2018年3月20日火曜日

「折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー」(ケン・リュウ編、中原尚哉他訳、早川書房、2018)

 面白い。SF作家という領域でアジア系の作家(特に中国系)はほとんど興味を持ったことがなかったが、唯一の例外がケン・リュウで、そのケン・リュウが編んだアンソロジーということで本書を買ったのだ。編者であるケン・リュウは「紙の動物園」や「母の記憶に」で叙情性の高いSFを書いており、作品のモチーフやウェットさを考えると中国系というルーツにかなり自覚的な作家だと思う(もちろん1行なんかじゃ評ずることができないのはわかっているが)。そんなケン・リュウが、中国人が書いた知られざるSFをアメリカに紹介するために編んでいるわけで、嫌でも期待は高まってしまうだろう。
 そもそも中国におけるSFの地位は他ジャンルに比べて高くなくとも、すでに中国内ではSFファンもかなり多く、質の高い作品は多かったらしい。正直、僕がそのことを知らなかったのは単に勉強不足だったっぽく、確かに本書を読むと中国SFのトップは問題意識もテーマも欧米日本のSFと遜色がない。ケン・リュウによる序文や収録された作家による中国SFについてのエッセイ(筆者による解説みたいなものだった)によると中国では欧米SFの翻訳も行われそれを受けて中国内で自国語によるSFの発展が起こっているようだ。同じようなことは日本でも行われているのだが、それを外から眺めると、鍋の中で出汁が濃くなっていくようにもしかしたら変な方向に発展する可能性もあったのに、よくもまあ他国人から見てもSFとして普遍性を持つに至ったなあと感慨深い。中国ではネットの検閲があったり、グローバルなサービスが受けられず独自で発展したウェブサービスが多いことを聞いていると余計にそう思う。
 あえて傲慢な書き方をしたが、中国SFが何をもって中国SFとして成立しているかと考えたかったためだ。一応ケン・リュウは序文の中で、中国SFは三者三様で広がりもあり、国籍としての特徴はないみたいなことを書いており(アメリカSFの特徴を挙げるのと同じだって)、ポリティカル的にもケン・リュウのファンとしても本書の内容からわざわざ中国チックな特徴を見出すのは邪道だと思う。しかし、僕は全ての表現=コンテンツは社会の反映だと考えており、中国という属性を強調して編まれた本書から中国っぽさを入れずに評ずるのはむしろ不誠実だと思う(先のアメリカSFの例えは、そもそもSFがキリスト教的な真理の探究と科学技術の融合で生まれたジャンルであるため、欧米のある種のガジェットをテーマにした空想小説が他国から見てSFになると考えており、問い自体が矛盾してると思う)。もちろん本書1冊を読んだだけでは中国SFという広大な世界は見えてこないのだが、勇み足になることはわかっていながらも中国SFとは、ひいては日本SFとは何なのかを考えていきたい。


 それぞれの作品は、ケン・リュウによる著者略歴や作品解説が付いているが、作家の経歴も多彩で読み応えがある。
 恐らく本書は収録作品の順番も考慮されて編まれたのではないかと想像しているが、最初の「鼠年」(陳楸帆)はコテコテの中国らしさが溢れ出てSFらしさというより中国さの奔流に圧倒された作品である。遺伝子改造による肉体的な強化というガジェットはあれど、鼠害は蝗害と共に中国では歴史的に悩まされたネタであり、それを就職できなかった大卒を集めた軍隊が駆除するという筋立てに中国らしさを感じない人は感度の低さを反省すべきである。鼠を狩っているつもりがその実狩られ、それに気付くと共にこの世界の「ゲーム」のルールに気付く。この作品では軍隊という社会における鼠狩りというゲームだったが、少し見方を変えるだけで資本主義にも共産主義にも適用できる射程の広さには驚かされた。主人公が瀕死の怪我を負った挙げ句、単に自分が「ゲーム」の駒に過ぎないことを気付くだけって展開は涙を誘うのだが、そもそも現実では「ルール」すらもわからないことが多いわけで(僕もいまだにわからない)、それを悟った主人公は幸福だと思う。
 同じ作者の「麗江の魚」も、ある種の「ルール」や「ゲーム」に気付くという構図だ。GDPを上げるために時間感覚を圧縮する=セカセカさせる技術と、長命を実現させるために時間感覚を伸ばす技術という2つの技術をフックとして、それが社会に与えた影響とその技術は実は……というネタバラシがハイライト。懸命にも「ルール」に気付いた主人公は身の回りの全てが作り物だったと知ってしまうのだが、P・K・ディックみたいな感覚であった。関係ないけど、客室乗務員をナンパする描写が否定的に描かれていないことに驚いた。
 同じ作者の「沙嘴の花」。AR技術とフィルム型ディスプレイによりアップデートされた中国の雑多な民衆を描いた作品である。上位接続権限のある検索が上手い人を巫師と呼んでお金を払って占ってもらうのは中々皮肉が効いている。今作も、「実は作中のアレはAR技術だったのです」的な世界のルールを暴く(作中では主人公は騙す側だけど)お話だったりする。
 ハードSF・ソフトSFというジャンル分けがあれど、どちらにも該当しない作品やジャンルをまたいだり行き来する作品はどう呼ぶ? という問われたらどう返答するだろう。僕はそんなの幻想文学と呼べば良いじゃないかと思ってしまうのだが、「ポリッジ(おかゆ)SF」と名付けたのが夏笳という作家で、そのポリッジSFを体現したと思われるのが「百鬼夜行街」。読めばわかるがケン・リュウの「良い狩りを」「烏蘇里羆」的なファンタジーとSFの融合のようなことを行っている(そのものズバリは次の次「龍馬夜行」の方が近いけど)。しかし今作品は単なるファンタジーとSF的ガジェットの融合だけでなく、そこにAIの人格や「本物」の人間の条件という最先端の問題を組み込んでいる。
 「童童の夏」(夏笳)は介護問題を扱った作品。ザ・技術発展万歳、ハッキング万歳とも言うべき技術発展とそれがスタートアップで広がることで社会が変革していく有様を肯定的に捕らえていた。そもそも後の「神様の介護係」(劉慈欣)と共に親の介護は子が行うべきみたいな東アジア特有の儒教イズムが根底にあって、これが欧米SFならもっと違う展開になったと思う。それはともかく、少子高齢化により介護不足が深刻化する中、解決策がAIではなく中に人間が入ることによる遠隔操作型ロボット(ついでに子供のお守りもできます)というのはユニーク。これって寝たきりに近い四六時中面倒を見る必要のある老人には不向きだけど、さすがに中国でもそんな人らはケアハウスに預けるのだろうか、と気になった。この遠隔操作による介護ロボットという発想も面白いが、この作品では何とその先として介護ロボットを老人が遠隔操作することで老老介護を実現させるという手段に出てしまう。いや、作中ではなし崩しに肯定的に広まってるけど、介護業者として必要な安全面の保証とかされてない(はず)なので、実はヤバいだろう。……冒頭でハッキング万歳と評したのはそういうことで、技術を通じて社会を変革させることへの信頼感というか積極性が、この作品では前面に出ており、深センの発展とか合わせて考えるとこのイケイケムードが中国らしいと感じた。
 「龍馬夜行」(夏笳)は先に「童童の夏」で書いたようにスチームパンク的作品。人類が死滅した世界での機械仕掛けの龍馬と蝙蝠の行脚は、やはりAIの人格という問題を描いている。中国的や物語とSFガジェット満載なんだけどどことなく現実感のない龍馬と蝙蝠が語るお話。最終的に龍馬が天に召されるところも含めておとぎ話みたいな感覚があり、確かにこれはSFのポリッジなんだろうなと納得した。
 「沈黙都市」(馬伯庸)は一言で表すならディストピアSF。AIによる検閲効率を高めるため、インターネットの書き込みは禁止用語ならぬ使用可能語(作中では「健全語」と表現)しか使えず、さらには他人と会話するのも検閲機能がついたマスクを着用しなければならないというコテコテのディストピア物である。面白かったのは、ディストピア物は主人公などに身の危険まで迫ってきてディストピアを打ち破る展開が定番だと思うんだけど、この作品ではガス抜きができる秘密クラブを見つけてそこで満足してしまう所だ。その秘密クラブは実質上エリートによるエリートだけが入れる集まりで、会話だけでなく肉体的にも「自由」に交わすことができる。そのため主人公が恋愛感情に悩むなど日本で言う部活モノみたいな微笑ましい光景が中盤まで繰り広げられてしまう。外では検閲が行われているという世界観でだ。もちろんそれは終盤の急転直下な展開を際立たせるためのもの。皮肉にもプログラマーである主人公が開発した機械によって秘密クラブは知らぬ間に摘発され、ついには使用可能語も0となり、交わす言葉もない……というラスト。英米のSFならディストピアを聞くと反対運動を起こしたり、その気でなくとも反政府運動に取り込まれたりして体制と対峙する主人公/展開が定番と思っていたため、今の居心地が良ければそれで良いと言わんばかりに特段体制へのアクションを起こさない主人公は新鮮だった。将来的に使用可能語は0になるのは作中に示唆されており、それにも関わらず主人公は秘密クラブでガス抜きができる特権性。自分の身に体制の手が伸びて初めて反体制運動を考える(しかしその想像も具体性を欠いており僕から見たらかなり危うい)後手後手さは政治と暮らしが直接繋がって「いない」感覚を上手く表現しており、現在の中国の政治を考えるとまさに中国らしいと思う。とは言え、実は日本も政治と暮らしが分断されており、この作品が日本を舞台にしていても成立すると思うのだが。
 もちろん中国SFだからと言ってなんでもかんでも政治や体制と結びつけるのは間違いだし、つまらないわけで、「見えない惑星」(郝景芳)なんかはひたすら想像を広げ未知の惑星の姿を描いた作品と言えよう。ケン・リュウ的には「選抜宇宙種族の本づくり習性」「上級読者のための比較認知科学絵本」に似ている作品であり、マイクル・コーニイみたいに適度なストーリーとロマンを与えればSF要素も含めてかなりの傑作になりそうな異星の姿を複数ブチ込んでスタニスワフ・レムみたいなアイデア集SFにしてしまったのは、作者の自信の現れだと思った。作品の性質上、ストーリーというストーリーがないので紹介しようがないが、これでもかと不思議な惑星とその住人の生活が描かれ、読んでいて楽しかった。
 同じ作者が書いた表題作の「折りたたみ北京」(郝景芳)。これなんてまさに中国……とは言わなくとも、中国のような発展している国でなければリアリティがないと思うんだけど。人口問題を解決するため、時間帯によって都市が折りたたまれ広げられ、それぞれ活動できるグループが分けられている……分けられる基準は貧富というか身分の差だ。物語はお金を稼ぐため、一番貧しい第三層から最も裕福な第一層へ密入国(?)する男を描いているのだが、読み進めるに従ってそもそも第一層の住人もあまり幸せそうじゃないのではないかと思ってしまう。そもそも、第三層自体折りたたみ北京市に住めている点では住めなかった人々に比べてラッキーなわけで(折りたたみ北京市以外の人は作中で描かれないのは不気味だけど)、第三層の人々は貧しくても生きるか死ぬかレベルではなく、将来の展望や社会の把握ができるレベルでは教育を受けているみたいなのだ。もちろん第一層の人は第三層の人々に比べて食事も娯楽もとてつもなく贅沢なのだが、それでも折りたたまれる時間は活動していないはずで、しかも階層の異動は禁止されることも含めて自由が制限されている点では第三層と同じなのである。ディストピア社会において飢えさせず生活レベルをある程度保証し平等にディストピアを与えていれば知識人も労働者も大学生も企業家も警察も満足するみたいなテーマを感じた。ディストピアと書いたが、登場人物が自分たちの社会に一切の疑問を持たないのが特徴である(付記すると、正直、僕はこのような社会なら実現しても受け入れるかなと感じてしまった……)。
 「コールガール」(糖匪)はケン・リュウによる紹介によるとシュールレアルなイメージだの言葉遊びだのと書かれており、まさにその通り。お話を売る少女、お話の化身である犬、究極のお話に魅入られた客の男。確かに寓話であり、何について語っているのか議論はあるだろうが、僕の理解では究極の存在(「世界の本質」と作中では表現されているが、キリスト教的な神だと思う)への憧れについての物語だと理解した。
 ケン・リュウによる紹介でメタファーだと多層的だの夢だの、読むのに面倒臭そうな書かれ方をしていた「蛍火の墓」(程婧波)。とりあえず寓話が指している中身がわからなかったので評することはできない。とは言え、単なるおとぎ話としても面白くて一貫しているので、特に寓話として読まなくても良いかなという気分になった。
 「」(劉慈欣)は、翻訳作品として初めてヒューゴー賞を受賞した長編の1章を短編向けに変えたという作品だ。ケン・リュウの紹介でもやたらに褒めちぎられ、ハードルが上がる中、確かに素晴らしい傑作だと感じた。物語としては何重にもテーマがあり、アルゴリズムを扱った数学SFでもあるし、国を滅ぼすサスペンスの要素も含まれ、さらには歴史改変SFでもある。古代にコンピューターが開発されている、というテーマは数あれど、兵隊に旗を振らせることで0と1を表現して兵隊を大量に集めることで処理性能を増やすというアイデアは恐れ入った。何よりも凄かったのは、やってることが簡単で描写が具体的な分、この兵隊コンピューターは実現可能なのではないかと思わせられる点。たくさんの兵隊がひたすら旗を振って不老不死の真理を計算するというアイデアは中国でないと書けないと思う。
 「神様の介護係」(劉慈欣)は「円」と同じ作者が書いたとは信じられないほどトボけた味わいのある作品だ。介護問題ということで「童童の夏」(夏笳)のように東アジア的介護の姿が描かれるが、介護の対象は地球に生命を蒔いた神様(インテリジェントデザインかよ!)なわけで、これにはキリスト教徒も介護に関わるしかない。作中に出てくる神様と介護する家族が中国系のため中国における介護問題的イメージが離れないけど。この作品が面白いのは、介護問題だけではなく、移民問題をも扱っている点。いや、むしろメインテーマは移民かもしれない。そもそも地球の家庭数が15億(作中)しかないのに対し、地球に現れた神様は20億もの数。神様が持っていたオーバーテクノロジーを対価とし、各国政府はその技術を喜んで受け取り、それぞれの家庭も暮らしが良くなると期待する有様。惑星に生命を蒔いたり星間飛行をする技術がそんな卑近なわけないでしょー。そんなこともわからない大衆は結局、オーバーテクノロジーを今の地球の技術で解読できず、暮らしも良くならないと知るに連れまるで日本昔ばなしの意地悪爺さん婆さんのように神様を虐待し始める。ついには家出した神様がスラムを作って集団生活するという爆笑ものの展開。これぞ風刺。そう、この作品はあくまでも物語として書かれているからどこか老人もとい神様虐待を行っても、移民もとい神様へ差別としか思えない言動を行っても牧歌的な印象があるが、これは誇張しているものの現実でも起こっているのだ。移民として優れた技術や能力を持った人しか受け入れず、受け入れたとしても使い潰したり、それとも人道的理由から移民を受け入れても数に恐れを成してしまうし、そもそも少し数が多いだけで社会がたち行かなくなる移民という制度への疑問。作中でも結局、人間側による問題解決が行えず、神様たちを地球から去らせるという方法に出た。それも「地球人がここまで大変になるとは思えなかった。ゴメンよ」という趣旨のセリフを神様に言わせて。相手が神様ならその知恵を待てば良いのかもしれないが、同じ地球人相手であれば僕たちが何とかしないと何も解決ができないのである。ケン・リュウ的には「存在」「月へ」を連想した。



 中国SFの特徴として、本書を読んだ限りでは家族の有り様かなと思う。欧米の家族に比べると、やはり一族とか先祖などへの意識があり(もちろんフィリピンや韓国でも言える=中国というより東アジア東南アジアの問題意識なのかもしれないが)、それが介護などの問題にも繋がっている感じがある。あとは技術に対する信頼性。日本のSFだったらそこまで技術を善としないだろう、と思えるレベルで技術への信頼性が高い。よく評論が書かれる際に「現代的な問題」という用語で表現されるテーマがあるが、本書を読む限りでは中国SFでは問題が現代的であっても、問題の原因が技術に起因するというケースは少なく感じた。技術そのものではなく人間の運用に起因して問題が発生するという考え方は今の中国SF独自と言えないだろうか。
 とは言え無理に中国というタグを付けて読む必要がないのも事実(ケン・リュウが序文で書いたように)。僕の感想の通り、テーマはすでに欧米SFと同じくらい広く、その中の数編をつまみ食いしても全体像はわからないわけだ。そうは言っても僕なんかは中国系と聞くとウェットさを連想して、数人の作家は叙情性があったと納得するのだから中国系という前知識もあったら楽しめると思うんだけど。
 とりあえず気になったのは、ポリッジSFというジャンルと「円」の元となった「三体」。ぜひとも読んでみたいなあ。