2015年2月19日木曜日

「新世紀エヴァンゲリオン」(貞本義行、角川書店、全14巻)

 できれば10年前に完結して欲しかった作品。
 2014年末頃にマンガ版のエヴァ最終巻が発売された。売れ行きは良かったようで、本屋に行くペースが不規則な僕も気合の入ったポップや棚積みを見て知った。
 早速買って、ついでに全巻通して読んでみたが、思ったよりもワクワク感がなかった。劇場版2作の情報を知っているからだろうか。
 確かに、高校生・大学生の頃に一気に読んでいたらとんでもない作品だと思えたかもしれない。エヴァは今でもキリスト教の小ネタとか劇中のアートワークとか深読みできるポイントが多い。読者・視聴者の心に引っかかりを与え、単独では背景の分からない膨大な情報の断片から否応なしに結末への期待を高めた。昔の僕ならこのマンガの最終巻はその期待に応えられる作品だったと思う。
 だが、エヴァの影響を受けた作品を腐るほど浴びたり多少はキリスト教の知識を得た今の僕にとってはどこかで見たテーマの集大成という感じが抜けなかった。エヴァのせいではないのだが(むしろ90年台なのにここまでモダンでいろいろ詰め込んだ作品だったのね、と感心した。90年台のアニメはあまりわからないから平均レベルが不明である)、時間が経つのは残酷だということ。
 久しぶりに読み返して思ったが、ゼーレを描くシーンで演出されるほのめかしだけで会話が進み、全体像が見えてこない手法というのは誰かに強制されて不気味なゲームをさせられる系のサスペンスと同じ(どっちが元祖とか言ってるわけではない)だな。こういうのがわかるだけでも読書や映画鑑賞の価値がある。

「シェアハウス・ウィズ・ヴァンパイア」(2014)

 コメディという前評判のみを聞いて見に行った。某映画館では1月下旬に公開されたのに2月中旬で公開終了となってしまう。皆がミュータント・タートルズに並ぶ中、たった1人この映画を見た。
 座席に座ると他人の会話が聞こえる。吸血鬼について一席ぶつ人、ホラー映画について延々と語る人、パンフレットを見ながらツッコミを入れる人。その内の半数弱が女性であったことに驚いた。話の内容は非常にマニアック。そうだよな、この時期にこの映画を見に来る奴は変人だよな。何で僕はこいつらに囲まれたのだろう。

 映画が始まると普通の映画と異なることに気付く。そう、この映画はフェイクドキュメンタリー形式なのだ。物語の所々に登場人物のインタビューが盛り込まれている。警察のガサ入れや登場人物の死という意図しなかったハプニングもある。前者は警察がカメラに気付き愛想笑いをする定番の展開、後者はカメラを止められる定番の展開。テンプテーションアイランドなどこの手のリアリティ番組が好きならニヤリとする場面も多いだろう。
 一方で物語の進み方は本物(という書き方も変だが)のフィクションと異なりメリハリがない。場面展開や事件の勃発が盛り上がりのないまま唐突に起こる。伏線という概念はない。パンフレットを読むと、この映画はほぼ全編アドリブで行われているらしく、それが原因なのだろうか。いくつかのシーンの寄せ集めという形になってしまい、それがドキュメンタリーっぽさなのかもしれないが、物語としては通し見がきつい。登場人物と設定を共有したスケッチを複数収録したシチェーションコメディ番組といった形だ。

 ギャグはクスリとさせられるものが多い。最終絶叫計画とは違い、ホラー映画のようなババーンとしたギャグやパロディはない。ふとした瞬間に波長の合う人だけ笑えるネタが多く、睡眠不足の時は見逃してしまうだろう。テーマが吸血鬼であるため流血シーンもあるが、そのショッキングさすらギャグとなっている。こびりついた血を汚く感じる吸血鬼を見ると現代人の過度な衛生観念に思いを馳せることになるだろう。

 映画の終わりも唐突である。クライマックスの爽快感が感じられなかったので時間が経つのが早かった。また、ドキュメンタリーという形式上、現在進行形で起きている問題は何も解決していないことは仕方ないと受け入れよう。とりあえず吸血鬼ハンターの結末はどうなった。それと町の吸血鬼協会との関係はどこまで修復できたのだろう。

 終わりなく続く日常ってこんなのだろうなとふと思う。死者が出たり仲間と喧嘩するも、その他のエピソードと並列の扱いで淡々と進む。盛り上がりもなくただひたすら生を謳歌する彼らはまさに裕福な死者である。

「0ベース思考」(スティーヴン・レヴィット&スティーヴン・ダヴナー、ダイヤモンド社、2015/2/13)

 最後の章にこう書かれている。
「ウィンストン・チャーチルは、じつは歴史上最も偉大な『やめちゃった人』でもある。」(略)「どんなに希望のないときでも、チャーチルはヒトラーに1ミリも譲歩しなかった。」(略)「チャーチルが本当に必要なときに最後まで戦い抜く、不屈の精神を培うことができたのは、それまでの長い年月のあいだ、いろんなことをやめた経験があったからなんだろう。そうするうちに、何を捨て去るべきか、捨て去るべきでないかを見きわめる目をもつようになったのだ。」
(pp.271-272)

 この文はウィンストン・チャーチルが第二次大戦でヒトラー率いるドイツに徹底抗戦したという「やめなかった人」としてのエピソードを紹介した上でのちゃぶ台返しである。ある行為を「やめ」ずに続けることは時として不利益があるんだよ、国家など責任ある立場ならともかく個人なら別に「やめ」ても構わないんだよ、という文脈としてチャーチルを「やめなかった人」と位置づけていたのだった。書き手はいわゆる三十六計逃げるに如かず的な処世術を合理的とみなしており、でもウィンストン・チャーチルの優れたところは逃げてはいけない局面を見きわめるところだと言いたいのだろう。それがこの本の最大の欠点でもある。


 この本はそれまでのシリーズ(ヤバイ経済学=経済や統計を実際に調べてこんなことがわかりました~)とは異なり、思考術についての本である。一種の自己啓発本だ。
 当然、ヤバイ経済学シリーズの筆者たちだから、凡百の使えない思考術本とは異なる視点からのメソッドが書かれているのだろう、と期待する人は多いだろう。実は僕、今までのヤバイ経済学系列の本だと思ってたよ……。
 それはともかく、読み進めると「普通」の思考術本と代わり映えしなくなる。多少数字を元にした思考法が強調されているくらいか(と言っても、それが彼らの主張なので数字云々は特段のセールスポイントにはならない)。

 僕がここであまり良い感じの書評を書かないのは、肝心のことが書かれていないから。
 具体的には、最初に引用した逃げる局面と逃げてはいけない局面の見極め。冷静に考えると普通の人間には判断できないよ。いや、筆者たちはその少し前に埋没費用と機会費用という形でコストを比較せよと言う。それはわかる。迷っている人は誰でも多少は比較するだろう。でも普通の人は機会費用なんて計算出来ない。

 この本のいやらしいところは、意思決定を行う上で具体的手法や思考の流れが書かれていないところだ。
 97ページ、ドイツの村毎の収入格差が大昔の地域ごとの宗教の受容と関連があるという例を見よう。なぜ、エライ人は現在の収入格差と大昔の宗教が関連すると、しかも偶然なんかじゃないと気付いたのか……それは書かれていない。ひたすら研究した成果っぽく書かれているが、それは思考術の答えとしては不十分である。

 このような感じでいまいち納得できなかった。天才は発想も天才だから結果を出せているんだねーというのがわかったくらい。
 思考術について色々具体例があるが、どれも成功した例ばかりなのもマイナスポイント。当然、デメリットもあるし(彼らの出すデメリットは、著者2人がイギリス首相の前でも「0ベース思考」を行ったせいで政府から白い目で見られたなどのエピソードを始めとする武勇伝しかない))、思考術が有効に働かなかったことだってあるはずだ。使える場面と使えない場面を正しく見極めてこそ道具として信頼性が出ると思うのだが、この本には良いことしか書かれていない。


 最後に、章ごとのテーマを他の自己啓発本と比べてみよう。恐ろしいほど一致するはずだ。ある意味でそれが前のシリーズに比べて面白くなく感じた理由かもしれない。だって主張としては他のクズ本と変わらないんだもの。彼らが目指すべきだった「0ベース思考」の本は、例えば「その数学が戦略を決める」(イアン・エアーズ 、文春文庫、2010/6/10 )がある。
 僕は彼らに考えの哲学ではなく、考えるツールを求めていた。どうも失敗だったらしい。