことがないので自動販売機すらわからず、ある意味でその手のキャラの典型といえば典型的なのだが、しかし純粋で好奇心が旺盛なところがテンプレートさを感じさせない。
 ヒロインが新しいものとして驚き楽しむ生活の全ては、僕達(そして主人公などヒロイン以外の登場人物)からすると珍しくもないものなんだけど、毎日が新しい経験の連続である学生の象徴でもあると思う。それは、この作品はちゃんと時間が流れていることでもわかる。3年間を描いた作品であり、バレンタインデーとか同じイベントがあるものの、起きる出来事は過去を踏まえてラブコメ的に前進を続ける。
 そして楽しい時間も終わりを迎え卒業式を乗り越える姿は、この作品を読んでいた読者の姿と重なる。ヒロインが主人公に依存せず自分で歩みを進める姿は良いものだ。僕は単行本を一気読みしただけだけど、雑誌でリアルタイムに読んでいたファンは辛かったろうに……。
 しばしばマンガなどへの批判として出されるような突飛な設定はなく(強いて言えばヒロインが箱入り娘ってことだけど、引きこもりと同じような描かれ方だから気にならなかった)、リアリティのある世界でリアルな悩みを抱えてそれを乗り越えるキャラクターが輝いていた。

 ラブコメ部分も面白い。ヒロインと主人公がくっつくのは1巻を読めば想像がつく……というか、このヒロインの造形からして主人公と別れる選択は作品の雰囲気からしてないなと思っていた。ではどこでラブをコメディにしているかと問われると、恋愛感情がなかった男女が一緒に行動する中で恋に芽生えるドキドキ感、それとは別に主人公たちの仲良しグループであるサブキャラ3人の恋愛模様。むしろ、憧れの先輩に恋破れたり、先生への恋心を秘めていたり、好きな人の恋愛を後押ししたりとこの3人の方がよほどラブコメしていたわけで、彼ら彼女らがラブ分を引っ張っていたと思う。途中で主人公に恋する後輩が出てきたけど、当て馬感半端なかったしな。実は、僕はあまり恋愛に興味はないので(キャラクターがわちゃわちゃ動くほうが好きなのだ)、サブキャラにラブ要素を盛り込むのはなかなか読みやすい手法だと思った。

 というわけで、理想的な日常系だと思う。日常系にもいくつかあって、超常的な設定のある世界で日常を描いた作品も見られるが、僕にとってはそれは日常ではないのだと声を大にして、いやわざわざ言う必要はないか。
 僕は、日常系は読者が感情移入できるようにして、読者の人生と寄り添い励ましてくれる作品であって欲しいと思っているので、そういう意味でこの作品は素晴らしい日常系だと思った。

 個人的に感動したのは6巻。前の巻までの高1・高2・高3の主なイベントがまとまっており、さらに掲載誌で載っていた(らしい)カラー扉絵が収録され、著者の後書きでは登場人物のその後のアイデアが書かれている。愛されてるなあ。出版社や著者にこれくらい愛された作品はやはり読んでいて心地良い。

2017年7月3日月曜日

「街角の書店」(フレドリック・ブラウン他、中村融編、創元推理文庫、2015)

 奇妙な味と呼ばれるジャンルが好きだ。幻想文学に近いがそれよりも不条理さを強調した作品、と捕らえている。しかし不条理小説と読んでしまえるほどナンセンスさや無意味さは少なく、では寓話かと聞かれると恐らく寓話と呼べるほど現実世界とリンクしていない。怪奇小説とも関連がありそうで、確かに読み終わるとゾクッとする作品もあるにはあるのだが、怖さが必要条件というわけではない。正直、奇妙な味というのはジャンルとしては非常にマイナーで、強いていうと先に挙げた幻想文学とか不条理小説に分類されてしまう。
 しかし現実とは薄皮一枚隔てて現実感のある異常な物語が、さぞ何か意味を含んでいそうな顔をしながら、でも読めば読むほど意味を感じることも出来ず、それでも何か風刺や暗喩が隠されていたり普通のエンターテイメントな味わいなんじゃないかと期待できて、読んでいる最中はビルを2階3階と上がっていく面白さがあって、最後に最上階で何かが起こるかと思えば途中の階の窓からポンッとボールを外に放り投げられて終わる、そういう嫌でもないけどスカッとしないが内容を反芻する楽しみは十分にあるのがこの奇妙な味と呼ばれるジャンルだ。もっとも、評者や編者によって奇妙な味という言葉はブレがあり、面白いんだけど奇妙な味って程でもないなーと僕からは思える作品も多い。僕だって自分が好きな奇妙な味が、世の中にいるであろう奇妙な味ファンと一致するとは思えないのだ。
 だからこそ、この手のマイナーなジャンルはアンソロジーで数を読みこなし満足する作品を歓迎したり、思っていたより違う作品でも別のジャンルだと思って読むのが良いのだろう。幸い、奇妙な味は隣接する幾多のジャンルとも読後感が似ている。好きな作品に出会えるアンソロジーは大歓迎である。というわけで、本書に収録されている作品を僕的に奇妙な味か否かで評価してみた。
 あ、奇妙な味ってショートショートの作品集って表現するのがが一番それっぽいかも。

 トップを飾る「肥満翼賛クラブ」は奇妙な味の代表的な作品と読んでも良いだろう。外見や食感はまあ普通なのだが、味わうと顔をしかめたくなる。これは何だろう。作者は何が言いたいのだろう。肥満翼賛クラブでは会員の夫の肥満度を競うコンテストがあるのだが(この時点で小説だから着いていける人は多いだろう)、優勝者の健康は著しく悪そうなのに何で誰も文句言わないのだろう。そもそもこの作品って全体的に楽しそうな雰囲気で書かれているがデブ男性がクレーンで体重を測られるのって別に楽しくもないよね? そう、これが奇妙な味なのである。ちなみにラストシーンはそれまでの朗らかな内容に不気味さを被せてくる内容。これってカニバリズム入ってない?
 次の「ディケンズを愛した男」は、普通の冒険小説と言っても良いほど普通なんだけど、何だか普通の小説とは異なる。とは言え、舞台がジャングル、登場人物がそこの住民なので不穏さが薄れるんだよなー。ある意味で奇妙な味は文化に強く依存した作品ってことがわかる。
 そして編者が愛するシャーリィ・ジャクスンの「お告げ」。スラップスティックとでも呼ぶのだろうか。偶然が偶然を呼んで登場人物の行動が繋がる作品。この作品はみんな良い人達ばかりなので読んでて安心感がある。奇妙な味って感じじゃないかな……。
 「アルフレッドの方舟」。これだ! これが奇妙な味なんだよ! 普通の世界、普通のキャラクター、普通の出来事なんだけど、何かボタンを掛け違えてしまってヘンテコリンな騒動を引き起こす。ノアの箱舟に想起され、自然現象を過敏に解釈した人々がやらかしてしまったって内容である(本当に神が雨を降らして人間の悪意をさらけ出そうとした、って解釈もあると思うけど、それだとあからさまに幻想的すぎて僕の趣味には合わない)。
 そして次の「おもちゃ」も奇妙な味である。小さい頃の思い出ばかり売っているこの店はなんだ。そしてなぜ主人公は訝しまずこの店を受け入れるのだ。他人の思い出を描いたがる婦人の群れはどういった集団なのか。最後に主人公はなぜトラックのおもちゃを買ったのか。全てが少しずつ普通でなく、全体を通して不穏さを掻き立てるのが上手い。
 「赤い心臓と青い薔薇」も何とも言い難い不気味さ。もちろんこれも奇妙な味。なんだけど、なんとなーく自分に合わなくてあまり読めてない。読んでてワクワク感が何かないのだ。ごめんなさい。
 次の「姉の夫」は、普通の怪奇小説では? 我ながら奇妙な味である「赤い心臓と青い薔薇」が読めなくて、奇妙な味でないこの作品を読めてしまったのは不思議。落ちも普通に幽霊である。
 そして次の「遭遇」も同じく怪奇小説っぽい。解説にはSF的にも読めるぜ、って書かれてるけど、そうなんだ。僕としては普通のゴーストストーリーとして読めたし、それ以外の解釈は難しいなあ。誰か教えてください。
 「ナックルズ」。解説でとある作家がアイデアに悔しがったと書かれていたが、確かにこのアイデアは単純ながらコロンブスの卵である。早い段階でストーリーのオチは見えているのだが、アイデアが見事にキマっているので先が見えて退屈ってことはない。
 「試金石」はこれぞ奇妙な味。結局、この試金石って何だったのだろう。「人間に似たものが生まれる前に、世界の泥のなかで息絶えた生命の一種」って何のことを指しているのだろう(キリスト教的な何かか?)。何で試金石を握ったら人が変わってしまうのだろう。この意図的な説明の省略が奇妙な味の醍醐味で、恐らく作中に説明があったらSFとかファンタジーとかに分類されてしまうのだろう。そして物語は輝きを失うんだろうなあと思う。でも試金石って本当になんだろう。
 「お隣の男の子」。変な人系の奇妙な味だ。だいたいここら辺まで読むと奇妙な味のパターンがわかってきて、違う意味で面白い。
 「古屋敷」。何だっけ、すごく短いので覚えてないや。
 「M街七番地の出来事」。うん、奇妙な味だ。でもどちらかと言うと幻想小説に近いかも。チューインガムが意思を持って人を襲うってシチュエーションは笑いの中に恐ろしさを感じる。
 「ボルジアの手」。オチがある。奇妙な味警察は見逃さない。これは絶対に奇妙な味ではないぞ。非常にコンパクトにまとまった幻想小説だ。とは言え、この作品の作りだと普通の小説では、ボルジアとナポレオンはちょび髭のドイツ第三帝国のおっさんと本質的には同じだと示唆しているのだが、それで良いのか。
 「アダムズ氏の邪悪の園」。うん、奇妙奇天烈。プレイボーイの編集長の話が解説であったのだが、いまだにこの作品との関連がわからん……。いや、主人公の元になっていることはわかるが、単に人物造形の手本にした感じしかしない。僕にとっては解説こそ奇妙な味がした。内容的には近年流行りのクトゥルフモノを元ネタにした怪奇パロディみたいな感じを受けた。
 「大瀑布」は奇妙だろう。読んでいくと滝の上が現世で、滝の下が死後の世界かと思いきや、それにしては奇妙だ。そもそも死が滝というのは独創的すぎて、死のアナロジーと考えるのは誤っているのではないかと思う。こんな風に一件単純ながら何回も読み込み、考えなければならない作品が好きだ。
 「旅の途中で」。奇妙な味。いきなり首と胴体が切り離されているのも驚きだが、首が胴体と合体するためひたすら旅をするストーリーにもびっくり。アイデアの勝利だが、首が歩き(這い)、胴体をよじ登って、胴体と接続するためジャンプするなんて描写を刻々と描いたのは世界でもこの作品くらいだろうなあ。これくらい現実感が薄ければ意味を見出すきにもなれない。読んでいて楽しかった。
 「街角の書店」は個人的には奇妙な味とは言い難い作品である。普通の、ちゃんと始まりと終わりがあって事件の謎も物語の真相もわかってしまう、そういう幻想小説だ。もちろん奇妙な味でないから面白くないなんてことはない。
 この作品は小説読みなら誰でも夢想したことがある世界を描いている。小説読みなら一度は自分の小説を書きたいと思うだろう。その小説は必ず世界中のどんな小説よりも面白い。どんな小説よりも深遠なテーマがあり、どんな小説よりも奇抜なアイデアを持ち、どんな小説よりもキャラクターが魅力的で、どんな小説よりもエンターテイメント性にあふれている。しかし小説読みはそれを書くことはできない。恐らく小説家という人々は万人受けするほどほどの作品を始めて終わらせられる力を持った人々なのだ。悪口ではなく、小説を書けるのはそれだけの凄さであり、普通の人々には努力することすら難しい。でも、実は誰でも1つだけ小説を書くことができる。それは唯一無二の、でも悲しいかなその人以外には面白さが伝わらない小説だ。よく様々な創作の中で、とてつもなく怖い作品・笑える作品などが描かれていて、実際に読むと拍子抜けすることがあるだろう。場合によっては内容を描写しないことによって怖さなどを読者に示すこともある(でも映画の「リング」の呪いのビデオは確かに怖かったな)。小説は読まれなければ意味はないが、でも読まないからこそオーラを維持できる。下手に感受性のことなる読者が手に取ってもその小説にとっては不幸なだけなのだろう。
 街角の書店は現代だとどこに現れるだろう。偶然入り、出会った素晴らしい本――人生――を読み、現世に持ち帰ろうとして叶わなかった小説読みは、入ることができない倉庫からクリック1つで発送される現代を何と考えるだろう。

 という訳で、感想文を書けた。
 いや、疲れた。こうしてみると自分の好みがわかって良かった。

2017年6月29日木曜日

「怪物はささやく」(フアン・アントニオ・バヨナ監督、ギャガ、2017)

 どうして空想の世界に浸るのだろう、と悩んだことがある。これが音楽やら言葉やら絵やら演技やらに秀ていれば、そういう道に進むこともでき、空想も自分の糧となったと胸を張れただろう。悲しいかな、僕は才能がないので、空想は単なる空想で、しかもその世界は当時ハマっていた映画やアニメのパクリでしかなかった。いわゆる二次創作ってやつだ。確かオリジナルキャラも出ていたような気がする。そういう遊びを小学校2、3年生から行い、思春期に悩んだ末、いつの間にか空想の世界への扉は閉ざされていた。
 この映画も空想の世界=物語が1人の少年にとってどういう慰めになるか、慰めになっていたか、慰めとなるべきかを描いた作品だ。主人公である少年の現実は過酷だ。母親は闘病生活、友人はいなく学校ではいじめられ、祖母とは全くと言って良いほど性格が合わない。そんな彼が見出した希望が空想への旅であり、そこから脱却し現実を直視するまでの過程が描かれている。映画のメインビジュアルには怪物が出てきたり、あらすじではその怪物が3つの物語を語るとあるが、映画が始まって少し経つとそれらがメタファーであることがわかってくる。
 少年の深層心理であろう怪物(ちなみにこの「深層心理」という言葉、何にも語っていないことに気をつけよう)が語る物語は、当初は何にでも取れるような曖昧であやふやな寓話だったものから、徐々に少年の置かれた現状と少年の行動原理を表したものに変わってくる。例えば1つ目の話は善人と伝えられた人が悪人で悪人と伝えられた人が善行を行っていた、みたいなもの。この作品では物語パートは影絵のようなアニメーションで描かれ、それが綺麗なのだ。1つ目のお話の段階ではまだ物語の意味はわからない。だが、2つ目は治療方法を信じなければならないという少年の現状にやけにリンクしたお話。これはもう、少年が信じたいことを怪物に仮託して自分に語らしている。そして3つ目は無視され続けた透明人間が怪物を召喚して暴れるお話。視聴者は、怪物がとうとう少年の欲望をささやく存在に、中立な立場ではなくなり少年の深層心理そのものになったことを知る。一通り暴れた少年が校長室に呼ばれ、問い詰められる中で「自分がやったのではない」と答えるシーンが印象的であった。恐らく少年は自分で暴れることを選択したとは思っていないだろう。
 しかし、とうとう少年は怪物と折り合いをつける時がやってくる。怪物は少年に真実の物語を語らせる。真実とは何か。なぜ少年は怪物なんてものを作り上げざるを得なかったのか。それが明かされるのは、意外とあっけない。肉親の看病をしたことがある人にとっては、口には出さなくても考えたことはあるはずだ。大人なら一時の気の迷いで済ませそうなことだが、少年にとっては罪悪感を抱くことなのだろう。それに目を背けるため、怪物を呼び寄せたのだ。
 自分の感情を直視した時、少年は母親と本当にわかりあえる。上で怪物は少年の深層心理と書いたが、それはフェイクで、母親こそが怪物またはそれを産んだ存在だった。最後のシーンで少年が母親のクロッキー帳をめくるのが印象的だ。肉体としての母親は無くなったが、記憶はもとより、母の作った空想は少年に受け継がれている。これこそ、空想が、物語が人間にとって大切である証拠ではなかろうか。