Tellurは、……現在色々物色中です。

「帰ってきたヒトラー」(デヴィット・ヴェント監督、コンスタンティン・フィルム、2015)

2016年7月13日  2017年2月24日 
 フィクションとノンフィクションの虚構の違いについて考えてしまった。
 この作品は、ヒトラーが(理由は不明だが)現代に蘇ったらという仮定を元に作られており、蘇ったヒトラーのことを彼本人だと思わない大衆がなぜか蘇ったヒトラーの発言(もちろんヒトラーの発言は第二次世界大戦当時の意味そのままだ)に納得してしまうという黒い可笑しさを皮肉を込めて描いている。
 ありえないことが起こった。大衆はヒトラーそのものには距離を置くくせに、ヒトラーのそっくりさんには迎合する。だから、大衆はダメだ(第二次世界大戦当時と変わっていない)という論法で組み立てられている。
 僕は昔の記事ではそういう文脈で小説版を評価した。小説版は確かに面白かった。ヒトラーが復活するなんてファンタジー中のファンタジーだが、だからこそ大衆がそれと認識しないままヒトラーを担ぎ上げる不気味さを描けていた。ヒトラーの一挙一動は「痛快」で、自分の中のヒトラーなるものの存在を意識させられた。そして映画版はその小説版を元に……アレンジした。それは恐らく致命的な誤りだろう。

 この作品の肝は上で書いた「ありえないこと」をどう受け止めるかにかかっている。小説は、フィクションは虚構の世界だ。だからありえないことを起こして問題ない。というよりも、ありえないことを元にして真実を明らかにするのがフィクションの力だと思っている。しかしノンフィクションはあくまで現実を描かなければいけないわけで、現実でありえないことを前提としてノンフィクションを作ってもおかしな結論になるだけだ。
 そう、映画版は、一部ノンフィクション(ドキュメンタリー)を紛れ込ませている。後で書くが、たぶんこの映画の中で致命的な点だと思う。映画ライターを職業にされている方の言葉を引用しよう。
そうした笑いの中に、映画はすごい策略をさしはさんでゆきます。ザヴァツキとともに全国行脚する下り、この多くの部分がなんと本物のドキュメンタリーなんですね。
渥美志穂氏)
 はっきり言って、一般的に現実の世界を生きる西ヨーロッパの大衆は死んだ人が生き返るなんて想定してないだろう。つまり、このヒトラーが偽物ってことはわかりきったことで、さらに原作小説はドイツでもヒットしたのだから(杉谷伸子氏曰く「ドイツで200万部を超すベストセラー小説」)、ヒトラーが町中を歩いていたら十中八九「帰ってきたヒトラー」の映画や何らかの企画だと考える可能性が高い。
 とすると、この「ドキュメンタリー」にはかなり現実が歪められた映像が撮影されるのではないかと想定できる。この映画のヒトラーと共に写真を撮った人々は、本当にヒトラーに賛同するために行ったのだろうか。単に有名な俳優と共に記念に撮っただけという可能性はないのだろうか(つまり、ダースベーダーと共に写真を撮る人はダースベーダーの意思や政治的態度に賛同するとまでは言えないのではないかということ。もちろん現代のドイツで何が何でもヒトラーの写真を撮ることそのものが禁じられているなら別だが……)。
 また、ドキュメンタリーパートで撮られたヒトラーに迎合して過激な発言をする人々だが、単に雰囲気に飲まれただけという感じがする。つい最近あったイギリスのユーロ離脱投票で、大して考えもせずに投票したっぽい人間が散見されたように、その場の雰囲気などで迎合したり反発したりと考えを左右するのが人間の本質ではないかと僕は考えるのだ。日本だって有名になりたい、衆目を集めたいという理由で対して考えもしてないであろう極論を叫ぶ人間はいるわけで。
 もっとも、ここらへんはドイツでヒトラーや人種ネタに対してどこまでが許容範囲なのかわからないのでなんとも言えないか。

 そして、僕が一番この映画を評価できないのは、ドキュメンタリーと言っておきながら操作が行われている点である。これは致命的だと思う。
(前略)多くの人は引いていくんです。でも中には強く賛同して残る人たちもいる。映画の中ではそうした確信的に右寄りである人しか残しませんでしたが、話しているうちにうっすらと、外国人敵視などに同調する人はかなりいました。
渥美志穂氏)

 この作品を見る限り、ヒトラーの偽物に出会ったドイツの大衆はかなりの割合でヒトラーに賛同して今晩からすぐにでも「最終解決策」を始める感じだが、どうも撮影した時はそんなでもないらしい。とすると、これって明らかにドキュメンタリーとしては反則じゃないの? この「編集」が許容されるのなら、逆にヒトラーの偽物が現れても大衆は無視していました的なストーリーも作れない? 映画はドキュメンタリーパートの結果から現代のドイツ国民の多くは不寛容であると結論し、だから現代ですらヒトラーの脅威は去っていないというテーマに結びつけていたが、ドキュメンタリー自体が編集されていれば結論は異なってくる。

 さらにもう1点。
 映画のロジックでは常にヒトラー(的思考)に石を投げないとNGらしい。ヒトラー役の俳優と撮影することを咎めていたのだから。しかし、その理屈なら原作小説もNGではなかろうか。ヒトラーに対する前提が共有されていなかったら、それこそ英雄ヒトラーを描いた小説である。少なくとも原作小説はいわば褒め殺し的な、ヒトラーの活躍を描き大衆から支持されることで再び昔のドイツが到来するという警鐘を皮肉交じりに鳴らしていた。極めて文脈に依存した作品である。
 邪推になるが、恐らくだから映画は原作小説より反ヒトラー色が強かったのだろうと考える。

 最後に、細かい点を。
・フィクションの肝であるヒトラーの復活についてだが、キリスト教的な偉人行為と捉えることもできないだろうか。原作小説では徹底的に宗教が省かれていて違和感はなかったが、映画で実際の街の映像を見せられると宗教面が出てこないのは意図的な感じがした。宗教関係にも撮影出来ていれば映画の見どころになったろうに。
・ユダヤ人であるクレマイヤー嬢を「説得」するシーンは原作小説のクライマックスなのに、省かれていたのは痛い。クレマイヤー嬢ですらヒトラーを受け入れるからヒトラーは恐ろしいという理屈になっていたのに。
・ドイツでは人種差別発言は許容されるけど犬殺しは非人間が行うもの的扱われ方なのね。


 そんなわけで手放しには楽しめなかった映画である。良い意味でフィクションの虚構だったものが、ノンフィクションでは悪い意味で嘘に変わってしまっていた。確かに原作小説は風刺であると事前情報がなければ読解しづらいが、それでもヒトラーやそれを支持する大衆の恐ろしさの描写でははっきり言って原作小説に及ばない出来である。
ー記事をシェアするー
B!
タグ