2012年6月9日土曜日

euphoria(CLOCKUP、2011)

某動画サイトで有名だったからやってみた。ネタバレ上等ってかほぼ結末まで知識として知っていたが、それでも楽しめた。このキャラがこういう風に絡むのか、とかこの伏線がーとかの「発見」があった。これは実際に遊んでみないとわからない点である。
 このゲームを説明するとき、絶対にグロいという単語が出てくる。僕にとってはそこまで……というか、グロにも臓物系のグロさとホラー系のグロさと、痛みを感じる系のグロさがあってだなあ。痛みを感じる系は暴力とか目に針を刺したり爪を剥いだりする表現で、ホラー系は顔芸などプレイヤーを驚かす表現、臓物はその名の通り、と僕は分類している。このゲームは痛みを感じる系がメイン(対してブラックサイクは臓物系、たっちーも痛みを感じる系)。だからゴアスクリーミングショウが苦手の人にも安心して薦めることができる。
 以下はネタバレ。







 テーマは前半が内なる悪魔、後半が幸せを求めるという広義の意味での信仰。前半と後半では主題が唐突に分かれるが(さらに言うとゲームやってる間は主題のズレを解消できてないっぽく感じていたが)、全てのシナリオを終えて全体を見回せば一貫していた。ゲーム的な縛りはないものの、シナリオを味わうためには菜月→梨香→凛音→合歓→叶の順でプレイした方が良い。ってか、ここはシステム的にそういう風にしちゃった方が良かったかも?
 幸福を掴ませるために4回(攻略する順によっては1回しかないけど)の絶望をプレイヤーと主人公に味あわせ、しかもその主題自体は最後のキャラにしか出て来ないために仮の主題(内なる悪魔。でも信仰という主題と繋がっている)を設置し、学生に対して責任を持つ大人・一般人・宗教・誘惑者・良心(個人)というそれぞれから物語を描き切った。……一時期流行ったリプレイ構造にこういう意味を持たせるとはね。

 キャラクター別に見る。菜月。叶シナリオでは別の顔を見せるものの、一貫して学生に対して責任を持つ大人という立場であった。同時に物語にとっては他者の象徴でもある。鍵穴ゲームでは客観的に見ると先生である彼女が鍵穴として選ばれるべきであった。そこには何の葛藤(内なる悪魔)も悩みもない。他のシナリオでの言われていたが、彼女の欠点は先生としては頼りないというそれだけのことだ。学園デス・ゲーム的に見ても、叶シナリオ的に見ても何も解決せずに何となくのハッピーエンドで自分たちだけ逃避してしまった。

 梨香。後の凛音・合歓・叶に対比されるためのシナリオ。菜月と同じく叶シナリオを含めた物語全体から見ると他者である。どこかのブログで見た表現だけど、彼女は非常に「ウザい」。可愛らしい仕草で雛鳥の如く口を開けることで周囲の人を動かすものの、鍵穴ゲームにおいてVIPルームのサンドウィッチを黙って食べてしまった悪知恵に象徴されるように決して無垢な子供ではない。周囲の人間関係でパワーが秀でたキャラクター(合歓・凛音・叶)に懐いたことからも彼女が純真なだけのキャラではないことが読み取れる。良くも悪くも、自己主張の強い「鍵穴」達に比べると極めて一般人的で、極めてリアルな造形で、だからこそ他者なのだ。
 彼女のテーマはすなわち自立であり、鍵穴として何度も選ばれることが他人の感情を認識し、梨香シナリオ最後のシーンでの梨香の飛び降りに繋がる。まあ、主人公とラブラブになる流れはストックホルム症候群的な匂いがしたけど、細かい話だろう。
 個人的に気になったのは、前述のサンドウィッチの件で、梨香シナリオではこれについて全く触れられていなかったのだ(注、僕は既読文をスキップしていたから本当にスルーされていたかは定かでない。他のブログを見るとこれについて書いてないのでもしかしたら何らかの形で解決したのかも。その時はごめんなさい)。梨香が良い意味で幼いだけではなく、ずる賢い一面もあり、それを克服するシナリオなのだから是非とも物語に組み込んで欲しかった。
 梨香のシナリオもエンディングは結構ハッピーな終わり方をしており、凛音達の必ずしもハッピーとは言えない終わり方とは全く違う。同時に菜月と同じく物語的には何も解決せずに、だから叶シナリオを終えた後で見るとこの2人が蚊帳の外であったことが分かるのだ。

 凛音から「楽園」という単語がキーワードとなる。凛音シナリオ中、なぜ主人公が選ばれた人間なのかとその都合の良さに首を捻っていたが……そういうことですか。叶シナリオをプレイしたらよく分かる。主人公は本当の意味で「主人公」だったのですね。
 凛音シナリオの肝は地上に脱出して荒廃した学園を見た後だ。平穏な日常が破壊され、地獄さながらに変わってしまった時、自分たちが酷い目に合うのは神の試練だという希望にすがりつく。同時に自分たちは選ばれた人間だという優越感を抱きつつ。「彼ら」と「自分たち」を隔てるのは思想だけでは物足りない。現実に目の前では暴力が振りかざされている世界で、自らを律するのは修行のみ。そうして育ちきった歪んだ自意識と異様な思想は地上から悪魔を消し去った後も消すことはできない。かくして救世主や楽園が凛音シナリオではキーワードとなった。合歓シナリオでは凛音教団は集団自殺(?)を仄めかすのだが、悪魔に負けた場合というIFシナリオとして綺麗に対比されていて興味深い。
 ……うーん、凛音シナリオは完成されすぎていて書き様がないな。幸福というテーマを描くならば宗教的な幸福のあり方を描く必要があるものの、ではこのゲームに合っているかと言われると必ずしもそうではない。

 合歓と叶。合歓シナリオって叶シナリオにおける合歓というキャラクターの伏線にするためにシナリオを費やしやがった。すげえ。悪魔的なキャラとして描かれる合歓が時々主人公を心配するのはなぜか。そして鍵穴ゲームから抜け出す際に合歓と主人公は分かり会えたのに、唐突に無慈悲な学園の支配者となってしまうのはなぜか。合歓シナリオのエンディングで主人公の死に悲しそうな顔をするのはなぜか。そして、学園の支配者でもある合歓がわざわざ自ら鍵穴ゲームに参加する目的は何なのか。
 それは叶シナリオで明かされるのだが、僕は事前にレビューサイトで叶の正体を知っていたにも関わらず、物語を楽しめた。やはりというか何というか、要約を読むのと実際にプレイするのとでは感じ方が全く違うのを思い知らされた。
 他のシナリオでも名を連呼する主人公なので、出番の割には印象深かった叶。叶シナリオでは鍵穴に叶を選ぶのだが、叶は何と主人公を受け入れてしまう。それも「貴方は悪くない」と言う代わりに「主人公ならいいよ」、と。その様は良心というよりも誘惑者と言った方がよく(主人公もモノローグで語っていた通り、叶が主人公の良心であるならば「理解」しようとするのが正しい。鍵穴ゲームでは、欲望を行動に移すことを「異常な事態だから」という表現で免罪していた。主人公もあくまで被害者であり、それでも外に出ると鍵穴の対象となった人から断罪されることが示唆されていた。その観点から見ると、主人公なら/主人公だからというのは主人公の欲望のストッパーとは真逆の方向であろう)、違和感を感じはした。ネットリとした何かに絡め取られるような……少なくとも合歓のような正攻法の誘惑ではない分だけ逆らうのが難しい。
 そしてついに外に出て、学園の支配者である合歓を殺してしまった主人公は叶と合歓の正体を知るのだった。この2人は完全に表裏一体のキャラで、シナリオ的にもお互いに補完しあっている。合歓シナリオでは叶はあくまで主人公の幼馴染であり、主人公を救うため合歓との賭けに乗ったのだが、うん、合歓シナリオプレイ中何か変だと思ってたのだ。合歓にとって自分が参加するメリットが全くない。ついでに合歓の誘惑に乗らなかったら合格、なんて合歓にしては悪趣味さが足りない。違和感があったのだが、まさか実は合歓と叶の立場が逆だったとは。
 合歓を殺した段階で内なる悪魔というテーマは消える。そりゃ空想の中で人を殺めるのと、現実で実行してしまうのとでは重みはぜんぜん違うのだ。特に鍵穴ゲームは強盗に襲われて銃で脅されて~というシチュエーションなんかとは全く違う。現実離れしすぎており、ここで起こったことをそのまま現実の世界に持ち帰って我々の常識で裁くことができるかという問題がある。なので、前編の主題は消え去り(物語的には主人公も感情を操作されていたこともあって)、タイトルでもある多幸感が真の主題として現れる。
 この作品には暗躍する死の武器商人や裏から操っている宗教団体なんてものは存在しない。学園デス・ゲームが隠蔽されるものの、「組織」は主人公に全く関わらない。というよりも「組織」に属する人間自体が叶と菜月以外立ち絵すら現れないのだ。そういったある意味では雲の上の出来事なので一般人である梨香は早々と物語から離脱する。一般人にとっての幸福は難しい話なんてなかったと思い込むことだ。菜月もまた同様に物語のキーキャラクターではない。鍵穴ゲームでは倫理=義務であったように、叶シナリオでは幸福が仕事とか生活とか、要は一般人的な幸福観と結びついていた。というよりももはや問題として提起されていなかったのだ。
 対して凛音は、宗教団体における教祖が悟りを開くための修行をいつの間にか目的化してしまうのと同様に、生きることが「楽園」のパーツとなることに摩り替わってしまっている……が、個別シナリオと同じように収まりが悪い。
 では「楽園」とは何か。その鍵を握るのが合歓である。実は合歓こそが幼馴染のポジションであり、主人公を助けるために鍵穴ゲームを行なった本人でもある。「楽園」は歳をとった金持ちが冷凍睡眠もどきとして暮らす幸福なユートピアであり、その意味では希少性の高い映画マトリックスと表現するのがふさわしい。「楽園」で暮らす人々は世界を与えられているので幸福である。が、では世界を生み出した人は? 「楽園」の外に辛いけれども痛みを感じる世界があると知っている人は?
 実はこのゲームはそこを誤魔化している。合歓は「楽園」で主人公を生き返らせ、一緒に幸せな生活を送ることもできるのだが、敢えて「現実」の主人公を助けるために叶との賭けに乗った。その理由は「だって現実だから」とゲーム中で答えが用意されていたが(ゲームではもっと感動的な流れです)、シナリオの流れからすると他の言葉を使ったほうが良かった。現実と仮想現実がごちゃまぜになるのがシナリオの肝であり、それは黒叶に対して「愛してる」を5回言ったことからも伺える。何か変、と疑問を呈した選択肢が何とトゥルーエンドに辿りつけないのだ。
 ではなぜ合歓は主人公を助けたのかというと、それは鍵穴ゲームのラストにおいて囚われの合歓を主人公が身を呈して助けた理由と同じではないだろうか。もっと言うならば僕達がゲームキャラであっても死んだり殺されたりするのを何となく嫌がる感覚ではないか。
 僕たちは人間以外に感情移入ができてしまう。点が2つ、その下に横棒が1本引いてあったら顔と認識してしまうし正真正銘プログラムの塊であるAIBO(懐かしや)の仕草に癒しを見出してしまう。それは相手が人間の姿をし、曲がりなりにも言葉が通じるならばなおさらのこと。実際に動けるかはともかくとしても、人間が死んでしまうことを避けようとするのをこのゲームでは「良心」と呼んでいるのではないだろうか。主人公の立場はある意味で「楽園」を、幸福を無視する原理で動いている。苦しく愚かな選択を選ぶも苦行という幸福に逃げない。だから「楽園」から合歓を解き放とうとしたのだし、「楽園」に囚われていた叶から嫌われていたのだ。
 「楽園」とは死の象徴であった。1人の女性が自殺未遂を起こし、植物人間状態になって「楽園」が生まれたことが象徴的である。その他、「楽園」に接続しようとする人々も死の代わりとして希望していたことが明確だ。「楽園」に沈むことで幸福になれる。でもそれは自分にとって都合の良い世界でしかなく、他者との引っ掛かりのあるコミュニケーションなど「現実」ではない。人間は確かに幸福を求め、そして幸福は言ってしまえば脳内の化学物質の産物なので人工的に作り出すこともそのお膳立てをすることも可能といえば可能……なのだが理性を伴った判断ができる状態の僕たちはそれを好ましいものと受け取れるだろうか。芥川龍之介の芋粥とまではいかなくても幸福そのもの・楽園そのものを絶対的な目的としてしまえるのだろうか。
 テーマソングのタイトルにもなった「楽園」。PCゲームにおいて楽園と言えばそのものズバリな「らくえん~あいかわらずなぼく。の場合~」を思い出す。全く方向性が違うゲームだけど、幸福の形を描いたという意味では通じるものがある。「らくえん」はゲーム作成(というよりゲーム会社)を通じ、一般人の非オタクの世界には戻れない人々の姿を描いていた。そこには現実しかない。もちろんゲームというフィクションであるので最後は砂糖をぶち込んでフィクションとしてのバランスを取っているものの憧れや趣味だけではどうにもならない現実を描いていた。そして彼らが求め、一方では掌からこぼれてしまった選択の結果が楽園なのだ。「堕落する準備はOK?」。そう、「らくえん」では確実に代償があった。ゲームを完全に趣味とし会社員など気質の仕事に就く選択。「らくえん」をプレイする人の大半はそんな身分であり、あえて「堕落」した彼らの足掻きが僕達からは楽園、さらには幸福に繋がるように見えるのだ。しかし「euphoria」の「楽園」はもっと無機質で頑強で、そして「幸福」である。そのような楽園を本当に求めたいだろうか。
 主人公に懐いていた合歓を我が物とし、記憶を消すことで家族のようにお姉ちゃんと呼ばせていた叶。代償として逃避行をする羽目になり最後には殺されてしまうのだが、彼女は幸せを感じてくれたのだろうか。

 話は変わるが、合歓の名前ってこれが元ネタかな。
和名のネム、ネブは、夜になると葉が閉じること(就眠運動)に由来する。漢字名の「合歓木」は、中国においてネムノキが夫婦円満の象徴とされていることから付けられたものである
Wikipediaより)
 睡眠か……なかなか意味深である。