Tellurは、……現在色々物色中です。

「不思議の国の少女たち」(ショーニン・マグワイア 著、原島文世 訳、創元推理文庫、2018)

2018年12月3日  2018年12月3日 
 ファンタジーとは逃避文学だ……との主張は耳にタコができるくらい聞いているが、それでもやはりファンタジーに、つまり異世界に行って冒険する物語は興奮するものだ。一応書いておくと、ここで考えている「異世界」とは文字通りの場所的な異世界だけではなく非日常の出来事のようなものも含んでいる。後者の具体例は理の外の力を得て非日常の事件に巻き込まれる「メアリと魔女の花」だ。
 つまりつまらない日常から超常的な事件に巻き込まれ、秘めた力で解決し、少しだけ成長して再び日常に戻るというプロットを僕は(というか僕たちは)愛してきたのだ。

 さて、本とか映画とかなら異世界に行った女の子や男の子は無事に戻ってきました、という一文でハッピーエンドなのだが、人生はその後も続く。そして僕たちは今まで気にしなかったが、異世界に召喚された子供たちはその後どのように育つのか、そういう作品もあって良いのではなかろうか。シリーズものだと異世界に行く子供は何回も異世界に行ってしまうが、なんでそのようなことが起こるのだろう。彼ないし彼女はその異世界についてどのように考えているのだろうか。
 そんな「戻ってきた後」を描いた作品が、本作である。

 かつて異世界に行った子供たちは必ずしも幸せにはなっていない。その異世界の経験は妄想や夢の類と両親にまで解釈され、治療と称して同じような境遇の子供たちが集まる学校に入れられてしまっている。そのような学校が本作の舞台なんだけど、様々な異能を持つ子供だけを集められ、教師ですら異能持ちって設定、日本のサブカルチャーでもよくあるよね……。
 面白いのは、本作の子供たちは「不思議の国のアリス」だったり「ナルニア」だったり、クラシックなファンタジーを想定しているのか、子供たち自身はそこまで明確に異能を持っていないこと。異世界に行った描写やその後遺症は丁寧に書かれているんだけど(異世界の思考や話し方のバリエーションは序盤のハイライト)、指から炎を出したり空中に浮かんだり文字どおりの石になったり相手を石に変えたりみたいな超能力の描写はほとんどない。はっきり言うと、読者としてももしかしたら子供たちは本当に妄想しているだけなのでは……と考える余地があり、リアリティのバランスは非常に上手いと思う。まあ、そのために後半で骨使いの少年が実際にアクションを起こす描写が僕としてはちょっと本作品から浮いていると思ってしまったのだが……。

 それはともかく、戻ってきた子供たちはもはや様々な意味で現実世界に馴染めなくなってしまう。成長期に長期に渡って異世界で育ったという面もあろうが、彼ら彼女らにとって異世界が本当の自分になれる世界・故郷そのものであるためでもある。そのため子供たちは現実世界に帰ってしまってももう一度異世界に行きたいと願っているし、それが叶わない残酷さに傷ついてもいる(ファンタジー的なお約束を考えると、誰かのエピソードでもあったが異世界の禁忌を破ってしまったから異世界から追い出されたのだろうな)。異世界への思慕がまるで何らかの依存症みたいな感じであり、異世界に行く描写がワクワク感を感じられない無機質なものなので、僕はファンタジー世界に喚ばれるというよりも神隠しに遭うといった印象を受け、異世界に恋焦がれる=死に向かいたがると解釈した。正直、人にもよるのだろうが、この作品で描かれる異世界に行ってみたいと思う人っているのかな。死だのナンセンスだの、幼い僕なら楽しく感じたのかもしれないが今となっては厄介そうな世界である。

 たぶんこの作品は異世界に行って戻った子供たち、を通じてファンタジーに憧れ溺れて現実世界に生きる僕たちのことを描いているのだと思う。かつてファンタジーに憧れた僕たちは機会があればもう一度ファンタジーの世界に耽溺したいと思ってるんだけど、それが叶わないことも知っている。校長先生は何度も異世界に行ったけど、成長してからは次に異世界に行けるのはボケて道理がわからなくなってからと書かれているではないか。そしてそのファンタジーが現実逃避になるほど幸せな世界ではないことも異世界で犠牲になる子供や住人を通じて描いている。ファンタジーや異世界はそれぞれの現実があって、それぞれの日常はう喚ばれた子供たちには合うのかもしれないが、客観的にはディストピアなのだ。そう、現実世界が異世界から戻った子供たちにとって地獄であるのと同じ様に。
 それでも僕はファンタジーが好きなんだけどね。それぞれの意味で現実を描いた新たなファンタジーとして楽しく読めた。
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