2013年11月24日日曜日

「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 新編/叛逆の物語」(シャフト,2013)感想

 ネタバレはメーなのです(意訳)、と言われたから何とかネタバレにならない範囲で書いてみる。つーか、あの上映前の注意事項をわざわざ作るってのは製作者もまどマギがどういう受容のされ方をしてるかわかってるなあ。
 まどマギ劇場版を先週見た。レイトショーで見て、鑑賞前は意外と人が多いことに感心してたが、終わった後で興奮しながらツイッターで下記の雄叫びをあげていた。
 これだ、これこそがまどマギなのだ。ファンのみんな、僕達の求めていたまどマギが今ここにある!
 まどマギはテレビ版で一通り完結していた。だから世界線がずれていたら「劇場版まどマギ 序」になっていたかもしれず、その誘惑に抗ったスタッフには経緯を表したい。
 また、ヘタすると「電脳マギカ」、どうしようもなくて「絶望のボーイフレンド」、最悪なら「巴マミ育成計画」になった可能性もある。世界線をうまく選択できた自分の運を誇りに思う。
 正直、序盤は地雷かと密かに思ったのだ。そしたらあれよあれよとまどマギ展開。キャラクターを追い込み最悪の選択を選ばせ努力を嘲笑う。これがまどマギだ、この世界の理だ。
 全体的にはヌルい。もっと壊し狂わせ嬲り妬ませ世界を恨み痛みを与えなければ。ならばまどかの父か、母か、弟か、生贄が必要だ。
 まあなんだ、新章って付いてるけど、これはこれで完結しちゃったし新作は出るのかな。

 エヴァほどの時代性・テーマ性はなかったものの、まどマギは魔法少女(男性向け)という2000年代以降を象徴するネタを多少SF風味に上手く調理した作品だと理解している(個人的には「魔法少女」という言葉は男性オタク向けという感じがして好きではない。恐らくネタ的にはセーラームーンが直接の先祖だと思うが、僕はほぼ見てなかったけどなんとなく「セーラームーン」&怪しいけど魔法つながりで「おねがいマイメロディ」シリーズにあるような異性、特に男性、への憧れが欠けていて、それが男性オタ向けっぽい印象になるんだと思う。僕の知ってる限り「魔法少女」とは今では「魔法少女アイ」のような男性向けの作品が言葉を代表してしまっていると思う。もっとも、すでに男性向け・女性向けのくくりに意味はなくなっているのだが。魔法少女という概念はWikipediaより)。本来少女向けであった魔女っ子に萌える男性オタクは昔からいて、アリスソフト「ぷろすちゅーでんとG」の魔窟堂じいさんがそれを象徴している(魔窟堂じいさん自体はフィクションキャラだが、元ネタは冗談半分でライターのイマーム氏だって言うし、何よりも描写に誇張はあれど間違ってはいないはず)。それが長らく表に出てきてなかっただけで「セーラームーン」辺りから男性が少女向けの作品を楽しむことが当たり前になった、という歴史認識でいる(ただし、これは僕がセーラームーン時代に小学生低学年、それ以降の「少女革命ウテナ」などで中学生以降だったのも関係してるかも。幼い男の子は一般的に少女向け作品が好きだと公言し辛い環境だから、単純にそれが影響してるかもね)。そんなわけで魔女っ子系のパロディを男性向け作品で盛り上がったのが2000年代以降だと考えている。
 話を戻すと、まどマギはTV版で完結した・社会現象になった・時代性を取り込んだ・ファンによる補完(同人誌)がかなり大規模に行われたなどの点からエヴァと受容のされ方が似ていると思ってて、エヴァめいた作品展開をされるんじゃないかと恐れていた。結果としては今作で物語を一歩進め、エヴァとは違うことを証明した。まあ、エヴァ云々は僕が勝手に考えていて、両作品にとっては迷惑なのかもしれないが、良作だったのにリメイクとスピンオフの嵐でシリーズそのものが駄作になる光景はエヴァが一番象徴していると考え、引き合いに出さしてもらった。
 さて、内容はネタバレになるから書けないけど、反逆。それも上位存在への。僕の一番好きなテーマだ。思えば鬼畜王ランスのエンディングがそうだったか。鬼畜王ランスはトゥルーエンドは確かに感動したが、僕が好きだったのはそれ以外の魔王になったとか世界を混沌に巻き込んだとか、そっちだ。巨大な存在に道を塞がれても決して諦めずに抗う。その姿は例え無駄だとしても格好良く、だから僕は方向性は違えどシュタインズゲート(アニメ版)が好きだったんだなと今さらながら気付く。
 まどマギも同じで、ほむらは最終的には自分が倒れることを予想出来ているだろうに、それでも戦う。まどマギの世界ではまどかですら魔法少女というシステムを壊すことはなかったのに対し、ほむらは自分のただひとつの望みのために全てを失おうと抗い続ける。まどかの選択はファンサイトでも長らく議論になっていて(例えば田中秀臣氏はこんな形で書いている)、僕はまどか=製作者の意図は認めるが、ほむらとさらにはキュウべえの道に共感を抱いていた。魔女が消えさり魔獣が現れた世界では神となったまどかによって魔法少女という枠組みだけは絶対的なものとなる。したたかに利用とするキュウべえはともかくとしても(ニコニコとか見てると必要以上にキュウべえが叩かれてると思う。キュウべえは多少行き過ぎている面はあるが人間的な思考を持った存在なんだけどなあ)、ほむらはまどかを助けるためとはいえその体制に反対できるただ1人の人間であり、それは「ベルセルク」のガッツを思い出させる孤独な道だ。しかもガッツと同じく自分の欲望のため。それだよ、その姿が好きなのだ。その姿を描けるまどマギが、僕は好きなのだ。

 ちなみに今作の醍醐味はそれだけではなく、杏子が制服を着てたり、さや杏が公式だったり、ベベ(アイツ)があの人とタッグを組んでたりとファンサービスが効いているところも面白い。まあ、それゆえ序盤はファンに媚びまくった駄作かとピリピリしていたのだが。ほむらは、二次創作ではまどかへの愛が行き過ぎてソウルジェムが濁っているクラスの描写をされたが、今作ではどうなっているかは見てのお楽しみ。ほむらはまどかに自分を止めてほしい(殺してほしい)と願っているのもポイント。愛……か。

 そう、愛ではあるんだけど脚本が虚淵氏であることを考えると意味深である。かつて虚淵氏は同じように愛のために世界を滅ぼす作品を書いた。沙耶の唄だ。沙耶の唄は男女が愛するために世界を滅ぼす仮定を極めて純粋に描いた作品だが、主人公が沙耶以外いらないみたいな論理で動いていたので世界を滅ぼすことに対する罪悪感が薄かった。そもそも出自のわからぬ人を喰らうモンスターである沙耶しか人として認識できなければ、それ以外は当然敵となる。が、人間の愛情という観点からはその純粋さが逆に人間社会の描写の欠如という点で欠点となってしまう。
 それに対して今作まどマギ劇場版。ほむらにとってまどかは他者だ。それも目的が異なっている。この時点ですでに沙耶の唄とは異なる展開となろう。また、広い世界に自分1人……というシチュエーションは手塚治虫氏の「火の鳥 未来編」を思い出させる。「火の鳥 未来編」が孤独を紛らわすために生命を作ろうとする、つまりは内面に沈む道を選んだのだが、ほむらはまどかを求めるという非常にアグレッシブな行動にでる。そして得られた世界は数人の邪魔者がいる舞台。まどかも含めて自分のシナリオ通りに動いてくれなさそうな連中だ。ほむらがまどかとの愛を育む上でそもそもまどかにとっての友人はほむらの他にもたくさんいるとか、ほむらの選択をまどかは拒否するのではとか、邪魔者の数人は絶対にほむらを排除しようとするだろうとか外部の存在が明確に描かれている。その分純粋さはないため(今後の作品展開としては魔法少女の部分は棚上げされて、ほむらの行動の清算が描かれるんだろうなあ)、テーマとしては沙耶の唄に劣るのだが。
 と、こうして書いていたらやっぱりまどマギが好きなんだなと改めて感じた。





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 なんてところで終わらせるのも良かったのだが、1つだけ気になったことを。上で書いてた「愛」は「ただしイケメン/美少女に限る」系のものじゃないかという疑念がある。果たしてほむらはまどかが自分の知っている姿をしていなかったとしても執着できたのか。TV版で昇華したまどかは言葉の上では、まどかが至るところにいる形になるが、それでは満足できなかったのか。劇場版のラストは明らかに自分好みのまどかをお人形のように嬉々として愛でているほむらだが(あ、ネタバレた)、その愛は誰に向いてるんだろう。