Tellurは、……現在色々物色中です。

「スーサイド・スクワッド」(デヴィッド・エアー監督、ワーナー・ブラザース、2016)

2016年12月20日  2017年2月24日 
 いやー、キツイな。見栄えのする画面に対してストーリーが物足りない。
 まずプロットがとっ散らかっていた。メインストーリーはエンチャントレスの暴走によって起きた事件とスーサイド・スクワッドの活躍なのだが、それにジョーカーとハーレイ・クインのメロドラマが繰り広げられる。これ、どっちかで良かったんじゃないかな。ジョーカーがトリックスターになっており、何のために出てきたのかわからん。
 登場人物だってまともすぎる。悪人には悪人なりの美学や論理やたとえ狂っていても価値観があるはずなのだが、出て来る彼らは一般人の思考で動く。どこかで見たことある展開だと思ったら、ガーディアンオブザ・ギャラクシーの連中と変わりない。このキャラクターがまとも問題はスーサイド・スクワッドを利用しようとするアマンダ・ウォーラーの方が存在感があるとか、ジョーカーが本当にハーレイ・クインを助けるために行動していて全く狂っていない様に見えるとか、いろんな悪影響を及ぼしている。結果として、しみったれた小悪党という印象が拭えなかった。
 とは言え彼らは人間離れした能力があると言われており、そんなのが首の爆弾で何とかなるのかね。当然のようにジョーカーが解除しちゃうし……。
 この映画を撮るなら、前半の登場人物紹介を圧縮して、スーサイド・スクワッドの結成とそれが活躍する事件を1度挿入した後で、エンチャントレスの暴走を描かないとスーサイド・スクワッドの有効性やその危険性を観客に納得させられないぞ。

 それに対して映像はなかなか格好良い。が、上に書いたとおりストーリーがダメダメなので華やかな絵を切り貼りしたという印象が強かった。
 とりあえずアレだ、前からこのブログで書いていたと思うが、アクションシーンでスローモーションになるのはいい加減やめようよ。日本の昔の特撮とかで、決めシーンで3回リピートするのと同じダサさがあるよ。多少ハリウッドに慣れ親しんでる人なら多くの映画で見る技法なんだから、それも相まって失笑モノだよ。いや、もしかして歌舞伎の決めポーズみたいに様式美にするつもりなのだろうか。ハリウッド映画って歌舞伎と違ってリアルな絵面だから変な美学は持たないほうが……。
 と思うくらいに映像は美しい。特にジョーカーの見せ場はそれだけで1枚の絵になるほど凝った美しさがある。それだけにストーリー部分とのギャップが目立ってしまう。見てる最中にプロットのダメさを指摘できるのでどうしても映像だけが浮いちゃうんだよなー。


 良くも悪くも、ハリウッド的な観客に受けるノウハウを結集させた映画というイメージが強い。もちろん本当はどうだかわからない。もしかしたら制作陣は本気で新しい表現を生み出そうとしていたのかもしれない。でもできあがったのは「どっかで見た」という印象の強いものであり、この映画ならではの味付けはない。
 この映画の最大の問題点は、上記の問題を抱えているにも関わらず、金返せと怒鳴るほどひどいものではない(それどころか僕みたいに手間ひまかけて感想文を書こうと思えるくらいには楽しい映画だった。この感想文では不満点を述べているので悪印象が強いかもしれないが、普通に楽しめ……そしてこの「普通」が問題なのだ)ところだ。
 つまり、映画で面白さを与える公約数的な手法が確立されているということであり、それに従って映画を作ると単なる過去作のパロディにしかならないということ。具体的には、ちょっとした悪い奴らが亀裂を乗り越え世界を救う……それってガーディアンオブザ・ギャラクシーで見たよ! ……どこにでもある作品になってしまう。上でグチグチ指摘したように他の作品との差別化をする細部もあまり作り込まれていない印象を受ける。
 これでは映画という文化自体がジリ貧になってしまうと思うんだ。
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