Tellurは、……現在色々物色中です。

「多々良島ふたたび──ウルトラ怪獣アンソロジー」(7人の著者、ハヤカワ文庫、2018)

2018年7月6日  2018年7月6日 
 薄々感じていたが、僕はウルトラマンではなく怪獣が好きだった。それも悪の組織から侵略のため操られるような目的のある怪獣ではなく、偶然長い眠りから目覚め不機嫌に街を壊す自然災害のような怪獣だ。僕が好きな怪獣作品も結構そういうのが多く(パシフィック・リムとか例外はもちろんあるけど)、「MM9」も初代が好きなのだ。
 実のところ、どうも僕は怪獣と退治するウルトラマンですら怪獣の1種と捉えているらしく、ガメラや正義のゴジラ的な理解しかしていない。怪獣が怪獣を倒すのは単なる縄張り闘いの結果であって、人間はそんな災害に巻き込まれて右往左往するだけの小さい存在に過ぎない。そのため同じ円谷プロ監修の小説であっても「ウルトラマンデュアル」より本作「多々良島ふたたび」に軍配を上げたのは当然のことであろう。
 そう、本作「多々良島ふたたび」はウルトラマン(ウルトラQやウルトラセブン、怪奇大作戦も含めて)に出てくる怪獣に焦点を当てたアンソロジーであり、怪獣の魅力が、さらには怪獣としてのウルトラヒーローが余すところなく描かれているのである。

 1番手の「多々良島ふたたび」(山本弘)はストレートなウルトラマンスピンオフ小説である。ウルトラマンもしくはウルトラQ本編を観ていないとストーリーの前提がわからない。作中での理屈の付け方や真相など正統派なスピンオフで作者が原作を愛しているのはわかるんだけど、もっと自由に書いてもらったほうが楽しかったと思う。
 「宇宙からの贈りものたち」(北野勇作)は……うーん。作者の作品では「かめくん」は好きなんだけど、「かめくん」以外の作品とは相性が悪いのだ。文章のテンポが僕の好みと合わないっぽい。実のところこの作品もどうも僕にとって苦手な部類だったらしく、3回くらい読んでも内容が頭に入ってこなかった……。ごめんなさい。
 「マウンテンピーナッツ」(小林泰三)。挿絵の絵柄も相まってポップな印象がある。「ΑΩ」の再来か!? と身構えていたがそんなことはなかった。調べてみると、「ウルトラマンギンガS」の外伝らしい。とはいえ、当該作品を観ていなくとも(僕は未視聴)特に不都合はないと思う。行き過ぎた環境保護団体・野生動物保護団体に対する皮肉が見られるが、ちょっと単純化が過ぎると思う。常識的に考えて、人的危害が大きいのであればそんな野生動物を保護する動きは高まらないのでは? しかも怪獣はおそらく日本を中心に襲っているはずであり(ここらへん「ウルトラマンギンガS」で説明があったのだろうか?)、地域の特殊性からも免ぜられると思う。一介の環境保護団体が政府すら超越する権限を持っていて、さらに住民を虐殺できるくらいの軍事力と兵力を持っているなんて設定、リアリティがあるのだろうか?(これがマフィアとかならあるあるなんだけど)。テーマは、ウルトラヒーローが人間同士のいざこざに介入することの是非。理屈からいえば人間が怪獣を製造して街に放てばウルトラヒーローは怪獣を倒せないこととなるため、本作の怪獣もそうした方がよりテーマを強調できたのでは? と思う。短編なのに主題が2つあり、どちらも徹底できてないのでちょっと尻切れトンボ気味。
 「怪獣ルクスビグラの足型を取った男」(田中啓文)はやっぱりダジャレ落ちだった。田中啓文をケイブンと読ませた時、「ああ、あれか」と思ったが、予想に違わずあれとなったのでむしろ安心。ダジャレ以外だと日本特撮愛を感じられるしんみりするお話であった。ラストまではへんてこりんなダジャレもネタもなかったと思う(ラストが変と言っているわけではない)。田中啓文氏の作品は語りが上手いんだよな(そしてついついダジャレを読んで脱力する、と)。
 「影が来る」(三津田信三)は怪奇大作戦系列の作品らしい。作品単品で事前の知識が何もなくても読み進められ楽しめたのだが、普通の怪奇小説だった。とはいえ、よく考えたら、ウルトラマン自体、本人ではない存在が本人と入れ替わって生活するというモチーフがあるためドッペルゲンガーとの親和性が高い。一見ウルトラヒーローとは関係ないように見えて、実はこれ以上ないほどウルトラマンのテーマに沿っている点で、読み終わってしばらく考えていたら本アンソロジー1の傑作だと思えてきた。ウルトラマンを意識せずとも読めるので万人におすすめできる。ウルトラマンは影も形も出てこないけどな!
 「変身障害」(藤崎慎吾)はこれぞウルトラマン(実際はセブン)をテーマにした作品、といった感じで興奮する。ウルトラセブンに出てくる退治された宇宙人が主人公とともに悩み、主人公の正体を探るシーンは、絶対に何かが起こりそうな不気味な雰囲気を持っており、すでに完結した作品だからこそできるものであろう。主人公とウルトラセブンが同調する理屈はファン向けの小説だからできそうな原理。主人公が妻子持ちのおっさんであることや、モブキャラとして出てくるかつて敵だった宇宙人の冴えなささは、この作品が紛れもなく大人向けなんだと主張している。
 最後の「痕の祀り」(酉島伝法)はいつもの酉島氏、と書くとアレなのだが、ウルトラヒーローやスペシウム光線を酉島氏的に処理するとこうなったみたいな作品。ウルトラマンが倒した怪獣の後片付けというこの手のアンソロジーでは必須のお話。面白かったのは、ウルトラマンを怪獣の一種として捉えており、スペシウム光線をヤバい光として描いている点。カレル・チャペックの「絶対子工場」が設定の元ネタっぽい。本作品ではウルトラマンを絶対子を放つ存在=宗教的な巨大な存在として描いているため、スペシウム光線が放たれる時周りにいると漏れ出たスペシウム(作中では絶対子)によって解脱してしまう……、というの設定。ラストは先の「影が来る」同様、擬似的な入れ替わりモチーフとしてウルトラマンアンソロジーらしい終わり方だったと思う。怪獣の死体処理をするのでウルトラマンが現れたら駆けつけなければならない(=息子の側からいなくなる)お父さんを見て、息子がお父さんはウルトラマンと勘違いするのは微笑ましかった。本作品中1番のしんみりするシーンだった。設定のぶっ飛び具合も本作品中1番だったけど。

 総括すると、ウルトラマンは怪獣なのだ。それはそれぞれの短編の作者も感じていたらしく、「変身障害」みたいにウルトラセブンは凡百の宇宙人と変わらないし、「痕の祀り」のようにストレートにウルトラマンと怪獣が同一だと描いた作品もある。仮面ライダーを例にとらなくても、やはりヒーローは怪物の1種の方がドラマが生まれて良いと感じた。
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