2012年6月24日日曜日

「ショーン・オブ・ザ・デッド」(ユニバーサル・ピクチャーズ、2004)感想

正直ゾンビものはあまり得意ではない。ゾンビという存在は大抵代謝とか自然治癒ができないと描写されているにも関わらずなんで人肉を食すのかとか、血液を失っても(=胸部損壊や燃焼など)身体が動くのはなぜかとか、そこらの描写が全くないからだ。これが宇宙生物なら「色々あるんだよ」の一言で納得するんだけど、蘇った死体の怪物はその動くメカニズムが気になって仕方がない。リビングデッドを本当に怖がることができるのって土葬+死後の世界を信じていた西洋人しかいないのではと考えてしまう。
 それはともかく、僕にとってゾンビの怖さというのはスプラッターであることと同じだ。ソンビって頭を破壊しないと倒れないだけで動きも遅いし知能もないしで怪物としてのあまり怖さがないんだよね。カメラアングルだって一般的なホラーの撮り方でないし(個人的に怖かったのは平成ガメラ2の地下鉄でのレギオン襲撃シーンなど)、あのノロノロとして数が多いだけのゾンビ共はナメクジの大群を彷彿とさせてそれはもう恐怖というよりも笑いを引き起こしてしまう。昨日まで人間だったお隣の人が怪物になっていた……という要素が肝なのかもしれないが、それはターミネーター2が上手にやってしまったのだ。
 だから僕はゾンビ映画ってのはアクションとかコメディとか視聴者に頭を使わせない・我に返ってもそれなりに楽しめるジャンルの映画が一番良いと思っていた。そしてちょうどコメディとして評価が高かったのがこの「ショーン・オブ・ザ・デッド」だ。

 見終わった後の感想だが、僕はあまり笑えなかった。部分部分は面白いシーンがあるし、笑うべきポイントってのはわかりやすく存在する。でも僕は少し居心地が悪く感じてしまった。
 主人公のショーンは人から注意を受けても聞き流し、やるべきことを自覚していながらサボってしまう。正直、彼の姿は僕のダメな部分を拡大して見させられているようで笑うことができなかったのだ。ショーンという人間は自分がうだつの上がらないことを自覚しているせいか、同居人のエドをペットとして甘やかし、自分の下の人間がいることで心を慰めているそういうやつだ。ラストシーンで本当にペットになってしまったエドを見ると、さらにリズと同居しているにも関わらずペットになったエドを飼っているシーンでよく分かる。問題なのはエドを飼うことがショーンのまともな人間関係まで悪影響を引き起こし始めていることで、それが冒頭のシーンであった。そこではショーンは色々と行動しているように見えてエドの言いなりとなっている。で、通常ならば事件が起こると主人公は「こんなことじゃいけない」と反省して(もしくは強制的に独り立ちさせられて)その過程で事件が解決し恋愛関係となり一人前の主人公となるのだが、ショーンはそこら辺が欠落している。
 彼が主人公として最後まで生き残りリズとよりを戻したのは言ってしまえば運でしかない。もっと言うなら映画のご都合主義さ。ショーンはニュースで家から出ないよう言われたにも関わらず浅はかな考えで母親とリズを迎えに行き、そして結局のところ自分の手で母親を始末するはめになった。当て馬であるデービッド&ダイアンなんて非常にまともと言うか……少なくとも映画的な面白みはない人間像だけど退場のさせ方があまりにも強引すぎたと思う。それでもって結局はエドも無理矢理殺してしまい、ショーン自身が何も変わっていないにも関わらず形だけ自立したという風を装うのだ。そこら辺の皮肉はラストでゾンビ騒動が落ち着いたらゾンビレースの放送とか日常に回収されてしまった=ゾンビ事件によっても社会的な変化が何もなかった(ショーンとエドの関係でさえも!)オチが表しているかもしれない。
 だから僕は何となく想像してしまうのだ。リズとの生活の中でショーンが元のものぐさな生活に戻り、彼女が愛想をつかすものの抜け出せないグダグダの関係が。そういう弱さは僕ももちろん持っていて、たとえ映画で戯画されていても見せつけられるのは心地よくなかった。あれだよ、オタクはしばしば自虐芸がネタにされるし、僕も久米田康治氏のヲタ自虐ギャグが好きだけど、あれって自分達がそれなりの人間であることを自負した上での自虐なんだよね。多少ひねった自意識の現れ。より社会に溶け込めないほど濃かった=オタクとしてすごかったという時代の名残。元から格好良い主人公はもちろん、冴えない主人公も成長して良いところを見せるのが娯楽の醍醐味だったのに、ショーンは格好悪いまま成長しないままに運と周りの人の好意で生き延びてしまう。その誰にでもある格好悪い姿を笑えるほどには僕は自分を客観視できなかったことを発見したのだった。