2018年8月10日金曜日

「うどん キツネつきの」(高山羽根子、創元SF文庫、2016)

 「日常系」というのは、キャラクターの他愛もない生活の様子をクスリと微妙な笑いを交えながら描く作品が多い。実は、僕にとっては、キャラクターの日常に挟まれる異様な何かをほのめかすことによって僕たちの普通さ・平凡さの儚さを浮き彫りにする作品と認識していた。いわゆるすこし・不思議系というか、藤子不二雄系列の作品だ。
 本書は紛れもない藤子不二雄に連なる「日常系」である。
 最初の「うどん キツネつきの」は確か年刊日本SF傑作選で読んだことある気がする。その時はまだ奇妙な味というかストレンジ系に目覚めてなかったから、拍子抜けした覚えがある。3姉妹が変な姿の生き物を「うどん」と名付け、飼う様子を10年以上描写した物語。もちろん大河的な描写ではなく、特定の時間の特定のエピソードを4つ描くだけなのだが、ペットの「うどん」が誰からも違和感を持たれず犬として3姉妹の生活に馴染み、しかもそれぞれのエピソードでも脇役の立ち位置しかないのは面白い。ラストシーンで「うどん」が何だったのかわかるのだが、そもそもこの作品はその手の推理を楽しむ小説ではないし、そして「うどん」の正体がわかるシーンが夢や幻なのではないかという理解もできてしまう。本作品のテーマは、側にいさえすれば中身が何でも良い存在である「うどん」を通じて、人がペットを飼う理由を探すことであり、それも理由をズバリ書くのではなく仄めかしてぼやかして、やっと読者に伝えるのだ。
 「うどん キツネつきの」で著者の作風がわかったところで、「シキ零レイ零 ミドリ荘」もまた仄めかしの作品である。多言語小説と呼ぶべきか、関西弁や移民の話す日本語、ネットスラングなど標準語でない言葉が大量に投入され、人間の相互理解がいかに不安定なものなのかを描写した作品。なんだけど、実際に作品にしてしまうと、いわゆる「役割語」の見本市にしかなっていないのが残念。最近話題になった小説の中の女言葉に関連し、この著者は女性の話し方に女言葉を用いず、その意味でリアリティがあったんだけど、中国人や東南アジア人(ベトナム? フィリピン?)がいかにもな外国人喋りをしているのがダメである。ネットスラングにしても、思いっきりギャグで書くなら良いのだが、多言語の1つにネットスラングってちょっと安易だよね。
 気を取り直して「母のいる島」。16人目の娘を産もうとして重体となった母のため故郷の島へ戻った主人公が、島に潜むテロリストと闘う物語。つまり主人公は15人姉妹の1人なのだが、会話が成り立つ大人組以外はキャラクターとして特段の書き分けがされていない。されていないんだけど、読んでる最中はそんなことに気付かずに自然に読めていたところが素晴らしい。姉妹たちの会話が自然だ、てことだからね。それにしても姉妹たちの人間離れした能力に、もしかしたら知性を強化されたネズミか何かかなと思っていたんだけど、特にそういうわけでもなく当たり前に人間だったのに逆に驚いた。絶対に人間以外の存在だと思ってたんだけどなー。
 「おやすみラジオ」はそれまでとは打って変わって不穏な雰囲気で始まる。誰が書いたかわからないネットの日記を読んだ主人公が日記の内容に影響を受け、好奇心から真実を確かめたくなる。その結果、実は主人公のように日記に影響を受けた人間がたくさんいることがわかり、現実に影響を与えてしまう。主人公は唯一、日記の書き手に会って真実を確かめるが、書き手の正体は……というストーリー。最初はネットを使ったホラーかと思いきや、いや確かにミームがばらまかれて個人の行動に影響を与えるのはホラーであるが、最後には文字通りの情報の洪水から避難するための方舟と直球のSFネタ。すごい。情報の洪水もそれまでさんざん伏線がはられており、しかもミームによって動かされる人間に自由意志はあるのかというテーマまで盛り込んでいる。もちろん短編なので問題提起だけなのだが、とてつもなく濃密な作品。
 最後の「巨きなものの還る場所」も「おやすみラジオ」のようにシリアスなテーマ。複数の時空で神話やおとぎ話が絡み、共通点が仄めかされ、最後に荒ぶる神というか怪獣というか巨大ロボットと呼ぶべきか、そんな存在が顕現する。比較神話学や物語論をかじったことをある人にとってはそこまで目新しいものではないが、人間の精神が似通っているみたいなテーマである。

 SFというより幻想小説の色合いが強い。もちろんSFであるか否かなんて意味のない区分けではある。なんでもない日常を丁寧に描けており、徐々に展開する上手さがある(逆に言えば大法螺を吹いたり序盤からトップスピードでクライマックスになる系の作品ではない)。現実に侵食する異物をじっくりと味わいたい人向けに。