2017年5月17日水曜日

ナノブロックを作ってみた

 初めてナノブロックに触ってみた。普段はレゴブロック専門。
 本屋などでおもちゃとしてではなく、インテリアとして売られているナノブロックは、果たしてレゴブロックを脅かすのか興味があった。
 今回買ったのはこちら。人体模型だ。

 最初に箱を開けた感想はちっちゃい! 大人向けというより、手先が不器用だと大人でも作りにくい。それはわざわざナノブロック用のピンセットが売られていることからもわかる。個人的には、あまりにも小さいのでおもちゃとして作り甲斐はないなあ。
 ブロックの種類もレゴに比べて少ない。全部の製品を調べてはないが、昔の積層タイプしかないイメージ。スター・ウォーズ的な戦闘機は作りにくそうだ。

 作り始めると、インストラクションが簡素であることにびっくり。レゴの丁寧で順番から何から全てを記したインストラクションに比べると手抜き感がある。ナノブロックはパーツが細かいので、本当ならより丁寧に説明を書く必要があると思う。色の違いもわかりにくいし、インストラクションはレゴの圧勝。
 ナノブロックの組み立て(積層)はレゴとは全く異なる。レゴの場合、1ポッチに付けられるのは1ポッチなので、3×1ポッチのブロックの上には3×1ポッチのブロックしか取り付けられない。ナノブロックは3×1ポッチのブロックの上に2×1ポッチのブロックを取り付けられるようなフレキシブルな仕様となっている。まあ、逆に言うと、パーツの保持が弱いということだ。穿った見方をすると、保持力が弱いからパーツを小さくして重量を軽くすることで相対的に保持力を高めているのではとも思える。積層については、ナノブロックは面白い反面、稼働のようなギミックはかなりヤワヤワだ。
 あとはパーツが小さすぎて作ってるうちに目がチカチカすることも欠点だな。インストラクションが詰め込みすぎで、作りにくい上に、残ってるパーツを見て「まだこれだけ作るのか……」と絶望していた。レゴの場合は、「まだこれだけ組み立てられる」という楽しさがあるんだけど。もっとも、ナノブロックのサイズに慣れている人はまた別の感想を抱くだろう。

 インテリアとしてだが、やはり迫力がない。これはナノブロックの宿命だな。人体模型として買ったが、関節が弱そうであまり動かす気にはなれない。おもちゃとしてではなく、モデルを組み立てて飾る用途だろうと思う。

2017年5月15日月曜日

「紙の動物園」(ケン・リュウ 著、古沢嘉通 訳、早川書房、2015)

 面白い。今更読み始めたのを後悔するほど面白かった。何でもっと早くこの作品を読まなかったのだろう、と思うほどである。実は、この作品を読んだすぐ後で次作の「母の記憶に」を注文してしまったほどである。
 一般的な西洋SFとは少し異なる情緒豊かな作品群になぜだか安心感を得たのだが、それは著者が中国系アメリカ人という前情報を得ていたせいだろうか。個人的にはSFというより幻想文学的と読んだ方が良く、それもあってSF特有の無機質さが緩和されていたと思う。
 本書は日本独自の編集ということもあり、著者の作品の中でもトップレベルの物が詰まっている。次の短編集がどれくらい面白いかが愉しみである。

 表題作の「紙の動物園」は有色人種の移民とアメリカでの生活をスパイスにして、移民の母子の断絶と後悔を描いた作品。非常にウェットな作品で……正直、中国系アメリカ人によるSFと冠していなかったら評価が落ちていたと思う。タイトルである紙の動物は実のところ、あまり物語に影響を与えない。本文でもほのめかされていたが、紙の動物たちはあくまで母の記憶を象徴するガジェットでしかない。せっかく紙が動物になって生きているのだから(これって式神みたい)、もっとそこを押し出しても良かったと思う。そして主題である母子の断絶だが、もう1つの重要なファクターである父親があまり描かれなかったせいで片手落ちだと思う。主人公の母親は人身売買さながらに中国よりアメリカに嫁いだわけだが、なぜ主人公の父親は彼女を買ったのか。なぜ彼女に英語やアメリカの教育を施さなかったのか。最初読んだ時には感動したんだけど、でも単純に「泣ける作品」では終われないような黒い部分があり、そこを描ききれていない感じがした。
  次の「もののあはれ」は美化された日本の心が何というか、読んでいてむず痒い。ケン・リュウの特徴として、日本人から見ても日本の風俗・習慣に違和感がないということが挙げられるが、そのため日本に対する微妙な美化が目に付くのだ。この作品もそうだし、歴史改変SFである「太平洋横断海底トンネル小史」だって半ば大東亜共栄圏の思想が半分近く成功しているという意味で美化されているし、「文字占い師」も東アジアの歴史の影を書いていながら日本を懐かしむ部分がある。何も日本を褒めるのが悪いということではないのだが、ネトウヨ的な褒め方でもなく、平凡なおっさんのような何も考えていない褒め方とも違う作者の美化の方向性は、かえって外国から見た日本的な違和感を感じさせるのだ。ところで訳者解説で著者は日本の小説について、主人公は困難を解決するため積極的に行動する方向性とは反対みたいなことを言ってたらしいが、何を読んだのだろう。西洋的な小説と対比したいのでもう少し詳しく知りたい。
 「月へ」はアメリカにおける難民や亡命者の申請を、中国民話的な月の世界に住もうとすることと重ね合わせる幻想的な、しかし逆にリアリティさが重い作品。月の世界が比喩であることはわかりやすかったので、ほぼアメリカの難民申請の作品として読めた。かなり辛い作品である。
 この短編集の中で一番アイデアに驚いたのは「結縄(けつじょう)」。縄の結び目で文字を表現する発想にも、それがDNAと関連する発想にも驚いた。さらに、遺伝子改良された農作物は繁殖できないようにされているので毎年種を買わねばならないというのはたしかナショジオとかで読んだことがあるが、資本主義の権化のようなその作物(しかも落ちに使われる!)と、製薬会社に多額の利益をもたらした縄文字解読が無報酬で収奪されたという対比は見事である。
 「太平洋横断海底トンネル小史」は歴史改変SF。日本の侵略がなく、アメリカとの戦争もなかった東アジア(さらにナチスも早々と失脚する理想世界)ですら起こるアジア人間の人種差別や共産主義者への弾圧を描いた作品。まあ、共産主義者への弾圧はともかくとして、アジア人内の序列は脱亜入欧が保持された世界線なのである意味当然とも言えよう。歴史改変SFなら「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」の方が面白かったぜい。
 「潮汐」は幻想小説。今まで読んだ限りだと、著者はコテコテのSFより今作のような奇妙な味的作品の方が魅力があると思う。
 「選抜宇宙種族の本づくり習性」は宇宙人それぞれの本(記録)の文化を紹介する小品。ギャグSFかと思いきや、記録方式がリアリティがあって、長編にしてみたら面白いかもと思った。特に心が石でできている無機物宇宙人が、子供を作る時に親の心(石)の一部を子供の心(石)の元とし、先祖代々より文字通り心が伝えられるというのはSF的なガジェットとして面白い一方で、儒教的な祖先信仰が暗示されているのではないだろうか。
 そんな中国チックな要素が全面に出たSFらしきジャンルが「心智五行」。でも作中の五行思想ってあまり物語に絡んでない気が……ゴニョゴニョ。この作品の肝は体内の微生物(バイオーム)が人間の性格にまで影響を与えているという仮説で、これはNHKの世界のドキュメンタリーで観た! 著者としては五行思想と微生物とで関連性を出したかったのだと思うが、悲しいかな僕に五行思想の知識がなかったもんでそこら辺読み飛ばしてしまい、単なるバイオームと恋愛小説と認識してしまった。中国らしさでいけば上にも書いた「選抜宇宙種族の本づくり習性」の方があからさまでない分、興味深い。
 さらに、「どこかまったく別な場所でトナカイの大群が」はデータと現実の違いについて描いた作品なのだが、この作品に出てくるデータ人類はそれぞれ親のデータ(心)の一部を受け継いでいて……おお、これも儒教的な祖先信仰ではないかと気付いたのだ。シンギュラリティというソフトウェア化した生命はコンピュータの中で今の人類よりも遥かに発展した科学を理解し、そして3次元の現実では出来ないことまで行える。なぜならデータの世界だから。それと対比して生身の肉体を固持した母親を登場させ、なぜ彼女はわざわざ物質的な体験を重視するのか、データで得ることの出来ない現実の感覚とは何かを描き出す、描き出そうとするんだけど……。端的に言って失敗していると思う。主人公の少女はデータとして生まれたのだから、生身の肉体を持つ母親と同じメンタリティを持つことに疑問がある。さらに、生身の肉体を持つ母親にとってデータの世界が単なるシミュレーションにすぎないのと同様に、データの肉体を持つ主人公にとって物質界とは情報が削ぎ落とされた世界でしかないのでは? 特に主人公は4次元空間で生きていたのだから。
 個人的にはスマホが普及して文字を読む習慣が減ったというニュースを見て、息子に本を読めと説教する凡庸な親父という感じしか持てなかった。精密なシミュレーションが現実でないと言うが、そもそも脳だって人間の感覚器官だって別に現実を正確にフィードバックしているわけでないし……。この作品は西洋人的なオリエンタリズムへの憧憬を感じてしまった。

 「円弧(アーク)」と「波」。永遠の命について描かれた地球編と宇宙編という触れあいだが、それだけではないと思うのだ。僕は宇宙編である「波」が好きだ。それは単に不死であるだけではなく、その先のソフトウェア化した生命や宇宙の一現象となった生命のあり方まで描いた作品だからだ。一方で「円弧」はまだ人間の範囲しか描いていなく、リアリティがある一方でワクワク感は「波」に及ばない。このワクワク感というのはグレッグ・イーガンのディアスポラを初めて読んだ時に似ている。人間から遠く離れた姿を持つ生き物だか何だかわからない存在が、実はどこかで人間と共通点を持ち、彼らの悩みがいつの間にかリアリティをもって感じられる流れ。人間を捨てて実行したプロジェクトが後から開始した人々に追い抜かれ、それでも次のプロジェクトに進む様は「人間」らしさがあって良かった。「波」は長編で読みたいんだけど、短編だから強く輝いたのかもしれない。
 そのグレッグ・イーガンが得意とする意識や認識の問題を主題とする「1ビットのエラー」。宗教は単なる認識の誤りに過ぎないと理解している主人公が、救いを求めて信仰を得ようとする作品である。僕は結構この主人公が好きだ。彼は科学でもって感情を――この作品風に言うなら1ビットのエラー――を引き起こそうとする。単に人間にとって宗教は大切だとか言うのでなく、自分にとって宗教が必要だから積極的に発現させようとする姿。いわば、脳に化学物質を制御できる装置を取り付けて、幸せになりたいからその装置を操作する積極性が好きなのである。
 とはいえ、読めば読むほど、主人公は信仰ではなく奇跡が必要だったのではないかと思える。主人公が求めていた体験は明らかに大半の人間が得られないような、ある意味で神の啓示的なものであり、それがなければ信仰が得られないと主張する主人公は本当は物語の最後になっても神なんて信じてないのだろうなと思う。上で僕は、脳に化学物質を制御できる装置を取り付けるとか書いたけど、恐らく主人公に必要だったのは「偶然」その手の「体験」をすることだったのだろう。宗教を信じられないのもある種のエラーなんだなと感じさせる作品。

 「愛のアルゴリズム」。読んだ翌日、内容が思い出せなかった作品。まあ、普通の「SF」じゃないかねえ。
 「文字占い師」はSFでも幻想文学でもない政治的なテーマの作品。内容については何の知識もなかったので、東アジアについて知らなくてはならないと反省。この作品については一切、偉そうな口をきくことは出来ません。
 最後の「良い狩りを」は訳者が大好きというだけあって、そう来たか! 中盤までは恋愛小説でも妖怪退治小説でも行けるのに、スチームパンクな変身ヒーローにする手腕は見事。それでいて妖怪成分も恋愛成分もちゃんと残っている。アジア的な妖怪が西洋的なヴィランへと新たに意味付けながら「変身」するのはワクワクした。

 正直、著者が中国系アメリカ人で、この短編集もアジア的な情緒が多いという評判に引きずられた感想となってしまった。読んでいて思ったが、妖狐とか月人とか中国の妖怪を現代に蘇らせ異なる意味付けをするスタイルは芥川龍之介にも通じる。同じ中国系アメリカ人によるSFといえばテッド・チャンを思い出すが、テッド・チャンがストレートにSFで、そしてアジア要素が薄いのに比べればケン・リュウはまるで正反対。そのため最初に書いたが、「我こそがアジアン」的な主張が感じられ、実は僕にとってはそれが心地よかったのだが、一方でそれは西洋の目を通じたアジアなのだろうとも思えた。つまり、僕はこの作品集のアジア要素に懐かしさを感じたんだけど、でもそのアジア要素はわざと濃く味付けした人工物なのだろうということ。もちろん人工物だから全くの偽物だと言うわけではないが、この作品でアジアの美や日本の美を感じるのは危ないと自戒する。
 あくまでSFなのに東洋的という点が珍しく、それで高い点数を付けた面もあるので、とりあえず次の短編集を読まねばこの著者の広がりを評価できないだろう。

2017年5月10日水曜日

サディスティックサーカス2017Spring

 もう2週間も経ってしまった。4/22にサディスティックサーカス2017Springを見てきたのだった。今はサイトもクローズされているが、上演前は催し物が紹介されていて面白かったぞ。
 この舞台は初めて見たのだが、かなり面白かったので、ツイッターで流した感想を整理して書く。

 全体的にはショッキングというよりアングラなショーと笑いが多く、非常に楽しめた。でも後述するが、一部本当に流血もののヤバい出し物があって、たしかに20歳未満は入場厳禁だろう。
 会場はパイプ椅子。6時間座りっぱなしだと腰とお尻と太ももが死ぬ。下手するとエコノミー症候群になるので休憩時間は積極的に歩いた。1つのショーは20分程度で終わるので、席から立ち上がるのは比較的抵抗なくできる。次のショーが始まったら急いで自分の席に戻る的な感じで十分。中にはパイプ椅子で眠っている猛者もいたが、かなりしんどいだろうに。立ち見席もあったが、6時間立ちっぱなしはさすがに僕の歳では無理だと感じた。
 物販も行ってるが、フェチ系の画集など「そーゆー感じ」の売り物。中野のタコシェあたりで売ってそうで、アングラは業界が狭いと痛感。スタッフは銀座のバーのホステスさん達? 全員思い思いのセクシーな衣装を着て、でも健全な感じもする。人目を引くのは乳首にシールを貼ったお姉さんだが、個人的には銀色のピッチピチの服のお姉さんがフェティシズムを刺激してヤバかった。結構、スタッフの方と観客で知り合い率が高そうである。お客さんはかなり女性も多く、有名と思われる男性の出演者には黄色い歓声があがったりする(もちろん普通に女性出演者に歓声がかかるのだが)。演目は性に絡んだのが多いが、恐らく女性が見ても楽しめる内容なのだろう。萌えみたいな要素は一切出てこなく、それがまた格好良い。
 1つ目はバーレスクショー。最初だからおとなしめの出し物。ダンスは一糸乱れず美しい。下着姿で踊っているが、まったくエロさはない。
 2つ目は見世物サーカス(の前半)。鼻に釘を刺したり、剣を飲み込んだりとこれぞサーカスって感じ。力持ちのプリンセスが耳や女性器周辺に重いものをぶら下げるショーはそういう技を持った人がいることは知ってたが、いざ目の前で見ると迫力ある。惜しいのはビデオカメラが寄ってくれなかったこと。このサーカスはせっかくビデオが回っているのに、アップにしてくれないのね。このショー以外も微妙にカメラのアングルが良くない。上からとか別に見せなくて良いから、クローズアップしてくれ、クローズ・アップ!
 3つ目はフラフープ芸。落とさずフープを回し続けるのは圧巻。点滅するフープを使うと見た目以上に高速で回してるように見える。女性器をイメージしたマスクを付けてたが、蜈蚣Melibe氏のアノマロカリスだと思った。衣装も綺麗。途中で衣装を脱いだが、あまりのガリガリさに違う意味で心配になった。あと母乳を出してた。
 4つ目は山姥。観客参加型の緊縛ショー? ストーリーはわからないが、縛られ役の人が観客に紐を引っ張られ、ラバータイツと緊縛でプルプルしてた。赤ペンキでウェット&メッシーになり、これは血糊かと思いきや、刃物あるのに刺さなく、あの赤ペンキは何だったのだろう。
 5つ目はジャグラー。剣を4本お手玉にする姿はどこかで見たことあると思ったら、京劇だ。体術も京劇の舞踊そのものだ。でも見たことあるからと言って色褪せない。やっぱり自力で曲芸する姿はすごいとしか言えない。
 6つ目はダンス。最悪。点滅ライトを客席に向けたり(眩しくて目がチカチカする)、即興の痙攣ダンス。これは芸なの? ダンスもバーレスクの美しさ、体術もジャグラーのテクニカルさに比べると落ちる。そういう路線じゃないと思うけど、どうしても比べてしまった。正直、僕はこの芸がすごいとは思えなかったな。
 7つ目はおベガス!というグループ。音楽に合わせてダンス。ノリが良く素晴らしい。ドラァグクイーンの2人が歌もダンスも高水準だった。もちろん他のメンバーのダンスも素晴らしい。新宿で時々出ているらしいので、見てみたい。
 8つ目は見世物サーカス(の後半)。ショーも後半なので過激になる。鼻から口にストローを通す。大きなハサミの刃を1つずつ2人で飲み込む。ガラスを食す、など。一番ヤバかったのは針を体に刺す芸。流血注意のアナウンスが流れ、逆に他の演目でこのアナウンスが流れなかったら本物の流血じゃないのかと安心感。針は貫通してました。見てる内に貧血を起こして途中から見れなかった。自分の限界や苦手ジャンルを知れて良かった。次回見るときは胃の中を空にしよう。ちゃんと出血していて、でも全く痛い素振りを見せないのには驚いた。
 9つ目は豚のラバースーツを着たコント。出血ショーの後で見るとほのぼのしてて良い。中身は豚が屠殺されるって話だけど。
 10個目は切腹芸。流血のアナウンスが流れないのでニセモノだ! でもこぼれ落ちた血と臓物ってどこから出したんだろう。
 11個目。ゲテモノ歌劇。排泄物を投げる演出があったが、これは本物? 乱闘シーンは本当に蹴る殴るしてて迫力があった。寸止めしようとして出来てないのがリアルである。最後に客席に演者が落ちてしまい、ぶつかった客が汚れてしまってご愁傷様である。次にこのサーカス見る時は最前列はNGだろう。
 12個目は本物の緊縛ショー。縛るのって時間かかるんだね。そして縛られる人はかなり体に負担がかかってそう。空中に吊るのも短時間ですませていた。ショーとしては、縛る方より縛られる方が魅せていた。これで出し物は終わり。
 11時開演、5時終了。1つの演目は10分~20分前後で色々あるからどれかは楽しめるはず。性的な演出はあまりなく(衣装を脱ぐくらい)、上品さも感じられる。少し困った点として、会場が7階かそこらだったが、エレベーターの稼働が悪かった。他の階に行くお客さんに配慮したのだろうが、他に客がいなくても3台ある内の1台しか会場に連れて行かない。そして列はビルの外に並ばせる。当日雨が降っていたので、もう少し配慮してほしかった。それ以外、演目は素晴らしかった。大人のアングラ芸が見たければぜひとも行くべし。個人的には1番と8番のサーカスが体張ってて興奮(および貧血に)した。

2017年3月31日金曜日

恋愛マンガ考

 何か、以前、こんなことを書いてたけど、蓋を開けてみたら3月だけでマンガを50冊近く買ってしまった……。本当に一時の迷いで書くもんじゃない。良くも悪くもマンガや小説や映画は僕にとって欠かせないものだとわかっていたろうに。
 今月買ったのは恋愛・ラブコメのマンガが多かった。自分ではかなり苦手だと思っていて、それで、やっぱ苦手だなーと再認識させられたジャンル。もっとも、これ以上にスポ根が苦手なのでまだましな方ではある。
 何で僕は恋愛系のジャンルが苦手なんだろうかと考えたら、もしかしたら僕はマンガを読むときに過剰に感情移入してしまうからかもしれないと気付いた。

 小説でも感情を動かす系の小説は思いっきり全ての登場人物になりきってしまう。フラットに読めるのって幻想文学みたいな不思議系のジャンルじゃないかな。
 マンガに至っては、読者に登場人物目線にさせる技術が発達しているせいか、もろに感情移入してしまう。もう、キャラクターの好悪の感情に共鳴して疲れるのだ。これが「人類の未来は!」的に大風呂敷を広げる作品ならば読んでるうちに自分と作品を切り離せるのだが、リアルな生活・個人的な話題・俗な小道具――つまりは恋愛――をテーマにされるとキャラクターの感情に心を合わせる。その一方で物語の構造を把握しようとするため、冷静に読もうとしているにも関わらず感情は上下するという疲れる状態になる。特にラブコメ系だと偶然を多用するシーンが多いのでご都合主義だと思いつつもドキドキしていた。
 正直、時間が経てば冷静になれるのだが、元々僕はマルチタスクができない人なので感情移入をしている期間はずっとその作品・そのキャラクターのことばかり考えている状態。いやはや疲れる。

 というわけで、やっと今まで読んでいた某作品を相対的に読める状態になった。この作品、まだ完結してないから、次巻が出たらまたこうなるんだろうな。本当に恋愛マンガは苦手である。

「Sing」(ガース・ジェニングス監督、イルミネーション・エンターテインメント、2016)

 ヤバい、良い物語だ。単純にいろんな洋楽が流れる華やかで楽しい作品でもあるし、夢を追うことの辛さや諦めることの楽さと手に入れた時の嬉しさを描いた作品でもある。
 登場人物それぞれの葛藤というのは、人生を多少経験した人間にとってはどれも思い当たるものはある。劇場再興のためオーディション開催を決めたみたいに何の保証もないのにプロジェクトを見切り発車してしまったり、恥ずかしがり屋で人前で歌えないみたいにチャンスを手放してしまったり。でも彼らはちゃんと努力をしていて、それを隠すなんてことはしない。相応の実力もあり、人に見せる勇気も出し、努力もし続ける。だからこそ、オーディションと言うかたちであれ、最後には自分たちの手弁当という形であれ、他人も応援してくれお金には換えられない価値を手に入れる。アメリカンドリームについてこれでもかと言うほど丁寧に描かれた映画だと感じた。

 ストーリーは王道。少しずつ何か欠けたものを抱えている人同士が集まって、大舞台を立ち上げ、挫折し、でも自分のためだけに再度挑戦することでみんなの心を動かす。これが歌のコンテストという題材で描かれている。彼らが抱えている欠落は僕達にとって身近で、形は違えど経験したことがあるものばかりだ。唯一、あの羊の坊っちゃんは行動に緊迫性がなくあまり感情移入ができなかったがそれは些細なこと。
 憎たらしい敵役もいなく、ハッピーエンドになるか否かは自分の頑張りにかかる構成は、いまだに夢を見ている人間としては勇気が出た。同時に、やっぱり何が何でも挑戦しなくちゃ結果は出ないんだよね、とも思う。
 この作品をかつて夢を追っていたであろう映画界の人々が作ったことに意義がある。夢を成した彼らが、まだ夢しか見ていない人間へのエールとして作った作品とも観れ、僕は漠然と挑戦しなくちゃと決意した。具体的な考えは何もないが。

 とは言え、何も考えずに洋楽だけ聞くのも正しい見方だろう。せっかく優れた物語とそれを盛り上げる音楽があるのだから、難しいことを考えずに見ても楽しめる。

「眠れる森のカロン」(茂木清香、講談社、全3巻、2017/3/17)

 いったいどういったきっかけでこの作品に出会ったのだろう。確か可愛らしい絵柄で暗黒童話などというキャッチコピーに惹かれて買った気がする。死をもってすら償うことのできない加害者に、死以上の刑罰を課すシステム。その終わることのない罰――加害者の意識を何度も破壊する暴力なのだが――を見て、被害者は加害者を赦すのだろうか。そしてそもそも社会より認められているこの刑罰の目的は何か。刑罰の管理者はその内容をモニタリングしているが、悪趣味な欲望(作中では殺人鬼コレクターだった)が含まれてるのではないのか。このシステムが暴走する危険はないのか。
 そんな内容が3巻にまとめられた濃い作品である。

 作品のテーマは極めて現代的だ。過失などではなく、故意に、しかも楽しんで、何人も殺人を犯した加害者を社会はどのように対応すれば良いのか。似たようなテーマの作品はいくつもあって、「マイノリティ・リポート」や「PSYCHO-PASS」なんかは予知・予防に重点を置いた。一方、この作品は罰則の強化で対応する。加害者の脳と被害者の脳の残骸をつなぎ、意識をシミュレートして被害者(の意識)が半永久的に加害者(の意識)をリンチするシステムを作り上げてしまったのだ。予防なんかよりもはるかにリアルさがある。何と言っても、予防って確実に予防ができる保証はないんだよね。「確実さ」を謳えるのは結局フィクションの世界だからであり、だとすると予防に力を入れるよりも対策に力を入れるほうが効率が良く、現実もそうなってると思う。とはいえ、犯罪の刑罰にも物理的な限界はある。現実でも周期的に社会的議論を引き起こしてたりする。その1つの結論が、第1巻~第2巻で描かれる上のシステムなんだろう。

 ただ、マンガではまるでおとぎ話みたいな絵柄で読んでる間は騙されてしまうのだが、文字に起こせば「それって何かおかしくない?」と思えてくる。そう、この作品で描かれる刑罰って果たして本当に社会のため、いや、被害者のためになってるのか?
 このテーマが現れる第3巻はスリリングだ。いかにも社会的利益がありますみたいな顔をして構築されたこのシステムが単なる好奇心でしかなかったことが顕になる。作中では上にも書いたとおりこのシステムの開発者は殺人鬼コレクターだったらしいが、どういうこと? この部分は少し不満があって、個人的にはこの刑罰が誰でもモニタリング出来ることで大衆の殺人ポルノへの好奇心を満たしていたことにした方が普遍性はあったと思うのだが、それは細かなこと。
 結局、システムは破綻し、新たなる犯罪者が野に放たれるという展開で終わる。そもそもこのシステム自体、被害者感情を満足させる程度の役にしか立っていないので、トータルで見ると社会にとってはマイナス。

 たぶん現実社会にフィードバックできるものはあるだろう。僕も凶悪犯のニュースを聞いたときに厳罰を、とも思うのだが、それは単なる感情論であることも事実。そしてその感情論の行き着く果ての1つがこの作品になるのだろう。
 この作品で隠されていることはもう1つあって、この作品ではシステムのAI(正確にはバグ)が殺人への興味を持ってしまったが、似たようなシステムが実現できてしまうと周囲の人間こそが殺人に興味を持つのではないかということ。ミイラ取りがミイラになるというか、深淵を覗く時深淵もまたこちらを覗いているというか。刑罰というものについて考えさせられる作品。

2017年3月14日火曜日

「猫戸さんは猫をかぶっている」(真昼てく、双葉社、全3巻、2017)

 最高級の作品である。設定に対する言及・テーマの深さ・キャラクターの無駄のなさ・伏線の張り方・シリアスとコミカルの配分など、どれをとっても1級品。先日、偶然店頭の平積みを見て購入したのだがこんなことがあるから本屋に足を運ばねばならないと強く思った。この本を置いてた書店は今日から三日三晩繁盛するよう祈り続けないといけない。
 ジャンルはラブコメ。僕自身はあまり恋愛がわからないので、もともとはラブコメに興味がなかった。ラブコメと呼ばれる作品を鑑賞するときは短く終わる作品を選んでおり、それは恋愛関係を描くには長いとだれてしまうと考えているからだ(正確には、長いラブコメは恋愛よりもキャラクター劇を描くことにシフトしていると感じられる時が多かった。恋愛をメインに描くなら数巻で終わらないとダレるという持論)。なのでこの作品を買おうと思ったのは3巻で完結するという、ただそれだけだった。あ、あと、表紙が可愛い。女の子の頭の上に猫が乗ってる。あらすじを読んでいなくても、この作品には鋸女神(cf. School Days)は出てこないとひと目で理解させる良い構図である。ほんわかした絵柄で、内容も笑えそうだな。そんな感じで何の気なしに買った。

 読み始めると僕の勘は外れてなかったことに安心した。「猫をかぶっている人の頭の上に"猫"が見えてしまう体質」と公式サイトに書かれているが、それでも過度にファンタジーにならず日常的な少し不思議さ程度で留めてくれている。登場人物は、猫をかぶっていることが100%見えているため人との付き合いに壁を作ってしまう主人公(男子高校生)や、そんな彼が好きになる全く猫をかぶらない少女、常に猫をかぶっているので主人公が苦手意識を持っていたら実は同じくかぶっている猫が見える体質だったもう一人の少女。主人公が高校生活を送る上でこの二人に関わる様をコミカルに描かれており、王道のラブコメって感じである。キャラクターの行動原理にも疑問はない。周囲の人が猫をかぶっていることがわかる主人公が全く猫をかぶらない少女を好きになるのは順当だし、そんな彼が「同士」である常に猫をかぶる少女に出会い振り回されるのはこれまた当然。物語は、では主人公はどのように彼の恋愛が成就するのか、に焦点を当てて動く。

 当初は普通のラブコメだと思っていたのだ。かぶる猫が見えるというのはあくまでも物語の取っ掛かりで(これはもう失礼な話なわけで、申し訳ありません)、話が進むに連れて猫の設定は薄くなるのだろうと。ある意味で猫をかぶるのがわかるって、恋愛によくある心理描写と真っ向から対立していないか? 
 しかしこの「かぶっている猫」の描写は物語のラストまで現れる。登場人物が猫をかぶった際に頭の上に描かれるのだ。それも1コマ単位で。このことによって読者はそのキャラクターが猫をかぶっているとわかり、それゆえマンガでよくある心の声(モノローグ)が少なくて済む利点が出ているのだ。あのモノローグもラブコメっぽくて好きなんだけど、過度に使われるとウザいわけで、今作品くらいのボリュームが好みだな。副音声マンガにならなかった時点でこの設定はすばらしいと考え直した。

 しかも物語は途中から、いや1巻の後半から「猫をかぶる」意味自体を問いかける。そもそも猫をかぶるとは嘘をつくことではない。ほんの少し本音を隠すだけだ。では何で人は猫をかぶるのか。
 それが問いかけるのは新たにヒロインが登場してから。人見知りで要領も良くなくて、マンガの設定上、飛び抜けて外見が可愛いわけでもない地味な少女。彼女が主人公に惚れて、そしてその恋が終わる中で「猫をかぶる」ことの意味が徐々に明らかになる。
 詳細は読んでのお楽しみだが、ある意味で、猫をかぶるというのは好意の裏返しでもあり、それなら主人公が好きになった全く猫をかぶらない少女は果たして……となる。好意を抱くにつれて猫をかぶることを覚えた地味な少女と全く猫をかぶらない少女は対比関係にある。地味な少女は努力して変わっていって人付き合いも普通にこなせるようになった。全く猫をかぶらない少女は一貫して天真爛漫で何事も問題なくこなせる天才型だが、変わることはないのだ。これは多分すごい残酷なことだと思う。物語の中では掘り下げられてはいないが、少なくとも高校生活の範囲内では、猫をかぶらなくても人付き合いを難なくこなせてしまうということであり、それはそれで孤独なのかもしれないなと感じた。恐らくこの全く猫をかぶらない少女は、他のキャラの本音を見抜くような描写があったので、自分だけが猫をかぶっていない=自分独りというのはわかっていただろうに。

 そんなこんなで、最終的にはかぶった猫が見える少年と少女同士の関係性にクローズアップされる。前々から感じていたが、主人公に片思いの人がいて、でも他のもう1人のヒロイン(男女問わず)から片思いをされるタイプのラブコメって読んでるうちに片思い対象のヒロインではなく主人公に片思いをするヒロインに魅力を感じる傾向がある。これは主人公と絡むのが主人公に片思いをするヒロインだからなのだが、今作も正にそうだった。主人公が片思いをする対象のヒロインって物語では掘り下げが不十分になりがちで人間性を伝えきれないのだ。今作はそれを逆手にとって、だから主人公が片思いをするヒロイン=全く猫をかぶらない少女はミステリアスな存在として終わりに至るまで描かれていた。主人公だけでなく読者ですら彼女の本心が読めなかったのだ。それは、高校生っぽい主人公たちとは全く異なる、大人であるということなのかもしれない。最終的に主人公は彼なりの「猫をかぶる」意味を見出し、恋をするという綺麗な描写で終わる。

 無駄なシーンはなく、無駄なキャラクターもいない。恋が実らないことを位置付けられていた地味な少女のフォローも最終巻で怠ることはない(終わってから見直すと、彼女は主人公に惚れたというより懐いただけじゃないのとも思える)。そもそも彼女が猫をかぶる意味を間接的に教える役割を担っているのだ。作者が登場人物を丁寧に描き上げたのは伝わってくる。
 彼らはまた、全員前向きで高校生らしい明るさもある。その輝きはおじさんになってしまった僕にとっては多少眩しいんだけど、でもこのマンガを読んで力をもらった気がする。彼らは若さゆえの行動力があり、告白するかどうかで長々と話を引っ張るなどしない。キャラクターも立ってて3巻で終わってしまうのはもったいないと強く感じたんだけど、逆に3巻でまとまったからこそ濃い内容で読み応えがあるのだ。腹八分目という言葉通りもっと読みたいというくらいがちょうど良いのだろう。



 非常に丁寧に作られた作品だ。猫をかぶっていることがわかるというネタから人間の本心とは何かということまで話を広げている。猫をかぶることは嘘をつくことではないし、そもそも「白い嘘」という言葉がある通り、嘘自体も人間関係を円滑に進める上で多少は必要ではないか。だとしたら、かぶっている猫が見える2人はある意味で不幸なことで、でもそれに折り合いをつけられたハッピーエンドは幸せそうで良い。
 この作品は始終明るく、シリアスはシリアスに決めて、最期には笑えるようにしてくれている。最初に絵柄が可愛いと書いたが、その可愛らしさには明るさがあり、キャラクターの表情や仕草が見ていて安心感がある。実は今、他のシリアス系恋愛マンガを並行して読んでいて落差が激しいというか、辛くなったら読み終わった本書を再読するという読み方をしていて、一種の清涼剤的な効能がある。
 萌え絵というものが苦手でなく、またラブコメ(純愛)に嫌悪感がある人以外なら楽しめるだろう。深読みだってでき、SF作家の書くエブリデイ・マジック系列の人間性について考える作品としても使える。萌え絵としては万人受けする絵柄なので表紙を見るだけでも癒やし効果がある。たった3冊買うだけでこんなに楽しめるのだから非常にお得。
 というわけでぜひとも買うべきだ。買ってこの作家を応援しよう。また別の連載を持っているらしいがぜひとも単行本で読みたい。

2017年3月3日金曜日

コンテンツ鑑賞を趣味にすること

 もう僕もおっさんと呼ばれる歳になったんだ。
 そんなわけで、少し前から自分の荷物を整理していた。
 僕は小説やマンガや映画やアニメの鑑賞が趣味なんだけど、薄々気付いていた恐ろしいことを実践していたのだ。それは、要らないものをバッサバッサと捨てていたのだ。音楽CDはmp3でHDDに入っていれば良い(HDDが故障したときのためにバックアップを取っておこう。不幸にも本体とバックアップの両方が一気に故障したときに備え、ウォークマンに最低限欲しいものを入れておこう。ウォークマンすら壊れたら、そのときは諦めよう)ので、CDは捨ててしまえ。マンガもデータ化して現物は持たない。そもそも買うマンガ自体減らそう。小説は最低限欲しいものだけ書籍で残す。ちくまと河出と講談社学術と中公の文庫は残す。新書とか四六判とA5判とか呼ばれるやつは、時事ネタが多いのでOCRのPDF化決定。たぶん読み返さないだろうけど。ハヤカワ銀背とバンド・デシネは画集として書籍のまま(日本のマンガとの扱いの差は……)。そもそもベルセルクとファイブスター物語と手塚治虫と諸星大二郎と駕籠真太郎とセントールの悩みと他いくつかしか読み返してない気がする。映画はデータ化が一番進んでおり、円盤で持ってるのは初回特典が付いてるものだけ。他は引っ越ししたときに捨てちゃったなあ……。そもそも映画ですらフルでの見返す機会は少ない。データ化したら、お気に入りのシーンだけを眺めるスタイルに変わっちゃった。通しで見なくなったってのが映画業界に与える打撃は大きいかもしれない。
 そんなことをふつふつと思いながら、書籍棚を見る。大昔、ミステリーやサスペンス小説を諦め、それからさらに経ってライトノベルを止めたんだけど、そろそろまたフォローするのを止めるジャンルが出てくるかもしれない。いわゆるSF小説やファンタジー小説、ファンタジー入った文芸をメインで読んでるけど、SFもきつくなって来たかもなあ。奇想を味わうならファンタジー小説の方が面白いからなあ。グレッグ・イーガンとか好きだけど、イーガンの短編集のようなリアリティのあるSFって現実世界を舞台にしたワンアイデア小説に近いからSFのワクワク感ないんだよなあ。イーガンは好きだから今後も読み続けるけど、SFをどうするかはわからん。
 それよりもこちらだ。安部公房、芥川龍之介、岡本綺堂を始めとするファンタジー入った古典日本人作家を読まねば。見栄で夏目漱石とか江戸川乱歩とか志賀直哉とか持ってるけど捨てよう(でも井上靖はしろばんばと西域ものだけは取っておこう)。少し不思議なアイデア成分が足りんよ。ちくま学芸文庫とかも教養として持ってた本の内、半分以上は時代遅れになったりしてるからな。ハヤカワNFもあまりに俗すぎるのはゴミ箱行きだ。文芸は河出と創元さえあれば十分だな。

 こうして考え出すと、意外と言うべきか、やはりというか、古典と呼ばれるコンテンツは強い。古びすぎてしまい、かえってエッセンスだけが強く濾されているのだ。これが現代を舞台にした小説だと、いくらテーマが良くても10年20年したら風俗習慣技術が時代遅れになってしまい読めないだろう。上ではあまり触れなかったが、音楽にしても定番だのヒット曲だのは強い。クイーンのボヘミアン・ラプソディなんか、最近はやったほとんどの邦楽洋楽よりも実験的で若い曲なのだから。
 流行りを追いかけて蝶や蜂のように様々な花の蜜を吸うのも楽しかったのだが、若くもなくなってくると飛ぶのもしんどいんだ。おじさんにとっては最新の設定が詰まった映画よりも評論されつくした白黒映画のほうが見やすいのも事実。
 正直、クラシック趣味はあまり魅力を感じていなかったが、徐々にその面白さがわかるようになって、じゃあ今まで新しいものを必死で楽しんできたのは何だったのだろうと思ったり。これって昔は野菜が嫌いだったけど、おっさんになって居酒屋とかで焼き茄子やピーマンの炒めの美味しさを力説するのと変わらない気がする。

MASK

 ついに寝るときにマスクを付けてしまった。もともと花粉症気味で、僕の場合は喉に炎症が出てしまい、咳をしがちになる。
 さらに、鼻もつまり、特に夜寝るときに口呼吸をしてしまう。2月・3月の寒い時期なんかはそれでさらに喉を壊すという負のサイクルが出来上がってしまうのだ。
 僕の場合、服を大量に着込めば何とかなる生活スタイルで(暖房代ももったいないし)……なんて思ってたら、今年も喉をやられた。毎年喉がイガイガになり、非常に不快なのでなんとかせねばと考えていた。
 そして今年ついに、寝るときにマスクを付けることに決意。すると昨日までのイガイガがウソのよう。やっぱり喉に違和感を感じるが、寒さが原因と思われる焼け付く痛みは緩和された。
 僕はもう、寝るときはマスクが手放せないんだね(季節限定だけど)……。

2017年2月28日火曜日

日光紀行

 2月11日(土)から14日(火)まで4日間、日光に行ってきた。目的は1人になること。今でも十分1人だが、パソコンもスマホもない世界でのんびり過ごそうと思い立ったのだった。
 朝東京を出て、JRで昼頃宇都宮に着き、宇都宮で餃子定食を食べた。宇都宮駅周辺は駅ビルがあったのだが、喫茶店のチェーン店を探し、見つけられないまま駅近くの大型ショッピングセンターへ。その中にかなり広めの本屋があったので、数冊買ってしまう。本当なら喫茶店とかに入ってのんびりと読みたかったのだが、仕方がないのでショッピングセンター内の休憩広場で読む。他に勉強してる子供が1組。あとは待ち合わせの女性だけ。せっかくの土曜で誰も使ってなくて良いのかな、でもだから僕がマンガ読めるわけで……と思いつつマンガタイムを数時間取る。
 何でこんなことしてるかというと、僕が泊まる所は個人が経営するゲストハウスで、チェックイン時間が16時以降と厳密に決められているからだ。なのでそれまではせっかくの宇都宮駅を満喫せねばならない。
 数冊読んで3時間ほど費やし、15時半過ぎに出る。宇都宮からは日光線に乗るのだが、何というか、観光用の特別線という感じがして楽しみだった。電車の中もいろんな人が書いた習字が飾られ、外国人向けに日本の文化を紹介してやろうという気合が感じられたのだ。

 日光に着くと、きれいな街だな、というのが第一印象だった。そして人がいない、とも思った。時刻は16時過ぎ。すでに日も沈みかけ、寒さが厳しくなる中。今の時間に日光に来る人なんていないだろうと思い、事実、僕の他は数人しか電車から降りなかった。そんなわけで日光は人が少ない街と思っていたのだが、そもそもJR日光駅を使う人の数が少ないことをその時は知らなかったのだ。
 日光に到着したらまずゲストハウスにチェックインして荷物を置こうと思った。相部屋だったので良いベッドを取られてはたまらない。そう考えて歩きだしたが、それは遠かった。僕が泊まったのは神橋近く。JR日光駅からは歩くと20分以上はかかるだろう。地図を片手に、汗をかきつつ延々と歩き、距離感がわからないながらもとりあえず神橋(そして大谷川)を通ってないので行き過ぎてはいないと考えて歩き続けた。途中で民家が立ち並ぶ地域を通り、そこで猿の群れに遭う。やっぱり猿はいるんだなと思うと同時に、テレビなどで報道される猿に荷物を持って行かれる事件を思い出し、さっさと立ち去る。幸い猿は僕の後をつけていなかった。
 ゲストハウスでは先客がチェックインしていた。外国人の方で、今、日光は外国人観光客が多いらしい。僕が泊まるのも日本人より外国人のほうが多い宿の1つ。確かに6つのベッドの内、日本人は僕だけだった。でもちゃんと世界に通用する観光地になってるんだという妙な安心感を感じる。その夜は、イートあさいというお店で夕食。湯波ラーメンと餃子を食べる。お店の人は気さくで、僕が観光客なのを知ると地図や情報誌を見せてくれた。やはりお店は様々な国の人がやってくるらしく、壁にはお礼の手紙がびっしり。かと言って観光客専門ってわけでもなく、僕が食べていると地元の家族と思わしきお客さんがやってきた。安めで美味しくて満足。特に湯波ラーメンはあんかけラーメンかと思うほどスープがトロトロなのだ。そこに麺が絡みつき、薄味スープがしっかりと口の中に入る。湯波も食感があり、食べごたえ抜群。食べる前は、湯波はヘニャヘニャのブヨブヨだと思っていたが、平べったい麺のように噛める。美味い。でもお昼と晩御飯で食べ過ぎである。明日からは減らそう。
 銭湯も近くにあると聞いており、鶴亀大吉に行ったが、もしかして泊まりでなけりゃ入れない? ふらっとお風呂を借りる雰囲気ではなかったのでゲストハウスに戻ってシャワーを浴びる。その後、本を読みつつ就寝。

 翌日12日(日)は日光東照宮へ行った。途中で神橋を見る。どうもお金を払うと渡れるらしいが、どう考えても川を背景に神橋の写真撮ったほうが綺麗である。
 東照宮へ着いたのは9時過ぎ。東照宮自体は8時から開いているらしく、この時間はまだ人が少ない。昨夜、雪が降ったらしく、積もった雪を巫女さんが掃いていた。マンガで見るような赤い袴と白い着物の巫女さんを見て何か感動。よく考えたら1月1日も神社に行ったんだけど、そのときは人が多すぎて流れ作業だったんだよな。東照宮は真っ赤で金色で、異界の建物の様。山の中の神社だと思って地味な姿を想像していたが、かなり派手である。さすがは徳川家ゆかりだ。陽明門は工事中だったが、他の建物も面白い。昔、小学生のときに修学旅行で来たはずなんだけど、全く記憶にないなあ。おかしい……。
 東照宮は修繕工事で寄付者を集めているらしく、僕も僭越ながら5000円を支払う。

 変なおみやげよりこういうのにお金を使うと思い出になる。後日、お気持ちが送られてくるらしく、楽しみ。
 実は東照宮に来たのは、観光だけでなく御朱印を集めるためでもあったのだ。熱心なコレクターではないけど、そこそこ御朱印を集めており、それも紙でもらうのではなく、実際に書いてもらってこそ御朱印だと思っている。幸い、今回の旅はどれも直接御朱印帳に書いてもらう所ばかりで、嬉しかった。
 その後、輪王寺や日光二荒山神社でも御朱印をもらう。その途中、二荒山神社の分社(?)の滝尾神社というところを知り、明日行こうと決意。御朱印自体は二荒山神社で貰えるが(二荒山神社は周囲の人のいない神社の御朱印を代わりに発行しているらしい)、僕は自力でお参りしたところしか集める気はないのだ。
 お昼ごはんをという日本料理店で食べる。湯波の小鉢と鱒重だ。鱒のお重を食べてみたい! なかなか身が柔らかくて美味しかった。お店もモダンな雰囲気で、でも上品である。僕が行ったときはほぼ満席で繁盛していた。
 午後はどこかの喫茶店で本を読もうと思っていたが、何時間も居座れそうなお店が見つからない。さすがに観光客相手のあんみつ屋とか団子屋とかで本を広げ始める勇気はないなあ。東武日光駅まえに日光パークロッジ東武というホテルがあり、1階は喫茶店っぽかったのだが、そもそもやってるかどうかわからん。勝手に入ってしまったけど、誰も出てこないのだ。幽霊ホテルみたいで気味が悪いので外に出る。
 喫茶店もそうだけど、夜ゲストハウスで食べる食事とおやつが欲しい。実は昨晩であった外国人の多くはゲストハウスで料理をしていて、どこで買ってきていたのか気になってたのだ。調べてみると大通り(日光ロマンチック街道というらしい)から少し駅と反対側に行ったところにリオン・ドールというスーパーがあった。まずはここでおやつを買い込む。そして何と、イートインコーナーを発見。しかも誰も使ってない。これ幸いとジュースを買い込み本を読み始める。1冊読み切るまで滞在しよう。
 16時過ぎにゲストハウスに戻ろうと腰を上げた。チェックイン時間過ぎた。帰り際、職場の人へのお土産を買った。
 一度ゲストハウスで荷物を置いて、今日はお風呂に入ろうと決意する。JR日光駅近くの日光ステーションホテルクラシックで駅スパなるものを提供しているのだ。要は銭湯である。
 途中、さきほどお土産を買ったお店の近くで揚げゆばまんじゅうなるものを食べる。揚げまんじゅうだ。湯波は……感じられるかな? 正直、湯波は見た目で湯波だと認識して食べるほうが美味しいと思った。
 駅スパはまだそこまで混んでおらず、山登り帰りの人が数人いた。荷物でわかってしまう。久しぶりに湯船に入り満足。露天風呂もあり、お風呂の熱さと外の寒さがマッチしている。
 夜はゲストハウスで軽食を取った。日曜の夜のせいか、昨晩とは変わって誰もいない。観光客は帰ってしまったらしい。どうも日本で働いている外国人が多く、月曜から会社なのだそう。僕の他には台湾から来た人がいて、台湾で日本の仕事を探してるのーとお話をした。日本語上手いなあ。僕も英語頑張らねば。どうも彼女は台湾語・日本語・英語ができるそうだが、台湾ではさらに読み書きできる人々がゴロゴロしてるらしい。ヤバい。

 13日(月)はハイキングがてら滝尾神社など東照宮周辺の山を探索する。確かに無人の神社と言われていた通り、寂れている。そして平日だからか観光客にも出会わない。後々、日光ロマンチック街道沿いの旅館を見ていたら、土曜夜は満室だったのだが、日曜夜は空いていた。当然今日も空きだろう。観光って大変。そして今歩いている神社巡りの道も整理はされてるものの、土曜夜に降った雪が残っている。さてはあまり人が通ってないな。ふとクマに出会ったらどうしようと思ってしまい、早歩きで駆け巡る。
 滝尾神社も他の無人神社と同じように建物が残っている程度だった。近くの白糸滝は綺麗だったな。自称観光ガイド(?)の人がスタンバイしてたが、本当は何の人だったんだろう。観光ガイドなら雪を除けて欲しい。日光二荒山神社で御朱印をもらって帰る。
 お昼はまるひで食堂で湯波丼を食べる。あまりにも湯波が美味しいのでお土産に買って帰ろうかと欲が出る。でも絶対に家で調理すると不味くなるんだろうな。逡巡した末、買うのを止めた。お昼過ぎから雪が降っていて僕にとっては初雪である。
 午後は昨日と同じようにおやつを買いつつ、リオン・ドールで読書。リオン・ドール、閑散としている。車で来てるから地元の人だと思っていたが、もしかしたら観光客なのかもね。日光のこの地域自体、言い方は悪いが人が住んでいるという印象が薄かった。街全体が観光地みたいで、整備・統一されてるんだけど、仕事をするところも人が住んでる雰囲気もないというか。いや、初日に通った住宅地みたいに住人がいるのはわかってるが、あまりにも静かであった。こういうところに一度住んでみたいと思う一方で、何となく大変そうだと感じる。
 夜は数人観光客が泊まっていたが、リビングに滞在する人はいなかった。今回の客はみんな部屋に引きこもりマン&ウーマンである。

 14日(火)、帰る日。だが、朝から大雪だった。昨日、初雪だーと喜んでいたらこんなことになるとは。当初はチェックアウト時間の10時近くまでリビングでテレビでも見るつもりだったが、さっさと電車に乗ろうと考える。神橋からはバスが走っており、JR日光駅へ。着いたらすでに電車が出ており、次の電車は約1時間後。ああ、だからみんな東武を使うのね。電車がすぐに入ってきたので本を読みつつ出発待ち。
 宇都宮駅に着いたのはお昼少し前。やっぱり餃子を食べて東京へ。日光での降雪はまるで夢のよう。日光線に乗ってる最中で雪が降ってる地域と降らない地域がきれいに分かれていたのだ。やっぱり日光は日光の天気なんだな。しかし東北線の途中で大風および風によるゴミが線路に入ったことで電車が止まる。座れたから別に良いんだけどね。やっぱり朝早く帰って良かった。こうして日光の旅は終わったのだった。


 数日後、東照宮の寄附金のお礼が届いた。




このお箸は使うものじゃなくて神棚とかに飾るものなんだよね?

2017年2月27日月曜日

感想文にタグを追加した

 当初は日記&ゲームプレイブログになると思っていたのだ。UOやポケモンやボードゲームで書くことがなくなってからは、日記やガジェットを書く気もなく、適当に好きな本やゲームの感想文を綴っていたら、いつの間にか数が多くなってしまった。これでも小説やマンガは連載中の感想を書かないと決めているのだが。
 というわけで、AnimeComicGameMovieNovelのタグを追加し、今までの感想文も出来る範囲でタグつけし直した。疲れた!

2017年2月24日金曜日

マジカル・ガール(カルロス・ベルムト監督、アキ・イ・アリ・フィルムズ、2016)

 まどマギだ! 長山洋子だ!
 などと宣伝されていたのだが、蓋を開けてみると普通の映画であった。そもそもポスターに書かれている批評家達からのコメントというやつ(当り障りのないことが書かれるアレ)で新房氏や虚淵氏が含まれていないのはともかく、せめて本を出した山川賢一氏くらいがコメントを寄せても良いのに……。こんなところから、オタク向けに宣伝をしていないことがわかる。そしてその判断は正しい。

 そもそもまどマギが衝撃だったのは、「ちだまりスケッチ」という部分のみである。正直、実写映画だとそこまで驚くべき内容ではないことが、この映画を見ると再確認できた。誰かの願いを叶えようとしたら事態が悪化し全員が不幸になるストーリーはブラックコメディとして既視感のあるプロットである。

 さて、この映画だが、事前の宣伝でさんざん煽られていた魔法少女を夢見る少女はほとんどストーリーに関わらない(!)。物語を始動するきっかけを与えただけで、メインのストーリーはバルバラという女性が担っている……。確かにポスターはバルバラ女史の写真だ! 詐欺じゃない!
 つまり魔法少女もまどマギも長山洋子も全てが小道具の1つとなっており、監督としては確かにインスパイアされたのかもしれないが、メインの要素ではないわけだ。これってわざわざまどマギ要素を宣伝する必要あった? まどマギが悲劇だったのは、対価を得ようとした少女が自らの手でそれらをぶち壊さざるを得ないためで、事件に巻き込まれたバルバラ女史が不幸に陥っていく様子を描いたこの映画とは全然異なると思うんだ。
 それはともかく、僕自身は外国人が大好きな勘違いジャポニズムは嫌いなんだけど、ここまでジャパニーズ要素が背景の一部になっているのはそれはそれで悲しく感じた。そもそも魔法少女の文脈なんて日本人でも知らない人がいるのに、ほぼ説明なしで大丈夫だったのかな(魔法少女に憧れるアリシアって娘が父親から衣装をプレゼントされても嬉しがらず、実はステッキが欲しかったと判明するのだが、魔法のステッキなんて解説なしでわかるのか?)。魔法少女や長山洋子の「春はSA・RA・SA・RA」云々は起承転結の起と転に当たる部分で重要なはずだが、スペインでは解説なしでも不満が出ないほどその手の日本文化が浸透しているのだろうか。謎だ。

 映画としては僕の想像するヨーロピアン映画そのもの。説明的なセリフが少なく、画面を見て登場人物の感情を把握させる。最近ハリウッド映画ばかりだったから中々面白かった。有楽町のテアトルで見たけど、これからもテアトルで上映される映画はチェックしようと思った。ただし内容的にはそこまで見るべき点がないと思う。

 それにしてもスペインでは拳銃も大麻もすぐに手に入るのだろうか100万単位の報酬を出せる娼館経営者がそこらにいるのだろうか。突っ込むのは野暮かもしれないが、謎だ(そこがスペインというか、非日本・非日常的な雰囲気を醸し出していて、僕は好きである。舞台を日本にされると萎えるので、スペインで作られて良かった。)。

2017年2月17日金曜日

ネットと問屋買い



 世の中にはグラハムビスケットなどというそれはそれは美味しいお菓子があったのじゃ。
 これを一番食すものは悪魔の呪いに遭う。そのような言い伝えがあり、みなスーパーなるところで少しずつ仕入れ、いつかはお腹いっぱい我が物にすることを夢見てたのじゃ。



 そんな中、愚か者がネットショッピングなるものを駆使して買うことを考えた。周りの者は彼を止めた。誰だって破滅の道に進みたくはなかろう。
 しかし愚か者は愚かにも欲望に抗うことができずにポチってしまった。



 一時の気の迷いは身を滅ぼす。彼が正気に戻ったのは4箱のグラハムビスケットを受け取ったときじゃった。これを買った代償は約5500円。いくら美味しいとは言えお菓子に使うにはあまりにも大きすぎた。
 そもそもグラハムビスケット(チョコクリーム)は定価が120円。スーパーなどで買うと100円+税。お菓子としては安いのじゃ。
 しかしたわけ者は送料・税込みで一袋あたり95円の道を選びおった。確かに安くなった。だが、さすがに60袋は多すぎだろう。1週間に3袋食べても20週間=約5ヶ月残ってしまう。

 そんなわけで皆の者、ネットショッピングはほどほどにな。くれぐれも机上の計算で得になることだけを考えてはいかん。人間には体の限界がある。

2017年2月7日火曜日

「銀行強盗にあって妻が縮んでしまった事件」(アンドリュー・カウフマン、東京創元社、2013)

 不思議な不思議な、物語である。幻想的というか、明らかに比喩の塊で、単に文章を読むだけではこの本を楽しめないだろうと予感させる。

 この本は、銀行強盗、つまり人生の大切なものを奪われた人たちの顛末を描いた物語だ。ただし、その大切なものは今の現状では失われた存在であることが示唆されている。語り手である「僕」の「妻」も夫との出会うきっかけのものを大切に身に付けているが、夫との関係はギクシャクしている。現状で人生にとって欠如しているものが強盗に奪われた大切なものに象徴され、その人生の欠如を回復しなければ不思議な出来事によって破滅してしまう、そんな物語なのだ。
 とはいえ、上にも書いたように物語自体は非常に抽象的で破滅の様子も何かの寓話を読んでいるよう。夫が雪だるまになったエピソードは子供向け絵本のようだし、母が大量に分裂して一斉に風に飛ばされたエピソードはたぶんバッドエンドなんだろうが何となくウキウキする楽しさまで感じさせられる。1つ1つのエピソードはマザーグースのようなよくわからない終わり方をしている。1度本を読んだ後、彼ら彼女らが何を失っていて、その結果どんな終わり方になったのか解き明かすのも面白い(考えてみたら、この謎解き遊びは甲田学人氏の「断章のグリム」に似ている)。

 そんな中で描かれる「僕」と「妻」の顛末は場違いなほどリアリティがある。「妻」は夫である「僕」との夫婦関係がうまく行っておらず、銀行強盗によって(なぜか)縮んでしまう。当初「僕」は問題視していなかったが(恐らく面倒なことを考えたくなかったので問題視しないように努めていたんじゃないかな)、「妻」は解決策を探りさらには自分が消えてしまう日まで計算する。そして、何を思ったか、「僕」にも自分の子にもそのことを伝えていないのだ。
 実は僕も自分の大切な人を数年の闘病後に亡くしており、その人が実はかなり重症だったらしいが誰にも言ってなかった、という経験がある。実は今でもなぜ誰にも言わなかったかわからない。心配させたくなかったのかもしれないが、周りの人からすれば突然亡くなったように見えるわけで、それはそれで辛いのだ。何にせよ、病状を言うか言わないかはその人の選択で、僕は自分の経験をこの本に重ねながら読んでいたのだった。

 実際の所、「妻」のエピソードはある意味わかりやすい。詳細に書かれているので何が「妻」の人生に欠落し何が得られたのかがイメージしやすいのだ。特に地の文は夫である「僕」の語りとなっていて、「妻」を見る視点が徐々に変わっていくのを感じ取れる。「妻」が消えてしまう最終日は、恐らく「僕」も彼らの子供も最後の日だとわかっていなかったはずなのだが、触れ合う時間を大切にしようとする。子供がひたすら「妻」に甘え、「妻」も自分の身を顧みず子供をあやすのは母親ってそうなんだよねと感じる。結果として、心が通じ合え、「妻」は消えずに済んだ。

 そんなわけでハッピーエンド気味ではあるのだが……。同時に不満もある。結局、一家がバラバラにならなかったのは「妻」の死を身近に感じたからであり、何となくこれで良いのかなという気にさせられる。誰かが死の危機に瀕しなきゃ家族はまとまらないの? そうしてまとまった家族をハッピーエンドとして取り上げるべきなの? 個人的にはラストシーンは感動したものの、今挙げた不満があるので、「妻」はこのまま消えて「僕」に後悔させるべきだったと考えている。
 実は物語的にも「妻」は特別な位置付けをされている。実は「妻」は唯一消える日がわかっている人物なのだ。他のエピソードでは消え去るタイミングが唐突に見え、回避は不可能に感じる。もしかしたら注意深く考えれば他の人々も消える日を予見できたかもしれない。しかし、作中では「妻」だけがいつ自分が消えるのかを知っており、そのためにたぶん心の準備もしただろうし、行動にも現れていたと思う。そうして得られたハッピーエンドは果たして良いものなのか考える必要はあるだろう。

 でも、そんなことは重箱の隅を突くようなもので、この作品の肝は不条理なエピソードの数々と「妻」の一家を襲うリアルな喪失の様子だろう。「妻」の消滅が現実のものとして理解する過程、それに伴う行動の変化、家族の葛藤を味わうだけでも十分に満足できる。

2017年1月26日木曜日

「クリムゾン・ピーク」(ギレルモ・デル・トロ監督、レジェンダリー・ピクチャーズ、2016)

 ある種のマンガ的な登場人物がズラズラ現れ、美しい屋敷の中で演じられるサスペンス……との評が一番適切であろう。ジャンル的にはホラー(幽霊映画)なんだろうけど、主人公のお嬢様があまりにも頭悪すぎて誰かの助言なしでは生き残れないから幽霊を登場させました、と言われても不思議ではないほど幽霊要素は薄い。戯画化された人間ドラマが見どころで、誇張された登場人物たちが過度にシリアスにもアップテンポにもせず、お上品な映画に仕立て上げている。幾つか読んだことのある19世紀のイギリス怪奇小説を映画化すればこんな感じになるんだろうなと思った。

 登場人物はこれでもかと言うほど浮世離れしている。あまりにも現代人とかけ離れているので彼らが変な行動を取ってもイライラする事はない。現代とは時代が違いますよーという設定をうまく使っている。主人公は箱入り娘で夢見がちで小説家志望という1人では生きていけないタイプ。まあ、だから父親が亡くなって(殺されて)、身一つでイギリスに渡ってしまったのだが。
 そんな主人公をたぶらかすのは胡散臭いイギリス人の姉弟。貧乏貴族で本作の舞台、クリムゾン・ピークのお屋敷を持っている。お金に困っておりイケメンの弟が結婚詐欺と妻の財産強奪を繰り返すことで生計を立てている。なお、姉は弟と恋仲で殺人を厭わない性格。弟に対する姉の執着が事件を明るみに出し、そして破滅を導いたのだから筋金入りである。弟は姉の言うことにひたすら従順に従い、実は弟って姉のことが好きじゃないのでは? とも感じてくる。それくらい主体性がない。唯一クリムゾン・ピークの粘土掘り事業に夢中になってるが、これたぶん私生活が姉に支配されてる鬱憤を粘土掘りで有名になる夢で紛らわしてるんじゃないかな。でなきゃ誰が見たってダメそうな粘土掘りにあそこまでお金突っ込むのも不合理だぞ。
 ともかく、現代の僕達とは当然生活も人生もメンタリティも全く異なる人々なので感情移入などせずに見ることが出来る。それもあって彼らがわけわかんない行動しても大きな心で受け止められるのだが。

 そんな中で現れる幽霊ってのは主人公を助けるためだった。だったのだが……真夜中いきなり出会うと怖いよ。これから幽霊になる予定のある人は、おどろおどろしい外見になるかもしれないと考えておこう。幽霊になったら、極力明るいところで愉快な雰囲気で人間に声を掛けないと逃げられてしまう。場合によっては筆談でも良い。この映画って幽霊がそういう気遣いをすればそもそも主人公が危険な目に遭うことはなかったのでは、と思ってしまうのだが、それは後の祭り。まあゴシックホラーのための舞台装置としてスルーを。
 そして幽霊が実は主人公に警告を与えていたという事実がわかって、それで幽霊の登場が終わったのかなーと思いきやラストシーンで結婚詐欺姉弟の姉の方から受けた襲撃から主人公を守るために現れる弟の幽霊(弟は嫉妬に狂った姉に殺された。どこのエロゲだよ)。なんというか、それまで怖い外見だった幽霊がいきなりVガンダムのラストみたいな人の意志が! 的な超自然的な力になっていて終わりよければそれで良しという気にさせられる。
 本当のラストシーンで姉弟が仲睦まじく物悲しげに幽霊となるのはこの手の映画の基本だろう。

 というわけで面白かった。
 何よりも素晴らしかったのは映像。木の葉が落ちる屋敷。幽霊より不気味な夜の廊下。粘土だとわかってても恐ろしい赤い粘土。登場人物たちが着る服も時代がかっていて様になる。屋敷のシーンはどこを切り取っても絵のように美しく、幽霊や赤い土がその後の展開を不気味に暗示している。
 あまり怖くないので、ホラーが苦手な人も見て損はない。

2017年1月22日日曜日

「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」(ピーター・トライアス著、中原尚哉訳、早川書房、2016)

 最高の作品である。普段僕は文庫を買っているが、ハヤカワ文庫だと分冊になる&巨大ロボット(作中では「メカ」と呼ばれる)のイラストがつかないので大判を買ったが、当たりであった。
 フィリップ・K・ディックの「高い城の男」が作者によって言及され、数多の書評サイトもまずはそれとの比較を行っているが、僕は読んでないからわからない。もちろんこの本は「高い城の男」と関係ないので、普通に単体の作品として楽しめた。

1.歴史改変SF、らしい
 僕はあまり歴史改変SFを読んでこなかったので本作のような本格的なのは初めてである。だから実はツッコミどころも多いのだが、概ねジャンルの作法を知らない人間でも違和感は感じなかった。
 一番のツッコミどころはドイツの実態が全く描かれてないことだろう。もちろん、今作は日本をテーマにした作品だからなのだが、ホロコーストなどを行ったドイツが勝利した光景を具体的に描写するのはNGだったんじゃないかなあと密かに考えている。そもそもドイツはアーリア人至上主義を掲げていたはずだからいくら同盟国とは言えアジア人である日本とは反目するはずだし(作中でもすでに世界の覇権に向けた日独のにらみ合いが起こっている)。僕としてはもう少しドイツの姿を描いてほしかった。
 一方で同じく同盟を組んでいたイタリアは完全に蚊帳の外。設定でも良いから出てきただろうか。それくらい存在感はなかった。

2.ゲーム小説
 この単語はあいまいなニュアンスを持っているが、僕が本書を読んで感じたのはアイテムを得たり人物に会ったりしてフラグを立てることで物語が展開するプロットがわかりやすいということ。もちろん悪いわけではない。ないのだが、登場人物の行動基準をうまく書かなければフラグ立てのために行動しているのがまるわかりになってしまう。特に久地楽のメカとモスキートのゲームの下りはなくても良かったような……ごにょごにょ。あらすじとか宣伝文句では本書の売りだったメカもゲームも1要素の扱いだったので、そこはもっと掘り下げてほしかった。

2.アメリカナイズされた軍国日本のディストピア
 物語は第二次世界大戦で連行された日系人の収容所から始まる。アメリカで刊行された本書でこの問題に切り込めるのはすごい。そして見どころなのはアメリカ人を悪し様に描いていること。日系人は住んでいたアメリカの資産を取り上げられ収容所に連れて行かれ、そして悲惨な生活を送っていた。この小説は勝者である日本の視点から描かれた設定だが、それでもこの問題をここまで描けるのは素晴らしい(なお、本書によると日系人だけでなくアジア系も収容対象とされたのだが本当なの?)。
 そこにアメリカに勝った日本人が収容所を「解放」しに来るのだが、なかなか皮肉が効いている。アメリカ政府の拘束が解かれたかと思ったら、今度は日本の天皇崇拝を強制されるのだ。当然天皇を文字通りの神と信じていない人には死が待っている世界であり、解放されたアジア系の収容者の1人もそれが元で射殺される。読者は、いや作中の日本に感情移入していた日本人読者は、この描写でふと現実に引き戻されるのだ。この勝利した日本も所詮イデオロギーで動いている粗暴な国であると。
 物語が動き出しても「平和」で「正義」の日本は暗部があっけらかんと描かれている。軍人至上主義で身分制に近い社会。官憲や特高(特別高等警察)が当然ながら市民の生活を監視しており、不穏分子と判断されれば弁明できずに殺される(絶対ソ連のカリカチュアにしてるだろ)。間接的にしか描かれていないが、日本本土出身と日本外とでは待遇の差が激しい。特高は人体実験も手を染める怪しげな部隊とつながっているし、その後の波乱が読めてしまう。そう、この作品は日本に忠実な昭子がプロパガンダに疑念を抱きそれを口にする物語でもあるのだ。

 とは言え対する日本からの独立を目論むアメリカ人ですら清廉潔白には描かれていない。日本に反抗するジョージ・ワシントン団はヤバイ感じのテロリストだ。そもそもジョージ・ワシントン団は現実とは少し異なったキリスト教を信仰することで結束を強めている。あれだ、タリバンに近い。日本に対抗する思想が自由とか平等などではなく、変形キリスト教による洗脳チックな依拠ってのもまた狂ってる。まさに天皇を中心にした神の国か変形キリスト教的神国かの2択で個人的にはどちらも遠慮したい。
 また、USJというアメリカを支配している日本領では特高すら把握していない(=日本政府が管理できていない)秩序が生まれている。強いものは正義みたいなわかりやすい連中が違法ゲーム賭博などを行い日本の支配が一筋縄で行かない。史実の日本が東南アジアに攻め入っても撤退したように、USJの支配も長くは続かないことが仄めかされている。そんな中で語られる自由は非常に実態がない。USJに滅ぼされた思想、そして人々の希望として、理想を求めるものたちが追う今はなくなってしまった残骸。自由を求めたものはベンも、ベンの両親も、昭子の兄も全て死んでしまったことが自由の儚さを表している。
 日本的なガジェットが多いため一見日本について書かれているように見えるが、あくまでアメリカの理念を問うている小説だと言えよう。特にトランプ氏が大統領になった今、いや、大統領になって2年後の2019年に読むとどんな感想を抱くだろう。

3.SFガジェットと悪趣味描写
 いくつか挙げると、インターネットとそれにつながるモバイル機器とハッキングは万能だと思った。昔のSFでは未来描写を行ってもインターネットなぞなかったのだ。
 メカ(巨大ロボット)は出てこないというか、万能すぎて活躍させられなかった感がある。だから久地楽は必要ないと上で書いてしまった。
 テクノロジーレベルは正直わからん。上に挙げたような肉電話が作られたり、人体を変化させられるウイルスを作ったり、死体の脳からの記憶抽出が研究される一方で、使われている言葉のせいかレトロさを感じられる。冒頭の肉電話(生身の肉体を電話に改造することで金属探知機にも引っかからないスパイ仕様のもの、らしい)的有機組織と無機物が融合した世界観かと思いきやそうでもなかった。
 それにしてもキャラクターの放蕩さや狂気に近い自由を描写するのにいちいち裸が乱舞するのは筆者の趣味なのか
 不満もないわけではなく、経済状態が気になる。これだけの特高・軍隊を維持するためには日本政府も相当支出をしていると思うんだけど。それによる社会の悪化を描いてほしかった。そもそも本書では無法者か特権階級の生活しか描かれず、一般市民がどんな暮らしをしているのかわからなかった。戦前の日本を継いでるなら、やっぱり庶民は特攻に怯え経済統制で困窮する農民やブルーワーカーなのかな。
 あ、でも原爆により天皇のお世継ぎが生まれず、それが非国民判定に用いられるのは日本人にはない発想であった。面白かった。

4.終わりに
・ラストシーンは主人公であるボンクラ大尉の過去の真実を描くもの。この真実を知るか否かで読者のボンクラ大尉を見る目が変わる。それまで言及されていた「事実」とは異なる=嘘が明らかになる、というのはこの作品全体の構成(読者は知っているけど、第二次世界大戦で日本とドイツが勝つのは嘘なんだぜ)とも繋がって、手が込んでいる。
・訳者自身による本書の紹介として歴史改変のポイントを説明したものがネットに転がっていたのだが、訳者解説に書いてくれよ……と思った。歴史改変って読者を納得させられるかで読む意欲が変わるのだから、本に付けてほしかった。なんというか、売り方が下手だなあと感じる。
・全体的には良質のエンターテイメントである。

2017年1月12日木曜日

「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」(ギャレス・エドワーズ監督、ウォルト・ディズニー、2016)

 2016年の最後にこんな大作を持ってきたなんて今年は豊作だなあ。

 今作は完全に外伝。そのためおなじみのキャラはほとんどいない。そのため時たま出てくるダース・ベイダーが「そう言えば今作はスターウォーズの1作品だったんだ」と思い起こさせてくれる。とは言え、魅力的な宇宙船やエキゾチックな風景の惑星、色々な姿を持った宇宙人たちはスターウォーズらしさを全く損なっていないく、それでいてキャラクターが一新されたことで新鮮さを印象付けている。
 視聴者にとっても完全に新規のキャラクターたちが主人公だったので、どこの馬ともしれない奴らが集まって英雄的行為を成し遂げるという物語のテーマとも、見ていてシンクロした。そして、あくまでも外伝であり多くのキャラクターは本編との整合性を取らなくて良いため、本家スターウォーズではありえないような展開(ラストは主人公たちが死ぬ)を成し遂げた。外伝だから色々なストーリーを試みられるっていうのは、ガンダムで言う正史みたいなものであろう。
 何にせよ主人公たちをフォースと無関係の存在にしたからこそ描けた物語や描写が色々あった。
 その筆頭が、フォースに接したことのないはずの登場人物たちが盛んに言及するフォースという新たな宗教だろう。個人的にはもっとフォース成分を薄めたほうが良かった気がするが、とりあえず主人公サイドはフォースの使い手はいない。そもそも時系列的に昔であるエピソード1~3を見ただけだと、フォースの使い手=ジェダイの騎士は権力者と結びついており大衆がフォースの力に接する機会はなかった印象を受ける。そしてジェダイの組織はエピソード3で壊滅しているので本作の反乱軍にフォースの使い手がないってのは当然であろう。チベットの修行僧に似たチアルートもフォースの加護があったかなかったかわからない描写に留めている。個人的には序盤でフォースを一笑した主人公たちが中盤以降フォースにすがるのはいまいち理由つけが薄いと感じたが、それもあってフォースの宗教性が際立って見えた。正直、今作ではおなじみのジェダイの騎士は出てこないのだから、一般人を主人公に置いた外伝ではフォースは敵が用いるものと描写して主人公たちは一切言及しないほうが物語がスッキリしたと思う。

 ちなみに一般人と書いた主人公ジンだが、生まれはデス・スター設計科学者という偉い人の娘。「神話」の主人公は特別な生まれである……と看過したのは誰だったか。スターウォーズシリーズは(エピソード1~3を除くと)一貫して特別な生まれである人間を主人公に配置し、家族との対峙や自分のルーツの探索と共に物語を進めてきた。言ってしまえば「家族の物語」という名の「血筋」の英雄譚を描いているし、今作もそれは変わらない。主人公のジン以外の主要メンバーになると急に家族の影が薄くなるのも今まで通り(エピソード4~6もハン・ソロとか、エピソード1~3もオビ=ワン・ケノービとか、サブキャラは完全に「役割」として登場していたね)。
 それでもやはり、いわゆる名もなき人々の大作戦というか……。後世には名前も語り継がれないことがわかっていながら、文字通り希望を信じて過酷な作戦に挑む彼らは強い印象を残した。その後に続くエピソード4以降を思うと体を張ったパス回しを行っているので、組織に埋もれがちな会社員からすると感情移入できるんじゃないかと思う。

 全体的に、少なくともタイムラインや登場キャラクターが強固な壁として存在していたエピソード1~3に比べれば伸び伸びと作られたと感じる。見ていて後のエピソードの伏線を今作った・消化したというフラグ立てシナリオではなかった。主要キャラが全員死亡するラストシーンはエピソード4~6との整合性を持たせるためとは言え、極めて美しく、予定調和の美であった。
 今作を見た後、エピソード4を見るとまた感慨深いだろうな。