2017年5月15日月曜日

「紙の動物園」(ケン・リュウ 著、古沢嘉通 訳、早川書房、2015)

 面白い。今更読み始めたのを後悔するほど面白かった。何でもっと早くこの作品を読まなかったのだろう、と思うほどである。実は、この作品を読んだすぐ後で次作の「母の記憶に」を注文してしまったほどである。
 一般的な西洋SFとは少し異なる情緒豊かな作品群になぜだか安心感を得たのだが、それは著者が中国系アメリカ人という前情報を得ていたせいだろうか。個人的にはSFというより幻想文学的と読んだ方が良く、それもあってSF特有の無機質さが緩和されていたと思う。
 本書は日本独自の編集ということもあり、著者の作品の中でもトップレベルの物が詰まっている。次の短編集がどれくらい面白いかが愉しみである。

 表題作の「紙の動物園」は有色人種の移民とアメリカでの生活をスパイスにして、移民の母子の断絶と後悔を描いた作品。非常にウェットな作品で……正直、中国系アメリカ人によるSFと冠していなかったら評価が落ちていたと思う。タイトルである紙の動物は実のところ、あまり物語に影響を与えない。本文でもほのめかされていたが、紙の動物たちはあくまで母の記憶を象徴するガジェットでしかない。せっかく紙が動物になって生きているのだから(これって式神みたい)、もっとそこを押し出しても良かったと思う。そして主題である母子の断絶だが、もう1つの重要なファクターである父親があまり描かれなかったせいで片手落ちだと思う。主人公の母親は人身売買さながらに中国よりアメリカに嫁いだわけだが、なぜ主人公の父親は彼女を買ったのか。なぜ彼女に英語やアメリカの教育を施さなかったのか。最初読んだ時には感動したんだけど、でも単純に「泣ける作品」では終われないような黒い部分があり、そこを描ききれていない感じがした。
  次の「もののあはれ」は美化された日本の心が何というか、読んでいてむず痒い。ケン・リュウの特徴として、日本人から見ても日本の風俗・習慣に違和感がないということが挙げられるが、そのため日本に対する微妙な美化が目に付くのだ。この作品もそうだし、歴史改変SFである「太平洋横断海底トンネル小史」だって半ば大東亜共栄圏の思想が半分近く成功しているという意味で美化されているし、「文字占い師」も東アジアの歴史の影を書いていながら日本を懐かしむ部分がある。何も日本を褒めるのが悪いということではないのだが、ネトウヨ的な褒め方でもなく、平凡なおっさんのような何も考えていない褒め方とも違う作者の美化の方向性は、かえって外国から見た日本的な違和感を感じさせるのだ。ところで訳者解説で著者は日本の小説について、主人公は困難を解決するため積極的に行動する方向性とは反対みたいなことを言ってたらしいが、何を読んだのだろう。西洋的な小説と対比したいのでもう少し詳しく知りたい。
 「月へ」はアメリカにおける難民や亡命者の申請を、中国民話的な月の世界に住もうとすることと重ね合わせる幻想的な、しかし逆にリアリティさが重い作品。月の世界が比喩であることはわかりやすかったので、ほぼアメリカの難民申請の作品として読めた。かなり辛い作品である。
 この短編集の中で一番アイデアに驚いたのは「結縄(けつじょう)」。縄の結び目で文字を表現する発想にも、それがDNAと関連する発想にも驚いた。さらに、遺伝子改良された農作物は繁殖できないようにされているので毎年種を買わねばならないというのはたしかナショジオとかで読んだことがあるが、資本主義の権化のようなその作物(しかも落ちに使われる!)と、製薬会社に多額の利益をもたらした縄文字解読が無報酬で収奪されたという対比は見事である。
 「太平洋横断海底トンネル小史」は歴史改変SF。日本の侵略がなく、アメリカとの戦争もなかった東アジア(さらにナチスも早々と失脚する理想世界)ですら起こるアジア人間の人種差別や共産主義者への弾圧を描いた作品。まあ、共産主義者への弾圧はともかくとして、アジア人内の序列は脱亜入欧が保持された世界線なのである意味当然とも言えよう。歴史改変SFなら「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」の方が面白かったぜい。
 「潮汐」は幻想小説。今まで読んだ限りだと、著者はコテコテのSFより今作のような奇妙な味的作品の方が魅力があると思う。
 「選抜宇宙種族の本づくり習性」は宇宙人それぞれの本(記録)の文化を紹介する小品。ギャグSFかと思いきや、記録方式がリアリティがあって、長編にしてみたら面白いかもと思った。特に心が石でできている無機物宇宙人が、子供を作る時に親の心(石)の一部を子供の心(石)の元とし、先祖代々より文字通り心が伝えられるというのはSF的なガジェットとして面白い一方で、儒教的な祖先信仰が暗示されているのではないだろうか。
 そんな中国チックな要素が全面に出たSFらしきジャンルが「心智五行」。でも作中の五行思想ってあまり物語に絡んでない気が……ゴニョゴニョ。この作品の肝は体内の微生物(バイオーム)が人間の性格にまで影響を与えているという仮説で、これはNHKの世界のドキュメンタリーで観た! 著者としては五行思想と微生物とで関連性を出したかったのだと思うが、悲しいかな僕に五行思想の知識がなかったもんでそこら辺読み飛ばしてしまい、単なるバイオームと恋愛小説と認識してしまった。中国らしさでいけば上にも書いた「選抜宇宙種族の本づくり習性」の方があからさまでない分、興味深い。
 さらに、「どこかまったく別な場所でトナカイの大群が」はデータと現実の違いについて描いた作品なのだが、この作品に出てくるデータ人類はそれぞれ親のデータ(心)の一部を受け継いでいて……おお、これも儒教的な祖先信仰ではないかと気付いたのだ。シンギュラリティというソフトウェア化した生命はコンピュータの中で今の人類よりも遥かに発展した科学を理解し、そして3次元の現実では出来ないことまで行える。なぜならデータの世界だから。それと対比して生身の肉体を固持した母親を登場させ、なぜ彼女はわざわざ物質的な体験を重視するのか、データで得ることの出来ない現実の感覚とは何かを描き出す、描き出そうとするんだけど……。端的に言って失敗していると思う。主人公の少女はデータとして生まれたのだから、生身の肉体を持つ母親と同じメンタリティを持つことに疑問がある。さらに、生身の肉体を持つ母親にとってデータの世界が単なるシミュレーションにすぎないのと同様に、データの肉体を持つ主人公にとって物質界とは情報が削ぎ落とされた世界でしかないのでは? 特に主人公は4次元空間で生きていたのだから。
 個人的にはスマホが普及して文字を読む習慣が減ったというニュースを見て、息子に本を読めと説教する凡庸な親父という感じしか持てなかった。精密なシミュレーションが現実でないと言うが、そもそも脳だって人間の感覚器官だって別に現実を正確にフィードバックしているわけでないし……。この作品は西洋人的なオリエンタリズムへの憧憬を感じてしまった。

 「円弧(アーク)」と「波」。永遠の命について描かれた地球編と宇宙編という触れあいだが、それだけではないと思うのだ。僕は宇宙編である「波」が好きだ。それは単に不死であるだけではなく、その先のソフトウェア化した生命や宇宙の一現象となった生命のあり方まで描いた作品だからだ。一方で「円弧」はまだ人間の範囲しか描いていなく、リアリティがある一方でワクワク感は「波」に及ばない。このワクワク感というのはグレッグ・イーガンのディアスポラを初めて読んだ時に似ている。人間から遠く離れた姿を持つ生き物だか何だかわからない存在が、実はどこかで人間と共通点を持ち、彼らの悩みがいつの間にかリアリティをもって感じられる流れ。人間を捨てて実行したプロジェクトが後から開始した人々に追い抜かれ、それでも次のプロジェクトに進む様は「人間」らしさがあって良かった。「波」は長編で読みたいんだけど、短編だから強く輝いたのかもしれない。
 そのグレッグ・イーガンが得意とする意識や認識の問題を主題とする「1ビットのエラー」。宗教は単なる認識の誤りに過ぎないと理解している主人公が、救いを求めて信仰を得ようとする作品である。僕は結構この主人公が好きだ。彼は科学でもって感情を――この作品風に言うなら1ビットのエラー――を引き起こそうとする。単に人間にとって宗教は大切だとか言うのでなく、自分にとって宗教が必要だから積極的に発現させようとする姿。いわば、脳に化学物質を制御できる装置を取り付けて、幸せになりたいからその装置を操作する積極性が好きなのである。
 とはいえ、読めば読むほど、主人公は信仰ではなく奇跡が必要だったのではないかと思える。主人公が求めていた体験は明らかに大半の人間が得られないような、ある意味で神の啓示的なものであり、それがなければ信仰が得られないと主張する主人公は本当は物語の最後になっても神なんて信じてないのだろうなと思う。上で僕は、脳に化学物質を制御できる装置を取り付けるとか書いたけど、恐らく主人公に必要だったのは「偶然」その手の「体験」をすることだったのだろう。宗教を信じられないのもある種のエラーなんだなと感じさせる作品。

 「愛のアルゴリズム」。読んだ翌日、内容が思い出せなかった作品。まあ、普通の「SF」じゃないかねえ。
 「文字占い師」はSFでも幻想文学でもない政治的なテーマの作品。内容については何の知識もなかったので、東アジアについて知らなくてはならないと反省。この作品については一切、偉そうな口をきくことは出来ません。
 最後の「良い狩りを」は訳者が大好きというだけあって、そう来たか! 中盤までは恋愛小説でも妖怪退治小説でも行けるのに、スチームパンクな変身ヒーローにする手腕は見事。それでいて妖怪成分も恋愛成分もちゃんと残っている。アジア的な妖怪が西洋的なヴィランへと新たに意味付けながら「変身」するのはワクワクした。

 正直、著者が中国系アメリカ人で、この短編集もアジア的な情緒が多いという評判に引きずられた感想となってしまった。読んでいて思ったが、妖狐とか月人とか中国の妖怪を現代に蘇らせ異なる意味付けをするスタイルは芥川龍之介にも通じる。同じ中国系アメリカ人によるSFといえばテッド・チャンを思い出すが、テッド・チャンがストレートにSFで、そしてアジア要素が薄いのに比べればケン・リュウはまるで正反対。そのため最初に書いたが、「我こそがアジアン」的な主張が感じられ、実は僕にとってはそれが心地よかったのだが、一方でそれは西洋の目を通じたアジアなのだろうとも思えた。つまり、僕はこの作品集のアジア要素に懐かしさを感じたんだけど、でもそのアジア要素はわざと濃く味付けした人工物なのだろうということ。もちろん人工物だから全くの偽物だと言うわけではないが、この作品でアジアの美や日本の美を感じるのは危ないと自戒する。
 あくまでSFなのに東洋的という点が珍しく、それで高い点数を付けた面もあるので、とりあえず次の短編集を読まねばこの著者の広がりを評価できないだろう。