2017年6月29日木曜日

「怪物はささやく」(フアン・アントニオ・バヨナ監督、ギャガ、2017)

 どうして空想の世界に浸るのだろう、と悩んだことがある。これが音楽やら言葉やら絵やら演技やらに秀ていれば、そういう道に進むこともでき、空想も自分の糧となったと胸を張れただろう。悲しいかな、僕は才能がないので、空想は単なる空想で、しかもその世界は当時ハマっていた映画やアニメのパクリでしかなかった。いわゆる二次創作ってやつだ。確かオリジナルキャラも出ていたような気がする。そういう遊びを小学校2、3年生から行い、思春期に悩んだ末、いつの間にか空想の世界への扉は閉ざされていた。
 この映画も空想の世界=物語が1人の少年にとってどういう慰めになるか、慰めになっていたか、慰めとなるべきかを描いた作品だ。主人公である少年の現実は過酷だ。母親は闘病生活、友人はいなく学校ではいじめられ、祖母とは全くと言って良いほど性格が合わない。そんな彼が見出した希望が空想への旅であり、そこから脱却し現実を直視するまでの過程が描かれている。映画のメインビジュアルには怪物が出てきたり、あらすじではその怪物が3つの物語を語るとあるが、映画が始まって少し経つとそれらがメタファーであることがわかってくる。
 少年の深層心理であろう怪物(ちなみにこの「深層心理」という言葉、何にも語っていないことに気をつけよう)が語る物語は、当初は何にでも取れるような曖昧であやふやな寓話だったものから、徐々に少年の置かれた現状と少年の行動原理を表したものに変わってくる。例えば1つ目の話は善人と伝えられた人が悪人で悪人と伝えられた人が善行を行っていた、みたいなもの。この作品では物語パートは影絵のようなアニメーションで描かれ、それが綺麗なのだ。1つ目のお話の段階ではまだ物語の意味はわからない。だが、2つ目は治療方法を信じなければならないという少年の現状にやけにリンクしたお話。これはもう、少年が信じたいことを怪物に仮託して自分に語らしている。そして3つ目は無視され続けた透明人間が怪物を召喚して暴れるお話。視聴者は、怪物がとうとう少年の欲望をささやく存在に、中立な立場ではなくなり少年の深層心理そのものになったことを知る。一通り暴れた少年が校長室に呼ばれ、問い詰められる中で「自分がやったのではない」と答えるシーンが印象的であった。恐らく少年は自分で暴れることを選択したとは思っていないだろう。
 しかし、とうとう少年は怪物と折り合いをつける時がやってくる。怪物は少年に真実の物語を語らせる。真実とは何か。なぜ少年は怪物なんてものを作り上げざるを得なかったのか。それが明かされるのは、意外とあっけない。肉親の看病をしたことがある人にとっては、口には出さなくても考えたことはあるはずだ。大人なら一時の気の迷いで済ませそうなことだが、少年にとっては罪悪感を抱くことなのだろう。それに目を背けるため、怪物を呼び寄せたのだ。
 自分の感情を直視した時、少年は母親と本当にわかりあえる。上で怪物は少年の深層心理と書いたが、それはフェイクで、母親こそが怪物またはそれを産んだ存在だった。最後のシーンで少年が母親のクロッキー帳をめくるのが印象的だ。肉体としての母親は無くなったが、記憶はもとより、母の作った空想は少年に受け継がれている。これこそ、空想が、物語が人間にとって大切である証拠ではなかろうか。