Tellurは、……現在色々物色中です。

「STEINS;GATE」(アニメ版、未来ガジェット研究所、2011)

2014年7月7日  2017年2月24日 
 僕はゲーム版およびスピンオフ作品は全くやっていない。
 この作品を知ったのも発売後結構経ってから。ネタバレありの粗筋を知り、そこに書かれた感想文を読んで興味がわいたところで、先日レンタルビデオ屋で一気に借りて視聴したのだった。
 通しで見て、最初の感想は、タイムトラベルものに必須の時系列の整理がよく出来てるなという子供のようなもの。アニメ版は多少矛盾点があるらしいが、メモを取ってたわけじゃないので気にならなかった。先日の「リライト」の感想との整合性がとれてないが、シュタゲは推理モノじゃないから……。正直、この作品のような日時単位で細かく飛びまくる作品については矛盾があってもそこまで気にはしない。それにしても原作ありでも矛盾が出るのだから、ゲーム版は相当緻密に作られたのだなあと感心する。

 さて、アニメ版に対する評価だが、僕個人はそこまで感動しなかった。
 というか、オリジナルアニメとして作られていたらゲーム版のような評価を受けられたのか疑問がある、と思う。

 それは……ゲームというのが非常に没入感の高いメディアであるということだ。

 ひたすらクリックして文章を読むだけのゲームですらプレイヤーと主人公の一体感があるのだから、シュタインズゲート(ゲーム版)で搭載されたフォーントリガーシステムはプレイヤーが物語を作っているという感覚を最大限に高めるシステムだったんだろうなと思う。
 ゲーム中の携帯電話に対して任意でアクションが取れるんだって? 単なるYES/NOなんかでは太刀打ちできない「自由度」だよな。ゲーム版の詳細は知らないけど、恐らくトゥルーエンドのための携帯電話へのアクションはある程度自由度があるのだと推測される(だってタイミングがガチガチに決まってたら単なる難易度の高いフラグゲーでしかないから)。しかもタイムトラベルということで何度バッドエンド(=あるキャラクターの死)になっても繰り返すことでプレイヤー自身の物語が作れるんだろ。そりゃ言い方は悪いが感動するわな。自分の手でキャラクターを救った感覚が高いのだから。
 少なくともゲーム版は全てがプレイヤーの意思・プレイヤーの選択で動かせたらしいのであり、アニメ版しか知らない僕がそこまで感動しなかったのは当然だと言える。

 もう1つ考えたのが、この作品は日本のアドベンチャーでしか為せなかった形式なのではなかろうか。
 海外ゲームでビジュアルノベルや紙芝居アドベンチャーってのは不勉強ながら僕は知らないのだ。海外ゲームで追求される「自由度」とは選択の自由だと感じる。オープンワールド系RPGでは武器屋の商人を殺してキーアイテムを手に入れたり、Civilizationでは別に軍隊を作らなくても勝利はできるってのは有名。TRPGの文化なのだろうか、日本人から見ればそもそもそんなところから自由なの? と言いたくなるような作りである。
 一方で日本の自由度で重視されるのは手段の自由。ゲームシステムを壊さない範囲で……乱暴な言い方だが、武器の種類だとかそういうレベル。別に日本のゲームの面白さとかそういうのを言いたいのではなく、むしろシュタインズゲート(ゲーム版)の面白さはそういう一定の枠内に定められた行動の自由度を神レベルに高めたところだと思う。日常の何気ないメールのやり取りがキャラクターの死、さらには世界大戦の回避につながるなんて、海外のゲームには真似できないだろうと思う(念の為にいうと、この段落は全て僕個人の意見だ)。

 と、やったこともないゲームに対する言及のほうが長いという変な感想文になってしまった。
 正直なところ、アニメ版を見終わった後で粗筋知ってても良いからまずゲーム版をプレイすべきだったかなーと後悔した。

 そうそう、僕がこの作品で発見したことは、僕は中二病という実態に触れたのがこのアニメが最初だったことだ。描写が本当か否かともかくとしても、中二病的な姿を見させられると精神を病んでるっぽく思えてしまう。ネットで時々見つける電波系のサイトとかブログとか、鳳凰院凶真さんの言動に近いように受け取った。不幸なことに凶真さん(たち)には未来ガジェットを作り上げる技術力があり、凶真さんの妄想を一笑する友人が周りにいなかったから妄想が強化されて……という感想を序盤に抱いたが、さすがに中盤以降のシリアスモードでは消え去ってよかった。
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