2017年2月28日火曜日

日光紀行

 2月11日(土)から14日(火)まで4日間、日光に行ってきた。目的は1人になること。今でも十分1人だが、パソコンもスマホもない世界でのんびり過ごそうと思い立ったのだった。
 朝東京を出て、JRで昼頃宇都宮に着き、宇都宮で餃子定食を食べた。宇都宮駅周辺は駅ビルがあったのだが、喫茶店のチェーン店を探し、見つけられないまま駅近くの大型ショッピングセンターへ。その中にかなり広めの本屋があったので、数冊買ってしまう。本当なら喫茶店とかに入ってのんびりと読みたかったのだが、仕方がないのでショッピングセンター内の休憩広場で読む。他に勉強してる子供が1組。あとは待ち合わせの女性だけ。せっかくの土曜で誰も使ってなくて良いのかな、でもだから僕がマンガ読めるわけで……と思いつつマンガタイムを数時間取る。
 何でこんなことしてるかというと、僕が泊まる所は個人が経営するゲストハウスで、チェックイン時間が16時以降と厳密に決められているからだ。なのでそれまではせっかくの宇都宮駅を満喫せねばならない。
 数冊読んで3時間ほど費やし、15時半過ぎに出る。宇都宮からは日光線に乗るのだが、何というか、観光用の特別線という感じがして楽しみだった。電車の中もいろんな人が書いた習字が飾られ、外国人向けに日本の文化を紹介してやろうという気合が感じられたのだ。

 日光に着くと、きれいな街だな、というのが第一印象だった。そして人がいない、とも思った。時刻は16時過ぎ。すでに日も沈みかけ、寒さが厳しくなる中。今の時間に日光に来る人なんていないだろうと思い、事実、僕の他は数人しか電車から降りなかった。そんなわけで日光は人が少ない街と思っていたのだが、そもそもJR日光駅を使う人の数が少ないことをその時は知らなかったのだ。
 日光に到着したらまずゲストハウスにチェックインして荷物を置こうと思った。相部屋だったので良いベッドを取られてはたまらない。そう考えて歩きだしたが、それは遠かった。僕が泊まったのは神橋近く。JR日光駅からは歩くと20分以上はかかるだろう。地図を片手に、汗をかきつつ延々と歩き、距離感がわからないながらもとりあえず神橋(そして大谷川)を通ってないので行き過ぎてはいないと考えて歩き続けた。途中で民家が立ち並ぶ地域を通り、そこで猿の群れに遭う。やっぱり猿はいるんだなと思うと同時に、テレビなどで報道される猿に荷物を持って行かれる事件を思い出し、さっさと立ち去る。幸い猿は僕の後をつけていなかった。
 ゲストハウスでは先客がチェックインしていた。外国人の方で、今、日光は外国人観光客が多いらしい。僕が泊まるのも日本人より外国人のほうが多い宿の1つ。確かに6つのベッドの内、日本人は僕だけだった。でもちゃんと世界に通用する観光地になってるんだという妙な安心感を感じる。その夜は、イートあさいというお店で夕食。湯波ラーメンと餃子を食べる。お店の人は気さくで、僕が観光客なのを知ると地図や情報誌を見せてくれた。やはりお店は様々な国の人がやってくるらしく、壁にはお礼の手紙がびっしり。かと言って観光客専門ってわけでもなく、僕が食べていると地元の家族と思わしきお客さんがやってきた。安めで美味しくて満足。特に湯波ラーメンはあんかけラーメンかと思うほどスープがトロトロなのだ。そこに麺が絡みつき、薄味スープがしっかりと口の中に入る。湯波も食感があり、食べごたえ抜群。食べる前は、湯波はヘニャヘニャのブヨブヨだと思っていたが、平べったい麺のように噛める。美味い。でもお昼と晩御飯で食べ過ぎである。明日からは減らそう。
 銭湯も近くにあると聞いており、鶴亀大吉に行ったが、もしかして泊まりでなけりゃ入れない? ふらっとお風呂を借りる雰囲気ではなかったのでゲストハウスに戻ってシャワーを浴びる。その後、本を読みつつ就寝。

 翌日12日(日)は日光東照宮へ行った。途中で神橋を見る。どうもお金を払うと渡れるらしいが、どう考えても川を背景に神橋の写真撮ったほうが綺麗である。
 東照宮へ着いたのは9時過ぎ。東照宮自体は8時から開いているらしく、この時間はまだ人が少ない。昨夜、雪が降ったらしく、積もった雪を巫女さんが掃いていた。マンガで見るような赤い袴と白い着物の巫女さんを見て何か感動。よく考えたら1月1日も神社に行ったんだけど、そのときは人が多すぎて流れ作業だったんだよな。東照宮は真っ赤で金色で、異界の建物の様。山の中の神社だと思って地味な姿を想像していたが、かなり派手である。さすがは徳川家ゆかりだ。陽明門は工事中だったが、他の建物も面白い。昔、小学生のときに修学旅行で来たはずなんだけど、全く記憶にないなあ。おかしい……。
 東照宮は修繕工事で寄付者を集めているらしく、僕も僭越ながら5000円を支払う。

 変なおみやげよりこういうのにお金を使うと思い出になる。後日、お気持ちが送られてくるらしく、楽しみ。
 実は東照宮に来たのは、観光だけでなく御朱印を集めるためでもあったのだ。熱心なコレクターではないけど、そこそこ御朱印を集めており、それも紙でもらうのではなく、実際に書いてもらってこそ御朱印だと思っている。幸い、今回の旅はどれも直接御朱印帳に書いてもらう所ばかりで、嬉しかった。
 その後、輪王寺や日光二荒山神社でも御朱印をもらう。その途中、二荒山神社の分社(?)の滝尾神社というところを知り、明日行こうと決意。御朱印自体は二荒山神社で貰えるが(二荒山神社は周囲の人のいない神社の御朱印を代わりに発行しているらしい)、僕は自力でお参りしたところしか集める気はないのだ。
 お昼ごはんをという日本料理店で食べる。湯波の小鉢と鱒重だ。鱒のお重を食べてみたい! なかなか身が柔らかくて美味しかった。お店もモダンな雰囲気で、でも上品である。僕が行ったときはほぼ満席で繁盛していた。
 午後はどこかの喫茶店で本を読もうと思っていたが、何時間も居座れそうなお店が見つからない。さすがに観光客相手のあんみつ屋とか団子屋とかで本を広げ始める勇気はないなあ。東武日光駅まえに日光パークロッジ東武というホテルがあり、1階は喫茶店っぽかったのだが、そもそもやってるかどうかわからん。勝手に入ってしまったけど、誰も出てこないのだ。幽霊ホテルみたいで気味が悪いので外に出る。
 喫茶店もそうだけど、夜ゲストハウスで食べる食事とおやつが欲しい。実は昨晩であった外国人の多くはゲストハウスで料理をしていて、どこで買ってきていたのか気になってたのだ。調べてみると大通り(日光ロマンチック街道というらしい)から少し駅と反対側に行ったところにリオン・ドールというスーパーがあった。まずはここでおやつを買い込む。そして何と、イートインコーナーを発見。しかも誰も使ってない。これ幸いとジュースを買い込み本を読み始める。1冊読み切るまで滞在しよう。
 16時過ぎにゲストハウスに戻ろうと腰を上げた。チェックイン時間過ぎた。帰り際、職場の人へのお土産を買った。
 一度ゲストハウスで荷物を置いて、今日はお風呂に入ろうと決意する。JR日光駅近くの日光ステーションホテルクラシックで駅スパなるものを提供しているのだ。要は銭湯である。
 途中、さきほどお土産を買ったお店の近くで揚げゆばまんじゅうなるものを食べる。揚げまんじゅうだ。湯波は……感じられるかな? 正直、湯波は見た目で湯波だと認識して食べるほうが美味しいと思った。
 駅スパはまだそこまで混んでおらず、山登り帰りの人が数人いた。荷物でわかってしまう。久しぶりに湯船に入り満足。露天風呂もあり、お風呂の熱さと外の寒さがマッチしている。
 夜はゲストハウスで軽食を取った。日曜の夜のせいか、昨晩とは変わって誰もいない。観光客は帰ってしまったらしい。どうも日本で働いている外国人が多く、月曜から会社なのだそう。僕の他には台湾から来た人がいて、台湾で日本の仕事を探してるのーとお話をした。日本語上手いなあ。僕も英語頑張らねば。どうも彼女は台湾語・日本語・英語ができるそうだが、台湾ではさらに読み書きできる人々がゴロゴロしてるらしい。ヤバい。

 13日(月)はハイキングがてら滝尾神社など東照宮周辺の山を探索する。確かに無人の神社と言われていた通り、寂れている。そして平日だからか観光客にも出会わない。後々、日光ロマンチック街道沿いの旅館を見ていたら、土曜夜は満室だったのだが、日曜夜は空いていた。当然今日も空きだろう。観光って大変。そして今歩いている神社巡りの道も整理はされてるものの、土曜夜に降った雪が残っている。さてはあまり人が通ってないな。ふとクマに出会ったらどうしようと思ってしまい、早歩きで駆け巡る。
 滝尾神社も他の無人神社と同じように建物が残っている程度だった。近くの白糸滝は綺麗だったな。自称観光ガイド(?)の人がスタンバイしてたが、本当は何の人だったんだろう。観光ガイドなら雪を除けて欲しい。日光二荒山神社で御朱印をもらって帰る。
 お昼はまるひで食堂で湯波丼を食べる。あまりにも湯波が美味しいのでお土産に買って帰ろうかと欲が出る。でも絶対に家で調理すると不味くなるんだろうな。逡巡した末、買うのを止めた。お昼過ぎから雪が降っていて僕にとっては初雪である。
 午後は昨日と同じようにおやつを買いつつ、リオン・ドールで読書。リオン・ドール、閑散としている。車で来てるから地元の人だと思っていたが、もしかしたら観光客なのかもね。日光のこの地域自体、言い方は悪いが人が住んでいるという印象が薄かった。街全体が観光地みたいで、整備・統一されてるんだけど、仕事をするところも人が住んでる雰囲気もないというか。いや、初日に通った住宅地みたいに住人がいるのはわかってるが、あまりにも静かであった。こういうところに一度住んでみたいと思う一方で、何となく大変そうだと感じる。
 夜は数人観光客が泊まっていたが、リビングに滞在する人はいなかった。今回の客はみんな部屋に引きこもりマン&ウーマンである。

 14日(火)、帰る日。だが、朝から大雪だった。昨日、初雪だーと喜んでいたらこんなことになるとは。当初はチェックアウト時間の10時近くまでリビングでテレビでも見るつもりだったが、さっさと電車に乗ろうと考える。神橋からはバスが走っており、JR日光駅へ。着いたらすでに電車が出ており、次の電車は約1時間後。ああ、だからみんな東武を使うのね。電車がすぐに入ってきたので本を読みつつ出発待ち。
 宇都宮駅に着いたのはお昼少し前。やっぱり餃子を食べて東京へ。日光での降雪はまるで夢のよう。日光線に乗ってる最中で雪が降ってる地域と降らない地域がきれいに分かれていたのだ。やっぱり日光は日光の天気なんだな。しかし東北線の途中で大風および風によるゴミが線路に入ったことで電車が止まる。座れたから別に良いんだけどね。やっぱり朝早く帰って良かった。こうして日光の旅は終わったのだった。


 数日後、東照宮の寄附金のお礼が届いた。




このお箸は使うものじゃなくて神棚とかに飾るものなんだよね?

2017年2月27日月曜日

感想文にタグを追加した

 当初は日記&ゲームプレイブログになると思っていたのだ。UOやポケモンやボードゲームで書くことがなくなってからは、日記やガジェットを書く気もなく、適当に好きな本やゲームの感想文を綴っていたら、いつの間にか数が多くなってしまった。これでも小説やマンガは連載中の感想を書かないと決めているのだが。
 というわけで、AnimeComicGameMovieNovelのタグを追加し、今までの感想文も出来る範囲でタグつけし直した。疲れた!

2017年2月24日金曜日

マジカル・ガール(カルロス・ベルムト監督、アキ・イ・アリ・フィルムズ、2016)

 まどマギだ! 長山洋子だ!
 などと宣伝されていたのだが、蓋を開けてみると普通の映画であった。そもそもポスターに書かれている批評家達からのコメントというやつ(当り障りのないことが書かれるアレ)で新房氏や虚淵氏が含まれていないのはともかく、せめて本を出した山川賢一氏くらいがコメントを寄せても良いのに……。こんなところから、オタク向けに宣伝をしていないことがわかる。そしてその判断は正しい。

 そもそもまどマギが衝撃だったのは、「ちだまりスケッチ」という部分のみである。正直、実写映画だとそこまで驚くべき内容ではないことが、この映画を見ると再確認できた。誰かの願いを叶えようとしたら事態が悪化し全員が不幸になるストーリーはブラックコメディとして既視感のあるプロットである。

 さて、この映画だが、事前の宣伝でさんざん煽られていた魔法少女を夢見る少女はほとんどストーリーに関わらない(!)。物語を始動するきっかけを与えただけで、メインのストーリーはバルバラという女性が担っている……。確かにポスターはバルバラ女史の写真だ! 詐欺じゃない!
 つまり魔法少女もまどマギも長山洋子も全てが小道具の1つとなっており、監督としては確かにインスパイアされたのかもしれないが、メインの要素ではないわけだ。これってわざわざまどマギ要素を宣伝する必要あった? まどマギが悲劇だったのは、対価を得ようとした少女が自らの手でそれらをぶち壊さざるを得ないためで、事件に巻き込まれたバルバラ女史が不幸に陥っていく様子を描いたこの映画とは全然異なると思うんだ。
 それはともかく、僕自身は外国人が大好きな勘違いジャポニズムは嫌いなんだけど、ここまでジャパニーズ要素が背景の一部になっているのはそれはそれで悲しく感じた。そもそも魔法少女の文脈なんて日本人でも知らない人がいるのに、ほぼ説明なしで大丈夫だったのかな(魔法少女に憧れるアリシアって娘が父親から衣装をプレゼントされても嬉しがらず、実はステッキが欲しかったと判明するのだが、魔法のステッキなんて解説なしでわかるのか?)。魔法少女や長山洋子の「春はSA・RA・SA・RA」云々は起承転結の起と転に当たる部分で重要なはずだが、スペインでは解説なしでも不満が出ないほどその手の日本文化が浸透しているのだろうか。謎だ。

 映画としては僕の想像するヨーロピアン映画そのもの。説明的なセリフが少なく、画面を見て登場人物の感情を把握させる。最近ハリウッド映画ばかりだったから中々面白かった。有楽町のテアトルで見たけど、これからもテアトルで上映される映画はチェックしようと思った。ただし内容的にはそこまで見るべき点がないと思う。

 それにしてもスペインでは拳銃も大麻もすぐに手に入るのだろうか100万単位の報酬を出せる娼館経営者がそこらにいるのだろうか。突っ込むのは野暮かもしれないが、謎だ(そこがスペインというか、非日本・非日常的な雰囲気を醸し出していて、僕は好きである。舞台を日本にされると萎えるので、スペインで作られて良かった。)。

2017年2月17日金曜日

ネットと問屋買い



 世の中にはグラハムビスケットなどというそれはそれは美味しいお菓子があったのじゃ。
 これを一番食すものは悪魔の呪いに遭う。そのような言い伝えがあり、みなスーパーなるところで少しずつ仕入れ、いつかはお腹いっぱい我が物にすることを夢見てたのじゃ。



 そんな中、愚か者がネットショッピングなるものを駆使して買うことを考えた。周りの者は彼を止めた。誰だって破滅の道に進みたくはなかろう。
 しかし愚か者は愚かにも欲望に抗うことができずにポチってしまった。



 一時の気の迷いは身を滅ぼす。彼が正気に戻ったのは4箱のグラハムビスケットを受け取ったときじゃった。これを買った代償は約5500円。いくら美味しいとは言えお菓子に使うにはあまりにも大きすぎた。
 そもそもグラハムビスケット(チョコクリーム)は定価が120円。スーパーなどで買うと100円+税。お菓子としては安いのじゃ。
 しかしたわけ者は送料・税込みで一袋あたり95円の道を選びおった。確かに安くなった。だが、さすがに60袋は多すぎだろう。1週間に3袋食べても20週間=約5ヶ月残ってしまう。

 そんなわけで皆の者、ネットショッピングはほどほどにな。くれぐれも机上の計算で得になることだけを考えてはいかん。人間には体の限界がある。

2017年2月7日火曜日

「銀行強盗にあって妻が縮んでしまった事件」(アンドリュー・カウフマン、東京創元社、2013)

 不思議な不思議な、物語である。幻想的というか、明らかに比喩の塊で、単に文章を読むだけではこの本を楽しめないだろうと予感させる。

 この本は、銀行強盗、つまり人生の大切なものを奪われた人たちの顛末を描いた物語だ。ただし、その大切なものは今の現状では失われた存在であることが示唆されている。語り手である「僕」の「妻」も夫との出会うきっかけのものを大切に身に付けているが、夫との関係はギクシャクしている。現状で人生にとって欠如しているものが強盗に奪われた大切なものに象徴され、その人生の欠如を回復しなければ不思議な出来事によって破滅してしまう、そんな物語なのだ。
 とはいえ、上にも書いたように物語自体は非常に抽象的で破滅の様子も何かの寓話を読んでいるよう。夫が雪だるまになったエピソードは子供向け絵本のようだし、母が大量に分裂して一斉に風に飛ばされたエピソードはたぶんバッドエンドなんだろうが何となくウキウキする楽しさまで感じさせられる。1つ1つのエピソードはマザーグースのようなよくわからない終わり方をしている。1度本を読んだ後、彼ら彼女らが何を失っていて、その結果どんな終わり方になったのか解き明かすのも面白い(考えてみたら、この謎解き遊びは甲田学人氏の「断章のグリム」に似ている)。

 そんな中で描かれる「僕」と「妻」の顛末は場違いなほどリアリティがある。「妻」は夫である「僕」との夫婦関係がうまく行っておらず、銀行強盗によって(なぜか)縮んでしまう。当初「僕」は問題視していなかったが(恐らく面倒なことを考えたくなかったので問題視しないように努めていたんじゃないかな)、「妻」は解決策を探りさらには自分が消えてしまう日まで計算する。そして、何を思ったか、「僕」にも自分の子にもそのことを伝えていないのだ。
 実は僕も自分の大切な人を数年の闘病後に亡くしており、その人が実はかなり重症だったらしいが誰にも言ってなかった、という経験がある。実は今でもなぜ誰にも言わなかったかわからない。心配させたくなかったのかもしれないが、周りの人からすれば突然亡くなったように見えるわけで、それはそれで辛いのだ。何にせよ、病状を言うか言わないかはその人の選択で、僕は自分の経験をこの本に重ねながら読んでいたのだった。

 実際の所、「妻」のエピソードはある意味わかりやすい。詳細に書かれているので何が「妻」の人生に欠落し何が得られたのかがイメージしやすいのだ。特に地の文は夫である「僕」の語りとなっていて、「妻」を見る視点が徐々に変わっていくのを感じ取れる。「妻」が消えてしまう最終日は、恐らく「僕」も彼らの子供も最後の日だとわかっていなかったはずなのだが、触れ合う時間を大切にしようとする。子供がひたすら「妻」に甘え、「妻」も自分の身を顧みず子供をあやすのは母親ってそうなんだよねと感じる。結果として、心が通じ合え、「妻」は消えずに済んだ。

 そんなわけでハッピーエンド気味ではあるのだが……。同時に不満もある。結局、一家がバラバラにならなかったのは「妻」の死を身近に感じたからであり、何となくこれで良いのかなという気にさせられる。誰かが死の危機に瀕しなきゃ家族はまとまらないの? そうしてまとまった家族をハッピーエンドとして取り上げるべきなの? 個人的にはラストシーンは感動したものの、今挙げた不満があるので、「妻」はこのまま消えて「僕」に後悔させるべきだったと考えている。
 実は物語的にも「妻」は特別な位置付けをされている。実は「妻」は唯一消える日がわかっている人物なのだ。他のエピソードでは消え去るタイミングが唐突に見え、回避は不可能に感じる。もしかしたら注意深く考えれば他の人々も消える日を予見できたかもしれない。しかし、作中では「妻」だけがいつ自分が消えるのかを知っており、そのためにたぶん心の準備もしただろうし、行動にも現れていたと思う。そうして得られたハッピーエンドは果たして良いものなのか考える必要はあるだろう。

 でも、そんなことは重箱の隅を突くようなもので、この作品の肝は不条理なエピソードの数々と「妻」の一家を襲うリアルな喪失の様子だろう。「妻」の消滅が現実のものとして理解する過程、それに伴う行動の変化、家族の葛藤を味わうだけでも十分に満足できる。