2017年5月24日水曜日

「母の記憶に」(ケン・リュウ 著、古沢嘉通 他訳、早川書房、2017)

 この間、第一作目短編集を読み、著者のことを中国系アメリカ人として強調した感想文を書いた。僕はそれが間違っていることだとは思っておらず、しかし今作を読み、1点だけ見誤った部分を発見した。
 著者の作品はSFというよりももっと広い視野を持った空想のガジェットや発想を元に人間について語っているということだ。それはもはやSFですらない「草を結びて環を銜えん」、「訴訟師と猿の王」と「万味調和」を読むとわかる。前回、芥川龍之介を引き合いに出したが、歴史小説の中にファンタジー色の強い虚構を少しだけ入れ込み現代的なものを読ませる手腕は正に芥川龍之介の得意とする手法だったと思う。歴史小説としても、前2つは揚州大虐殺という日本人には全く馴染みのない題材で、後者はゴールドラッシュ時代の中国移民の物語というこれまた日本人にとってはほとんど馴染みのないもの。僕も読むまで出来事すら知らなかったが、事前情報なしで読み始めると意外と状況がわかりやすいのだ。井上靖のような現代人にもわかりやすく、されど中国チックな格調のある文体によってモチーフが不明でも先を読ませ、結の部分までには全体像を把握させる。
 「草を結びて環を銜えん」は前作ほどではないが感情に訴えかける作品だ。それは男を手玉に取り人々を虐殺から守った格好の良い遊女と対比される主人公が勇気がなく器量も悪く頭も悪い普通の人間で、でも最後に彼女ができること、彼女しかできないことをやり遂げた姿が美しいからだ。人情ものとして本短編集の中で1番好き。また、主人公が選んだ彼女だけの生き方は「訴訟師と猿の王」の英雄談義にもつながる。
 これは歴史から抹消された揚州大虐殺について、その事実を知った人間がいかに後世に伝えたか、というフィクションである。正直日本人としては南京事件を喚起させられるが、とりあえずそれは脇に置こう。この作品は孫悟空という英雄が実はそれほど英雄ではなく、一方で処刑された罪人が誰にも知られなかったが英雄であったという逆転の物語だ。孫悟空は主人公と会話するけど、現実に影響を与えているわけではないので、主人公の妄想と言っても構わない。そのくらい非現実要素のない、救いようのない物語だ。主人公は揚州大虐殺が書かれた本を逃し、そのため現代で言う秘密警察から拷問をかけられ殺される。面白いのは彼は何らかの勇気のある信念を持っていたわけではないのだ。そればかりか殺される直前になって後悔したりする。でも、結果として彼しかできないことをやり遂げたことで揚州大虐殺は後世に伝えられ、知る人こそいないが流されたように見えた彼は英雄であった、という筋書きだ。ある意味で「神様は全部見ている」的なキリスト教のお話とも読める。さらに自分のなすべきことを推奨されるのはアメリカ的な思考よりも行動に重きを置く思想として読めた。主人公は自分の行いに納得しているのか、「誰もが知らない英雄的な行い」とは褒め言葉になるのかわからない。なぜなら結局のところ当時は揚州大虐殺が隠されてしまい主人公は負けたからだ(この点が同じように歴史に残っていない英雄を描いたローグ・ワンとは異なっている)。さて、話を南京事件に戻そう。僕はこの事件があったと思っている。この事件については詳しくはないが、それでも両者の主張と根拠を多少読んで、あったと確信しているのだ。これが僕が本短編集を読んでケン・リュウに返せる回答である。
 「万味調和」は正直、前2作に比べると軽く読めた。最後の最後で突き落とされはするものの、何となく明るいのだ。舞台がアメリカであり、時代が近代ということもあり前2作で描かれた蛮行が現れないだろうという安心感。もちろん時代が時代なので人種の問題とか単純に明るいお話ではないが、それでも白人も中国人もフロンティアを求めて移住した同士という希望に満ちた作品である。

 SF系の作品だと、スチームパンクおとぎ話ものである「烏蘇里羆」が面白かった。熊は人に化けるというアイヌ伝説を元に、明治維新で北海道を開墾した人間に追いやられた熊と、その熊に両親を殺された男が機械の腕を付け満州まで復讐に訪れるというハイブリッドファンタジーだ。「紙の動物園」に収録された「良い狩りを」に似てるな―と思って読んでたら解説を読み納得。まさに「似てる」という感想を与えたいのでこんな順番にしたらしい。訳者の手の中だ。「母の記憶に」も短いながらインパクトのある作品。前短編集での過剰なウェットさがなくなり、そのためにかえって心を動かしやすくなったと思う。つまり感動した。最初に読むとどこがSFなんだろうと思えるほど、そのアイデアは慎ましく書かれているが、徐々に普通とは異なる面が現れてくる。実際にこの技術が実現した時7年に1度しか会えないということは、ある意味では死人も同然に、それこそ互いに思い出のコピーとして生きることになるが、それは幸せなのだろうか。凡百の作家ならここで問題提起して終わるが、ケン・リュウの場合は幸せだと、少なくともみんな自分の意思でこの選択を選び、後悔していないと宣言している。
 そんな思い出のコピーというテーマが全面に押し出されたのが「シミュラクラ」。技術としては人工知能を使うことで遠くない未来に実現しそうで、大人の男性である父と思春期の女性である娘とでありえそうな齟齬を描いた作品。一番最後にやっと母親の心の中が開陳されるのが前短編集の「紙の動物園」っぽかった。僕はどちらかと言えば娘の立場であり、娘と出会えないから娘のコピーで心を慰めていた父の心情は理解できるけど同情できない。そしてそんな父を赦せという母の気持ちはもっと不可解だ。テクノロジーにより人間性と乖離が生まれると書くとチープだけど、この作品の肝はテクノロジーではなくそれを使用したことで生まれた父娘のすれ違いなのである。そのためにケン・リュウはSFというフォーマットを使ったのではなかろうか。それが明らかになるのは「残されし者」。人間がソフトウェア化した(作中ではシンギュラリティと表現)という前短編集でも描かれたテーマであり、ソフトウェア人類の姿を描けばグレッグ・イーガンの「ディアスポラ」みたいな面白い作品になるにも関わらず、描かれるのは離島の限界集落みたいなお話。人がいなくなり自給自足していた村がどんどん寂れる。でも伝統を守るのだ。島を出ていくことは許さん、的なお話。若者たちは表面上、うるさい親父に従っているが、大人になったのを機に親父の目を盗んで、若返ったおばあちゃんが楽しくやってるらしい都会に行ってしまう。うるさい親父が守ろうとしていた伝統=人間らしさとは一体何だったのだろうか、というのがテーマだ。「紙の動物園」と比べた時、今短編集で面白いのは、文字通りの人間らしいウェットさや感情が実はある種の欠陥を人間らしさと言い繕っているのではないの? 的な皮肉な視点が垣間見えることだ。この作品もソフトウェア化を拒んで得られた幸せは主人公の独りよがりなもので、ソフトウェア化した人々は幸せになるなり自分で選択したことで満足するなりしている。前短編集では見られなかったこのあからさまな対比は、「パーフェクト・マッチ」でテーマになっている。いわゆるAmazon的なAIによるおすすめが人間の意思を左右している近未来世界。マトリックスのようにそんな社会から目を覚ました主人公が人間らしさを取り戻す戦いを挑むのだが……。皮肉なのはAIを開発し人間らしさを奪った会社の親玉が「本当に」社会のことを考えていたということ。この会社は確かにマスデータによる客観的な形で差別や暴力性を実体化したが、もっと悪しき意図を持った企業がいくらでもある中それらよりはマシだし、むしろ差別などのある現状はAIの不十分さから来てるわけで、もっと改良しなければと言う。下手に我が会社を排除したら悪意を持った連中にめちゃくちゃにされちゃうぞ、と。もちろん詭弁だ。同時に主人公たちが取り戻そうとする人間らしさも詭弁でしかなく、今までは技術レベルが低かったので差別や暴力を表面化させなかっただけでしかない。改良することで問題を解決する意志のある非人間的世界と、問題を温存する人間的世界のどちらが良いか、という問題を僕らに突きつける(作中のAIの企業って良いことをするって言うくらいだからGoogleをイメージしてるよね)。

 その他SFだと、普通のサスペンスである「レギュラー」は面白いんだけど作中のガジェットである「調整者」の悪影響が描かれなかったので不満。23時間「調整者」を起動させ続けて主人公並みに問題ないなら、みんな23時間起動させれば良いじゃん。悪の視点から見た正義のヒーローものの「カサンドラ」。他の作品の輝きのせいで相対的に落ちてしまった。「上級読者のための比較認知科学絵本」は前短編集の「選抜宇宙種族の本づくり習性」のアップデート版。前の感想文でこの手のギャグSFを長編にすると良いのでは、と無責任に言ったが、短編とは言えストーリーになった本作はかなり面白い。やっぱり荒唐無稽なアイデアSFを物語にした方がこの作者は輝くのではなかろうか。
 別に現代の技術を用いた近未来を舞台とした作品が輝いていないと言うつもりはないが、でも「上級読者のための比較認知科学絵本」を読んだ後で印象が薄れた作品の1つが「存在」。異国の地のケアハウスにいる母をロボットアームを遠隔操作してたまに介護することで後ろめたさを感じないふりをする作品。良くないことだが、読んだあとで著者が中国系で、年長者を家族全員で支える文化があるからこういう作品になったのかなと思ってしまった。生活がある以上、できることとできないことがあるわけで、それでもロボットアームのお陰で現代の介護よりは遥かに「幸せ」な介護ができる社会だと本気で僕は思っている。現代日本のおっさんからすれば持てる者の悩みじゃないの、と感想をいだいてしまった。もう1つ印象の薄れた作品が「ループのなかで」。戦争とPTSDを扱った作品で、人工知能を使えばPTSDはなくなるとしてその開発をするのが主人公。もちろん予想されたとおり誤射を起こし、主人公はPTSDとまではいかずとも精神的なダメージを受ける様式美。イタチごっこという言葉が頭に浮かんだ。子供を使ってテロを行うってのはボコ・ハラムの誘拐のときも散々言われてたことで、チープな言い方だが会議室の中で行う戦争って今後もこの手の現実からの乖離が起こるんじゃないの?

 SFというジャンルを越えた作品では、「状態変化」がパーフェクト。奇妙な味だ。奇妙な味らしくストーリーもネタも紹介しづらいのだが(はっきり言って物語を読まなきゃ面白くない)、「銀行強盗にあって妻が縮んでしまった事件」(アンドリュー・カウフマン)とか好きな人は読んでみると良い。比喩も落ちも満足できること間違い無し。
 SFの皮を被ってSFではない「重荷は常に汝とともに」。シチュエーションのためだけにSFの振りをする姿が小憎らしい。内容は異なる文化を理解する上でのロマンと思考の限界といったところか。ロマンを与えなければ遺跡発掘の費用がおりず、でもロマンを求めて巡礼する人によって遺跡がダメージを受ける皮肉っぷりは現代の各種研究にも通じるだろう。
 歴史改変モノというか、事件らしい事件が起こらないファンタジー世界のような「『輸送年報』より「長距離貨物輸送飛行船」」。日常系の異世界モノであり、異世界で人々が暮らす様子が生き生きと描かれている。本当に何も事件が起こらず、主人公が飛行船に乗る様が随筆のように書かれるだけなんだけど、その描写力がまたリアルなのだ。正直、事件を起こさないなら異世界を舞台にする必要があるのかわからないが、ページをめくらせる描写力は素晴らしい。


 上の感想文内ではSFに分類したけど、「存在」「シミュラクラ」「ループのなかで」「パーフェクト・マッチ」は文学と言っても良い。未来を見据えた実現可能な技術で、将来議論になりそうな問題提起をしている。少し近視眼的すぎるかとも思えるが、技術と社会、そして技術と人間について描いている。
 ケン・リュウの作品は人間性について描いていると言われており、前短編集ではそれがアジア的叙情性だと考えていた。クラークやイーガンなど欧米人のメンタリティを持った人が書くSFとは感情移入を促す点で異なっていたのだ。今短編集ではむしろ必要以上にはアジア成分を入れておらず(題材がアジアンなのは「草を結びて環を銜えん」、「訴訟師と猿の王」、「万味調和」、「烏蘇里羆」)、それらもお涙ちょうだいにはなっていない。
 素晴らしい作品だった。個人的には真正面からのSFではない「烏蘇里羆」「草を結びて環を銜えん」「上級読者のための比較認知科学絵本」「状態変化」あたりが大好き。中国モノ、歴史改変スチームパンクモノ、ワンアイデアのSF小品は非常に優れている。まだ編集されていない短編があるらしいので、早く書籍にしてほしいと思う。