Tellurは、……現在色々物色中です。

「NOVA 2019年秋号」(大森望 責任編集、河出文庫、2019)

2019年8月28日  2019年8月28日 
 よくわからないけど年に2回出すようになったのかな。2019年の春号はこれ。2019年のSFとしてはどうでしょうねぇ、ちょっと薄いかなーと思ったいたが、果たして秋号はどうなるのか。

 最初の「夢見」(谷川浩子)は夢の出来事が入れ子になって、今は夢か現実か……系列の作品。小説の流れとしては理想的な夢か現実か作品であり、僕はこの手の作品は真面目に考えずに雰囲気で読むことにしてるので、夢か現実かわからない点ではなかなか良かった。
 「浜辺の歌」(高野史緒)は二人称小説であると共に介護をテーマにした作品。老人1人1人に人工知能のコンパニオン(愛玩動物とか人形とか)が付いてて心の支えになっていたり、生身の人間までもがそれなりの数いたりと主人公(?)であるおじいさんはかなり裕福な生活してるんだと思った。よく読むと行動範囲が限られているらしいけど、人工知能という単語から冷たい生活を想像していたら、友達みたいな関係の人もできてるし人間の介護士さんはいるしで充実した生活じゃん。ただ、これはおじいさんの周りは1人で動けて知能も維持できているから理想郷みたいな介護になっているわけで、現実の技術が発展しても今大変な現場では大変さはあまり変わらないだとうと感じてしまった。
 「あざらしが丘」(高山羽根子)は捕鯨とアイドルを組み合わせたらしい。なんで捕鯨? それはともかくタイトルは「嵐が丘」? ダジャレだとしたら次の宇宙サメ戦争合わせて2つ続けてか……。お話は生き残りのためにニッチを目指したアイドルが捕鯨道に目覚め史上最強のクジラと戦うため自らを捕鯨道に最適化して最後の戦いに赴くストーリー。この世界のクジラは捕鯨禁止を受けて人工知能搭載のAIBOみたいなレプリカになっているので捕鯨である意味がないというか……。捕鯨をネタにしたと聞けば読者は環境保護団体との軋轢やクジラを食べる倫理性や伝統文化の保護との対立などを期待するんだけど、この作品はそういうところを序盤でさくっと切り捨てて、ひらすらアイドルの来歴とクジラとのバトルについて描く。政治など大きなお話に踏み込まないのは日常性を重視する「うどん キツネつきの」の作者らしいと思ったが、今作品においてはクジラでなくとも(そう、食べることすら目的ではないのだから)、氷山ハンターなどでも良かったのでは? と思わざるを得ない。
 「宇宙サメ戦争」(田中啓文)はジャン・ゴーレだ! カーク船長やミスター・スポックはOKでハーロックがNGなのはなぜ? ともかく、とりあえずひたすらサメの名前を使ったダジャレに笑っていれば良い。アイデアとしては可能性世界みたいな普通のSFなのでわかりやすい。多少つまらない気もするが、名物のダジャレが変に凝った設定で妨げられるくらいならオーソドックスなアイデアで可読性を高めるのも1つの方法であろう。面白いよ。
 「無積の船」(麦原遼)は前説で数学SFと書かれていた。恥ずかしながら数学SFは初めて読むのだが、数学上の意味合いと小説における描写が致命的な不協和音を奏でていた。数学を学びたいなら数学の参考書を読むべきである、そう学んだ作品であった。もう少し詳しく書くと、数学上の用語をストーリーに絡ませるんだけど、それが何を指しており何を描写しようとしているのか今ひとつわからないのが数学小説の欠点だと感じた。
 「赤羽二十四時」(アマサワトキオ)は野生のコンビニという存在を作り上げ、コンビニの仕事について詳しく書いた奇想小説。でもこの手の小説はSFとかファンタジーとかのファンならマンガも含めれば何となく知ってる感がある。さて、今作品のコンビニとは、野生のコンビニ生命体を捕獲して生体改造を施し地面に埋めて頭部の一部をコンビニ店舗にするらしい。でっかい空想の生き物を獲るの、上の捕鯨小説でも描写があったな。今作品の終盤で本能を取り戻し暴れるコンビニ生命体を獲ろうとする連中がでてくるが、主人公が獲られる側なのを考慮に入れても捕コンビニの描写は「あざらしが丘」の方が充実してると思う。それはともかく、今作品の肝であるコンビニ生命体がどんな存在かいまいちわからないのがマイナス点だと思う。例えばコンビニ生命体が他のコンビニ店舗を襲い「捕食する」(商品を奪う)んだけど、系列が異なるので腹を下して奪った商品を放りやるシーンがあって、生物の食事みたいな説明がされてるんだけど、それなら野生のコンビニはどうやって商品を体内に持ってるんだろう(野生のコンビニが商品を体内に持っていなかったら、本能に目覚めたコンビニ生命体は商品を奪おうとはしないよね?)。野生のコンビニが商品を持っていたとしたら、コンビニ店舗になったときに商品を納品されるのはどういうことなんだろう。野生のコンビニに種族みたいに系列という概念があって、人間社会で餌付けのように系列の商品(プライベートブランド商品)を作っているんだとしたら、プライベートブランドでない商品の立ち位置は野生ではどんな風になっているのだろう。というか、現実世界ではコンビニ商品はスーパーでも売ってたりするので、今作品はスーパーも野生のスーパーとかがいるの? という感じで読めば読むほど設定上言及されてない部分が気になった。肝心のコンビニ店員の仕事も、小売関係以外は宅配便の作業しか出てこないし(宅配便の荷物預かりサービスとか、チケット発見とか、振り込みの受付けとかあるでしょう?)、別にコンビニでなくても良いのでは? 最終的にぐちゃぐちゃになった店内で商品を並べて営業を再開するんだけど、床に落ちたと思われる品をそのまま売るのかよ。コンビニ、ヤバくない?
 「破れたリンカーンの肖像」(藤井太洋)は著者の別作品のキャラクターの前日譚らしい。とはいえこの作品だけでも十分面白い。タイムマシンがメインガジェットなのだが、時間旅行が偶然開くワームホールに左右されるため、狙ったワームホールがなかなか現れずひたすら世界がぐちゃぐちゃになるのが読んでて楽しい。ちなみに本作品の時間旅行とは平行世界への旅行のため、パラドックスなど時間旅行の制約が一切ないので時間軸が混沌になるカオスっぷりが予想できて良い。まあ、全体的には時間旅行SFだからご都合主義だよ。
 「いつでも、どこでも、永遠に。」(草野原々)は大森氏の序文にもある通りワイドスクリーン・バロック。AIによる擬似人格が自分を育ててくれた人間との約束を叶えるため、地球・太陽系・銀河系・宇宙・そらには別の宇宙を支配し、亡きその人を再度作り上げ、永遠の2人きりの時間を作るという物語。こうあらすじだけ要約すると美しい物語っぽくなるんだけど、実際はSF読者好みの下品で下世話な作風である。タイトルがダジャレの「あざらしが丘」の上品さを少しくらい入れてもバチは当たらないんじゃない? と言いたくなった。銀河系を支配できるAIが亡き人をそっくりそのまま蘇らせるために人類の歴史をエミュレートする適当さには良い意味でのご都合主義さがある。他の宇宙があるなら、本物そっくりの亡き人がいて一方AIが途中で壊れた宇宙を探し出して、その宇宙のAIに成り代わった方が本物を再現してることにならない? それはともかく、この作品のもう1つの要素である百合(女性同士の恋愛)なんだけど、前々から僕は昨今の百合ブームはヘテロ男性によるおもちゃではないかと勘ぐっていたが、やはり単なるガジェットでしかないんだなあと確信した。この作品、百合だと謳わなくても問題ない。というか、登場人物を減らして「引きこもりがAIに依存した」でも同じ物語になるわけだ。ろくに描写するつもりもないのに物語に特定の色を付けて読者を惹きつける手法は、性別の非対称性を考えると弄っているだけと言われても仕方ないと思う。SFとしての作品の価値には影響しないけど、小説としては少し評価が落ちる。
 最後を飾る「戯曲 中空のぶどう」(津原泰水)は何回でも読める作品。最初は戯曲かあと思っていたが、そして当然のことながら登場人物の喋り方がわざとらしいというか読むのキツイなーと思ってたんだけど、そのうち慣れてきて、そしたら作品世界をめぐる不思議な感覚に引き込まれた。はっきりと何が起こったか、誰が何をしたのかとは書かれておらず、読者は半分噛み合ってないやり取りをする登場人物たちの会話を読み解かなければいけないのだけど、それがまた不思議な読後感だった。たぶん誰の目線で読んだかで真実が変わってくる(のかもしれないと思っている)。まさに会話劇であり、神の視点の地の文が存在しないため真実はわからず、オルタナティブ・ファクトの時代を表しているよなと感じた。


 全部読み終わった結果、この本は当たりだと思う。少なくとも春号のようにサクッと感想を書いて後は愚痴を長々書いた作品はなかったと思う。今後もこういう水準の作品を読みたいものだ。
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