Tellurは、……現在色々物色中です。

「チェコSF短編小説集」(ヤロスラフ・オルシャ・jr. 編、平野 清美 編訳、平凡社ライブラリー、2018)

2019年1月10日  2019年1月10日 
 チェコのSFの歴史を俯瞰してみた。もちろんこの1冊で全てがわかるわけではないが、おとぎ話のイメージがあり、あのカレル・チャペックを生んだチェコという国のSFを味わってみたかったのだ。
 「オーストリアの税関」(ヤロスラフ・ハシェク)は1912年に書かれた作品。SF的なテーマはサイボーグなのだが、読者としては税関におけるやり取りが印象に残る。どうやら作者はそもそも関税を批判する目的でこの作品を描いたらしく、人工物だらけで税関に引っかかる肉体というアイデアはその副産物だったらしい。風刺のために空想度高めの舞台を用意するチェコ人すごい。というわけで、この短編集が優れているのは、そのような背景をちゃんと作品・作家ごとに書いてくれることで、以下の作品を理解する上でも助けになった。
 「再教育された人々──未来の小説」(ヤン・バルダ)は1931年に書かれたとは思えないほど現代的なディストピア小説。元は長編だった作品の一部を収録したとのこと。子供を産んでも家族から取り上げて国が集団で育てる制度をめぐり、それに反抗する人たちが裁かれる姿を描く。最初は共産主義への批判かと思ったが、チェコが共産化したのは1948年とのこと。すると、ドイツのナチス政権すら1933年なので全体主義をテーマにしたディストピア小説として極めて初期の作品だと思われる。というか、全体主義の悪しき面を予言していると言っても過言ではない。こんな作家を知らなかったとは……。
 「大洪水」(カレル・チャペック)はオチのある小話。取り立てて面白いかと言われると首をひねるが、ナチスの圧迫を受けている時勢とは思えないほど明るい小説であった。
 「裏目に出た発明」(ヨゼフ・ネスヴァドバ)もある種のディストピア小説である。ロボティクスが進み、人々は働かなくても生きられるようになり、人間が就く仕事の価値が極めて高くなり、その結果暇を持て余し何のために生きるのかわからなくなる……まあ労働礼賛小説としての側面がないわけではない。この作品が書かれたのは1960年とのことで共産主義真っ只中。むしろ、こんあ時代に共産主義が目指したような世界で憧れの職業がデザイナーみたいなチャラチャラした仕事とした皮肉っぷりは素晴らしい。なお、この作品はまだまだ価値を失っておらず、ベーシックインカムが真面目に論じられている現代こそ読まれるべきだと思った。
 「デセプション・ベイの化け物」(ルドヴィーク・ソウチェク)は、印象に残っていない……。
 「オオカミ男」(ヤロスラフ・ヴァイス)は吸血鬼と並ぶ民間伝承モンスターである狼男を科学を下敷きにした物語。狂人めいた医師が脳を移植する実験で友人の脳を犬に移植してしまい、その犬(人格は友人)が逃げ出し復讐する様を描く。だが復讐が完了すると、犬(元は人間)は次第に血の味を欲してしまい、夜な夜な犬の本能のままに人を狩ったというオチで終わる。行き過ぎた科学への批判とかそういう印象は受けず、同時代最新(1976年)のホラーを描こうとした感じがある。
 濃厚な作品のさなかに味わう軽やかに見えて切れ味の良い作品が「来訪者」(ラジスラフ・クビツ、1982年)。数ページしかないアイデア小説であり、オチがバレてしまうと面白さが失うと思う。ただ、初めて読むときは「そう来たか!」と感心した。アメリカの普通のSFっぽい。
 「わがアゴニーにて」(エヴァ・ハウゼロヴァー)。解説によるとフェミニズムをテーマにした作家とのことで、確かにジェンダーへのこだわりがこの作品でも溢れていた。また、この作家が得意としたのがバイオというか肉体改造系らしく、その2つが融合してディストピア感満載の独特の味わいとなっている。この作品が面白いのは成人男性の出番が極めて少ないことだ。その理屈は作品内で書かれているが、女性家父長制の全体主義的な団地(クラン)と男性が支配と言わないまでも女性と同じように生きる自由だけど退廃的と主人公から見られる都市が対比され、女性が偉いと作品内で主張しながらその女性コミュニティに潰され自死から逃れられなかった主人公(女性)を描く視線は恐ろしいほど冷たく感じた。共同体への批判は明確に込められており(この作品では共同体=全体主義=女性として描かれている)、この作品が描かれた1988年はまだ共産政権だったのに出版できたのかと驚いた。
 「クレー射撃にみたてた月飛行」(パヴェル・コサチーク)はケネディ大統領の暗殺? をネタにして偽史っぽいものを作るSF読んでる人なら「ああ、あの手ね」というその手の作品。実在した人間をファンタジーの世界で動かす奇想っぷりが売りなのでなかなか表現しづらいのである。
 「ブラッドベリの影」(フランチシェク・ノヴォトニー)は異星人とのコンタクトもので、正直僕には合わなかった……。解説ではブラッドベリに触発されたとか、ネットの感想を読むとブラッドベリが云々と書かれていた。僕は本当にブラッドベリと相性が悪いんだなと感心した。ごめん。
 最後の「終わりよければすべてよし」(オンドジェイ・ネフ)はナチスの反ユダヤ政策を題材にした作品で、2000年発表。こういう描き方でも良かったのかと感心。時間旅行を扱っているがそこら辺の理屈は全く説明がされず、当然タイムパラドックスもなんとなく読者に納得させて終わる。もちろん単なるジャンル小説というわけではなく、ジャーナリズムの非人間性という近年話題になっているテーマと絡めたかなり現代的な作品。なんだけど、なんとなく古きほのぼのとした印象を僕は受けてしまうのだ。テーマ自体は本当に現代の問題を描いているが、それを支える時間旅行というガジェットが昔の作品みたいで……。ぶっちゃけ、タイムパラドックスの設定次第では正反対の結末も描けたので、SFとしては少々粗が目立つ。でもまあ、終わりよければすべてよし! (念のために書いておくと、「終わりよければすべてよし」なのは皮肉と思われる。作中で個人の復讐は果たせたけど、作中の出来事を引き起こした社会の倫理には全く触れていないからだ。ナチズムは全く「終わった」出来事ではなく、ナチズムを生み出す土壌はまだ現代に残っている。2018年にこの作品が翻訳されたのは良いことだと思う)。


 本短編集を通して読むと、全体的にディストピア感あふれるというか、主人公などがチクリとひどい目に遭う傾向が強いと感じる。ただし、実のところ読んでてそこまでひどい目に遭う人たちに同情というか感情移入はしてなかった。キャラクターの性格は、古いお話が多いためかわからないが、かなりあっさりと書き表され、まるでおとぎ話を読んでいる気分だった。本短編集に掲載された作品がどこまでチェコのSFを代表しているのかがわからないが、本短編集を読む限りではチェコのSFは理屈や設定、つまりハードSFへの指向は持っておらず(作中に出てくるSFガジェットの大半は理論が設定されていないことが多い)、あくまで題材として時間旅行や宇宙旅行を選んだという印象を受けた。そのためSFの外見で中身はブラックなおとぎ話というか寓話となる独特の味わいとなっている。
 チェコについて全然詳しくない僕にその理由は思いつかないが、やはり社会主義体制の中で現実をそのまま書いた小説は禁じられており題材をSFというかファンタジーにするしかなかったのだろうかと考える。それと関連して科学というものに対する冷徹というか無関心な視点も英米SFを読んでいた僕にとっては新鮮だった。特にアメリカのSFだと科学や技術に対する信頼があって、それらは人間の生活を良くするものだという前提で書かれている。科学技術への批判はその裏返しのようなもの。日本も基本は同じようで、中国では技術への信頼がさらに凄まじい。一方チェコのSFは全体的に科学そのものに無関心で、だからSFとしての理屈付けが薄く、科学が人々の生活を良くするわけではない的な小説になるのかもと思っている。やはりこれも共産主義に対する反感が原因なのか。まあ、ここで書いた感想は本短編集を読んで受けた印象なので、もっと色々読んでみたいなと思った。
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