Tellurは、……現在色々物色中です。

感想の亜種

2012年1月15日  2012年1月15日 
やっとリアルでの一大イベントが終わったぜ。
†「僕は友達が少ない」を再度読みなおしたが、最新刊(7巻)のラストのアレって1人称文体だからできた手法だけど、同時に1人称の限界であることも感じた。
 元々かなり使い古されてたというかハーレム系の主人公ってこんな感じだよねーという読者の想像の最大公約数的な造形の主人公であって、2chでもネタにされていた。特に小説が1人称であるのでヒロイン達の好意を聞き漏らしという形で処理したのだ。通称「鈍感主人公」。
 正直僕の読書経験からはこれに類するような鈍感主人公がパッとは思いつかないが、エロゲとかでよく見るよねーというテンプレでもある(ただし具体的なキャラ名が思いつかないため、もしかしたら少女漫画での「パン咥えて遅刻遅刻ーぶつかった出会い」と同じように実態のないテンプレかもしれない)。
 さて、それまで都合がよくヒロインの告白じみたセリフを聞き逃していた主人公が実はしっかりと気付いていた、てのが「僕は友達が少ない」7巻の山場だった。一気読みとかしてなかったので初読時は感心したのだが、冷静になってみれば別に驚くほどでもなかったと考える。
 読み返してみると都合良く聞き漏らしていた方が異常であり、さらにそれを1人称でやられるとかなりちぐはぐとした印象を受ける。主人公が求めてるものが友人であり、さらに現状それなりに交友関係が成立してるので下手にカップルを作って場を荒らしたくないって考えているのだろう。でもヒロイン達からの好意を「鈍感」とか「難聴」って形で処理する方がたち悪い。

「……そんなこともないと思うケド」
 星奈が小声でなにごとか呟いた。
「ん?」
「なんでもないわよ」
 星奈はなぜか少し怒った様子で言った。
 それから椅子に背中を預けてだらっと天井を見上げ、
「あーもー、なんだかなー……んー……あー……んー……あーもー……ま、いいわ!」
「……さっきからなんなのお前?」
 わけがわからない星奈に、呆れつつもちょっと心配になる俺だった。
(「僕は友達が少ない」第6巻 146ページ)

 6巻まではわざとらしい鈍感振りを演出していた主人公が7巻で実は……と告白する(1人称文体だから地の文に書く)のは確かに意表を突かれたが、それが通用するのは2chで「難聴」と称されるまでにヒロインの告白を無視してた実績があるからであり、一発ネタに過ぎないよなーと思ってしまう。なぜなら好意を知ってて無視する主人公には共感を抱けないからだ。特にこの小説の主人公は悪意を感じるレベルでヒロインの告白を知らぬふりをしており、それが1人称文体で余計に強調されてしまった印象を受けた。

†「草を生やす」という俗語がネットにある。「www」ってやつだ。僕もネットゲー(UO)では多用してるし、ブログでも数回使ったことがある。2chとかで煽りにも使われるし、純粋に「笑い」の意味も表している。しかし一般的には良い印象を与えないらしく、「www」を使わずに他人とコミュニケーションが出来ることが相手の評価に繋がったりする。まさに諸刃の剣と言って良い。まあ、「w」を多用する文章やブログはそのパッションの高さ(できる限り単純な言葉で褒め称えてみました)から我々凡人をドン引きさせるオーラを発しているので仕方が無い気もする。
 しかし「w」の使い方ってまるで句点(「。」)みたいだなと思う。あ、全然関係ないけど僕は齢30年近く句点=「、」で読点=「。」だと思ってた。だって、句の区切りだぜ? 句を区切るなら普通は「、」だと思っていいじゃない。
 それはともかく、そもそもUOって発言がリアルタイムで頭の上に出て、しかもログが流れやすいし会話の流れもつかみにくいから倒置法とかそういう技法と相性が悪いのだ。例えば、
「でも鍛冶スキルって上げるのがすっごく大変ですね」
を倒置法にすると
「でも上げるのがすっごく大変ですね、鍛冶スキルって」
となる。これをUO上で発言するとと
「でも上げるのがすっごく大変ですね」
「鍛冶スキルって」
と別々の発言になってしまう。相手の方は「鍛冶スキルって~」を違う文章の始まりだと捉えてしまうのだ。いや、文章の作りの問題であり最終的には僕の頭の問題に集約されるが、この手の少し込んだ文体とは相性が悪いよなーと感じる。実際、チャットみたいに主題を書いた後で倒置法的に補足すると相手が次の語句を待ってたりする……。
 これを解決するには
「でも上げるのがすっごく大変ですね」
「鍛冶スキルって。」
と文の区切りに句点を付けることにより文章の終了の意を示すことが出来る。しかしわざわざ「。」を付けるのもわざとらしい。という訳で、「w」が流行ったのではないかなーと妄想。僕が見た範囲だと「w」は読点を代用していない模様。ちなみにこの妄想(断じて仮説などではないw)を適用すれば「うはwwww俺強いwwwwww」みたいな頭の悪そうな文章も「うは。。。俺強い。。。。。。」と文の溜めをしてしてるんだなーとわかる。これはこれでウザいが。

†そういやマイケル・ジャクソンって死んだ後はやたらに神格化されたね。
 僕は全くマイケル・ジャクソンのファンじゃないので(というかマイケル・ジャクソン自体、ディズニーランドのアトラクションで見た限りだ)、今まで彼のことを全マスコミ公認のいじり対象だと思っていた。マイケルが報道される文脈はショタコン遊園地やハナモゲラだったり、幼少時の写真と大人になってからの肌の色を比べた漂白の歴史だったり、唯一の褒めるところも怪しげな動きでしかないムーンウォークだった。
 つまり僕から見たマイケルはそういう存在だったのだ。

 マイケル・ジャクソンが死ぬ少し前に再び彼がマスコミに注目された。確か児童虐待だったと思う。散々過去の栄光を引っ張り出され、彼がいかに昔は素晴らしかったかを語り、それと対比するように現在の虐待疑惑を叫ぶ。マスコミのえげつなさとか国民の低俗さとかを感じる以前に、マイケルはおちょくってなんぼの人なんだなと思った。

 で、マイケルが死んだ時、その手の報道はぴったりと止んだ。まるで彼が児童虐待などを行わなかったかのよう。少々顔が変だが、見ぬふりをするように整形とか肌の脱色とかが世の中から消えた。そして「THIS IS IT」とかいうDVDを必死で宣伝する人(マスコミもそうだが、ブロガーだな)を見て、こいつらはそういう連中なんだなと知った。
 死人は無条件で勝利する。人々は死人には弁解のチャンスがないからと言う。それはある意味では確かだが、間違ってもいる。世の誰でも知っているクラスの死人には後継者や権利の管理団体がいて、死人の遺産で飯を食っている。そいつらを肥え太らせさせないためにも敢えて死人に無知を打つ必要があるかもしれない。無知を打つだけでは抵抗があるなら、正しい評価を行うってことだ。マイケル・ジャクソンなら児童虐待疑惑だったり、肌を白くしたコンプレックスだったり。
 別に誤解されても良いのだが一応弁解しておくと、僕は別に小渕雄三元総理大臣の娘について、別にディスってるわけではない。
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