2018年10月4日木曜日

「プーと大人になった僕」(マーク・フォースター監督、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ、2018)

 ディズニーが作った原作のその後の映画なんだって。お、それじゃあ、「魔法にかけられて」みたいなブラックコメディなのかな?
 と思っていたが、違った。大人になって忘れてしまった少年少女時代の夢と驚きをもう一度味わいたい人向けの映画であり、心温まる作品であった。あったのだが……。

 大人になって家族を持って仕事をしている(つまり現実を生き成長してしまっている)元少年が、幼少時代のままの友人と共に幼少時代そのものの遊びをする姿は客観的に見ると不気味だよね。

 主人公であるクリストファー・ロビンの娘がプーさんを始めとするぬいぐるみたちに出会って冒険するのが主軸であれば文句なしに楽しく観れたし、クリストファー・ロビンが忘れていたプーさんを思い出すのが主軸であれば素直に心温まる作品として評価できたと思う。単純にプーさんたちがロンドンにやってきて何も知らない住人を驚かすスラップスティックコメディも観たかった。
 今作はそこらへんを微妙に外している。クリストファー・ロビンがプーさんを思い出したことで仕事上の問題を解決し、彼の娘がプーさんたちと交友を深め、そして何と妻も含めた彼の一家がぬいぐるみたちとお茶会する光景がラストシーンとなっている。率直に言って彼の妻がティガーだかイーヨーだったかにお茶をどうぞするのは幻覚のようで怖かった。だってぬいぐるみだよ? しかも微妙に会話が噛み合ってないんだよ? 幼少時代を思い出すってのは大人の姿で子供のように振る舞うことではなくてだな……。

 この映画の評価を大きく下げる問題ではない。事実、僕が観たときに映画館にいた人は満足していたっぽいし。
 ただ、成長したクリストファー・ロビンに対して全く成長しない・できないプーさんたちとの会話が噛み合わないのは当たり前だし、その解決策がクリストファー・ロビンに子供らしい感性を取り戻させる変化ーーつまりある種のさらなる成長ーーなのは悲しいことだと思う。結局、プーさんたちは変わることができず、彼らに会いたければ「100エーカーの森」に行くしかなく、社会に目を背けていつまでも同じような行動を反復するだけのことでしかないからだ。「何もしないをする」というのは現実に追われる大人が幼少期を懐かしんで憧れるだけだから価値があるのであって、本当に大人が何もしなくなってしまったら大問題なわけで。この作品を例に挙げると、クリストファー・ロビンとその妻が子育てをネグレクトしちゃったらハッピーエンドじゃないでしょう?
 こういう大人になっても子供らしさを持ち続ける功罪ってのはディズニーであるからこそ目を背けず描いてほしかった。

 実際のところ、上で述べた問題・課題ってのは別にこの映画だけの問題ではなく、オタク趣味(さらに世間からはオタク趣味の範疇には含まれていなくとも主に子供向けの趣味)全般に当てはまる話なんだ。子供は単に楽しんで受容するだけで良いし、それが正義だと思っている。でも大人があえて子供向けの趣味を楽しむのであれば、批判的な視点は必要だと思っている。その表現で今の時代良いのか? オタク趣味を楽しむ自らの振る舞いは普通の人間として適切か? この作品を見ているであろう子供に対して適切な内容か?
 メインストリームから一歩離れたところにいた1人のオタクとしてあえて言うと、オタク趣味を愛する人はなぜか(本当に何でだろう?)エスカレートしがちで、枷をはめてないと発言も表現も危ういものがあると思っている。
 正直僕も自由に表現される世界が良い。僕個人はブラックユーモアというか、差別系の笑いを好んだりする人間なので、そういうのが社会の底の底であっても問題なく描けるような社会になって欲しい。ただ、そういう社会を実現するためにはまずは責任を引き受けることが必要で、今のオタクどもを見る限りではかなり長い時間が必要だろうと思ってしまう。


 それはともかく。
 この感想文は一貫して大人の立場から書いており、子供の目線は除外しています。本当の「子供」であれば本作のクリストファー・ロビンの葛藤なんてわからないよ。家庭も大事だけど家庭を保ちつづけるためにお金を稼ぐ=仕事で成果を出す必要があるなんてのは。そういう意味で本作は「大人向け」の映画だったと思う。
 子供時代の思い出はノスタルジーだから美しいことを教えてくれた大切な作品。