2017年9月19日火曜日

「ダンケルク」(クリストファー・ノーラン監督、シンコピー・フィルムズ、2017)

 面白い映画である。最初は全く状況説明とかが行われず、お話がわからなかったが、仕掛けがわかった瞬間から一気に引き込まれた。
 この映画は撤退戦を抽象化して描いた作品なんだな。そのためドイツ軍は具体的に描かれず、戦闘シーンもほとんどない。そのため戦争映画と言われてもかなり異色作なのではなかろうか。

 実はこの映画の中で名前が出る人の方が少ないのだ。スタッフロールのキャストは「登場した順に書くよ!」と書かれており、それもフランス兵だとか列車に張り付いたおっさんとかそんな調子。町山智浩氏の解説(「町山智浩『ダンケルク』を語る」)を読むと、陸編の主人公がトミーっていう名前らしいが、映画見ている最中は知らなかった。トミーって呼ばれたり自己紹介するシーンってあったっけ? それほど名前の出てこない作りである。
 ちなみに最も存在感が強かったのはチャーチル首相で、この映画を見たら誰でもチャーチルファンになるのではないか。チャーチル首相そのものは画面に映っていなかったが、撤退の判断やその手段などで間接的に語られ、滅茶苦茶有能に描写された。まさか第二次大戦が終わって即首相の座から追われたとは誰も思うまい。
 そのように姿を現さないチャーチル首相が存在感があったほど、個人の名前は登場しない。そればかりか各固有名詞やイベントの抽象度は高い。最初に書いたようにドイツ軍の描写は全くされず、イギリス軍はテーマがテーマだけに戦闘シーンよりも撤退するシーンに重きを置かれて描写されている。フランス兵に至っては最初に銃撃戦、次に船でイギリスに逃れようと桟橋で待つシーンがほとんど。フランス兵の個人は陸編で出てきた1人しかいなかったのではなかろうか。

 実のところ、舞台がダンケルクの街である必然性もなく、この映画がガンダムの1シーンと言われても違和感はないと思う。登場人物は映画に必要な設定しか持っておらず、その意味で誰でも良い。ドラマのようなストーリーも背景もないけれど、逆に今スクリーンで起こっていることが全てであり、観客はその瞬間その瞬間を注視する必要がある(多分これがこの映画を語る際に使われていた「没入感」や「追体験」なのだろう)。ドラマを必要以上に作らなかったは、観客と登場人物に乖離を作らないためだったのではないかと思う。キャラクターが個性を持つと観客が客観的に見てしまうからね。でも不思議と、物語で語られるわずかなセリフから、キャラクターたちの背景が読み取れる(というか、過剰に読み取ってしまえる)。ある意味で二次創作遊びをしやすいのだ。
 特に船組のお爺さんは色々背景があることを暗に語っており、「個人」性はこの作品でも屈指。勝手に過去を考えてしまい、それにより感情移入はかなりできる。名前出てこなかった気がするけど(出てたらごめんなさい)。
 考えてみれば、単なる撤退する人だった陸組と、ドイツ航空機を迎撃するドラマを繰り広げたものの戦闘員以上の存在ではなかった空組に対して、海組のキャラクターは別作品と思えるくらいそれぞれのストーリーも感情も描かれていた。最初の2つが軍隊であり、一方でドラマらしいドラマのあった海組の登場人物が民間人であったわけで、戦場に自分の意思で参加する理由を描かなければ登場人物がペラペラになるし、そしてそれを描いたら必然的にドラマが生まれるわけだ。

 最初は群像劇だと思ったけど、群像劇というほどキャラクターの背景も出来事もない。メインの人物はいるけど誰も主人公と言うほどの活躍を見せない。いわゆるハリウッド脚本術的なストーリーが進む内に変化する主人公のような存在はこの映画には出てこないのだ。戦争は人間性を剥奪する的な表現があるけど、それを地で行った作品とでも言うべきか。
 何にせよ、商業作品でこんな作りにしてしまい、それでヒットを飛ばせる監督って勇気も実力もあるなあと思った。