2017年3月14日火曜日

「猫戸さんは猫をかぶっている」(真昼てく、双葉社、全3巻、2017)

 最高級の作品である。設定に対する言及・テーマの深さ・キャラクターの無駄のなさ・伏線の張り方・シリアスとコミカルの配分など、どれをとっても1級品。先日、偶然店頭の平積みを見て購入したのだがこんなことがあるから本屋に足を運ばねばならないと強く思った。この本を置いてた書店は今日から三日三晩繁盛するよう祈り続けないといけない。
 ジャンルはラブコメ。僕自身はあまり恋愛がわからないので、もともとはラブコメに興味がなかった。ラブコメと呼ばれる作品を鑑賞するときは短く終わる作品を選んでおり、それは恋愛関係を描くには長いとだれてしまうと考えているからだ(正確には、長いラブコメは恋愛よりもキャラクター劇を描くことにシフトしていると感じられる時が多かった。恋愛をメインに描くなら数巻で終わらないとダレるという持論)。なのでこの作品を買おうと思ったのは3巻で完結するという、ただそれだけだった。あ、あと、表紙が可愛い。女の子の頭の上に猫が乗ってる。あらすじを読んでいなくても、この作品には鋸女神(cf. School Days)は出てこないとひと目で理解させる良い構図である。ほんわかした絵柄で、内容も笑えそうだな。そんな感じで何の気なしに買った。

 読み始めると僕の勘は外れてなかったことに安心した。「猫をかぶっている人の頭の上に"猫"が見えてしまう体質」と公式サイトに書かれているが、それでも過度にファンタジーにならず日常的な少し不思議さ程度で留めてくれている。登場人物は、猫をかぶっていることが100%見えているため人との付き合いに壁を作ってしまう主人公(男子高校生)や、そんな彼が好きになる全く猫をかぶらない少女、常に猫をかぶっているので主人公が苦手意識を持っていたら実は同じくかぶっている猫が見える体質だったもう一人の少女。主人公が高校生活を送る上でこの二人に関わる様をコミカルに描かれており、王道のラブコメって感じである。キャラクターの行動原理にも疑問はない。周囲の人が猫をかぶっていることがわかる主人公が全く猫をかぶらない少女を好きになるのは順当だし、そんな彼が「同士」である常に猫をかぶる少女に出会い振り回されるのはこれまた当然。物語は、では主人公はどのように彼の恋愛が成就するのか、に焦点を当てて動く。

 当初は普通のラブコメだと思っていたのだ。かぶる猫が見えるというのはあくまでも物語の取っ掛かりで(これはもう失礼な話なわけで、申し訳ありません)、話が進むに連れて猫の設定は薄くなるのだろうと。ある意味で猫をかぶるのがわかるって、恋愛によくある心理描写と真っ向から対立していないか? 
 しかしこの「かぶっている猫」の描写は物語のラストまで現れる。登場人物が猫をかぶった際に頭の上に描かれるのだ。それも1コマ単位で。このことによって読者はそのキャラクターが猫をかぶっているとわかり、それゆえマンガでよくある心の声(モノローグ)が少なくて済む利点が出ているのだ。あのモノローグもラブコメっぽくて好きなんだけど、過度に使われるとウザいわけで、今作品くらいのボリュームが好みだな。副音声マンガにならなかった時点でこの設定はすばらしいと考え直した。

 しかも物語は途中から、いや1巻の後半から「猫をかぶる」意味自体を問いかける。そもそも猫をかぶるとは嘘をつくことではない。ほんの少し本音を隠すだけだ。では何で人は猫をかぶるのか。
 それが問いかけるのは新たにヒロインが登場してから。人見知りで要領も良くなくて、マンガの設定上、飛び抜けて外見が可愛いわけでもない地味な少女。彼女が主人公に惚れて、そしてその恋が終わる中で「猫をかぶる」ことの意味が徐々に明らかになる。
 詳細は読んでのお楽しみだが、ある意味で、猫をかぶるというのは好意の裏返しでもあり、それなら主人公が好きになった全く猫をかぶらない少女は果たして……となる。好意を抱くにつれて猫をかぶることを覚えた地味な少女と全く猫をかぶらない少女は対比関係にある。地味な少女は努力して変わっていって人付き合いも普通にこなせるようになった。全く猫をかぶらない少女は一貫して天真爛漫で何事も問題なくこなせる天才型だが、変わることはないのだ。これは多分すごい残酷なことだと思う。物語の中では掘り下げられてはいないが、少なくとも高校生活の範囲内では、猫をかぶらなくても人付き合いを難なくこなせてしまうということであり、それはそれで孤独なのかもしれないなと感じた。恐らくこの全く猫をかぶらない少女は、他のキャラの本音を見抜くような描写があったので、自分だけが猫をかぶっていない=自分独りというのはわかっていただろうに。

 そんなこんなで、最終的にはかぶった猫が見える少年と少女同士の関係性にクローズアップされる。前々から感じていたが、主人公に片思いの人がいて、でも他のもう1人のヒロイン(男女問わず)から片思いをされるタイプのラブコメって読んでるうちに片思い対象のヒロインではなく主人公に片思いをするヒロインに魅力を感じる傾向がある。これは主人公と絡むのが主人公に片思いをするヒロインだからなのだが、今作も正にそうだった。主人公が片思いをする対象のヒロインって物語では掘り下げが不十分になりがちで人間性を伝えきれないのだ。今作はそれを逆手にとって、だから主人公が片思いをするヒロイン=全く猫をかぶらない少女はミステリアスな存在として終わりに至るまで描かれていた。主人公だけでなく読者ですら彼女の本心が読めなかったのだ。それは、高校生っぽい主人公たちとは全く異なる、大人であるということなのかもしれない。最終的に主人公は彼なりの「猫をかぶる」意味を見出し、恋をするという綺麗な描写で終わる。

 無駄なシーンはなく、無駄なキャラクターもいない。恋が実らないことを位置付けられていた地味な少女のフォローも最終巻で怠ることはない(終わってから見直すと、彼女は主人公に惚れたというより懐いただけじゃないのとも思える)。そもそも彼女が猫をかぶる意味を間接的に教える役割を担っているのだ。作者が登場人物を丁寧に描き上げたのは伝わってくる。
 彼らはまた、全員前向きで高校生らしい明るさもある。その輝きはおじさんになってしまった僕にとっては多少眩しいんだけど、でもこのマンガを読んで力をもらった気がする。彼らは若さゆえの行動力があり、告白するかどうかで長々と話を引っ張るなどしない。キャラクターも立ってて3巻で終わってしまうのはもったいないと強く感じたんだけど、逆に3巻でまとまったからこそ濃い内容で読み応えがあるのだ。腹八分目という言葉通りもっと読みたいというくらいがちょうど良いのだろう。



 非常に丁寧に作られた作品だ。猫をかぶっていることがわかるというネタから人間の本心とは何かということまで話を広げている。猫をかぶることは嘘をつくことではないし、そもそも「白い嘘」という言葉がある通り、嘘自体も人間関係を円滑に進める上で多少は必要ではないか。だとしたら、かぶっている猫が見える2人はある意味で不幸なことで、でもそれに折り合いをつけられたハッピーエンドは幸せそうで良い。
 この作品は始終明るく、シリアスはシリアスに決めて、最期には笑えるようにしてくれている。最初に絵柄が可愛いと書いたが、その可愛らしさには明るさがあり、キャラクターの表情や仕草が見ていて安心感がある。実は今、他のシリアス系恋愛マンガを並行して読んでいて落差が激しいというか、辛くなったら読み終わった本書を再読するという読み方をしていて、一種の清涼剤的な効能がある。
 萌え絵というものが苦手でなく、またラブコメ(純愛)に嫌悪感がある人以外なら楽しめるだろう。深読みだってでき、SF作家の書くエブリデイ・マジック系列の人間性について考える作品としても使える。萌え絵としては万人受けする絵柄なので表紙を見るだけでも癒やし効果がある。たった3冊買うだけでこんなに楽しめるのだから非常にお得。
 というわけでぜひとも買うべきだ。買ってこの作家を応援しよう。また別の連載を持っているらしいがぜひとも単行本で読みたい。

2017年3月3日金曜日

コンテンツ鑑賞を趣味にすること

 もう僕もおっさんと呼ばれる歳になったんだ。
 そんなわけで、少し前から自分の荷物を整理していた。
 僕は小説やマンガや映画やアニメの鑑賞が趣味なんだけど、薄々気付いていた恐ろしいことを実践していたのだ。それは、要らないものをバッサバッサと捨てていたのだ。音楽CDはmp3でHDDに入っていれば良い(HDDが故障したときのためにバックアップを取っておこう。不幸にも本体とバックアップの両方が一気に故障したときに備え、ウォークマンに最低限欲しいものを入れておこう。ウォークマンすら壊れたら、そのときは諦めよう)ので、CDは捨ててしまえ。マンガもデータ化して現物は持たない。そもそも買うマンガ自体減らそう。小説は最低限欲しいものだけ書籍で残す。ちくまと河出と講談社学術と中公の文庫は残す。新書とか四六判とA5判とか呼ばれるやつは、時事ネタが多いのでOCRのPDF化決定。たぶん読み返さないだろうけど。ハヤカワ銀背とバンド・デシネは画集として書籍のまま(日本のマンガとの扱いの差は……)。そもそもベルセルクとファイブスター物語と手塚治虫と諸星大二郎と駕籠真太郎とセントールの悩みと他いくつかしか読み返してない気がする。映画はデータ化が一番進んでおり、円盤で持ってるのは初回特典が付いてるものだけ。他は引っ越ししたときに捨てちゃったなあ……。そもそも映画ですらフルでの見返す機会は少ない。データ化したら、お気に入りのシーンだけを眺めるスタイルに変わっちゃった。通しで見なくなったってのが映画業界に与える打撃は大きいかもしれない。
 そんなことをふつふつと思いながら、書籍棚を見る。大昔、ミステリーやサスペンス小説を諦め、それからさらに経ってライトノベルを止めたんだけど、そろそろまたフォローするのを止めるジャンルが出てくるかもしれない。いわゆるSF小説やファンタジー小説、ファンタジー入った文芸をメインで読んでるけど、SFもきつくなって来たかもなあ。奇想を味わうならファンタジー小説の方が面白いからなあ。グレッグ・イーガンとか好きだけど、イーガンの短編集のようなリアリティのあるSFって現実世界を舞台にしたワンアイデア小説に近いからSFのワクワク感ないんだよなあ。イーガンは好きだから今後も読み続けるけど、SFをどうするかはわからん。
 それよりもこちらだ。安部公房、芥川龍之介、岡本綺堂を始めとするファンタジー入った古典日本人作家を読まねば。見栄で夏目漱石とか江戸川乱歩とか志賀直哉とか持ってるけど捨てよう(でも井上靖はしろばんばと西域ものだけは取っておこう)。少し不思議なアイデア成分が足りんよ。ちくま学芸文庫とかも教養として持ってた本の内、半分以上は時代遅れになったりしてるからな。ハヤカワNFもあまりに俗すぎるのはゴミ箱行きだ。文芸は河出と創元さえあれば十分だな。

 こうして考え出すと、意外と言うべきか、やはりというか、古典と呼ばれるコンテンツは強い。古びすぎてしまい、かえってエッセンスだけが強く濾されているのだ。これが現代を舞台にした小説だと、いくらテーマが良くても10年20年したら風俗習慣技術が時代遅れになってしまい読めないだろう。上ではあまり触れなかったが、音楽にしても定番だのヒット曲だのは強い。クイーンのボヘミアン・ラプソディなんか、最近はやったほとんどの邦楽洋楽よりも実験的で若い曲なのだから。
 流行りを追いかけて蝶や蜂のように様々な花の蜜を吸うのも楽しかったのだが、若くもなくなってくると飛ぶのもしんどいんだ。おじさんにとっては最新の設定が詰まった映画よりも評論されつくした白黒映画のほうが見やすいのも事実。
 正直、クラシック趣味はあまり魅力を感じていなかったが、徐々にその面白さがわかるようになって、じゃあ今まで新しいものを必死で楽しんできたのは何だったのだろうと思ったり。これって昔は野菜が嫌いだったけど、おっさんになって居酒屋とかで焼き茄子やピーマンの炒めの美味しさを力説するのと変わらない気がする。

MASK

 ついに寝るときにマスクを付けてしまった。もともと花粉症気味で、僕の場合は喉に炎症が出てしまい、咳をしがちになる。
 さらに、鼻もつまり、特に夜寝るときに口呼吸をしてしまう。2月・3月の寒い時期なんかはそれでさらに喉を壊すという負のサイクルが出来上がってしまうのだ。
 僕の場合、服を大量に着込めば何とかなる生活スタイルで(暖房代ももったいないし)……なんて思ってたら、今年も喉をやられた。毎年喉がイガイガになり、非常に不快なのでなんとかせねばと考えていた。
 そして今年ついに、寝るときにマスクを付けることに決意。すると昨日までのイガイガがウソのよう。やっぱり喉に違和感を感じるが、寒さが原因と思われる焼け付く痛みは緩和された。
 僕はもう、寝るときはマスクが手放せないんだね(季節限定だけど)……。