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「エイリアン: コヴェナント」(リドリー・スコット監督、20世紀フォックス、2017)

2017年9月19日  2017年9月19日 
 エイリアン: コヴェナントを公開日当日の朝イチで見てきたが、見事なまでにおっさんと爺さんばっかりであった(僕もそんなおっさんの一人だが)。カップルや女性グループがいなかったことが、この映画の対象層を表していて納得した。そういやプロメテウスもおっさんと爺さん天国だった気がする。
 でエイリアン: コヴェナント、前作のプロメテウスの続きであり、エイリアン1の前日譚という位置づけなのだが、前作プロメテウスの設定の甘さが今作でも見られる。最もダメな設定なのは、エイリアン: コヴェナントでは事件が訪れるのは目的地に航海する途中で面白そうな惑星を見つけたから、というバカ理由で辛い。事前に何年も準備した計画を勝手に変えるなよ……。これでも良い年した惑星入植者のクルーなのである。
 そして未知の惑星をろくに探査せず人間の探検隊を送り出し、当然未知の病気に感染する(映画内ではこれがエイリアンの胞子みたいなもので、いつものエイリアンによる悲劇が訪れるのだ)。一方、探検隊を送り出した母艦は惑星の上空で待機しているが、母艦お留守番組の1人は探検隊にパートナーがいて、なかなか帰って来なく様子のわからない地上にヤキモキしている。夫婦を乗せるならもうちょっと感情コントロールをしとけよ。と言うか、主人公の夫が冒頭で死ぬのもそうなんだけど、物語の展開に色恋沙汰を使いすぎて、この連中が本当に他の惑星に入植できるとは思えない。こう言っちゃアレだが、B級ホラーで調子に乗って殺される大学生と知能や行動原理が変わらない。エイリアンはホラーだからキャラクターや物語もB級にしてしまったのだろうか。
 前作プロメテウスもそうなんだけど、プロット部分で引っかかりが多い。この感想の冒頭で書いた寄り道でエイリアンの惑星に行ってしまったという噴飯モノを始めとして、今回は展開のほとんどが自業自得感半端ない上に未知の凶暴な生物を見てながらそれでも単独行動する頭の悪さが状況を悪化させる。頭が悪いと言えば、未知の惑星に住んでた人間(?)を簡単に信用してしまうのもそう。当然エイリアンを植えられ、その後のエイリアン地獄の元凶となるわけだが、こんな怪しい人物をよく信用する気になったなと悪い意味で感心した。単にエイリアンに襲われるシチュエーションだけ作れれば良かったのだろうか。
 さて、そんな文句ばかりの今作で見どころがあったのは、エイリアン誕生に絡んだお話。作中の合成人間は人間に作り出されたから「創造」を行うことができず、創造を行いたいので人間に手をかけたというディスコミュニケーションを主題にしている。これ自体は僕は評価しておらず、エイリアンの創造って元は異星人の技術だよ、とか、彼が行ったのはせいぜい稲の品種改良だったりレゴブロックを組み替えるくらいで、稲やブロックそのものを作ったわけじゃないよ、と茶々を入れたい。しかし、人間が理解できる悪しき欲望でも、人間に敵対する異星人でもなく、それらとは無縁な別の意図でもってエイリアンが作られたという設定はなかなか面白かった。もちろん、現実的にはAIのコミュニケーション実験で人間が理解できない言葉を用いて会話し始めたみたいなニュースがあり、合成人間は創造できないという前提は意味をなさない。でも展開が負の方向へのご都合主義だったこの映画の中で、映画の設定としてこの映画独自のテーマ(「創造」的と言ってもよかろう)だった人間と意思疎通が出来るけど倫理が合わない合成人間の欲望という問題は観客に強い衝撃をもたらしたと思う。
 あとは、やっぱり「創造」に拘ってたのはキリスト教的な価値観が根底にあるからか? 創造主をもっと強くせねばカタルシスが得られないと思う。

 なお、この映画は町山智浩氏の解説がなくちゃわからん。
・「町山智浩 『エイリアン: コヴェナント』を語る
 なるほど、創造主への反逆だったのか。人間がスペースジョッキー(プロメテウスで語られた人間を作った宇宙人)に反逆するシーンがないので、個人的には映画の構造として美しくないと思う。合成人間が人間に反旗を翻すなら、人間がスペースジョッキーに反逆するテーマと対比させた方が良かったと思った。
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