Tellurは、……現在色々物色中です。

「タイム・シップ」(スティーヴン・バクスター著、中原尚哉訳、ハヤカワSF文庫、2015)

2017年11月17日  2017年11月17日 
 SFというジャンルを読む愉しみは、世界が変わる感覚を得られることである。自分が見ている世界は少しベールをめくれば異なる姿を持ち、それに応じて世界に対する自分の見方も変容する。しかしそれだけでは物足りない。世界の真理が知りたいだけなら最先端の物理学の本でも読んでいれば良い。SFの真価は、その変容に対峙する人間の感情や行動を描き出すことにある。変わってしまった人間は今後何を考え、どうするのか。SFがノンフィクションやジャーナリズムなどと異なるのは人間性への言及にあると考える。
 そんなSFの面白さを知った人間はひたすら世界が変わる感覚を求め続ける。もう身の回りの出来事に一喜一憂する物語には戻れない(とか言いつつ、そういうジャンルも普通に楽しんでるけど)。

 本作はH・G・ウェルズの「タイムマシン」の続編だが、単なる懐古趣味やパロディで満足せず、SFの最先端を描き出そうとしている。
 ネタはエヴェレットの多世界解釈。SFとしては2010年台後半にもなると流石に手垢が付きすぎているが、スティーブン・バクスターはそれを用いて独自の世界へ誘う。

 修正したい出来事があるなら、何でそれだけをピンポイントで回避しようとするのか。エヴェレットの多世界が確立しているなら、なぜ歴史の改変は禁忌とされるのか。人間が動物的な性質で災いを引き起こすなら、なぜ最初から人間を正しく作り変えないのか。

 多くのタイムトラベルものは本作のような人間性までを主題にしていないためか、タイムトラベルを泥棒を捕らえて縄を編む的な使い方しかしない。結果として、大掛かりなネタを使っているのに身の回りのこじんまりとした問題を解決することにしか使わないのだ。
 では、もしH・G・ウェルズが時間改変という概念を持っていれば、果たしてどのような物語を紡いだだろう。単に目の前の不幸を対処するだけだろうか。未来の世界で階級社会の行く末を描いたウェルズはやはり人間の変容を描くのではないか。

 スティーブン・バクスターが選んだ道は、徹底さであった。エヴェレットの多世界論によって時間旅行をするたびに変わる歴史と時間軸の中で、主人公と相棒は流浪者となってしまう。もはやタイムトラベルは彼らの手から離れ、傍観者を余儀なくされる。19世紀の人間である主人公はすでに歴史の改変や新人類の世界観にはついて行けず、文句と癇癪だらけになっているが、それでも「究極の改変」を見届ける。
 そもそも人間でしかない主人公は新モーロック族であるネボジプフェル、機械生命体の「建設者」の倫理を理解できないのだ。彼らが行う「究極の改変」は人間から見ると冒涜的で、主人公は蚊帳の外に置かれている。そんな主人公が人類の子孫たちと1つだけ共通する性質を持っており、それが主人公を旅に駆り立てる原動力でもある。
 個人的には僕をSFに誘うきっかけとなったグレッグ・イーガンの「ディアスポラ」をイメージさせ、そしてだから僕は「ディアスポラ」が好きなんだなと改めて思った。人間が人間でなくなっても人間の何かを受け継いだ存在がいれば、それは人間に変わりはない。

 というわけで、王道のSF作品である「タイム・シップ」。冷静に考えれば、劇中後半までは19世紀のテクノロジーで説明されているのでスチームパンクとも言えるかも? 単に究極のSFが読みたい人も、スチームパンクが好きな粋なお方も、人外が主人公で意味不明な技術が好きな面倒くさい連中も、みんな楽しめるぞ!
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