2011年7月4日月曜日

ゴジラ(1984)

 僕は平成VSシリーズが好きなんだけど、怪獣対決に興味を持っているタイプの人間だった。だから1984版のゴジラは何となく自分向きじゃないと思い込んでいて見ていなかったんだけど、いやもうこれは、面白い。今まで見ていないのが悔やまれるくらいの出来だった。

 今作は平成VSシリーズの第一作目と位置づけられているが、中身はほとんど違う。次作のVSビオランテ、後のVSメカゴジラなどと比べても作り方が異なっているのだ。
 この作品の最大の特徴は超兵器&そのクルーが全くクローズアップされないこと。民間人の主人公と、何と首相周辺が物語を引っ張っていくのだ。しかも主人公は逃げまわる民間人の代表として活躍しているのみ。あ、一応ゴジラを三原山に誘導したけど、スーパーXが活躍できていれば必要なかったよね?、程度。こういう手法で作られた怪獣映画を初めて見た。確かに、1984版のゴジラは怪獣プロレスになってしまった昭和ゴジラをリセットし、再度「理不尽な恐怖」を表現する映画として優れていたと思う。
 僕自身は初代の「ゴジラ」を見たことないし、またその当時の空気を感じることも出来ない。全ては歴史として知っただけだ。そのため、平成VSシリーズとの相違点を挙げることで1984年ゴジラの感想を書く。

 1984版ゴジラが後のVSシリーズと比較してリアリティがあるのは直接個人がゴジラの驚異にさらされる質感だ。ゴジラの熱戦を浴びる自衛隊員。乗っている電車を襲うゴジラの手。逃げ惑う民衆のすぐ後ろを踏みつけるゴジラの足。しかも人間目線で足を描写するから巨大であることの恐怖が伝わる。VSシリーズの逃げる人々がある意味では怪獣上陸の記号でしたなかった事に比べて遥かに迫力がある映像だ。というか、後の作品の逃げる大衆に緊迫感がないというか、マラソン大会の映像にも使えそうなほど画面が綺麗なんだ。1984版のゴジラは人々は火事や建物崩壊の最中をバラバラに逃げ惑い、その背後にはゴジラの足が迫る。主人公ですら特権的な立場にいられず、崩れたビルから這々の体で逃げ惑うのだ。
 そしてもう1つの主人公として首相官邸がいる。今作は、もしもゴジラが現実に現れたら日本はどのような対応をするかをテーマとして掲げた作品であるため、非常に納得がいく作りである。逆に以降のVSシリーズでゴジラ対策が自衛隊→専門機関(Gフォース)へと専門化され、総理大臣の意思決定が見られなくなることが何というか怪獣プロレスへの一途を辿ってしまうのだなあと思う。
 で、その怪獣プロセス成分を巧妙に抜いた象徴が超兵器スーパーXの扱いである。どうもWikipediaを見ると1984年当時の技術で建造可能とほぼ公式で言われてたらしいけど、「超兵器」でいいよね。このスーパーX、さりげなく発進シーンが描かれていない。次作のスーパーX2やVSスペースゴジラのMOGERAなどはちゃんとドックから発信する映像が丁寧に描かれるのだがスーパーXだけはどこからともなく飛んできて威力の不明な武装でゴジラを攻撃する。そういや超兵器はそれがどれくらい強いのか説明とかされるのが流れだけど、スーパーXだけは「核分裂を制御するカドミウム弾」であっさりと表現されていたな。しかもクルーの名前すらわからない。やっぱスーパーXの保管場所などを描きはじめるとリアリティからの齟齬が生じるために外されたのだろうか。
 そして最後に何と今回のゴジラは原子力発電所強襲に成功する。その名も井浜原子力発電所(架空の原発)。思えば、VSビオランテでもVSデストロイアでもゴジラが活動する目的の1つは原発を襲い核物質を吸収することだった。ビオランテ以降の作品は人間側の知恵と努力によってそれが阻止されるものの、1984版ゴジラは劇中半ばで原発の炉心を取り出すことに成功する。以降の作品ならば原発に向かうゴジラを自衛隊と超兵器で迎え撃ち、原発防衛を全うするのだが、あいにくスーパーXは首都防衛のためのメカなので迎撃に出ない。結果、ゴジラは放射能を吸収し、エネルギーを補給する。このシーンでゴジラと鳥の帰巣本能の共通性が考え出されるのだ。

 このように怪獣映画のお約束とは一味も違う作品である。僕はかなり楽しめたというか、ほとんどの作品より面白いと個人的には思う(面白さの順番は、メカゴジラ>デストロイア>1984ゴジラ>他、かな)。「怪獣」の上陸に焦点を当てた作品として新たな原点となったと思う。これ以降、昭和ゴジラが封印した怪獣プロレス路線に再び舵が切られたのも原点である証明だと思う。