2018年10月4日木曜日

「あだ名で読む中世史」(岡地稔、八坂書房、2018)

 傑作。西洋の歴史にすこし興味を持つと、二つ名(あだ名)が学術の場でも使われていることに気付く。僕が最初にあだ名を意識したのはリチャード獅子心王だった。あだ名で歴史上の人物を呼ぶのは非常にオタク的な気がするのだが、歴史学者たちはどう考えているのか、いったいどれだけの人々があだ名を持っているのか、それぞれのあだ名の元になった逸話はあるのかなど、野次馬的に知りたい好奇心を満たしてくれそうなので読んでみた。

 内容は、一番始めにあだ名が後世まで伝えられている理由や、悪口ではないのかという疑問への回答や、あだ名が最初に用いられた時期など、西洋中世史に興味を持った人が抱く疑問に簡潔に答えてくれている。さらに西洋史においてあだ名が人物を見分ける効力をカール・マルテルの時代を生きた数人の「カール」の特定によって実証する。歴史ってこうやって研究するんだ、と感動。こう書くと単なる学術書っぽいが、もちろんそんなことはなく、取り上げた人たちの歴史的な偉業やゴシップも満載でエンターテイメント度はそこそこ高い(先行研究の批判や史料検証なども行うので100%楽しい読み物とまではいかない)。もっとも、本文の研究に興味がない人でも巻末のあだ名大辞典(総勢300名、54頁分!)をパラパラみるだけでも十分元が取れると思う。
 本文では当たり前のように出典や参考論文などもかなり記載されており、著者の主張は信頼できると思う。学術的な内容はかなり丁寧に書かれており、先行研究への反論などを本文中で行うほど。一般書ではあるが半ば論文に近い体裁となっている。

 一度読んでもしばらくしたら再び読み返せる面白さ。「カール」の特定は学術研究ながらミステリー的な側面もあり楽しめた。何より西洋史が好きならあだ名(二つ名)の効能について学べるのは重要だとわかるだろう。単に情報を仕入れるだけでも、歴史をテーマにした解説書としても、研究の手法を学ぶ本としても楽しく読めると思う。

立ち読みの思い出

 ふとした時、中学生頃、毎日学校帰りに立ち読みしてたのを思い出した。……念のために書いておくが、あのときはまだ立ち読みが苦笑いで黙認されていた、そういう時代だったのだ。マンガ雑誌はエロも含めて一切シュリンクをかけられてなかった。ある書店では僕と共に毎日、同じようなメンバーが立ち読みをしており、高校生も大学生っぽいのも、フリーターっぽいのも、スーツを着たお兄さんもおっさんもいた。スーツを着た人たちは当然、サラリーマンのはずだが、中学生の帰り時間に立ち読みするなんてどういう仕事だったんだろう?

 ぼくが通ってたのは2つの書店と1つのコンビニ。書店の1つは品揃えもよく、頻繁に通っており、鮮明に覚えている。ここがいつも同じようなメンバーで立ち読みしていた所だ。常に立ち読み客がいたにも関わらず、経営は盤石だったみたいで、僕が中学を卒業してから15年近くお店があり、入っているビルのリニューアルと共に消え去った。一方、コンビニはマンガが入れ替わる頻度が少く、いつの間にか行かなくなったな。そして記憶も曖昧で、たぶん他の思い出と混じっている気がするのは書店のもう1つの方。
 確か昔のマンガのリブートやコアなマンガを読んでた気がするが、これがこの書店の出来事なのか、他の書店でも立ち読みしてたのか、全く思い出せない。書店自体もいつの間にかなくなってしまい、それで通えなくなったのだ。しかもその頃はあまり足を向けてなかったのでずいぶん経ってから閉店の噂を聞いても全く残念に思わなかったし。頻繁に通っていた書店の方は鮮明に覚えているというのに!
 しかし、不思議なことに、思い出として懐かしいのは記憶があやふやな書店の方なのだ。人があまりいなかったことや、古い本が積まれていたこと、親と共に行ってマンガをねだったことなど、すべてが良い思い出だ(親にマンガを買ってもらったのは別の店のような気がするが、他にお店が見つからないんだよね……)。
 えてして、美しい思い出となるのは不確かなものなんだなと、なぜか立ち読みしたはずのマンガが浮かんできて思った。

「プーと大人になった僕」(マーク・フォースター監督、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ、2018)

 ディズニーが作った原作のその後の映画なんだって。お、それじゃあ、「魔法にかけられて」みたいなブラックコメディなのかな?
 と思っていたが、違った。大人になって忘れてしまった少年少女時代の夢と驚きをもう一度味わいたい人向けの映画であり、心温まる作品であった。あったのだが……。

 大人になって家族を持って仕事をしている(つまり現実を生き成長してしまっている)元少年が、幼少時代のままの友人と共に幼少時代そのものの遊びをする姿は客観的に見ると不気味だよね。

 主人公であるクリストファー・ロビンの娘がプーさんを始めとするぬいぐるみたちに出会って冒険するのが主軸であれば文句なしに楽しく観れたし、クリストファー・ロビンが忘れていたプーさんを思い出すのが主軸であれば素直に心温まる作品として評価できたと思う。単純にプーさんたちがロンドンにやってきて何も知らない住人を驚かすスラップスティックコメディも観たかった。
 今作はそこらへんを微妙に外している。クリストファー・ロビンがプーさんを思い出したことで仕事上の問題を解決し、彼の娘がプーさんたちと交友を深め、そして何と妻も含めた彼の一家がぬいぐるみたちとお茶会する光景がラストシーンとなっている。率直に言って彼の妻がティガーだかイーヨーだったかにお茶をどうぞするのは幻覚のようで怖かった。だってぬいぐるみだよ? しかも微妙に会話が噛み合ってないんだよ? 幼少時代を思い出すってのは大人の姿で子供のように振る舞うことではなくてだな……。

 この映画の評価を大きく下げる問題ではない。事実、僕が観たときに映画館にいた人は満足していたっぽいし。
 ただ、成長したクリストファー・ロビンに対して全く成長しない・できないプーさんたちとの会話が噛み合わないのは当たり前だし、その解決策がクリストファー・ロビンに子供らしい感性を取り戻させる変化ーーつまりある種のさらなる成長ーーなのは悲しいことだと思う。結局、プーさんたちは変わることができず、彼らに会いたければ「100エーカーの森」に行くしかなく、社会に目を背けていつまでも同じような行動を反復するだけのことでしかないからだ。「何もしないをする」というのは現実に追われる大人が幼少期を懐かしんで憧れるだけだから価値があるのであって、本当に大人が何もしなくなってしまったら大問題なわけで。この作品を例に挙げると、クリストファー・ロビンとその妻が子育てをネグレクトしちゃったらハッピーエンドじゃないでしょう?
 こういう大人になっても子供らしさを持ち続ける功罪ってのはディズニーであるからこそ目を背けず描いてほしかった。

 実際のところ、上で述べた問題・課題ってのは別にこの映画だけの問題ではなく、オタク趣味(さらに世間からはオタク趣味の範疇には含まれていなくとも主に子供向けの趣味)全般に当てはまる話なんだ。子供は単に楽しんで受容するだけで良いし、それが正義だと思っている。でも大人があえて子供向けの趣味を楽しむのであれば、批判的な視点は必要だと思っている。その表現で今の時代良いのか? オタク趣味を楽しむ自らの振る舞いは普通の人間として適切か? この作品を見ているであろう子供に対して適切な内容か?
 メインストリームから一歩離れたところにいた1人のオタクとしてあえて言うと、オタク趣味を愛する人はなぜか(本当に何でだろう?)エスカレートしがちで、枷をはめてないと発言も表現も危ういものがあると思っている。
 正直僕も自由に表現される世界が良い。僕個人はブラックユーモアというか、差別系の笑いを好んだりする人間なので、そういうのが社会の底の底であっても問題なく描けるような社会になって欲しい。ただ、そういう社会を実現するためにはまずは責任を引き受けることが必要で、今のオタクどもを見る限りではかなり長い時間が必要だろうと思ってしまう。


 それはともかく。
 この感想文は一貫して大人の立場から書いており、子供の目線は除外しています。本当の「子供」であれば本作のクリストファー・ロビンの葛藤なんてわからないよ。家庭も大事だけど家庭を保ちつづけるためにお金を稼ぐ=仕事で成果を出す必要があるなんてのは。そういう意味で本作は「大人向け」の映画だったと思う。
 子供時代の思い出はノスタルジーだから美しいことを教えてくれた大切な作品。

「ミセス・ダウト」(クリス・コロンバス監督、20世紀フォックス、1993)

 ミセス・ダウトを今頃になって初めて見たが頭を抱えた。
 ブラックコメディと言い張ってもとにかくヤバい。今の基準からすればヤバさしかない。
 あらすじは、子煩脳で演技の才能はあるけどこだわりが強すぎて甲斐性のない役者の父親が、ついにフルタイムで働いてる母親をキレさせ離婚される。子供たちは父親に懐いてるが、父親が養えないので親権は母親に、父親は週に一度子供たちに面会できるのみ。母親も子供たちの世話ができないのでお手伝いさんを雇おうとするが、事前に聞かされていた父親は募集の広告をこっそり改竄(!)し、特殊メーキャップを用い妙齢の「ダウトファイア夫人」と偽りお手伝いさんとして侵入するのだった……という内容。
 今のアメリカだと似たような事件が起こりそうですね〜。広告の改竄なんて父親が精神的に危ないことが簡単にわかる良エピソード。実のところ、制作陣はラストに向かうに連れ父親の性格的な欠陥を描写し始め、周囲の人がそれに振り回される構図になっており、主人公である父親こそが危ないのは製作者の意図した通りだと言ってはいるが、それにしても度が過ぎる。

 この作品がダメなのは、実はヤバい父親の印象を視聴者に対して和らげるために母親を悪者に描いているところ。無邪気で子供目線の父親に比べ、母親は性格がきつく現実的で人間的に面白くない。離婚したらすぐに恋人(かつての元彼)もできる始末。子供たちも母親には懐いてないが、そりゃ甘やかし放題の父親なんだからみんな父親が好きだよね。
 母親を悪者にするというのはかなり徹底している。母親が収入を稼ぎ、父親が半ば主夫というのはこの時代にしては一見進んでるように見えるけど、実は父親は主婦業をろくに出来ず母親が結局は家の掃除など家事をしている。父親はあくまで子供たちの遊び相手であり、それもラストシーンでテレビで流れたダウトファイア夫人の姿を見た子供たちに笑みが戻った姿から、テレビと同等の価値しかないことが示されている。
 製作者は劇中で父親に対し「君は演技が上手いだけだね」みたいなセリフを裁判官に言わせており、父親のヤバさに自覚的だと見せているけど、母親に対する当たりの強さでマイナス。
 一方で母親の元彼は最初は視聴者に裏表のあるただの女ったらしに見せかけて、実は最後まで良い人物として描かれている。正直、母親自身より好印象。というか、母親に対してシナリオ上の歪を詰め込みすぎである。母親の魅力が薄いためどうしても父親へ感情移入をしがちである。この父親、母親(元妻)の元彼が唐辛子アレルギーと知ってこっそり料理に唐辛子を混ぜ痙攣を起こさせるようなヤバい行動をしているにも関わらず、だ。映画としても無邪気なエピソードと失敗として描かれているが、今の視点から見ると明確な殺意があったのでは……という疑念がつきまとう。
 そこらへんは本当に時代の成約なのかもしれないが、観ていて引いた。その他、そういえば父親が母親(妻)に対して愛してる系の発言をしていなかったなあ。母親の内面はダウトファイア夫人へ(元夫だと知らないときに)吐露されるが、父親は子供への執着以外感情を見せない。
 最終的に父親が赦されたのは僕はこの映画向きじゃないと思い知らされた。ラストシーン、父親が父親として再び家政婦になるのだが、そこはダウトファイア夫人であるべきだった。製作者がこの父親像を軽く観ているとよくわかったシーンである。