Tellurは、……現在色々物色中です。

「ビット・プレイヤー」(グレッグ・イーガン著、山岸真訳、ハヤカワ文庫、2019)

2019年3月29日  2019年4月3日 
 久しぶりのグレッグ・イーガンの短編集だぞ! 今度はどんなヤバい世界を見せてくれるのか!?

 最初の「七色覚」はナノテク(技術名はどうでも良い)で人間が本来持っている以上の色覚を密かに身に付けた人々が、周囲の普通の人間を自覚なく見下し、それでも普通の人間による社会で成功できずにいる姿を描いている。超人・超能力者の苦悩を描いた作品と言い表せるのだろうけど、グレッグ・イーガンはそこに一捻り加えており、超人が必要とされる分野はテクノロジーで代替するため超人の仕事がない、という技術に仕事を奪われる社会をも描き出す。普通の人々が持ってない能力は技術開発で対応してしまうので多少能力を身に着けたレベルの超人では太刀打ちできないのはなかなかにリアル。超人は迫害を怖がるのと同時に選民思想をも抱いており、能力を公表しないので余計に仕事にありつけないわけだ。この手の社会をシミュレーションする描写はグレッグ・イーガンの真骨頂である。結局主人公たちは色覚の拡張を社会に開放することで大金持ちになったのだが、逆にいえば自分たちの秘密(拡張された色覚を生身の感覚で捉える)を手放してしまったことでもある。これからは拡張された色覚が社会のスタンダードになるので超人も普通の人間へと戻ることができるのだが、果たして社会性がほぼないと思われる超人第一世代は「普通」の社会で幸せに生きられるのだろうか。ハッピーエンドの中にも苦さをほのめかす終わりであった。
 「不気味の谷」は記憶の大部分を受け継がせ(サイドローディング)たアンドロイドは元の記憶の持ち主とどこまで同じでどれくらい異なるかを論じた作品だ。こう書くと小難しいように思えるが、ストーリーはセレブ脚本家からサイドローディングされ遺産を受け継いだアンドロイドが、遺産を守るため自分が元の脚本家と同等であることを証明しようと欠落した記憶の内容を調べる物語。つまり全体はミステリー風味で、読み進める内にどうやらその脚本家は何らかの殺人事件に関わっていることがわかってくる。SFというよりミステリーであり、正直、サイドローディングされたアンドロイドがわざわざ記憶を調べる動機が薄い気がする。とはいえここはグレッグ・イーガンお得意のコピーされたり補助脳を埋め込まれた個人はどこまで元の本人を再現できているかというテーマなので多少ご都合主義的なのは構わず読めてしまった。サイドローディングされたアンドロイドは元の人格とは別個なんだけど同一のものと言い聞かせるような物言いをするのは面白かった。それにしても忘れていた記憶を求めるなんぞ厄介な事件に巻き込まれるフラグでしょ……。
 「ビット・プレイヤー」は目が覚めたら重力がおかしな状態になった洞窟に直前の記憶を失っており、そこに居合わせた住民と議論する中でそこが仮想世界だとわかり、自分たちが複数の人格から混ぜ合わされたAIだと考え、この世界の管理者の鼻を明かす細工をする……というストーリー。近年のグレッグ・イーガンお得意の独自の物理法則のある世界モノ+マトリックスみたいなお話。もちろん短編だから人類の未来に関わるような深刻な危機が起きるわけではないのだが。最初に読んだとき、重力が変になった描写が全く想像つかなかった。正直数回読んでも頭の中にその風景を描けない。それにも関わらず住民の女性と重力の作用などについて延々と(この議論の結果仮想世界だとわかるのが前半のハイライトだが本当に長かった)議論するところを見ると彼ら彼女らの元になった人格は相当物理学に造詣が深いようで……。別に仮想世界を脱出したりするわけではないから特段これ以上の感想は書けないや。
 「失われた大陸」は「ゼンデギ」みたいなイランモノかと思ってたらタイムスリップ+難民モノになっていた。タイムスリップもドラえもんみたいに時間旅行機に乗って過去や未来に行くわけではなくムーンゲートを通って平行世界に行くらしい。ストーリーが進むとタイムスリップは全くお話に絡まなくなるのだが、これ、タイムスリップを入れる意味あったの? タイムスリップのきっかけになった<学者たち>と「将軍」の争いも現実世界の何かを暗示しているようで正確なところはわからず、そしてストーリー後半はまったく触れられなくなるわけで、全然世界観が理解できなかった。もしかしたら何もわからないまま難民暮らしを余儀なくされた主人公の境遇を読者に追体験させようとしているのかもしれないが、タイムスリップ要素があるせいで必要以上に意味不明なものになったと思う。1日中収容所に入れられて何ができるわけでもない難民の無力感と重箱の隅をつつき一方的に難民に正しさ(あらゆる意味での)を判定する官僚の理不尽さ、何が原因かもわからず難民にならざるを得なく置いてきた家族への心配など普通の小説以上に我が身に降り掛かった出来事的な感覚で読めた。それだけに世界観を混乱させるタイムスリップは邪魔だよな、と思う。
 「鰐乗り」はグレッグ・イーガンお得意のデータ化された人類が人類とは異なる知性とコンタクトするお話。1万年以上生きてて退屈だとか、自分のコピーをバラ撒けるとか、SF読まない人は入り込めないかもしれないが、僕にとっては「ビット・プレイヤー」とか「失われた大陸」よりはわかりやすい作品だった。銀河中心部で今までコンタクトを拒否していた種族の様子を知ろうとする奮闘を描いているのだが、読んでて余計なお世話という言葉が頭の中をちらついた。少し前にケン・リュウの「生まれ変わり」(感想文はまだ公開してない)で異文化とのファースト・コンタクト時の善意の押し付けを描いた作品(「ホモ・フローレシエンシス」)を読んだからよけいにそう感じたのかもしれない。少なくとも、自分たちの行うことに対して一歩引いた議論や思索を行うのがケン・リュウだとすれば、干渉しないことが前提(「シルトの梯子」参照……ってこの作品の感想文は書いてないのか!)だが好奇心と進歩が正義だとしてガンガン進むのがグレッグ・イーガンの特徴かと感じた。この作品でも結局のところ、コミュニケーションを拒絶していた種族が絶対に人類その他種族に関わりたくないことがわかって満足です、的な終わりになっており、それ最初からわかってたことじゃん……と読んでて思った。凡庸な作家なら無理やりコンタクトを取り、それが原因で何らかのトラブルに発展するんだけど、グレッグ・イーガンの場合は変に理性的で相手を尊重するのでお話としてカタルシスが得られないのである(その癖ちょっかいだけは人一倍出すので行き過ぎた進歩思想も碌なもんじゃないと思う)。
 最後を飾る「孤児惑星」は「鰐乗り」の亜種みたいな作品。未知の惑星を調べよう(またかよ!)と現地に赴いて調査をしていると、彼らが属している銀河文明では到底実現できない超技術が存在していることに気付き、現地民とコンタクトを取り……というストーリー。最初は「鰐乗り」テーマの繰り返しかなと思っていまいち乗らなかったが、実は冒険小説としての面が強く非常に面白かった。誰も行ったことがない地に行き、その秘密を解き明かし、隠れていた人々に接触し、すったもんだの末理解し合うという要素がすべて入っている。もちろんその構図は「文明国」の人間が「未開」の現地民を開化させるステレオタイプであり、本作の主人公もその構図から逃れきれていない。僕もそこらへんはわかって上で、でも、未知の惑星の超技術探検ってSFファンの夢じゃないかと思っている。風呂敷を広げまくったSFガジェットと言い、僕の好みの作品だ。


 解説を書いた牧眞司氏はグレッグ・イーガンについて短編の方を評価しているらしい。「ディアスポラ」好きな僕としては賛同できない部分もあるが、思い返せばワンアイデアを中心に登場人物の無駄な議論や内省など人間ドラマを省き人間や社会が変化する様子とその帰結を描ける短編作品は確かに質が高いと思う。本短編集でも長めの作品は登場人物が余計な行動をして無駄にページが増えるからな。他の作家なら人間ドラマと言い訳もできるが、グレッグ・イーガンの場合キャラクターが冷静かつ頭が良いので馬鹿な行動がそれだけ目につきやすいのだ。
 本短編集の中で一番好きなのは「七色覚」。SF的センスとガジェットと人間ドラマと社会的テーマが違和感なく融合していた作品で何度も読み返せる。SFだからこそ描ける物語であり、このような作品をサラッと出してくるから僕はグレッグ・イーガンが好きなんだよなと改めて思わせてくれた。
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