2010年8月22日日曜日

「夜露死苦現代詩」(都築響一、ちくま文庫、2010)

†「庶民感覚」と「専門バカ」。そして知ったかぶりをする庶民と専門家を非難する庶民

 最近の敬語の特徴として「ら抜き」言葉があった。うん、すでに古いよね。まあ今時これを間違っているとかで対面で愚痴愚痴言われることはないと思うけど、どうも必ずしもこれって間違っているとは言えないらしいってのをどこかで聞いた。日本語の尊敬語は受身と同じ活用だけど、「ら」ありだと可能形と混乱するらしい(e.g.「見られる」=受身・可能・尊敬。「見れる」=可能のみ)。だから「ら抜き」も正しい日本語の進化として認めても良いんじゃね? ってのがその時話していた人の主張だった。ふーん。マスコミとかじゃ一方的に「ら抜き」が間違っている風だったけど、話はそこまで単純じゃないんだね。庶民は意外と専門家ぶりをしたがるっぽい。

 「夜露死苦現代詩」は庶民の詩を大切にしている。今や「詩」は限られた人が内輪向けの代物をもてはやしているが、その外で僕たちは自分たちの心にフィットした詩を作ってきたのだ。珍走団しかり、客引きの前口上しかり、エロ川柳や誤変換までも。もっと玄人共は庶民感覚を大切にするべきだ!
 でもこの構図って今じゃよく見る光景だよね。ゲームもゲーオタとライトゲーマーが対立したり(まあ、ゲームはハードの能力アップというわかりやすい指標があるから別としても)、音楽だって芝居だって小説だって映画だって、玄人好みのよりも「普通」で「わかりやすく」て、されど「何か語ってる」っぽい作品の方が大衆受けするよね。ベストセラーを自称本読みが鼻で笑う光景なんてよくある話。うん、僕のことか。まあでもそれって裾野が広がっているだけであってね。
 一方で、この本に顕著なんだけど、ある程度知っている人は玄人好みの作品を「庶民感覚の欠如」とか批判するけれど、それって妥当なのかな。いや、玄人作品への信頼が根底にあって、それでアンチとして言ってるだけだと思うんだけど、でも真に受ける人がいたらやっかいなんだよね。特にネットに多そう……。
 僕の考えだけど、玄人好みの作品の意義は表現の範囲を広げるためなんだよね。いや、現代詩では庶民こそが色々な素材を使って表現してるっぽい? この本を読むとそう見える?
 それは違うんじゃないかな。それは、現代詩の場合だけど、言葉を庶民も使いこなしているだけであって(歴史的に見れば庶民も言葉を使いこなせる時代になったのだ!)、表現の範囲を広げていない。100年待っても散文詩なんて出てこないし、歯が痛いをネタにしたラリった言語感覚の詩を作ったりはできないと思う。
 玄人作品はそのジャンルの持つ形式を破壊し、表現を広げようとするんだよね。そして破壊したことを周知させる。この、「夜露死苦現代詩」だって先人たちの破壊のあとでいろんな物を「詩」として認めてるんじゃないかな。それこそが前衛芸術と呼ばれるものなんだろうね。

 最後に、障害者(神経系)の詩を紹介してたけど、一般的にはそれってアウトサイダーアートと呼ばれて、玄人こそが好んでたり評価してたりするよ。念のため書いておこう。