Tellurは、……現在色々物色中です。

「シュガー・ラッシュ:オンライン」(リッチ・ムーア監督、ウォルト・ディズニー製作、2018)

2019年1月18日  2019年1月18日 
 変化するということへのポジティブさ・肯定的な描写に対し、変化を拒否することへの否定的な展開が極めてストレートだった作品、というところか。たぶん昨今のトランプ現象を念頭に置いているんだと思う。社会全体が「変化」することについて基本的に僕は肯定的なんだけど、個人の「変化」を強制することはちょっと気分良く見れなかった。正直、今作を見る限りではたとえバックラッシュと言われようと、「変化」は急すぎると判断せざるを得ない。

 ストーリーは、前作で友情を育んだ少女と大人の男(明言しないけど、描写を見る限り恋愛だよね……)だが、少女が住んでいたゲーム機が壊れたので修理するためインターネットの世界を冒険する、という物語。途中で少女はすっごくドキドキするレーシングゲームに出会い、もともと住んでいたゲーム機に帰らないと宣言して、彼女と友情を育みたい大人の男は変えるために騒動を引き起こし、最終的に彼女の判断を尊重して分かれるというもの。

 僕としては、少女の行動が一切理解できなかった。壊れたゲーム機には彼女だけが住んでいるわけではなく、仲間たちもいるわけで、それを放り出して自分だけ理想的なゲーム世界に残るってそれは自己中すぎないか?
 いや、そもそも彼女のレースに対する熱意はある種の中毒患者がより強い刺激を求めるのに似ているのでは、と見ていて感じた。彼女が残りたがったレーシングゲーム世界は、レーティング的(最低でもPG-13では? というか明確な暴力描写があるわけだからもっと高くてもおかしくないのでは?)に彼女の年齢(10歳前後だよねえ)と合わない気がするんだけど、ディズニー的にはそれでオッケーなの? それでもって少女がもっとスリルを、もっとレースをと主張するのだから、ゲーム中毒・オンライン中毒は友情を壊すしもともとの行動の動機すら忘れる有害なものなんだなと改めて思った。
 まあ、そういう少女に友情を求める大人の男も気持ち悪いことこの上ないんだけど、変化のない元の世界へという動機があるにせよ、当初の冒険の目的を達成しようとするから好感を持てる。この作品の範囲だと、少女はより強い刺激のためにすべてを捨てるだけのヤバい人にしか見えないし、たぶん今後もっとハードなレーシングゲームが現れたらそれまでの友情も思い出も投げ売って移住しちゃうんだろうなと想像できる。アメリカってそういう文化なんだろうか?
 そういうのが「変化」として肯定的に描かれてしまうと、僕は「変化」に対しては誠実でないと評価してしまう。

 それにしても最後の大騒動を引き起こしたウイルスを捕まえてないはずなんだけど、大丈夫なの? 細かくプロットを見るとおかしなシーンが盛りだくさんあるんだけど。
 ディズニープリンセスだったりストーム・トルーパーの友情出演みたいなどうでも良いシーンでお茶を濁してないで、キャラクターの動機とかストーリー展開にもっと力を入れなければダメだと思った。
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