2015年9月24日木曜日

「アーティスト症候群」(大野左紀子、河出文庫、2011)

 筆者もわかっているとは思うんだが、いわゆる芸術家(本文読む限りでは特に現代アート系?)のアートに対する感覚と一般人のアートへのイメージが全然異なっていることがこれでもかと言うほどわかる本。
 今後アート系の人の発言は一般人の使う用語とは異なっていることを踏まえて理解する必要があると感じた。

 結局、この本の構図というのは単純で、アートとは保守性と前衛性(新規性?)が延々と対立しているらしい。筆者は現代アート系の人なので保守的な作品に対しては問答無用で批判する。最先端でなければ価値がないと言わんばかりの筆運びは「最先端」の価値が理解できない人間からすると少々引いてしまう。なお、理屈だけで言えば、最先端・最前線というものに重きを置くならば、最先端から2番手くらいの芸術家(これも現代アート系のはず)の価値はガクッと落ちるはず。つまり価値観が同じアーティストに対してもわずかに保守的だ・微妙に保守的だとの批判は成り立つはずだが、この本の中では書かれておらず、見るからに保守的な芸能人アートとかのみ言及している。この本のコンセプトは一般人がアーティストに憧れる仕組みについてだからアーティストへの批判はしていないのかもしれないが、片手落ちだと思う。むしろ価値観を共有していてなおかつ最前線に立てない人々の方が批判されるべきだと思う。
 ある意味でこの本は仲間内の話を他者にわかりやすく出したのだろうなと感じる。しかし「保守的」なアートが理由も書かれずに批判されるのは、価値観を筆者と共有していない人間からすると逆に筆者の基準を疑う結果となる。

 この齟齬の原因は、一般人から見ると非常に単純である。現代アートって、ある種の商品であることを止めてしまったからだ。
 現代アートは大抵美術館に行って見たり体験したりするものだが、そりゃ個人が日常的に接することができず、そして複製のない高価なシロモノは一般人とは異なる世界になってしまうだろう。
 アートみたいに価値観そのものが認められているジャンルに文学や音楽がある。面白いことに、文学にしても音楽にしても芸術性がそこそこ高いとみなされている割には個人が所有できるのだ。つまり商品であり、それも非常に安い。裾野も広く、チープなものも多い。それにも関わらず、トップクラスの地位にいる人は芸術家の立ち位置である。
 文学や音楽は全体的に芸術性をかなり放棄することで一般人の生活に潜り込み、その価値について一般人を教育し今の地位にいる。現代アートはどんな努力をしたのだろう?

 現代アートの人が一般人と感性を異にしているのが明らかになるのがp65、フランスのアカデミー「ル・サロン」
 p92の「アートなんてその程度でいいんだ」

 面白いのはアーティストとはなんだろうと狭義の芸術家を美容師やメイクさんと比べ、音楽にも言及しているにも関わらず、文学への言及を行っていないこと。本文中ではアートの価値についてコンセプトがどうのこうのと書かれているが、アートのコンセプトとかを語るなら言葉が介在するはずで、必然的に文学の領域に関わるはず。感覚としてはファッション関係よりもよっぽど、文学のほうが美術との関連が強いと思う。

 アートの価値は恐らく美術史とかを勉強すれば学べるんだろうが、やっかいなことに美的感覚とは一致しない。筆者も書いているが、メッセージを投げかけたり目を背けさせるのをアートの価値と呼ぶならば、そもそも一般人を対象にした美術とはそもそも論点が異なるよね。普通の一般人は見て心地よい作品を選ぶのだから。
 実は筆者はここを混同させている。筆者のブログ記事にも書かれているが、良いもの(僅かな人が認定するもの)=教養(僅かな人が持っているもの)=美(『美術においては「それが名作である/ない理由」』と引用する)を一般人が目指している方向と位置づけている。それが、本書でも何度も出てくるアートのコンセプトだったりアートのメッセージだったりするのだろうが、


 僕自身は勉強をして鑑賞するという方策は好きである。映画にしてもマンガにしても設定厨なところがあると自覚しており例えば作者がこう読むべしと宣言されればその通りに読むだろう。映画の評論を読むのも好きだ。小説も海外SFなんかは訳者あとがきがあって、非常に参考になる。
 しかしそれと好き嫌いは全く別物。「わたくし率 イン 歯ー、または世界」(川上未映子)は「素晴らしい」が、何度も読みたい小説では僕はない。頭よりも目が疲れるからだ。「わたくし率 ~」と比べるなら「撲殺天使ドクロちゃん」(おかゆまさき)の方が遥かに好き。たとえ今の文壇においては評価されなくとも、文体的には心地が良い。
 もっとも、アートと違うのは、「わたくし率 ~」は誰でも一冊買えるのでメッセージを受け取りたければいつでも読める。そう、アートの文脈で言うなれば、美を体験できるのだ。アートはそれができない。結局、筆者はアートを辞めたらしいが、この本を読む限りでは当然の流れである。