2018年12月9日日曜日

「花の詩女 ゴティックメード」(永野護監督、オートマチック・フラワーズ・スタジオ制作、2012)

 ディスク化されてないこの映画を初めて見てきた。
 数年前から見たいなあと思ってたが、偶然再上映の情報を得たのだ。ワクワクしながら見たのだが……。

 背景は美しかった。明らかにアニメ塗りとは異なる手法で描かれ、「絵」だなあと思ってワクワクした。が、登場人物が喋るシーン、これ口パクパクさせてるだけじゃない? 序盤、顔がアップになるとセリフの音と口の動きが合わなかったので物語に入りきれなかった。中盤の旅の中でシーンを切り替える場面も画面を黒くする効果を使いすぎで、エピソードをぶつ切りでつなげている印象が残った。そのため男主人公と女主人公が対立するシーン、男主人公の背景を説明するシーン、男主人公が誠実だと(視聴者に)印象づけるシーン、2人が心を通わせるシーン、のようにここのシーンはこういう目的で撮ったのかというのがあからさまにわかってしまい……プロットの教科書じゃないのだからもう少しスムーズなストーリーにしてほしかった。

 アクションシーンもどこかで見たことがあった。騎士が走るシーンは忍法帖とかサイボーグとか十傑集とかを彷彿とさせる。「走る速度が速い」を動画にするとそのまま早く走るとなるのはわかるんだけど、他に何か表現はなかったのかと思う。ぶっちゃけ、走る姿は描かずに射撃が当たらないというイメージだけで良かったのでは? 下手に走る姿を描くといかにもアニメ的にチャチく見える。
 モーターヘッドの動きがカクカクしてるというか直線的なのは、これはもう永野護監督のイメージ通りという理解で良いのかな。必要以上にロボットっぽくて僕の中のモーターヘッドのイメージが……。FSS1巻冒頭の戦闘シーンはこういうレベルのチャンバラだったのか……。

 映像の美しさを保つためディスク化してないとのことだが、今となっては映像も動きもきれいとは思えない。

「イスラム飲酒紀行」(高野秀行、講談社文庫、2014)

 アルコールを全く飲めない人からすると、飲ん兵衛の気持ちはわからず、さらにアル中(この言い方はもう失礼だな。依存症と呼ぶべきか)の人々がどういう行動原理で動くのか知らなかった。この本は、人によっては「あの」イスラム圏でお酒を求めた貴重な記録、と捉えるのだろうが、お酒を飲めない僕にとってはまずはアルコール依存症の人の考え方や行動を知ることができた本という位置づけである。

 著者の作品は今まで読んだことがなかった。そのため何冊もある著作の中で初めて読む本がこれで多少の先入観を作ってしまった感はある。
 本書ではパキスタンやイランなど様々な国でお酒を飲んだことが書かれているが、基本的にはどれも(奥様と一緒に行った旅行以外では)飲酒やアルコール人口の調査などを目的として行ったわけではなく通常の取材旅行の途中で著者が禁酒に耐えきれずにお酒を探した……という流れである。そのため場当たり的であり、素人の旅行記に毛が生えた程度のものになっている(なお、もしかしたらこの著者の他の著作も同じようなものなのかもしれないが、まだ他の著作を読んでないからわからない)。
 著者のポリシーとしてお酒を飲むなら現地の人と一緒に現地の習俗そのままに飲みたい、というのがあるらしいが、お酒を求めて右へ左へ彷徨きまわるうちに現地に住んでいるがかつて外国から移住してきた非ムスリムの酒場で飲んだり、普通の中華料理店で飲んだり、はたまた裕福そうな大学生の家でこっそりと飲んだり……まあそれらも現地のありのままの姿と言えないこともないけど、いつの間にかポリシーも何もなくなってお酒にありつけて良かった良かったと終わる。うーん、読者としてはお酒を飲む人が実際にはどれくらいいてどういう人が飲むのかとか、どういう種類のお酒があるのかとか、そのお酒はどこから入ってきているのかとか、泥酔や乾杯などお酒にまつわるイスラムや各国特有の文化とかはないのかが気になるのだが、そういう知識面はあまり書かれずこれを飲めたあれを飲めたといったブログ日記になってしまっているのが欠点である。本書を読む限りでは結局著者がお酒を飲みたいだけでしかないので、本書の記述がアルコールに目がない著者の興味の範囲内にとどまってしまっているのはそういうものなのだが、ネットによくある旅行日記だねという評価になる。
 何というか、「お酒は外国人専門店でしか飲めない」ということでそういう専門店について取材するならありだと思うし、もしくは一般市民が隠れて飲む姿を取材するならそれなりの内容を書いてほしかった。どっちつかずというのが僕の評価である。

 ところで……今の時代、個人を隠し撮りとかして道徳的に大丈夫だと著者たちは考えているの? なんかちょくちょく無礼な行動とか思想とかが垣間見えたのも楽しめなかった一因である。本書に書かれた行動の内、少なくない数が今の日本でやったら問題になると思うんだ。なので、もちろん僕だって言うほど他者を尊重できているわけではないけど、ちょっと読んでて気になった。

2018年12月3日月曜日

「不思議の国の少女たち」(ショーニン・マグワイア 著、原島文世 訳、創元推理文庫、2018)

 ファンタジーとは逃避文学だ……との主張は耳にタコができるくらい聞いているが、それでもやはりファンタジーに、つまり異世界に行って冒険する物語は興奮するものだ。一応書いておくと、ここで考えている「異世界」とは文字通りの場所的な異世界だけではなく非日常の出来事のようなものも含んでいる。後者の具体例は理の外の力を得て非日常の事件に巻き込まれる「メアリと魔女の花」だ。
 つまりつまらない日常から超常的な事件に巻き込まれ、秘めた力で解決し、少しだけ成長して再び日常に戻るというプロットを僕は(というか僕たちは)愛してきたのだ。

 さて、本とか映画とかなら異世界に行った女の子や男の子は無事に戻ってきました、という一文でハッピーエンドなのだが、人生はその後も続く。そして僕たちは今まで気にしなかったが、異世界に召喚された子供たちはその後どのように育つのか、そういう作品もあって良いのではなかろうか。シリーズものだと異世界に行く子供は何回も異世界に行ってしまうが、なんでそのようなことが起こるのだろう。彼ないし彼女はその異世界についてどのように考えているのだろうか。
 そんな「戻ってきた後」を描いた作品が、本作である。

 かつて異世界に行った子供たちは必ずしも幸せにはなっていない。その異世界の経験は妄想や夢の類と両親にまで解釈され、治療と称して同じような境遇の子供たちが集まる学校に入れられてしまっている。そのような学校が本作の舞台なんだけど、様々な異能を持つ子供だけを集められ、教師ですら異能持ちって設定、日本のサブカルチャーでもよくあるよね……。
 面白いのは、本作の子供たちは「不思議の国のアリス」だったり「ナルニア」だったり、クラシックなファンタジーを想定しているのか、子供たち自身はそこまで明確に異能を持っていないこと。異世界に行った描写やその後遺症は丁寧に書かれているんだけど(異世界の思考や話し方のバリエーションは序盤のハイライト)、指から炎を出したり空中に浮かんだり文字どおりの石になったり相手を石に変えたりみたいな超能力の描写はほとんどない。はっきり言うと、読者としてももしかしたら子供たちは本当に妄想しているだけなのでは……と考える余地があり、リアリティのバランスは非常に上手いと思う。まあ、そのために後半で骨使いの少年が実際にアクションを起こす描写が僕としてはちょっと本作品から浮いていると思ってしまったのだが……。

 それはともかく、戻ってきた子供たちはもはや様々な意味で現実世界に馴染めなくなってしまう。成長期に長期に渡って異世界で育ったという面もあろうが、彼ら彼女らにとって異世界が本当の自分になれる世界・故郷そのものであるためでもある。そのため子供たちは現実世界に帰ってしまってももう一度異世界に行きたいと願っているし、それが叶わない残酷さに傷ついてもいる(ファンタジー的なお約束を考えると、誰かのエピソードでもあったが異世界の禁忌を破ってしまったから異世界から追い出されたのだろうな)。異世界への思慕がまるで何らかの依存症みたいな感じであり、異世界に行く描写がワクワク感を感じられない無機質なものなので、僕はファンタジー世界に喚ばれるというよりも神隠しに遭うといった印象を受け、異世界に恋焦がれる=死に向かいたがると解釈した。正直、人にもよるのだろうが、この作品で描かれる異世界に行ってみたいと思う人っているのかな。死だのナンセンスだの、幼い僕なら楽しく感じたのかもしれないが今となっては厄介そうな世界である。

 たぶんこの作品は異世界に行って戻った子供たち、を通じてファンタジーに憧れ溺れて現実世界に生きる僕たちのことを描いているのだと思う。かつてファンタジーに憧れた僕たちは機会があればもう一度ファンタジーの世界に耽溺したいと思ってるんだけど、それが叶わないことも知っている。校長先生は何度も異世界に行ったけど、成長してからは次に異世界に行けるのはボケて道理がわからなくなってからと書かれているではないか。そしてそのファンタジーが現実逃避になるほど幸せな世界ではないことも異世界で犠牲になる子供や住人を通じて描いている。ファンタジーや異世界はそれぞれの現実があって、それぞれの日常はう喚ばれた子供たちには合うのかもしれないが、客観的にはディストピアなのだ。そう、現実世界が異世界から戻った子供たちにとって地獄であるのと同じ様に。
 それでも僕はファンタジーが好きなんだけどね。それぞれの意味で現実を描いた新たなファンタジーとして楽しく読めた。

2018年11月12日月曜日

コジ・ファン・トゥッテ(日生オペラ2018秋)

 日生オペラのコジファントゥッテを見てきた。事前にこの作品は現代では性差別の問題に当たるという情報を得ていたが、この舞台を見た限りだと確かにそうだと思う。劇中の倫理観も古すぎて歴史的な価値を主張するにもちょっとつらいものがある。ある人はそこまでひどくはないと書いていたが、アレンジのせいかもしれないけどなかなかひどかったぞ……。

 演出家は現代風にアップデートするためにいろいろな工夫をこらしたみたいで、今作は元々女主人公が人間だったがAI(ロボット)ということになった。それはそれで頑張ったっぽいのが観ていて(パンフレットにも書いてあるし、舞台背景とかもその努力は見て取れた)感じたが、やはり性差別そのものは消えてない。むしろ女主人公を人工知能にしたので、女性とモノは一緒というグロテスクな構図になってたと思う。

 ストーリーは、
「姉妹と付き合っている男主人公2人が悪いおっさんにそそのかされて恋人は浮気をしない人間かテストした。見事に姉妹が堕ちて浮気相手(男主人公2人が姉妹の本性をさらけ出させるため! に変装)と結婚しようとしたとき、男主人公2人が女主人公姉妹を責めて元サヤに収まる」
って流れ。全体的になんか既視感がある。この手のお話、2chの浮気をとっちめる系のスレッドにありそう。あと、妹が先に堕ちて姉を引き込もうとする流れなど随所随所にエロマンガネトラレ物の類型とそう変わらないシーンがあった。強く迫れば女なんて堕ちるとか、エロマンガでやる分には良いのだけど、良い歳した大人が真面目に観るものかね(演出の都合かもしれないけど変装した男主人公が妹に比べると貞淑だった姉を落とすシーンは、口説いてるだけに見えて、実は無理矢理体の関係になったようにも見えた)。

 僕が思うに、台本自体に①男ー女の性差別と、②男性間のマッチョイズムと、③階級の問題が絡んでいる。いやそもそも、大人が大人に対してこの手の悪質なテストをする時点で言語道断なんだけど(圧迫面接とか偽の論文を投稿して査読を調べるとかが可愛いものだと思えるほど)、それは置いてといて、つまり①男の浮気は許されるけど女には貞淑さを求める、②恋人の貞淑さを賭けにするみたいな内輪のノリを現実でやらかす、③船をチャーターしたり偽の結婚式を立ち上げたりとやりたい放題やれる賭けの胴元がそこまで裕福でもなく知識も経験も少ない若い男女4人をおもちゃにする、ところが問題だと思う。これで人間の本質とかが見えてくるのかね。
 ついでに本公演だとさらに、悪いおっさんの助手となって姉妹を騙す女中の立ち位置が不明だったし(作品全体はどこかの研究室で、姉妹は男主人公2人に作られた人工知能のはずで、じゃあ女中の設定は?)、そもそも生身の女性に振られたので代わりに人工知能を作ってテストしますってところが浮気しない設定にすれば良かったのでは? としか思えない。観ているときは設定が活かせてないなあと苦笑いをするレベルだったが、改めて思い返すとアレンジがひどい。パンフレットには人工知能をテストする=「エクス・マキナ」を引き合いにだしていたが、「エクス・マキナ」は情報を有していてテストする男がいつの間にかテストされる側になっていたり情報を有していないことに気付いたりとかなり入り組んだ作品だったぞ。表層だけなぞってもダメだと思う。

 さて、じゃあどんなアレンジなら満足か、と言われると難しい。僕が観たコジ・ファン・トゥッテは女主人公2人が常に2人で行動していたので、いっそ男主人公2人も(ついでに悪いおっさんであるドンさんも)キャラ上は女ってことにして、女6人のコメディにした方が今風になったのでは? と思った。男性キャラが他人をテストする構図は、マッチョイズムにしかならないので、たぶんキャラ上全員男性にしたら別の生々しさが出るだけだと思う。もしくは年端の行かない子供の遊びという形にして主役6人の年齢を大幅に下げるとか……。
 オペラである以上、音楽とセリフが結びついているので変えようがないのは仕方ない。この作品は舞台で見るより音楽だけを聞くのが今後は良さそうである。

「魔界転生」(日本テレビ開局65年記念舞台)

 明治座の口演のやつを観てきた。実は、僕にとって魔界転生は甲賀忍法帖に比べると設定の壮大さに比べて派手さで劣るイメージがあり、小説を読んだだけではなぜ歴史上の強者達が復活する魔界転生が地味なのかわからなかったが、舞台を見て発見。
 それは、敵があくまでも普通の人間なのだ。忍法帖シリーズみたいに異形の力を用いず、悪魔の力で復活したものの必殺技も持たずに単に殺陣するのみ。柳生十兵衛も必殺技と呼ぶにふさわしい必殺技は持ってないが、あくまでも人間であることを考えればその地味さが渋い格好良さになる。敵の転生衆どもは人間を超えてるくせに派手な技の1つや2つも放てないのか!
 たぶんそれが舞台としてのリアリティになっていると思う。必殺技をもっているとアニメや映画になってしまうだろう。舞台でそれは……難しいだろう。それはわかっているが、やはり転生衆はその強さを示すため必殺技を放ってほしかった。原作小説も今回の舞台も、結構あっさりと転生衆は殺されてるからなあ。

 舞台そのものはガンガン動いて派手にライティングがかかっている。ただし、事あるごとにスクリーンに映像を投影されるのがちょっと僕には期待はずれだった。特に島原の乱の合戦シーンはかなり映像で見せられていたんだけど、映像を見るなら映画で良いじゃん……と思わないでもない。舞台は生で役者の芝居を見るのが醍醐味なんだから、映像は多用してほしくはなかった。ただし、役者に上から映像を被せる表現は、例えば首を切られるとか迫力があって良かった。舞台における映像とはこうやって役者と融合させる方向でいかなくちゃね。

 ストーリーは多少アレンジが入っている。今回の舞台は女性枠に淀君が参戦。ただ散々盛り上げてた割にはあっさりと退場してしまった。淀君の成仏は物語の後半で良いのでは……と思ったけどそうすると柳生十兵衛が魔人殺しの剣を手に入れられないのか。ストーリーが破綻なくまとまっているため物語の展開に不満があっても文句を言いづらいのが辛い。

 演技は主人公の人と浅野ゆう子氏と松平健氏が飛び抜けて優れていた。他の人、特に若い人ら、はシーンによってちょっと首をひねるところもあった。僕が気になったのは時々すごく滑舌が悪くなってセリフを聞き取りにくくなったりするところ。浅野氏・松平氏に比べると声が響かないので早口になったりするとセリフが聞き取れないときもあった(もちろんエロイムエッサムの呪文は聞き取れなくて当たり前とわかっているので、別のセリフで、です)。他には叫び系の声が喉からウギャーと出してるだけなのでなんというか、ダサい。日本の役者はもっとましな叫び声を発明しないと演技がダサくなってしまうぞ。

 とは言え全体的には非常に満足。質の良いストーリー、格好良い舞台、素晴らしい演技、本当に見てよかった。

2018年10月29日月曜日

「竜のグリオールに絵を描いた男」(ルーシャス・シェパード、竹書房文庫、2018)

 もしも我々の世界に、我々自身が認識できる形で人間を超えた存在がいたら? その存在はあまりにも巨大で、何の力を持っているかすらわからず、我々と意思疎通はできなく、されど完全な無機物とはみなせず意思を持つ存在と思えてしまう。要するに手垢のついた呼び方をすれば「神」なわけで、この本は「神」が人々の見えるところに鎮座している社会で起こった事件を描いた短編集である。
 歴史上、中世などでは神は身近に感じられてたと思われ、その感覚がこの本では中心のテーマとして描かれている。登場人物の思考は現実世界の人々に極めて近いため、ファンタジーを描いたというより神と共に暮らす社会のシミュレーションが作者はやりたかったのだなとわかる。

 そのような前提で読む前に、世界観の説明をすると、この世界には大昔に偉大な魔法使いに封じられた巨竜グリオールがいる。グリオールは身動き取れないが長年に渡り成長し続け、ついには土地のような巨体となる。人々もなぜか肥沃なグリオール近くの土地に住むが、実はグリオールは精神干渉の術を常に起こしており、周辺の村人やついには少し離れた崖の竜ですら意のままに操ってしまい……。

 表題作「竜のグリオールに絵を描いた男」は人生を1つの事柄に捧げてしまう狂気を主人公の男を通じて描いている。ちなみにその狂気は男だけではなく、男を支援する街全体にも感染している。巨大な竜に描かれる絵画のための絵の具や、絵を描くための足場や人足など、竜を殺したいのはわかるけどそこまで挙国一致するか? というレベルだからだ。そう、この物語はあくまで壮大なプロジェクトを進める主人公の人生を要所要所を通じて描いたものだが、その背景として膨大な人々の人生が狂わされ、殺されたことが仄めかされている。つまりはある種の政治体制とその帰結の途方もない愚行を「絵をもって竜を倒す村」を通じて描いているのだが、プロジェクトの音頭を取る絵描きはそこまでのカリスマ性を持たず、それを支援する村も取り立てて独裁的というわけでもなく、淡々と狂気をひた走るおぞましさが竜に絵を描くというファンタジックな題材の裏に隠されている。

 次の「鱗狩人の美しき娘」は事件に巻き込まれかけた妙齢の娘が竜の体内に逃げ込むことでその体内に住み着いていた寄生動物のような成れの果ての人間達と共に数年間過ごす物語。社会から疎外された主人公が逃げ込んだ先の社会にも馴染めず、袋小路に陥る絶望感が読んでてキツイ。これ、似たような経験したことある人にとってはトラウマを呼び起こしそう。実際のところ、主人公も全くの無実というわけではなく、過失とは言え悪人を殺してしまったのが竜の体内に逃げ込んだ原因であるため、ある種の刑務所物語とも読める。多感な時期を社会から隔離されると社会に戻ることが難しく、だから刑務所とか少年院での教育などが大切なんだと感じた。

 「始祖の石」は法廷ミステリー。竜を崇める宗教団体の教祖が普通の男に殺され、その理由として男の娘がこの教団に異様に入れ込んでいたためとわかり、一方で犯人の男は竜に操られたから自分は無実だと主張して……というあらすじを読んだだけでやっかいなお話。主人公は犯人の弁護を引き受けることになった若い男性で、彼が事件を調査するたびに変化する証言と読み進める内に変化する各キャラの印象がポイント。犯人の男からして娘を教祖に取られて逆上した血の気が多い男かと思いきや、人生に絶望した覇気のない顔を見せ、何か隠している風でもあり、もしかして娘のことを異様な目で見ているのではと読者に思わせ、ついにはほんとうの意味で真犯人だと確信させる。出てくるキャラクターがどいつもこいつも信用できなく、それに竜に操られる意思という主題が絡んだ盛り過ぎな作品。中途半端に知恵がついて竜によるマインドコントロールの知識を得た上、いっちょ前に裁判なんぞやりおったせいで竜に操られる人々は自由意志があるのか、罪を問えるのかという問題を生み出してしまった。今、再び人間に自由意志はないとした説も出ているが、将来的に社会への影響が出るのだろうか。

 ラストの「うそつきの館」。上3つの作品では竜が神のアナロジーであることはそこまで強調されていなかったが、この作品は冒頭で竜が超越的な存在だと明言してしまっている。そんな竜が戯れに1人の男と1匹の雌竜を操った挙げ句に男を「解放」する物語。人間と異形の異類婚姻譚は近年日本のサブカルチャーでも1つのジャンルを築いているが、それらとは一線を画す破滅的なストーリーは一読の価値あり。いや、もともと異類婚姻譚は物悲しい終わりになりがちなのだが、この作品は妻との別れの後で希望を抱かせ、それを同族である村人による処刑という形で潰し、その死は実は肉体からの自由だと希望めいたことを仄めかすんだけど、でもよく考えたら結局は竜の手の上だもんなあと暗鬱とした気分にさせる。そんなねじれ曲がった希望のない物語。竜が我々の世界でいう神と明言されているせいか、作者にとって神や自分の運命もこの作品の主人公のように暴力的でひねくれたものに見えているのかなと思った。


 そんなわけで現代版の神を信仰する人々の小説として読み、非常に面白かった。どれもスッキリとした単純なハッピーエンドにはならない作品。物語が尻切れトンボのように思えたり本当に破滅していたり(唯一完結した作品っぽかったのは主人公が最後に復讐心を抱く「始祖の石」というのも面白い)。竜という神に触れた人間どものちっぽけさが強調される。
 一方で、竜による精神操作というのも物語の設定として人々に共有されているだけで、実際に明確な出来事としてあるわけではない。そのためもしかしたら主人公やサブキャラクター含めた人々は単に妄想を抱いていただけでは? という疑念も生まれる(「始祖の石」で竜を恐れる陪審員と恐れない裁判官&検察という図式が印象的であった)。
 それも含めて面白い作品だった。恐らく読み直すと新たな発見があり、何度でも読める作品だと思う。

2018年10月24日水曜日

「ジュラシック・ワールド/炎の王国」(J・A・バヨナ監督、レジェンダリー・ピクチャーズ、2018)

 リアルタイムで映画館で観たが、感想文を書くタイミングを逃し書かないままズルズル来てしまったので、箇条書きだが公開する。
・前半(イスラ島)と後半(ロックウッド邸)でお話がぶつ切りなのが気になった。火山パニックである前半は恐竜、あまり絡んでないし。
・相変わらずヒロインは「可愛い女」だね(一応ラストで活躍するけど、基本的には男に恋愛面含めて頼る女的位置づけで描かれている)
・恐竜が多少キャラクター化されている(忠犬のように可愛いヴェロキラプトル、頼れる肉体派のティラノサウルス、突撃隊長のケツァルコアトルス、火砕流に巻き込まれるアパトサウルス(ブラキオサウルス?)は涙を誘った)ので、生き物ではなくマスコットになってしまった
・だからこそ主人公サイドの恐竜保護・恐竜愛護が説得力を持つんだけど、感情100%で動くのがアレ
・ジュラシック・パークシリーズは遺伝子操作が人間のコントロールを離れたら……というお話なので、狂暴な人工恐竜の災厄はテーマに沿ってはいるんだけど、何か違う気がする。僕にとってのジュラシック・パークシリーズは「実際の」恐竜のお話だったので、「エイリアン作り出すぞー!」というノリとは相容れないなあ
・前作から登場してる悪い遺伝子学者にしても、今作から登場した金儲けを企む連中にしても、悪役を作ったことで話がチャチくなった。1作目のジュラシック・パークは悪い人はいても、直接のカタストロフィに関わっていないので人智の及ばなさが表現できてたのに。
・でも後半のロックウェル邸での追いかけっこは面白かった。ジュラシック・パークシリーズの肝は閉ざされた空間で怪物に追われる人間であることがよくわかった。そういう視点で見ると2作目や3作目が首をひねる内容だったのが理解できる。
・悪役が言ってた「主人公もパーク経営で金儲けをする側」って問題は解決されてない(というか、絶対にその問題をピックアップするために投げかけただろ)。
・善と悪の区別がつかないまま物語が終わり、人間社会は混乱に陥るってのは今らしくて良い
・続編なんぞ作ったら今作ラストの素晴らしさがなくなるので、もうジュラシックワールドも打ち止めで良いと思うよ。

2018年10月4日木曜日

「あだ名で読む中世史」(岡地稔、八坂書房、2018)

 傑作。西洋の歴史にすこし興味を持つと、二つ名(あだ名)が学術の場でも使われていることに気付く。僕が最初にあだ名を意識したのはリチャード獅子心王だった。あだ名で歴史上の人物を呼ぶのは非常にオタク的な気がするのだが、歴史学者たちはどう考えているのか、いったいどれだけの人々があだ名を持っているのか、それぞれのあだ名の元になった逸話はあるのかなど、野次馬的に知りたい好奇心を満たしてくれそうなので読んでみた。

 内容は、一番始めにあだ名が後世まで伝えられている理由や、悪口ではないのかという疑問への回答や、あだ名が最初に用いられた時期など、西洋中世史に興味を持った人が抱く疑問に簡潔に答えてくれている。さらに西洋史においてあだ名が人物を見分ける効力をカール・マルテルの時代を生きた数人の「カール」の特定によって実証する。歴史ってこうやって研究するんだ、と感動。こう書くと単なる学術書っぽいが、もちろんそんなことはなく、取り上げた人たちの歴史的な偉業やゴシップも満載でエンターテイメント度はそこそこ高い(先行研究の批判や史料検証なども行うので100%楽しい読み物とまではいかない)。もっとも、本文の研究に興味がない人でも巻末のあだ名大辞典(総勢300名、54頁分!)をパラパラみるだけでも十分元が取れると思う。
 本文では当たり前のように出典や参考論文などもかなり記載されており、著者の主張は信頼できると思う。学術的な内容はかなり丁寧に書かれており、先行研究への反論などを本文中で行うほど。一般書ではあるが半ば論文に近い体裁となっている。

 一度読んでもしばらくしたら再び読み返せる面白さ。「カール」の特定は学術研究ながらミステリー的な側面もあり楽しめた。何より西洋史が好きならあだ名(二つ名)の効能について学べるのは重要だとわかるだろう。単に情報を仕入れるだけでも、歴史をテーマにした解説書としても、研究の手法を学ぶ本としても楽しく読めると思う。

立ち読みの思い出

 ふとした時、中学生頃、毎日学校帰りに立ち読みしてたのを思い出した。……念のために書いておくが、あのときはまだ立ち読みが苦笑いで黙認されていた、そういう時代だったのだ。マンガ雑誌はエロも含めて一切シュリンクをかけられてなかった。ある書店では僕と共に毎日、同じようなメンバーが立ち読みをしており、高校生も大学生っぽいのも、フリーターっぽいのも、スーツを着たお兄さんもおっさんもいた。スーツを着た人たちは当然、サラリーマンのはずだが、中学生の帰り時間に立ち読みするなんてどういう仕事だったんだろう?

 ぼくが通ってたのは2つの書店と1つのコンビニ。書店の1つは品揃えもよく、頻繁に通っており、鮮明に覚えている。ここがいつも同じようなメンバーで立ち読みしていた所だ。常に立ち読み客がいたにも関わらず、経営は盤石だったみたいで、僕が中学を卒業してから15年近くお店があり、入っているビルのリニューアルと共に消え去った。一方、コンビニはマンガが入れ替わる頻度が少く、いつの間にか行かなくなったな。そして記憶も曖昧で、たぶん他の思い出と混じっている気がするのは書店のもう1つの方。
 確か昔のマンガのリブートやコアなマンガを読んでた気がするが、これがこの書店の出来事なのか、他の書店でも立ち読みしてたのか、全く思い出せない。書店自体もいつの間にかなくなってしまい、それで通えなくなったのだ。しかもその頃はあまり足を向けてなかったのでずいぶん経ってから閉店の噂を聞いても全く残念に思わなかったし。頻繁に通っていた書店の方は鮮明に覚えているというのに!
 しかし、不思議なことに、思い出として懐かしいのは記憶があやふやな書店の方なのだ。人があまりいなかったことや、古い本が積まれていたこと、親と共に行ってマンガをねだったことなど、すべてが良い思い出だ(親にマンガを買ってもらったのは別の店のような気がするが、他にお店が見つからないんだよね……)。
 えてして、美しい思い出となるのは不確かなものなんだなと、なぜか立ち読みしたはずのマンガが浮かんできて思った。

「プーと大人になった僕」(マーク・フォースター監督、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ、2018)

 ディズニーが作った原作のその後の映画なんだって。お、それじゃあ、「魔法にかけられて」みたいなブラックコメディなのかな?
 と思っていたが、違った。大人になって忘れてしまった少年少女時代の夢と驚きをもう一度味わいたい人向けの映画であり、心温まる作品であった。あったのだが……。

 大人になって家族を持って仕事をしている(つまり現実を生き成長してしまっている)元少年が、幼少時代のままの友人と共に幼少時代そのものの遊びをする姿は客観的に見ると不気味だよね。

 主人公であるクリストファー・ロビンの娘がプーさんを始めとするぬいぐるみたちに出会って冒険するのが主軸であれば文句なしに楽しく観れたし、クリストファー・ロビンが忘れていたプーさんを思い出すのが主軸であれば素直に心温まる作品として評価できたと思う。単純にプーさんたちがロンドンにやってきて何も知らない住人を驚かすスラップスティックコメディも観たかった。
 今作はそこらへんを微妙に外している。クリストファー・ロビンがプーさんを思い出したことで仕事上の問題を解決し、彼の娘がプーさんたちと交友を深め、そして何と妻も含めた彼の一家がぬいぐるみたちとお茶会する光景がラストシーンとなっている。率直に言って彼の妻がティガーだかイーヨーだったかにお茶をどうぞするのは幻覚のようで怖かった。だってぬいぐるみだよ? しかも微妙に会話が噛み合ってないんだよ? 幼少時代を思い出すってのは大人の姿で子供のように振る舞うことではなくてだな……。

 この映画の評価を大きく下げる問題ではない。事実、僕が観たときに映画館にいた人は満足していたっぽいし。
 ただ、成長したクリストファー・ロビンに対して全く成長しない・できないプーさんたちとの会話が噛み合わないのは当たり前だし、その解決策がクリストファー・ロビンに子供らしい感性を取り戻させる変化ーーつまりある種のさらなる成長ーーなのは悲しいことだと思う。結局、プーさんたちは変わることができず、彼らに会いたければ「100エーカーの森」に行くしかなく、社会に目を背けていつまでも同じような行動を反復するだけのことでしかないからだ。「何もしないをする」というのは現実に追われる大人が幼少期を懐かしんで憧れるだけだから価値があるのであって、本当に大人が何もしなくなってしまったら大問題なわけで。この作品を例に挙げると、クリストファー・ロビンとその妻が子育てをネグレクトしちゃったらハッピーエンドじゃないでしょう?
 こういう大人になっても子供らしさを持ち続ける功罪ってのはディズニーであるからこそ目を背けず描いてほしかった。

 実際のところ、上で述べた問題・課題ってのは別にこの映画だけの問題ではなく、オタク趣味(さらに世間からはオタク趣味の範疇には含まれていなくとも主に子供向けの趣味)全般に当てはまる話なんだ。子供は単に楽しんで受容するだけで良いし、それが正義だと思っている。でも大人があえて子供向けの趣味を楽しむのであれば、批判的な視点は必要だと思っている。その表現で今の時代良いのか? オタク趣味を楽しむ自らの振る舞いは普通の人間として適切か? この作品を見ているであろう子供に対して適切な内容か?
 メインストリームから一歩離れたところにいた1人のオタクとしてあえて言うと、オタク趣味を愛する人はなぜか(本当に何でだろう?)エスカレートしがちで、枷をはめてないと発言も表現も危ういものがあると思っている。
 正直僕も自由に表現される世界が良い。僕個人はブラックユーモアというか、差別系の笑いを好んだりする人間なので、そういうのが社会の底の底であっても問題なく描けるような社会になって欲しい。ただ、そういう社会を実現するためにはまずは責任を引き受けることが必要で、今のオタクどもを見る限りではかなり長い時間が必要だろうと思ってしまう。


 それはともかく。
 この感想文は一貫して大人の立場から書いており、子供の目線は除外しています。本当の「子供」であれば本作のクリストファー・ロビンの葛藤なんてわからないよ。家庭も大事だけど家庭を保ちつづけるためにお金を稼ぐ=仕事で成果を出す必要があるなんてのは。そういう意味で本作は「大人向け」の映画だったと思う。
 子供時代の思い出はノスタルジーだから美しいことを教えてくれた大切な作品。

「ミセス・ダウト」(クリス・コロンバス監督、20世紀フォックス、1993)

 ミセス・ダウトを今頃になって初めて見たが頭を抱えた。
 ブラックコメディと言い張ってもとにかくヤバい。今の基準からすればヤバさしかない。
 あらすじは、子煩脳で演技の才能はあるけどこだわりが強すぎて甲斐性のない役者の父親が、ついにフルタイムで働いてる母親をキレさせ離婚される。子供たちは父親に懐いてるが、父親が養えないので親権は母親に、父親は週に一度子供たちに面会できるのみ。母親も子供たちの世話ができないのでお手伝いさんを雇おうとするが、事前に聞かされていた父親は募集の広告をこっそり改竄(!)し、特殊メーキャップを用い妙齢の「ダウトファイア夫人」と偽りお手伝いさんとして侵入するのだった……という内容。
 今のアメリカだと似たような事件が起こりそうですね〜。広告の改竄なんて父親が精神的に危ないことが簡単にわかる良エピソード。実のところ、制作陣はラストに向かうに連れ父親の性格的な欠陥を描写し始め、周囲の人がそれに振り回される構図になっており、主人公である父親こそが危ないのは製作者の意図した通りだと言ってはいるが、それにしても度が過ぎる。

 この作品がダメなのは、実はヤバい父親の印象を視聴者に対して和らげるために母親を悪者に描いているところ。無邪気で子供目線の父親に比べ、母親は性格がきつく現実的で人間的に面白くない。離婚したらすぐに恋人(かつての元彼)もできる始末。子供たちも母親には懐いてないが、そりゃ甘やかし放題の父親なんだからみんな父親が好きだよね。
 母親を悪者にするというのはかなり徹底している。母親が収入を稼ぎ、父親が半ば主夫というのはこの時代にしては一見進んでるように見えるけど、実は父親は主婦業をろくに出来ず母親が結局は家の掃除など家事をしている。父親はあくまで子供たちの遊び相手であり、それもラストシーンでテレビで流れたダウトファイア夫人の姿を見た子供たちに笑みが戻った姿から、テレビと同等の価値しかないことが示されている。
 製作者は劇中で父親に対し「君は演技が上手いだけだね」みたいなセリフを裁判官に言わせており、父親のヤバさに自覚的だと見せているけど、母親に対する当たりの強さでマイナス。
 一方で母親の元彼は最初は視聴者に裏表のあるただの女ったらしに見せかけて、実は最後まで良い人物として描かれている。正直、母親自身より好印象。というか、母親に対してシナリオ上の歪を詰め込みすぎである。母親の魅力が薄いためどうしても父親へ感情移入をしがちである。この父親、母親(元妻)の元彼が唐辛子アレルギーと知ってこっそり料理に唐辛子を混ぜ痙攣を起こさせるようなヤバい行動をしているにも関わらず、だ。映画としても無邪気なエピソードと失敗として描かれているが、今の視点から見ると明確な殺意があったのでは……という疑念がつきまとう。
 そこらへんは本当に時代の成約なのかもしれないが、観ていて引いた。その他、そういえば父親が母親(妻)に対して愛してる系の発言をしていなかったなあ。母親の内面はダウトファイア夫人へ(元夫だと知らないときに)吐露されるが、父親は子供への執着以外感情を見せない。
 最終的に父親が赦されたのは僕はこの映画向きじゃないと思い知らされた。ラストシーン、父親が父親として再び家政婦になるのだが、そこはダウトファイア夫人であるべきだった。製作者がこの父親像を軽く観ているとよくわかったシーンである。

2018年8月10日金曜日

「うどん キツネつきの」(高山羽根子、創元SF文庫、2016)

 「日常系」というのは、キャラクターの他愛もない生活の様子をクスリと微妙な笑いを交えながら描く作品が多い。実は、僕にとっては、キャラクターの日常に挟まれる異様な何かをほのめかすことによって僕たちの普通さ・平凡さの儚さを浮き彫りにする作品と認識していた。いわゆるすこし・不思議系というか、藤子不二雄系列の作品だ。
 本書は紛れもない藤子不二雄に連なる「日常系」である。
 最初の「うどん キツネつきの」は確か年刊日本SF傑作選で読んだことある気がする。その時はまだ奇妙な味というかストレンジ系に目覚めてなかったから、拍子抜けした覚えがある。3姉妹が変な姿の生き物を「うどん」と名付け、飼う様子を10年以上描写した物語。もちろん大河的な描写ではなく、特定の時間の特定のエピソードを4つ描くだけなのだが、ペットの「うどん」が誰からも違和感を持たれず犬として3姉妹の生活に馴染み、しかもそれぞれのエピソードでも脇役の立ち位置しかないのは面白い。ラストシーンで「うどん」が何だったのかわかるのだが、そもそもこの作品はその手の推理を楽しむ小説ではないし、そして「うどん」の正体がわかるシーンが夢や幻なのではないかという理解もできてしまう。本作品のテーマは、側にいさえすれば中身が何でも良い存在である「うどん」を通じて、人がペットを飼う理由を探すことであり、それも理由をズバリ書くのではなく仄めかしてぼやかして、やっと読者に伝えるのだ。
 「うどん キツネつきの」で著者の作風がわかったところで、「シキ零レイ零 ミドリ荘」もまた仄めかしの作品である。多言語小説と呼ぶべきか、関西弁や移民の話す日本語、ネットスラングなど標準語でない言葉が大量に投入され、人間の相互理解がいかに不安定なものなのかを描写した作品。なんだけど、実際に作品にしてしまうと、いわゆる「役割語」の見本市にしかなっていないのが残念。最近話題になった小説の中の女言葉に関連し、この著者は女性の話し方に女言葉を用いず、その意味でリアリティがあったんだけど、中国人や東南アジア人(ベトナム? フィリピン?)がいかにもな外国人喋りをしているのがダメである。ネットスラングにしても、思いっきりギャグで書くなら良いのだが、多言語の1つにネットスラングってちょっと安易だよね。
 気を取り直して「母のいる島」。16人目の娘を産もうとして重体となった母のため故郷の島へ戻った主人公が、島に潜むテロリストと闘う物語。つまり主人公は15人姉妹の1人なのだが、会話が成り立つ大人組以外はキャラクターとして特段の書き分けがされていない。されていないんだけど、読んでる最中はそんなことに気付かずに自然に読めていたところが素晴らしい。姉妹たちの会話が自然だ、てことだからね。それにしても姉妹たちの人間離れした能力に、もしかしたら知性を強化されたネズミか何かかなと思っていたんだけど、特にそういうわけでもなく当たり前に人間だったのに逆に驚いた。絶対に人間以外の存在だと思ってたんだけどなー。
 「おやすみラジオ」はそれまでとは打って変わって不穏な雰囲気で始まる。誰が書いたかわからないネットの日記を読んだ主人公が日記の内容に影響を受け、好奇心から真実を確かめたくなる。その結果、実は主人公のように日記に影響を受けた人間がたくさんいることがわかり、現実に影響を与えてしまう。主人公は唯一、日記の書き手に会って真実を確かめるが、書き手の正体は……というストーリー。最初はネットを使ったホラーかと思いきや、いや確かにミームがばらまかれて個人の行動に影響を与えるのはホラーであるが、最後には文字通りの情報の洪水から避難するための方舟と直球のSFネタ。すごい。情報の洪水もそれまでさんざん伏線がはられており、しかもミームによって動かされる人間に自由意志はあるのかというテーマまで盛り込んでいる。もちろん短編なので問題提起だけなのだが、とてつもなく濃密な作品。
 最後の「巨きなものの還る場所」も「おやすみラジオ」のようにシリアスなテーマ。複数の時空で神話やおとぎ話が絡み、共通点が仄めかされ、最後に荒ぶる神というか怪獣というか巨大ロボットと呼ぶべきか、そんな存在が顕現する。比較神話学や物語論をかじったことをある人にとってはそこまで目新しいものではないが、人間の精神が似通っているみたいなテーマである。

 SFというより幻想小説の色合いが強い。もちろんSFであるか否かなんて意味のない区分けではある。なんでもない日常を丁寧に描けており、徐々に展開する上手さがある(逆に言えば大法螺を吹いたり序盤からトップスピードでクライマックスになる系の作品ではない)。現実に侵食する異物をじっくりと味わいたい人向けに。

2018年7月23日月曜日

「プロジェクト:シャーロック 年刊日本SF傑作選(2017年度)」(大森望/日下三蔵 編、創元SF文庫、2018)

 なぜか毎年買い続けている。ところで、収録されているタイトルと作者を東京創元社のサイトからコピペしたのだが、なんで収録順じゃなくて50音順で並べてるのだ……。収録順へソートするのが面倒くさいではないか!

 トップを飾る「ルーシィ、月、星、太陽」(上田早夕里)は海洋SFだ。人類が絶滅した後、人類の子孫である種族が独自の文明を築くため7つの海を冒険する物語……に繋がりそうな世界設定だけを書いた最序盤の作品。主人公の種族はそこまで独自性があるとは思えず、物語としてもよくあるというか、序の序しか描かれてないのでさすがに本作品単品だと微妙だと思う。去年の「プロテス」に比べると出来が悪い。
 「Shadow.net」(円城塔)は攻殻機動隊のアンソロジーということで、原作を読まない僕は面白いのか戦々恐々としていたが、原作を知らなくとも楽しめた。ただ、原作モノにありがちなことだが、世界観やキャラクターの説明が不十分なので何がテーマになっているかわかりにくいものがある。本短編で書かれたことって攻殻機動隊のお話からすると大問題なの?
 やっと続きモノでも原作モノでもない「最後の不良」(小川哲)。流行を否定するムーブメントを仕掛けた奴らは流行を生み出す連中だったというねじれをテーマにした近未来小説。短編だからか理屈に納得できないが(「流行を否定する」のが流行でないとわかる理由ってあるのだろうか。流行を生み出す連中は個性をクローズドサークル内で発散する道を選んだが、その程度で十分なの?)、これが「Pen」で連載されたという事実で全てを許す気になる。今は活字自体が一部の好事家向けとなっているので、ジャンルのクロスオーバーも許されてる気がする。市場が狭まるのにはこういうメリットがあるのかもね。
 「プロジェクト:シャーロック」(我孫子武丸)。表題作。近年はやりのビッグデータと人工知能、そしてオープンソースによる集合知をネタにした作品。過去の事件をデータ化しシミュレーションを行うことで難事件を解決するAIと、それに触発され難事件を作り出すAIを巡る騒動を描いた作品。モリアーティと呼ばれる難事件を作り出すAI、殺人を犯すシステムで似たやり方をどこかで読んだことあると思ってたら、諸星大二郎の「復讐クラブ」だ。ビッグデータの活用という点ではもうちょっと仰天する結果が欲しい……。
 造語でおなじみ酉島伝法「彗星狩り」。世界観がいつもの酉島氏とは違うのか、非常に読みやすかった。ビジュアル的なイメージがしやすいわけではないのだが、ストーリーがあり、描写が人間の理解の射程に収まっている。どんなシチュエーションで何が起こっているのかわかるため、酉島氏の作品にしては満足度が高かった(いつもは理解がイマイチなので実は買っても買わなくてもあまり変わらないのじゃ)。この作品を読めただけでも本書を買って良かった。
 「東京タワーの潜水夫」(横田順彌)は元ネタがミステリーのはずだけど、ユーモア寄りの奇想作品。本作はそもそもミステリーになっておらず、SFとしての側面が強調されている、のか? まるでコントを繰り広げているような噛み合わない会話が特徴的。SFとしてはどうかと思うが、かなり楽しめた。ミステリーから離れてもう20年近く経つんだけど、この手のミステリーなら読めるかも。ルーフォック・オルメス、読んでみたい! と思ったら本作品の掲載本はすでに売り切れ。発行数少なくないですか!? まあ、本編(?)である創元推理文庫版は普通に売られてるけど。
 「逃亡老人」(眉村卓)は……正直、そうですか、以外の感想が持てなかった。去年とは打って変わって、僕には相性が良くないようだ。作者がお歳を召されているからか、災害に対する諦観が強調されており、まだそこそこ若くて欲を捨てきれてない僕としては反発する。何よりも、実際に何らかの災害に遭った人に真正面からこういった台詞を吐けるのかね?
 ストレンジフィクション寄りの「山の同窓会」(彩瀬まる)は傑作。女性が卵を産み、おおよそ3回生んだら死んでしまう。そもそも山も海にも天敵がいるので死亡率が現実の人間社会とは比べ物にならないほど高い世界(まるでネズミとかマグロの群れみたいだと感じた)。男性だって生殖に体力が必要なのか、卵を生む女性と大差がない歳で死んでいく。そのようにかなり本能に支配されている「人間」の生き様を描いた作品。生殖を巡る個体と種の関係がテーマとなり、死の別れを克明に書き込んでいる。面白い。この作者の他の作品も読んでみたい。
 「ホーリーアイアンメイデン」(伴名練)は 強制的に「改心(洗脳)」させる力を持った女性についての、妹からの書簡体小説。書簡体小説なのに読みやすい、ストーリーへの興味を保ちやすいとかなり優れた作品だった。SF的なテーマは、自由意志の剥奪による新人類(伊藤計劃の「ハーモニー」で自我を捨てた人類みたいな)誕生的な内容だが、それよりも天真爛漫な姉に対する冷静で賢い妹の思い入れっぷりが目につく。姉の心に傷を残して自分が唯一の存在になろうと考え、姉の手に殺される計画を立ててその全ての経緯を複数の手紙にして送る妹のヤバさ! 姉だけだったらエロマンガにおける洗脳とか催眠ジャンルレベルのありきたりなお話なんだけど、そこに小さい頃から間近で暮らしされど全く洗脳されなかった妹成分(家族ながら世界で唯一の敵みたいな立ち位置)を付け足すと一気に不穏な物語になる。語り口が上手です。
 本アンソロジー中唯一のマンガ「鉱区A-11」(加藤元浩)。月面基地やらロボット三原則やら古風なSFミステリー。ホワイダニットは半分納得出来ないけど(人間と会話できるロボットなら言葉の裏側の矛盾も理解できるのでは?)、ミステリーの驚きは感じた。
 「惑星Xの憂鬱」(松崎有理)は軽い語り口による良い感じのユーモア半分人情半分の作品。冥王星探索および冥王星が惑星でなくなった経緯と冥王星から名付けられた兄妹を絡めた物語が変な人物も絡んで幻想的な作品となっている。長い眠りから目覚めた兄は、冥王星探査機のメタファーでもあるんだな。
 次の「階段落ち人生」(新井素子)。新井氏の作品はあまり読んだことがないが、これぞ新井文体である。昔の1人称文体かつラノベ的擬音語多用文体とでも言うべきか。よく転ぶ主人公だが、転ぶのには理由があり、主人公は時空の裂け目を感じ取る能力があって、裂け目に足を取られたからなのだという大法螺が展開されている。正直、時空の裂け目を巡る壮大な物語の序盤という感じがして、尻切れトンボ気味。この登場人物とシチュエーションで時空の裂け目というネタは展開させ辛いので、時空の裂け目は彼らの妄想で何にでも理由を見つけたがる人間の性質という路線にした方が話がまとまったと思うなあ。今のままだと、主人公は時空の裂け目を感じ取る能力(物理能力)と裂け目のパワー(?)で修復・治癒する能力(魔法能力)を持っていることになり、何でもありな感じがある。
 「髪禍」(小田雅久仁)はホラーSFと呼びたいところ、最終的にはホラーじゃなくなってしまったので単なる怪獣パニックものであった。中盤までの雰囲気が続けばホラーSFとして優秀だったのに……。髪を崇める新興宗教の儀式の場にサクラとして行った女性が経験する出来事を描いた物語で、序盤はこの宗教団体が「大髪主様」など独自の用語と教義の説明が混じりながら丁寧に描かれていく。不気味な雰囲気が出て面白い! と思っていたが、怪しげな教祖が怪しい儀式を行うと、まさか後継者が化物になってしまう! えー、そっちになるの? てっきり「裏世界ピクニック」的な認知論で処理されるものだと思ってたよ。異物を崇める宗教の民が異様な儀式を経て異形となるのって安易じゃない? 何をもってこのアンソロジーに入れたのかわかりませんでした。
 「漸然山脈」(筒井康隆)。あまり数は読んでないけど、いつもの筒井康隆文体。うーん、2018年にもなってこれを読まされるのは正直辛い。
 「親水性について」(山尾悠子)は集中力が途切れた。覚えていない。ごめんなさい。
 「ディレイ・エフェクト」(宮内悠介)は問題作。日常に非日常が入り込み、されどみんな慣れてしまった世界で破局を待つ作品。しんみりするのだが、逆にヤバイと思う。2020年の東京に1944年~1945年の東京が幻影の様に重なった。そんな異常現象の中、ある一家の心のすれ違いを描いた作品……なんだけど、東京大空襲という被害の前にあらゆる政治性を帯びた意見が(左右含めて)無視される世論の中、被害者としての日本と犠牲になった祖先が強調され、なし崩し的に幻影を巡る議論も物語も終わる。ある意味で今の日本とも絡み合ってリアルなのだが、諸手を挙げて褒められない。主人公一家の別れと仲直りが災害としての東京大空襲を背景にある種のロマンを持って描かれるけど、空襲ってそんな良いものではなかったと思うのだが。被害を引き起こした原因が、国民なのかマスコミなのか軍人なのか政治家なのかは小説として答えを出さなくても良いのだが、それを考える小説としての視点が本作を読む限りないのではないかと感じた。僕のスタンスは左翼寄りだからってのもあるかもしれないが、第二次世界大戦という要素をあまりにもお涙頂戴の素材にしすぎてないかと思う(仮想戦記やライトノベルは100%エンターテイメントということで許容範囲なんだけどね。この作品はもう少し視野が広いと思っているので批判せざるを得ない。)。
 創元SF短編賞受賞作の「天駆せよ法勝寺」(八島游舷)。仏教とSFの融合と言えば、少ない僕の読書遍歴からも、ブラックロッド(解説で言及されていた)や禅銃などを思いつく。仏教または東洋思想に基づくSFって中途半端に用語に馴染みがある分、エキゾチックに感じられるのだ。本作も仏教用語を漢字から何となく読者に理解させ、それを科学とつなげることで仏教科学とでも呼ぶべき世界観を無駄な解説を省いて描いている。造語によって精神世界とSFが融合するのは上の「髪禍」でも同じなんだけど、中途半端にリアル世界が舞台の「髪禍」に対し、現実とはかけ離れた本作の世界の方が何が起こってもむしろリアルに感じられて良いと思う。冷静に考えたら仏教には化物めいた存在も多神的な存在もいるのだから、ファンタジーでやりたいことは何でもできそうである。仏教SF、今後は絶対に流行るぞ。

 去年とは打って変わってハードSFに分類される作品が少なくなった。ハードSFは「ハード」の内容によっては近視眼的だから、なのかもしれないが、これはこれで寂しい。遠い世界の異種族系やストレンジ系や仏教系のSFは好きなんだけどオーソドックスなのも味わってみたいので、来年はぜひともよろしくお願いします。読者というのはわがままなのです。

「The Rabbits」(John Marsden著、Shaun Tan絵、1998)

 この作品が世に出たのは1998年らしい。そのため今の視点から色々言うのはフェアじゃない、とは思うのだが……。
 実は僕はこの作品が出版されていたことを知らず、この前ソフトカバー版を買ったのだった。英語だ、面倒だなと思っていたが何とか読み切れた。しかし内容に引っかかった。移民のアレゴリー? それともアメリカ大陸やオーストラリア大陸入植者? ショーン・タンのサイトでは植民地主義に関する話とのことだが……。

 ストーリーは、森の獣が楽しく暮らしてたところ、rabbitsがやってきて、最初は森の獣にも得だったが次第にrabbitsの数も増え、持ち込まれる動物が病気を広め、rabbitsは環境を破壊し森の獣を間接的に殺し始める。さて、森の獣にとってrabbitsがやってきたのは良かったのか。「我々(森の獣のこと)はrabbitsにどう対処すれば良かったのだろう」という森の獣のモノローグで終わる。

 この構図、最近見たような……。そう、今の情勢的には欧州やアメリカやオーストリアへの移民と取れてしまう。いや、中東からの亡命者やメキシコからの入国者、アジア系移民はrabbitsと違って先住者(白人)の土地を破壊(木を切ったり野生動物を狩ったり)したり病気を広めたりしない? それはどうだろう。文字通りの意味では白人の環境を破壊はしていないだろう。少なくとも移民が増えたら白人はネイティブアメリカンみたいに絶滅すると叫ぶ人はそこまで多くはないと思う(多いのかな)。今問題になっているのは手垢のついた言い方だが文化と文化の衝突であり、それが生活や住環境に影響し移民の排斥にまで発展している。そんな中で、そもそも植民地主義の歴史を寓話的に描いた本書が、今の、2018年に問題になっている移民とは無関係だと言えるのだろうか。

 僕にとってはrabbitsは移民とも読め、嫌な気分だった。植民地主義というのは明確な基準があって批判も簡単にできそうなんだけど、抽象化していくとどこかの段階で移民と構図が同じになる。それを区別するならば先住者と移住する人の違いを設定しなければならなくなり(つまり植民地主義と昨今の移民の違いは、先進国と遅れた国を設定してしまう)、新たな差別の構図となる。
 2000年以前の作品に文句をつけるのもなんだが、危ういものを感じた。

2018年7月6日金曜日

「ゲイルズバーグの春を愛す」(ジャック・フィニイ著、福島正実訳、ハヤカワ文庫)

 某読書会課題図書。
 SFでもなくホラーでもなく、かといってファンタジーというほどリアルな世界から遠ざかっていない……。それでいてガジェットは幽霊だったり時間移動だったり、魔法のような道具だったりする。こういう作風をなんと呼ぶべきかわからないが、ネットで検索したところ「『世にも奇妙な物語』風」というなかなか本質を突いた表現を見つけたので、それをお借りしよう。
 ジャック・フィニイの作品は初めて読んだが、現実に立脚していながら、その現実を越えたファンタジー(大塚英志氏の言葉を借りるならマンガ的リアリズム)に惹かれた作家だと読めた。解説によると古き良き時代への現実逃避とあるが、現実逃避? 確かにノスタルジックな作風なんだけど、逃避しているようには読めなかったなあ。日常に潜む少し不思議(S・F)さを昔を舞台にして描く傾向が強く、単なる昔は良かっただけの作品だとは思えない。筆者の興味はあくまでも今後・未来に向かっていると思うんだけど……。

 「ゲイルズバーグの春を愛す」。表題作。ゲイルズバーグの街でとっくになくなったはずの昔の電車や車が目撃される事件が起き、調べてみると街そのものが近代化に抵抗して起こったらしい、という内容。ちなみに上記あらすじだけでこの短編の全てを表している。時間移動に加え、街(共同体)のような概念が意思を持つというテーマ。まあ、過去への郷愁なんだろう。とはいえ、冷静に考えてみたら、過去を知らない若い住人も現れる中で単純に過去の光景を映すだけでは不気味としか受け取られないわけで、事実この短編でも過去へのロマンよりも奇怪な現象として書かれていた。ノスタルジーに浸らせない冷静な視点が、作者の特徴だと気付かされた作品。
 そんなわけでジャック・フィニイの魅力を自分なりにわかったところで2作目の「悪の魔力」。無名の骨董店で男が買ったメガネは服を透かし裸体を見ることができる魔法の道具だった。スケベ心が暴走しメガネで女性を物色しまくり、ついには着けた者を言いなりにする腕輪まで買う始末。しかし腕輪を着けたのが外見が悪い女性で、惚れられてしまい、逆に女性が骨董店で買った媚薬で男をモノにするという物語。これ、エロマンガでよくあるパターンだ! ドラえもん的というか、道具に頼ってズルするダメ男が欲望を暴走させ、しっぺ返しを食らうというお馴染みの物語である。面白かったのは主人公も外見が悪い女性も散策が好きという設定が冒頭に書かれているが、中盤以降は特に何の伏線にもなっていないところ。外見が悪い女性が無名の骨董店を知っていた理由として、つじつま合わせに追加されたのかなと邪推してしまった。
 「クルーエット夫妻の家」は打って変わって「ゲイルズバーグの春を愛す」みたいなノスタルジックなお話。今度は家が過去の思い出を映すよ。19世紀に建てられた家の建築図面で新たに建てた家が、当時の所有者の姿を映し出し、現在の所有者夫妻は次第に19世紀当時の姿に生活スタイルになっていく様子が非常に不気味である。ぶっちゃけ、不思議要素がなかったら単なる狂人の物語なわけで、単純な昔へのロマンとは言い難い気持ちの悪いお話。
 「おい、こっちをむけ!」。中島敦の「山月記」とテーマは同じ。芸術家志望の若者が大成できないまま死んでしまい、幽霊になった後で自分を芸術家と書いて墓石を掘るというストーリー。古今東西、こういう若者はいたんだなと納得。芸術は魔物である。
 次の「もう一人の大統領候補」はガラリと変わってユーモア小説。不思議なことを実際に起こしてしまう少年の巧みな手口が語られる。一種のミステリーである。読者はどうやってこの少年が虎に催眠術をかけたのかというトリックをハラハラしながら読むが、ラストで周囲の大人を騙したテクニックが政治家の資質とされ、それを見抜いた主人公を金で釣って仲間にする手口など皮肉が効いた作品である。
 「独房ファンタジア」はなかなかの泣かせる作品。死刑が目前に迫った囚人が独房の壁に面会や食事を忘れるほど魂を込めて絵を描いた。死刑執行の直前、無実の罪だったことがわかり、元死刑囚は出ていったが、壁の絵は男を待ちわびた家だった。あまりにもリアルな絵なので、描かれた家の扉を開けたら本当に独房の壁も開いてしまう系の作品かと思っていたが、きれいな終わり方だった。
時に境界なし」も時間移動のミステリー。そこそこの犯罪を犯した容疑者の足取りを追う警察官がそれに関わる学者(主人公)に話を聞く内に、時間移動で過去に連れて行ったとわかり、主人公に彼らを逮捕させるように強要する、というお話。ラストはその警察官が直々に過去に行って罪を償わせようとするものの、主人公の策によってそれが叶わない……のだが、小説として警察官を必要以上に憎たらしく描いたのがご都合主義的である。そもそも主人公は黙っていれば良いのに自分から過去に連れて行ったことを白状するわけで、それで警察官に脅されるのは自業自得である。しかもその後の対応も保身を考えたもので倫理的にどうかと。恐らく主人公に対する反感を和らげようとした結果が狂信じみた警察官となったのではないかと考えている。
大胆不敵な気球乗り」は次の「コイン・コレクション」でも見られる現実逃避ロマンスモノ。気球という非日常の閉鎖空間でロマンスが芽生えるけど日常に戻ってしまう切なさを描いている。「コイン・コレクション」と比較すると日常に戻るのは健全だなー、と思いました。
コイン・コレクション」は平行世界モノ。世の中には時々平行世界からのコインが紛れ込んでおり、それを使うと平行世界に行ける(自分の世界のコインを使うことで無事に帰ってこれる)。主人公はこの設定で何をしたかというと、倦怠期の奥さんに対する浮気であり、平行世界では元カノと結婚しているので自分の世界の奥さんに飽きたら平行世界に行こう! という構図。正直、平行世界への旅に何のリスクも書かれてないので(今の作品なら平行世界から連続殺人犯の自分が来てしまったとか、平行世界から来たことがバレるとか破急を付けると思う)、特殊能力を持った主人公による浮気物語以外の何物にもなってない。面倒になったら逃げ出せば気分も面倒な出来事もリセットできるという幼稚な現実逃避である(この作品が小賢しいのは、世の中の現実逃避作品はパッケージなどから現実逃避ジャンルだと主張し、その評価を甘んじて受け入れてるのに対し、「コイン・コレクション」は微妙な言い訳を延々と積み重ねてやってることは単なる現実逃避でしかないってこと)。
愛の手紙」も時間移動もの。古い机を買ったら、その中がタイムトンネルみたいになっており、元の机の所有者である薄幸の女性と手紙の交換を行うというもの。よくあるテーマであり、絶対に会えないとわかっているからこそ相手に恋でき、美化できるんだよね。この構図は相手が二次元であっても、顕微鏡で見た水滴の中の存在であっても同じ。この手のジャンルの王道なのでロマンティックな気分に浸れる。

 驚くべきことに、後から思い返しても全て内容を覚えている。どれもつまらない小説ではないというのがこの短編集の特徴である。ジャック・フィニイも「ゲイルズバーグの春を愛す」も初めてだが、SFとしての側面をことさら強調せずに物語の味付けとしてSF的要素を盛り込む手法は新鮮である。SFとしては、それぞれ時間旅行モノや平行世界モノなど1テーマごとに書かれ、王道の展開となるため、最近の作品に慣れた人からだと少し物足りない。もちろんジャック・フィニイがSFの始祖の1人ではあるのだが。最近の読者だと手塚治虫や藤子不二雄のSF短編集の方が親しんでいると思われるが、その原典なんだと改めて感じた。

「禅銃」(バリントン・J・ベイリー著、酒井昭伸訳、ハヤカワ文庫)

 いろんな意味でバリントン・J・ベイリーは時代を先取りしていたなあ、と改めて感じた。後退理論という空想科学、ストーリーよりも設定のほうが大事と言わんばかりに突如差し込まれる説明、銀河に散らばったのは良いものの人間の数が少ないから遺伝子改造された知性化動物(でも2級市民)、一方でロボットは知性を持つのに市民扱いされないので人権を求めストライキを行っている有様、そして当の人類は教育を施し若く(10歳とか)ても銀河帝国の要職に付け乱痴気騒ぎを繰り広げ、その癖若い女性では顔にシワを作り老成させるのが流行りだったり、ついでに物語後半で人間が生きたままバラバラに組み立てられ特に痛みも感じないとかいう悪趣味ぶり。これが1983年に書かれているなんて本当に信じられない。
 ストーリーは銀河帝国に滅ぼされようとした地球で、下劣な知性化猿が禅銃という武器を手に入れ、銀河帝国のお家騒動に巻き込まれる、というもの。異次元人が絡んだりもする。ぶっちゃけ、この作品の肝は収拾をつける気もなく次々に投入される奇抜なアイデアとヘンテコジャパニーズ&禅であり、ストーリーは後半になるに従って二の次(=いい加減)なもんである。あのシーン、なんで飛ばしちゃうの!? とかラストって「俺たちの戦いはこれからだ」エンドじゃね? とか色々言いたいことはあるが、そもそも今作はストーリーを味わうものではないのだ。
 胸焼けするほどの大量のネタが紙くずのようにちぎって捨てられる贅沢さを味わうべきだ。知性を持ったロボットが市民でない(=奴隷ですらない)のでストライキもサボタージュもやりたい放題で帝国のお偉いさんからさっさと人権を認めて奴隷労働させちまえよ、と愚痴をこぼすシーンはロボットSFのパロディとして現代でも通用するだろう。知性化動物やら人間が少ないので若い男女も帝国の高官になってるなんてアイデアはこれだけでもラノベ寄りSFの設定にできそうな具合。所有者の精神力に応じてとんでもないことができる禅銃に至っては評価不能。
 ストーリーはどうでも良いとしても、設定のために読んだほうが良い。

 ところで、銀河帝国のクーデターで人間に反旗を翻すのが豚なのは、オーウェルの「動物農場」があったからなのかなあ。

「多々良島ふたたび──ウルトラ怪獣アンソロジー」(7人の著者、ハヤカワ文庫、2018)

 薄々感じていたが、僕はウルトラマンではなく怪獣が好きだった。それも悪の組織から侵略のため操られるような目的のある怪獣ではなく、偶然長い眠りから目覚め不機嫌に街を壊す自然災害のような怪獣だ。僕が好きな怪獣作品も結構そういうのが多く(パシフィック・リムとか例外はもちろんあるけど)、「MM9」も初代が好きなのだ。
 実のところ、どうも僕は怪獣と退治するウルトラマンですら怪獣の1種と捉えているらしく、ガメラや正義のゴジラ的な理解しかしていない。怪獣が怪獣を倒すのは単なる縄張り闘いの結果であって、人間はそんな災害に巻き込まれて右往左往するだけの小さい存在に過ぎない。そのため同じ円谷プロ監修の小説であっても「ウルトラマンデュアル」より本作「多々良島ふたたび」に軍配を上げたのは当然のことであろう。
 そう、本作「多々良島ふたたび」はウルトラマン(ウルトラQやウルトラセブン、怪奇大作戦も含めて)に出てくる怪獣に焦点を当てたアンソロジーであり、怪獣の魅力が、さらには怪獣としてのウルトラヒーローが余すところなく描かれているのである。

 1番手の「多々良島ふたたび」(山本弘)はストレートなウルトラマンスピンオフ小説である。ウルトラマンもしくはウルトラQ本編を観ていないとストーリーの前提がわからない。作中での理屈の付け方や真相など正統派なスピンオフで作者が原作を愛しているのはわかるんだけど、もっと自由に書いてもらったほうが楽しかったと思う。
 「宇宙からの贈りものたち」(北野勇作)は……うーん。作者の作品では「かめくん」は好きなんだけど、「かめくん」以外の作品とは相性が悪いのだ。文章のテンポが僕の好みと合わないっぽい。実のところこの作品もどうも僕にとって苦手な部類だったらしく、3回くらい読んでも内容が頭に入ってこなかった……。ごめんなさい。
 「マウンテンピーナッツ」(小林泰三)。挿絵の絵柄も相まってポップな印象がある。「ΑΩ」の再来か!? と身構えていたがそんなことはなかった。調べてみると、「ウルトラマンギンガS」の外伝らしい。とはいえ、当該作品を観ていなくとも(僕は未視聴)特に不都合はないと思う。行き過ぎた環境保護団体・野生動物保護団体に対する皮肉が見られるが、ちょっと単純化が過ぎると思う。常識的に考えて、人的危害が大きいのであればそんな野生動物を保護する動きは高まらないのでは? しかも怪獣はおそらく日本を中心に襲っているはずであり(ここらへん「ウルトラマンギンガS」で説明があったのだろうか?)、地域の特殊性からも免ぜられると思う。一介の環境保護団体が政府すら超越する権限を持っていて、さらに住民を虐殺できるくらいの軍事力と兵力を持っているなんて設定、リアリティがあるのだろうか?(これがマフィアとかならあるあるなんだけど)。テーマは、ウルトラヒーローが人間同士のいざこざに介入することの是非。理屈からいえば人間が怪獣を製造して街に放てばウルトラヒーローは怪獣を倒せないこととなるため、本作の怪獣もそうした方がよりテーマを強調できたのでは? と思う。短編なのに主題が2つあり、どちらも徹底できてないのでちょっと尻切れトンボ気味。
 「怪獣ルクスビグラの足型を取った男」(田中啓文)はやっぱりダジャレ落ちだった。田中啓文をケイブンと読ませた時、「ああ、あれか」と思ったが、予想に違わずあれとなったのでむしろ安心。ダジャレ以外だと日本特撮愛を感じられるしんみりするお話であった。ラストまではへんてこりんなダジャレもネタもなかったと思う(ラストが変と言っているわけではない)。田中啓文氏の作品は語りが上手いんだよな(そしてついついダジャレを読んで脱力する、と)。
 「影が来る」(三津田信三)は怪奇大作戦系列の作品らしい。作品単品で事前の知識が何もなくても読み進められ楽しめたのだが、普通の怪奇小説だった。とはいえ、よく考えたら、ウルトラマン自体、本人ではない存在が本人と入れ替わって生活するというモチーフがあるためドッペルゲンガーとの親和性が高い。一見ウルトラヒーローとは関係ないように見えて、実はこれ以上ないほどウルトラマンのテーマに沿っている点で、読み終わってしばらく考えていたら本アンソロジー1の傑作だと思えてきた。ウルトラマンを意識せずとも読めるので万人におすすめできる。ウルトラマンは影も形も出てこないけどな!
 「変身障害」(藤崎慎吾)はこれぞウルトラマン(実際はセブン)をテーマにした作品、といった感じで興奮する。ウルトラセブンに出てくる退治された宇宙人が主人公とともに悩み、主人公の正体を探るシーンは、絶対に何かが起こりそうな不気味な雰囲気を持っており、すでに完結した作品だからこそできるものであろう。主人公とウルトラセブンが同調する理屈はファン向けの小説だからできそうな原理。主人公が妻子持ちのおっさんであることや、モブキャラとして出てくるかつて敵だった宇宙人の冴えなささは、この作品が紛れもなく大人向けなんだと主張している。
 最後の「痕の祀り」(酉島伝法)はいつもの酉島氏、と書くとアレなのだが、ウルトラヒーローやスペシウム光線を酉島氏的に処理するとこうなったみたいな作品。ウルトラマンが倒した怪獣の後片付けというこの手のアンソロジーでは必須のお話。面白かったのは、ウルトラマンを怪獣の一種として捉えており、スペシウム光線をヤバい光として描いている点。カレル・チャペックの「絶対子工場」が設定の元ネタっぽい。本作品ではウルトラマンを絶対子を放つ存在=宗教的な巨大な存在として描いているため、スペシウム光線が放たれる時周りにいると漏れ出たスペシウム(作中では絶対子)によって解脱してしまう……、というの設定。ラストは先の「影が来る」同様、擬似的な入れ替わりモチーフとしてウルトラマンアンソロジーらしい終わり方だったと思う。怪獣の死体処理をするのでウルトラマンが現れたら駆けつけなければならない(=息子の側からいなくなる)お父さんを見て、息子がお父さんはウルトラマンと勘違いするのは微笑ましかった。本作品中1番のしんみりするシーンだった。設定のぶっ飛び具合も本作品中1番だったけど。

 総括すると、ウルトラマンは怪獣なのだ。それはそれぞれの短編の作者も感じていたらしく、「変身障害」みたいにウルトラセブンは凡百の宇宙人と変わらないし、「痕の祀り」のようにストレートにウルトラマンと怪獣が同一だと描いた作品もある。仮面ライダーを例にとらなくても、やはりヒーローは怪物の1種の方がドラマが生まれて良いと感じた。

2018年6月25日月曜日

6/16ホビージャパンゲーム定例会@R&R

遊んだ新作・準新作ゲームの感想文。
・アズール(ミハエル・キースリング、Plan B Games)
 柄タイルをゲットし、並べ、その組み合わせによって点数にするゲーム。序盤は点数が取りにくいが、タイルが埋まる後半は一気に点数が伸びる。毎ラウンド、タイルを順番に取る→場に出ているタイルを取り終わったら並べる、と言った簡素なルールなので初心者でもわかりやすい。コンポーネントがきれいで、久しぶりに購入欲が沸いたゲームだったが、後述の覇王龍城を遊んだ後だと霞んでしまった……。
 タイルを固めて置く、勝利点が0未満になることはないので(他の人の点数も伸びない)序盤はいくらマイナス点になっても気にせずタイルを埋めることに集中する、マイナス点覚悟で積極的に1番手を取る、捨てタイルが3個以上揃ってたら即獲得する、というコツに早めに気付いて勝てた。が、完全に情報が公開されるゲームであるため他の人も上のコツに気付くと邪魔し合うゲームに早変わりすると感じた。プレイヤー全員がこのゲームに慣れてるとのびのびとタイルを埋めることはできなさそうなので多少自由度は低いかな。自分のボードが美しいタイルで埋まるさまは素敵なんだけど、好きに遊べなさそう。

・アイスクール(Brian Gomez、Brain Games Publishing SIA)
 おはじき。ゲーム会で時間が余ったときに遊んだので子供向けアクションゲームかぁ、とバカにしていた。バカにしていたら……かなり楽しい。駒を弾くだけなので誰でも遊べ、勝利点の稼ぎ方も複数ある。小学生の頃のジョー戦を思い出してほっこり。みんな下手なうちが1番盛り上がって楽しいと思う。ついでにプレイヤー数も4人と言わず、6人くらいいけるのでは? でもみんながこのゲームに習熟してしまうと地獄のような光景になるだろう。You Tubeには弾き方が上手い変態共が大量発生してるし。

・コードネーム
 つ、つまらない。。。ヒントを出して絵や単語を当てるゲームはミステリウムみたいな勝ち負けのないゲームでないと盛り上がらんよ。このゲームの最大の欠点は、絵や単語を当てさせるゲームは外れるのを見るのが面白いのに、失敗を許さないガチガチのゲームにしてしまったことにある。

・覇王龍城(Hjalmar Hach & Luca Ricci & Lorenzo Silva、Horrible Games)
 タイルゲームだけど、内政タイプ? かなり面白かった。数種類の色のタイル(実際には麻雀パイみたいな直方体)を自分のボードに並べ、同じ色が4つ以上隣り合ったらタイルをひっくり返し点数や特別なアイテムをゲット。ひっくり返ったタイルの上にもタイルを並べることができるので(タイルをひっくり返せば全部で3段まで積めるのだ)、本当に城が建つ感覚が味わえる。タイルと書いているが、使っているのは麻雀パイなので高さも出て楽しい。3段積めれば鼻高々だ!(勝利点につながるかはわからないけど!)
 他人と並べるタイルをバッティングさせない戦術、でも他人を邪魔するだけでは点数が伸びないジレンマ、勝利方法がわからなくても適当に並べるだけで大負けしないバランス、タイルを並べる&揃ったらひっくり返る&ひっくり返ったら社(点数化するアイテム)が置けることさえ覚えていれば遊べるので初心者向き、など誰でも遊べるので買う候補に挙がった。そうそう、コンポーネントが麻雀パイライクな見た目で豪華だった。山タイルの並べ方も様々な種類があって、長く遊べそうである。

・ウォレット(W.&M.フォール、ライフスタイル)
 7人まで遊べるパーティゲーム。手札を入れ替えたりゲットしたりで数回繰り返されるラウンドで高い順位を狙うゲーム。このゲームの特徴は、条件に満たない場合は順位が決まる前に失格となり持ち点を没収されること(順位が低いと勝利点をもらえないだけでペナルティはない)。何はともあれまずは失格にならないよう手札を調整するのだ。
 実際に遊んでみたところ、自分が勝てる&高い点数狙えると思ったらガンガン勝負に出られるので毎ラウンドが意外と短い。一応、他プレイヤーと絡む特殊アクションは特殊アクション後通常のアクションが行えるので手番が単純に増えるのだが、正直、ランダム性の強い他プレイヤーとのカードの交換とか獲得とか、地雷アクションとしか思えなかった(他プレイヤーを邪魔する目的なら使えるんだけどね)。ラウンド開始時のカードの引きがそのラウンドの勝敗をかなり左右しているのでそういう面ではちょっと微妙かな。特殊アクションも「特殊」とつく割には微妙だけど、カードを入れ替えるというルールはわかりやすくジレンマもあり、多人数ゲームとして楽しい。

ニッセイオペラの「魔笛」

 6/17日に行ってきたぜ。恥ずかしながら観たことなかった作品で、ファンタジー的な題材で面白かった。コミカルなトリックスターも、憎たらしい悪役も、それから敵なのか味方なのかわからないのもいてエンターテイメントしていた。
 今作は台本を現代チックに多少アレンジしたっぽく、これはこれで新鮮。で、アレンジしたから地の台詞があるのかなと思ってたが、帰ってから調べてみたら、原作でも地の台詞があるっぽい。ジングシュピールっていうのか。僕としてはオペラは常に音楽が鳴り響いて、音楽に台詞を乗っけてほしかったのでちょっと残念。ただ、演劇として見ると、地の台詞があるおかげで台本をアレンジする余地があるため純粋な歌劇オペラよりも現代には合ってると思う。

 劇場のパンフレットを少々予備知識を仕入れたのだが、確かに第一幕と第二幕で善悪の勢力が逆転している。というか、唐突感がある。台本のアレンジの影響なのかもしれないが、第二幕で善玉となる神殿……というか太陽の教団も男尊女卑傾向があり(パンフレットを読むと現代風にするためにあえて強調した模様)、その試練に付き合う王子も単純な善の主人公では(現代の視点から見ると)ない。本公演のアレンジは、あたかも宝物のように敵を倒した報酬として与えられるお姫様を象徴としたモノ扱いされる女性という問題を強調としており、その舞台が理性と感情の対立という構造で、どちらが明確な善なのかはわからないようになっている。姫をモノ扱いし自立を拒む夜の女王と姫をモノ扱いし男尊女卑な昼の神殿か。
 そんな現代的な世界を旅する主人公とお付きの野生児、そしてお姫様もどこかアレな感じ。最大に引っかかる点は、簡単に王子に恋する姫もまた昼の神殿のキャラクターに過ぎないことだ。王子様は優等生的でお姫様を求める以外に自分を持っていない気がするし、主人公と共に旅する野生児(トリックスター)は面白いんだけど一貫性がない。怖いの嫌だーと言ったり、享楽的だったり、恋人を欲したり、トリックスターってそんなものと言われればそうなのだが、そもそも主人公に着いてくる動機が薄いので最後までこの人はどういう人間なのかわからなかった(いやまあ、トリックスターってそういうものだが)。
 そのため彼ら主人公3人もまた自分を持っていない人々とみなすこともでき、本公演では明確な善悪の違いなんて存在しないなと思った。
 もともとの原作でも神殿と女王の立ち位置がひっくり返るのだから、それに合わせて登場人物もひっくり返してみたと言ったところか?

2018年6月7日木曜日

「不思議屋/ダイヤモンドのレンズ」(フィッツ=ジェイムズ・オブライエン、光文社古典新訳文庫、2014)

 読書会の課題図書だったから読んでみた。
 ジャンルも、定番のガジェットもなかった頃だからできた幻想的なごちゃ混ぜ小説の数々。一見、怪奇小説や幻想小説かと思うが、科学を含む理屈が(かなり怪しいながら)根底に流れており単に不思議な話なわけではない。考えてみれば、本書に収められた小説のいくつかは当時の具体的な地名・具体的な人名や話題が記されており、当時の読者は小説の世界が現実と地続きに感じられたのではないかと思われる。実のところ、創作の中に実在する固有名詞を入れ込む手法は僕にとっては戦後スポ根マンガの印象が強くリアリティ確保の手法という印象があるのだが、本書の小説が書かれた当時はもしかしたら完全に架空の世界を描いた小説は少ないあるいはなかったはずなので、小説の世界と現実は本当の意味で地続きだから現実の固有名詞を出したのかなとも思えてくる。テーマは非現実的なんだけど、そのくらい現実味のある作品たちであった。
 「ダイヤモンドのレンズ」はなんとな~く知っているというか、自分だけにしか見えない存在に恋焦がれて廃人になるジャンルの作品だ。その意味で今から読んでも目新しくはないのだが(今だったら怪しげな占い師のお婆さんをもっと物語に関わらせないと面白くはないだろう)ジャンルの元祖、なんだろうなあ。個人的には訳者の方が興奮するほどには入れ込めなかった。
 「チューリップの鉢」は半分サスペンス混じりのゴーストストーリー。当時の科学とオカルトが混じり合った理屈の付け方が面白い。当時は大真面目なサスペンスだったのかもしれないが、幽霊が科学の主流から外れた今となっては古き良き時代を感じさせる作品である。
「あれは何だったのか?──1つの謎──」は透明人間のような存在を描いたモンスターもの。目的も正体もわからない(時代的にまだそこらへんの理屈を考えようとも思わなかったかも)怪物が現れて捕獲されるだけなんだけど、妙に淡々とした流れがリアリティを感じる。
 「なくした部屋」はこれは一体何だったのだろうかというような不思議な作品。幽霊に騙されて部屋を盗られた、というシンプルな物語なのだが、今の視点から見るとそもそも盗られた部屋は本当にあったのだろうかみたいな深読みすらできてしまうのが面白い。それとか、物語としては善良な主人公が幽霊に騙される話なのだが、実は主人公は悪事を働いて部屋を得ており、幽霊たちはその復讐だったのではないかみたいな……。ストーリーのパターンが読めてしまうのはジャンル化の弊害だが、この作品ではむしろパターンが思い浮かぶのが「深読みしがいがある」と評価の対象になると思う。
「墓を愛した少年」。個人的にはあまりおもしろくは読めなかったなー。
 ロボットモノの古典とされる「不思議屋」は確かにロボットだった。とはいえまだ本作品の時代は人間の命令に従うだけの存在であり、使い魔とか式神とあまり変わらない。最終的にロボットの操り手は不注意からロボットに殺されるんだが、ロボットモノの主要テーマであるロボットの反逆とかじゃ全くなく、単なる自滅だな。それもかなりご都合主義感が高い。善き人々である囚われの少女と障害者の青年では悪人どもを倒す手段が見つからなかった模様。
 「手品師ピョウ・ルーが持っているドラゴンの牙」は中国モノ、らしい。ワタクシ、白人作家の書く中国モノとやらに詳しくないので、面白く読んだ。確かに中国要素は味付けレベルしかない……というより風俗文化の描写が薄いので無国籍な世界感がある。「ダイヤモンドのレンズ」でも「不思議屋」でも、描写のディティールをなくせばこんなもんになるのでは? 聊斎志異とかに比べると登場人物の行動などで中国要素がないんだなと思った。
 最後の「ハンフリー公の晩餐」。金持ちのボンボンが金の大切さを知らずに破滅しかけたけど救われるお話。主人公である元金持ち2人が自業自得感があって入り込めなかった。彼らにお金がなくなったら生きていけないはずなのに何か切迫していなく、悲劇の主人公的なナルシズムが入っていると思う。演劇的な会話と食事の演技に至っては健気というより楽しそうだなあ、と思ってしまった。そんな中で終盤手を伸ばされる救いは、むしろ2人が死んだほうが物語が美しく終わったと思う。頭の中で作った悲劇的なシチュエーションって感じ。

 古いけど逆に新しい部分があり、かと思うとやっぱり古びてしまったと思わせられる部分もある。これが中世レベルまで古ければむしろ面白かったのだが中途半端に古いので古さを余計に感じた結果となった。

2018年6月1日金曜日

「モンストレス vol.1」「モンストレス vol.2」(マージョリー・リュウ作、サナ・タケダ画、椎名ゆかり訳、誠文堂新光社、2017以降続刊)

・「モンストレス vol.1」&「モンストレス vol.2

 このマンガ、密かにここ数年の日米マンガで傑作と考えている(ファイブスター物語14巻は除く)。
 が、翻訳マンガの常として、売れるかどうかわからないのでそろそろ感想を書いておくかと思った次第。以前、応援するならブログで記事にしてくれと誰か作家の方が書いていたので、翻訳&出版が危うい海外マンガは感想文をこまめに書かねば。

 さて、名前からわかるかもしれないが、絵担当のサナ・タケダ氏は日本人であり、もともとはセガのスタッフだったらしい。そのため、海外(特にアメリカ)マンガにしては「濃く」ない絵柄なのだ。絵を見ると明らかに日本のマンガ風で、特にメインキャラの1人である狐少女は顔に描かれる線の少なさもあって色調が薄いシーンでは完全に萌キャラ風の顔貌をしている。そう、この作品は日本人が読んでも違和感なく読める海外マンガとして貴重なのである。そういや同じハイファンタジージャンルだと「ウィカ」とは正反対だなあ。「ウィカ」の発狂寸前のゴテゴテ感と何も隠さない濡れ場シーンは、あれはあれで日本人からすれば異文化感満載で面白かったが、1冊読めば胸焼けする。それに比べると「モンストレス」の日本マンガ風ながらそこそこ写実的で、またヌードすら見せない一方で狐少女の着衣水泳を描く(というか、狐少女の仕草がどれもこれもフェティッシュだと思う)、みたいなフェティシズム要素のあるマンガはお腹いっぱいになるまで何回も読めるのである。
 もう少しキャラクターの絵柄について書くと、日本のマンガはよく鼻がないと海外の人から言われるらしく(「北欧女子オーサが見つけた日本の不思議」に確かそんなエピソードがあった気が……)、そんな日本マンガに慣れてる人からするとアメリカのマンガは線で鼻が描かれ写実性が高い。ではこの「モンストレス」はどうしてるかというと、成人のキャラは昔の少女マンガみたいに鼻を線で描く……かと思いきや、日本のマンガみたいに鼻の下部のみを線で表してるコマも多い。その代わりとして、鼻の隆起や影を色で表現しているのだ! これは凄い。読者はちゃんと鼻があると認識できるし、鼻を描かない=顔がのっぺりさせる表現もできる。そう、このモンストレスは線で鼻を表現していない分、キャラクターがどれもこれも若々しく見えるのだ(「ザ・ボーイズ」とかと比べると本当に若くて小奇麗に見えるのよ)。更に言うと、キャラクターってデザイン的に東洋人なのかねえ。絵柄の影響もあってかアジア人に見える、が、作品の内容的に人種の細かい差異を感じさせないようにあえて薄味のアジア人顔に統一した可能性もある。せっかく作者の1人が日本人なのだから、インタビューでも載せてみてほしいな。

 ストーリーは、主人公が自分のルーツを追い求め、陰謀に巻き込まれ、異能に目覚めて追われて逃避行するという理解で良いのか? 物語の展開はアメリカのマンガでありがちな駆け足&省略気味。これはこれで何回でも読めるから好きだけどね。
 1巻では狐少女や喋る猫に出会いキワモノだなーと思っていたらこの世界では普通の種族だったことにびっくり。混血だと書かれていたが、半ばミュータント。2巻では船をチャーターして逃避行を続けるが出てくるキャラがサメ人間だったりタコとかイカみたいな人間だったり、ああこの手の連中もこの世界の1員なのね……と教えてくれる。なんというか、スターウォーズ的な着ぐるみ人外キャラがいっぱい出てくる作品であり、ケモノキャラが好きな人にはおすすめできると思う。顔の描き方が日本のマンガなので、ケモノキャラ、かなり可愛いよ。むしろ主人公を含め人間にはエロスさがないが、ケモノキャラは体つきや表情などがやたらに艶めかしい。

 世界観も過去に大きな戦争があって、その後の世界なんだろうとか、人間も含めた様々なケモノ種族が各々の立ち位置と歴史で動いてるっぽいとか、設定の多さが透けて見えるんだけど、セリフで表されてないのが憎い。一応、各章の終わりにSDキャラが設定を語るページがあるんだけど、それすら作中の用語や歴史が出てきて知らないことが増えていく……。あ、これってTRPG(ウォーハンマーRPG)の設定集を見ている感覚だ。

 見た目は日本マンガで読みやすい。僕は海外マンガだと意識はしなかったほど。すっごく面白いのでぜひとも多くの人に読んでほしい。そして翻訳も最後まで完結させてほしいと心から思う。

2018年5月28日月曜日

「コララインとボタンの魔女」(ヘンリー・セリック監督、スタジオライカ、2010)

 「KUBO」繋がりで見たスタジオライカ作品。
 調べると結構前の作品だったんだな。ストップモーションアニメなのでCGと違い技術に左右されなく、映像美が楽しめる。特に、キャラクターが歩いたりするシーンでは、本当にストップモーションなの? と思えるほど自然に動いていた。

 親から構われず不満を持つ少女が引越し先で怪しい人形を手にしたことで、理想の生活ができる異世界に行くんだけど、当然裏があってどうやって逃げる? というストーリー。登場人物がどいつもこいつもちょっと変な人たちばかりで、こりゃ異世界に逃避して当然かなと思った。良い人なんだけど変人なんだよねー、主人公の親。多少ネグレクト気味で、仕事の都合で友達からも引き離されて引っ越しするはめになった主人公が不満を持つのもわからんではない。とはいえ、どう考えてもヤバそうな異世界に耽溺するのは見ていて辛いものがあった。異世界って目がボタンになっててかなり不気味なんだよね。
 その不気味さはオープニングで少女の人形を解体してリニューアル(?)するシーンで感じ取れるのだが。異世界の冒険でキーになるアイテムも目に関連したものが多く、「ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち」ばりに目玉が乱舞する作品になるかと覚悟していたら、目が単なる光る石とマイルドに処理されてホッとする半面、石だから手荒に扱われてやっぱりヤバい雰囲気だった。
 そんな少しゾッとする感じが最高潮に達するのが異世界での家族の団らん。現実と正反対の優しいお父さんとお母さんなんて絶対罠だよ……もしくは主人公が見てる走馬灯とかだとハラハラドキドキ。主人公に都合の良いように動き、しかも目がボタンというビジュアルでヤバい感じを視聴者に与えてくれる。

 まあ、結局は子供向けと言うか過度にショッキングなシーンもストーリーもないんだけど、子どもにありがちな現実逃避でしっぺ返しを喰らうという設定は夢もキボーもない気にさせてくれる。いやちょっとくらい幸せな夢見たって良いじゃん……。主人公が異世界の幸せな家族を堪能するのは、単なるおっさんである僕が子供向けのアニメを見て楽しむのと同じだから……。

2018年5月1日火曜日

「レディ・プレイヤー1」(スティーヴン・スピルバーグ監督、ワーナー・ブラザース、2018)

 長いよ。でも退屈になるということはなく、見ごたえがあった。ただし長いしネタが往年のサブカルチャーと偏っているので合わない人には合わないだろう作品。

 個人的には一番気になったのは世界観の方だ。スラムめいたところなのに1日中ゲームに没頭してられる余裕。主人公の育ての父は引っ越しの貯金をゲームに費やしてしまうダメ人間なんだけど、別に引っ越せないからといって生きるか死ぬかの瀬戸際的悲壮感があまり感じられなかった。スラムで育ったはずの主人公ですら割と簡単に通販が行えており、それなりに金があるじゃないか。映画冒頭のトレーラーが縦にスタックする中、主人公が地上に降りるシーンは幻想的でかなりワクワクしたんだけど、物語が展開して以降は全くスタックされたトレーラーは出てこなかった。ゲームの世界はいわゆる普通のゲーム世界なのでわくわく感がない。ちゃんと(映画の)現実世界でアクションしようぜ。
 この「現実世界」、本作でも重要なテーマとなってるんだけど、僕としてはこの映画はゲームに耽溺するのは格好悪いと主張するために作られたんじゃないかと疑っている。だって、出てくるゲーマーはかなり格好悪いもの。Gガンダムのモビルトレースシステムみたいにわざわざ体を動かさないとならないゲームシステム。映画のように第三者から見ると、ゲームを遊んでいる光景はかなり不気味である。
 そしてゲームでロストしたため発狂する社会人や学生共。挙句の果てには悪のサードパーティ企業でスーツを着た中年のおっさんが部下を侍らせ大真面目にVRゲームにダイブ! その悪の企業ではゲーム世界を支配するために奴隷をこき使って……いわゆるファーミングしてるんだけど、それなりに名前が知れてる会社でも特にゲーム世界を支配できてるようには思えない体たらく! 10年ほど前の日本のMMOブームの方がファーミングの害はひどかったと思う。スター・ウォーズの帝国軍じゃないんだから、安易にハン・ソロをのさばらせちゃいかんよ。
 「レディ・プレイヤー1」はこんな感じで設定が薄いんだよね。単に固有名詞を借りてキャラクターを集結させるのではなくて、もう少し物語の根幹から「登場」させてくれれば嬉しかったんだけど。

 もう1つ気になったのは、ゲームのテーマであるイースターエッグ探しがどいつもこいつも単なるシステムでしかないってこと。特に1つ目のレース、誰か試してみる人はいなかったの? イースターエッグを仕込んだ人は自由が好きだったとのことだけど、その意思を継いだプレイヤー共はバグを見つけて道を切り開くようなガッツは受け継がれなかったようで。この点、同じゲーム的仮想世界を描いた傑作「百万畳ラビリンス」(たかみち、少年画報社、2015くらい)とは比較にならない。そういや映画内でもゲームを遊んでた連中は与えられたシステムの範疇でしか遊んでなかったっぽいからなあ。ウルティマオンラインのプレイヤー的な遊びを生み出す知恵といたずら心は消え去っている模様。

 んー、面白く観たんだけど、改めて感想文を作るとなると批判が多くなる。これは、映画としての設定・ストーリーが薄いもしくは駆け足気味である一方で、ご都合主義とか言われる部分を懐かしのキャラ・青春の輝いていたキャラを出すことによって回避をしてるんだけど、当然出ているだけでしかないからであろう(もちろんサブカルチャーに対する愛もあるんだろうけど)。場面場面で見ると面白いんだ。よく見るとこんなキャラが出てる! 的な宝探しの要素もあるし。でも1本の映画としては厳しいものがあった。
 この手の作品で単に「◯◯が出た! 戦った! おもしろーい! でもそれだけー」で終わらせないためには、設定とかをちゃんと作り込むべきだと思った。



 その他細々した感想:
・アメリカ人って有名になったら、そんなに顔を売りたいの? 僕は有名になったからと言って人々の前に出ていって「いえ~い」ってやる文化は理解できないな。
・ゲームの世界ですら対人でVRディアブロ的なバトルゲームやって生き甲斐感じるのってかなりディストピア感満載なんだけど……。アメリカ人ってこういうのに憧れがあるの?
・ゲームバランスをぶっ壊すようなアイテムを作り出してはいけない。っていうか、全くバランス取れてないと思うんだけど、本当にこのゲーム面白いの?
・今まで文句を言ったが、この映画で良かった点はアクションシーンでスローモーションになる場面がなかった(または気にならなかった)ところ。SAT(スローモーション・アクション・テスト:ダサい映画はスローモーションのアクションが入っているのでこのテストを考えついだのだ)には合格した。え、「パシフィック・リム:アップライジング」? 当然不合格だった。
・クライマックスが衆人環視の中で1人用ゲームをプレイするオタク(タトゥーが過剰であまり格好良くないアバター)という地獄絵図を生み出したスピルバーグ監督は天才だと感じた。
・主人公周りでネカマやってる人がいないのはなぜ?

2018年4月24日火曜日

「メカ・サムライ・エンパイア」(ピーター・トライアス著、中原尚哉訳、早川書房、2018/4/18)

 ワタクシ、前作に惹かれてしまい、早速この作品も買ったのだ。それも銀背で。文庫本に小ささは魅力的だが、分冊になるくらいなら銀背1冊の方が取扱いが良くて便利だと思う。

 ともかく、ピーター・トライアスのメカ・サムライ・エンパイア(ナカグロ多いな)、前作が軍人と特高警察のバディものだったのに対し、今作は学園モノになって青春劇に変わった。今まで読んできたのが偏ってたのかもしれないけど、欧米作品で学園モノってかなり新鮮。登場人物も、落ちこぼれの主人公に、悪友に、ヒロイン力の高い優等生に、ごきげんようを操るお嬢様と隙のない作品になってる! そうそう、忘れてたが、当然今作は巨大ロボットに乗って戦うシーンが豊富にある。前作は巨大ロボットのシーン、いらないとまで書いてしまったが、それとは正反対だ! 主人公が巨大ロボットに乗る! 巨大ロボット同士で戦う! 正統派のヒロインがいて敵味方に分かれてしまう! サブヒロインもよりどりみどり!
 日本の深夜アニメフォーマットに限りなく近いんだけど、これ、アメリカでヒットできたんだ……。

 本作では学校と呼べるものは3つあり、最初の舞台はジョックスとナードが出てきそうなコテコテのアメリカの高校、次にスターシップ・トゥルーパーズ的な軍隊学校、最後にエリート士官学校とシチュエーション豊か。主人公の立ち位置も落ちこぼれて挫折(事件発生)→努力と根性で一人前に(事件発生)→経験豊かでそこそこ強い(最後の事件発生)と徐々に強くなる感じ。それでも「最強」と呼べるほどではなく、ラストバトルではある種お荷物だったわけで、簡単に無双をさせないという筆者の決意を感じさせる。ストーリー的には、学校に入って事件が発生して、主人公がそれに対峙して強くなるという形で話が進むのでダメダメな主人公に感情移入してても唐突に強くなった感じはない。むしろリアル世界で取り柄のない人間こそ、今作の絶妙な強くなり方(モブより強いけど、最強チームの中では最弱)に惹かれると思う。

①A・NI・ME!
 キャラクターの配置が深夜アニメを彷彿とさせる。巨大ロボットにしても作中世界の技術にしても映像映えしそうである。とは言え、訳文の関係なのか、キャラクターがかなり類型的なアニメキャラなので実写はキツイかも。
 特に民間軍事会社に入った後は年齢にそこそこバラツキがあるはずなのに、学園モノとしてお約束が踏まえられてるのは面白い。ヒロインも常に数パターン出てきて、彼女らの「属性」通りに振舞う。
 擬似的に三部構成にしてあるためか、ヒロイン・サブヒロインとの関係は学校ごとのシチュエーションが異なる。ヒロインとして丁寧に描かれる第一部、群像劇ながら先生やら親友の彼女が登場しそこに正ヒロインが現れる第二部、第三部に至ってはエリート学園に入学して半ばハーレムに……。
 しかもこの作品はもちろんヒロインとのお話だけでなく、ちゃんと巨大ロボットに乗って戦ってる。前作はなぜか巨大ロボットのシーンが少なく、007的なスパイアクション気味であった。確か前作の感想文では一部の巨大ロボットのシーンはいらないとか暴言吐いた気がする。今作は主人公の成長が巨大ロボットに乗ること、乗って強くなることと同意なので、ストレートに巨大ロボットモノとして楽しむことができる。……その代わり思想面では多少の後退が見られるのだが。

②ナチスVS大日本帝国
 ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン(USJ)というアメリカナイズされた大日本帝国を、占領されたアメリカの地から皮肉な目線で眺めていた前作に比べると、今作は大日本帝国への皮相な視線は見られない。それは、今作がナチス対大日本帝国ってことで日本側が前作ほどには悪し様に描かれてないのだ。USJもすでに長い時が経っており大日本帝国によるアメリカ大陸占領も当たり前のようになっている。個人的には前作のUSJを通じてアメリカの理念を問い直す作風が好きだったので今作でアメリカ的思想が影も形もなくなったのは悲しいけど、仕方がないのか。面白いのは、大日本帝国が意外と徳の高そうな統治をしているのに対し、ナチスは人種差別がひどく総統崇拝者は狂人っぽく描かれていること。ナチスは否定せねばならないが、大日本帝国はそこそこオッケーなのか? イデオロギーの衝突がなくなったため、エンタメ性は上がったが、深さは薄れたと思う。

 先の話に関連するが、もともとアメリカに住んでた白人の様子は描いていない。今作で登場する白人はナチス関連のアーリア人。もちろん主人公の階級が学生だからってこともあるけど、バリエーション豊富なアジア人のラインナップに比べるとわざとだとわかる。USJはアジア系がマジョリティとしてちゃんぽんになって、アジア人にとっては天国みたいな形で描かれるんだけど少し大日本帝国を美化し過ぎな気がする。それとも、現実のアメリカがアジア人差別がひどいと著者が考えており、それに対するカウンターとして描いているのかな。
 ただし描写が少ないけど主人公らの優雅な立ち位置はエリート兵士の卵だからってのを要所要所で書かれる。一般の労働者が出てこないストーリーだから作中の大日本帝国の負の側面は見えないんだけど、前作を踏まえると一般市民にとっては生きづらい社会であり、しかしそれが巧妙に隠されているのが今作での皮肉な視点と言ったところか。そもそも兵士は使い捨てられるシーンが繰り返し描かれ、主人公が強くなっても兵士である以上は所詮は歯車でしかなく、物語の最後に主人公は仲間と共に軍に反抗するんだけど、それすら恐らくもっと権力を持った人の手の平の中っぽいことが暗示される。
 続編は大日本帝国のユートピアを描いて、いきなりドン底に叩き落とす作風になってほしい。作中の大日本帝国はアジア人からすればある種の理想かもしれないけど、天皇への忠誠が必須で、生活は特高に監視され人体実験も行われている世界であるため歪みは広がってると思う。9.11みたいにテロが起こって、巨大ロボットが絡み、最終的にUSJの理念を否定するストーリーを読みたい!

③巨大ロボット
 前作は表紙詐欺で……いや、もうウジウジと過ぎたことを言うのをやめよう。今作は素晴らしいものになったではないか。
 世界観としては巨大ロボットが普通に兵器となっている世界で、戦車とか戦闘機は一切出てこない(と記憶している)。大日本帝国はメカ=巨大ロボットを運用しており、表紙とか見ると二足歩行のように思えるのだが(シルエットを見てガンダムみたいと思った人は多いだろう)、カニ型だったり、カモシカ級(どういう姿だ)やニホンザル級(これもなんなのだ)などとてつもない巨大ロボットが色々出てくる。武器だって剣や短剣、槍の他に分銅や鞭などよりどりみどり。対するナチスはエヴァンゲリオ……ではなく細胞を使用した生体巨大ロボット。作中の描写からは半ば死体を利用したサイボーグのような存在で、表紙を見るとその姿はまるっきりKAIJU。正統派の巨大ロボットものであるこの小説のせいで「パシフィック・リム:アップライジング」が吹き飛んでしまった。ハハッ、残念だったな。
 そればかりではない。この作品は戦争に巨大ロボットが実用化されているという設定のため、シミュレーションや訓練シーンや操作の様子、果ては各人に割り当てられた試作機をカスタムするなど巨大ロボットモノに関連する戦闘以外の要素をフェティッシュなまでに丁寧に書いている。操縦席は頭にあるけど、頭が破壊されたら操縦席が自動的に腹部に退避するため、頭を破壊したら即腹部も破壊する訓練……ってそんなマニアックな設定は必要だったのだろうか。もちろん巨大ロボットファンは喜ぶ。こういう細かな設定を見てると、やっぱりアニメっぽいというか、この手のお約束がわかっている人へのアピールポイントにしてるんだなあと思う。



 総合的な感想としては、ぜひとも読んだほうが良い。できれば前作「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」を読んでからがベスト。ツイッターとかでは最初に今作「メカ・サムライ・エンパイア」を推す人が多いけど、USJの成り立ちや葛藤を知らないままエンタメ性高い今作を受け入れるのはまずいと思う。解説では大日本帝国のディストピア云々と書かれているが、それは前作を読んだ人だから行間から受け取れるわけで、今作単体だと大日本帝国が勝利した歴史改変美少女巨大ロボット学園モノとしか認識できないと思う。
 それはともかく、さんざんアニメみたいだなんだと書いたけど、全体的な印象としてはコアなオタク向けではなく、普通の小説読みを対象にしていると思う。ストーリーは王道で挫折して乗り越えるという流れ出し、ご都合主義的なキャラはいない。上でマニア向けとか書いてたシーンは非オタクにとってはリアリティを出すための要素でしかない。なんだけど、オタクからしたら俺たち向けの匂いを感じ取れるわけだ。かなり巧妙な作品だと思う。

 そうそう、メカ・サムライ・エンパイアも前作ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパンも登場人物の名前の漢字はどうやって決めてるんだろう。なんとなく著者も漢字の選定に関わってるイメージだけど……。少なくともクジラはもうあの漢字の並びじゃないと世界観が感じ取れなくなってしまった。

「パシフィック・リム:アップライジング」(スティーヴン・S・デナイト監督、レジェンダリー・ピクチャーズ、2018年)

 「パシフィック・リム」の続編だ、いえ~い! ……いえーい。 ……いえ……い?
 これが前作のファン(少なくとも僕)の感想である。

 シナリオは前作の感想文でさんざんけなしていたため、正直そこまで期待していなかったが、後述する続編ということも相まってなおさらひどかった。もう1つ後述するが、今作は怪獣と巨大ロボット(イエーガー)とそのパイロットのキャラ立ても不完全のためジャンル映画としても失敗した印象を受けている。

【「続編」という悲劇】
 前作でストーリー的には完全に終わっていたのだ。そこに付け足しても蛇足にしかならない。そもそもなぜ太平洋の裂け目を閉じたのにイエーガーパイロットの訓練をしているのだろう。今作を見終わった後だと、イエーガーを配置しようとしたからそこを侵略者に付け込まれて怪獣が召喚したって構図なので、イエーガーを廃棄すれば良かったのに……という感想しか浮かばない。
 あと、エイリアン3でもそうだったんだけど、前作の登場人物を殺すことで物語を展開するのはやめよう。やめようよ……。
 前作で怪獣とドリフトしてしまった博士が黒幕になるのは捻った展開で面白かったんだけど、黒幕すぎて視聴者へ危機感を与えることが出来なかったのは問題だと思う。前作は何だかんだで地球の危機ということで多少の粗を吹き飛ばす勢いがあった。

【キャラ立て不足感】
 さて質問です。今作で新たに登場したイエーガーは3体ありますが(ブレーサー・フェニックス、セイバー・アテナ、ガーディアン・ブラーボ)、それぞれパイロットは誰が乗ったでしょう? さらに、それぞれのパイロットってどういう経歴でどんな関係だったでしょう?

 この質問に即座に答えられる人はどれくらいいるだろうか。正解はWikipediaの当該項目を参照。パイロットで印象深いのって、主人公であるジェイク・ペントコスト、顎おっさんのネイサン、一応ヒロインのアマーラ、整形外科医の息子、ロシア人の女、怪獣の血を浴びて怪我した男くらいであり、僕はパイロットの半数近くをモブとしてしか認識していなかった。
 前作の場合、ロシア夫婦と中国3兄弟は大破シーンもある上、夫婦や兄弟として認識できるので、人数の割にキャラ立ての不足感は感じなかった。それに対して今作は、そもそも主人公の紹介シーンが長い(と言っても前作と同じくらいだけど)割に、新たなパイロットが大量投入されて余計にモブパイロットの影が薄くなってしまった。前作の主人公ペアを据え置きしちゃいけなかったのかなあ。
 モブパイロットが覚えられない問題に対しては、スーサイド・スクワッドと反対のメソッドで、各パイロットのキャラを立てるシーンを序盤に入れたほうが良かったと思う。時間に余裕があればイエーガーも。今作はジプシー・アベンジャーですら印象が薄いからなあ。アクションフィギュア買うかと聞かれたら、拒否するレベル。
 怪獣に至ってはもはや言葉も記憶も出ない。今作は絶対怪獣映画じゃないよ。今作の怪獣って特殊能力があったっけ?

【設定の破綻】
 これが最大の問題なのだが、はっきり言って設定が破綻しているとしか思えない。イエーガーの肝であるドリフト(ブレインシェイク)なんだけど、前作では夫婦や親子、兄弟の方が心を重ね合わせやすく、前作の感想文で主人公とヒロインがろくなイベントもなくドリフトできたのに文句を言った覚えがある。今作では誰も彼も訓練所で顔を合わせだだけの連中が簡単にドリフトしている。技術の発展? 訓練の効率化? うーん、そういうことにしても良いのだけど、ドリフトに適合するパイロットが少ないからイエーガーを大量に運用できないはずなんだけど、ゴニョゴニョ。
 ついでに最後のシーンもあれだよね。超デッカイ怪獣を倒すのが成層圏からの自由落下。え、これで倒せちゃうの? しかもこれでジプシー・アベンジャー壊れちゃうの? 前作ではバーニアを吹かしてたとは言え、同じ様に空から自由落下するシーンがあったため、ジプシー・アベンジャーってジプシー・デンジャーより脆い印象を受けた。ラスボス怪獣を倒すのといい、もうちょっと創意工夫をだね……。



 と、文句を言っていたらキリがない。偶然、同じ時期に「メカ・サムライ・エンパイア」読んでたけど、そっちのほうが巨大ロボットものとして魅力的だったなあ。そういや「メカ・サムライ・エンパイア」のバイオメカって怪獣としても読めるから「メカ・サムライ・エンパイア」の印象が「パシフィック・リム:アップライジング」を上書きしておる。
 真面目な話、ふと思ったが、もしかしたら「パシフィック・リム」の設定で描ける要素ってもしかしたら1作目の時点で相当消費してしまったのではないかと感じた。パートナーとの対立、パイロットの過去とその克服、ライバルのイエーガー、チーム戦、空を飛べないイエーガーが空を飛ぶ方法、怪獣、カミカゼアタック……etc。「パシフィック・リム:アップライジング」は前作で足りないと不満を言われていたシーンを色々入れたらしいが、自家パロディにしかなってないのが何ともかんとも。ヒロインであるアマーラの過去なんぞ前作の森マコそのものなので、本気でパロディにしているのか偶然似ただけなのか今でも首を捻っている。
 最後に、この作品で僕が一番唖然としたのは、最後の決戦の舞台は東京なんだけど、そこにガンダム像が出てきてストーリーに一切絡まないこと。直前のシーンでイエーガーが破壊されていたため、てっきり実はガンダム像がイエーガーだった! と盛り上げるのかと思ってた。全くストーリーに絡まないあのガンダムの意味ってなんなんだろう。

2018年4月23日月曜日

人生と連動したランス10

 ツイッターでちょこちょこ書いたが、今年の春から公私共に生活が激変した。みんな、プライベートの時間がなくなるとか自由なお金がなくなる、趣味が続けられなくなる、と言う理由がわかった。こりゃ今まで通りの生活は無理だ。僕はUOにお金を払い続けるつもりだが、ログイン時間はほぼなくなったし、今後は今までのペースでは遊べないだろうな。少なくとも有料アイテムの購入はできなくなるだろう。たぶん、こうやって趣味から足を洗う人が多いのだと思う。

 そんな中で僕が幸せだったのは、比較的時間に余裕のあるときにランス10を遊べたこと。ランス10は長い間遊び続けていたランスシリーズ最終作という思い入れもあったのだが、個人的にはゲームの内容と自分の人生がリンクする感覚があり、余計に熱中した。
 特に第二部。ランスの子供がみんなで旅に出て、1人1人の思い出を作り、人生を楽しいものだと学んでいく物語。それが僕にとっては今までの自分の人生を思い出してしまい無常観に襲われるのだ。これからの新しい生活が楽しみでないわけがない。でも、ある程度の歳まで好き放題やってしまい、好き放題やることに慣れた人間としてはなくなってしまうものもまた大きいなあと思う次第。それはどうもお互いにそう思っているらしく、ならどっちも不満は相殺されるから良かった良かった。
 このブログも元々あまり書いてはないけれど、さらに更新する頻度が少なくなるのではなかろうか。実際、4月からアニメは見てないし、読書のペースも下がっている。

 そういう時、ランス10の第二部を何となく思い返して、心を慰める。プレイヤーが操作して進める大きな出来事もあれば、アドベンチャーシーンで数クリックでしか語られない事件もある。それでも1つ1つが「あなた」の……つまりは「わたし」だ……経験した思い出であり、ゲームを越えて現実世界の「僕」が形を変えてこれから経験するかもしれない出来事なのだ。「あなた」とプレイヤーに語りかけたのはルドラサウムを隠すためのシナリオ上のテクニックだったのかもしれない。でも無数のプレイヤーの中で、少なくとも僕は単なるゲーム以上に人生に対する勇気をもらった。僕はあまり人付き合いが得意な方ではないけど、それでも友情って良いなあと素直に思え、今も残っている人間関係を大切にしようと思ったのだ。思いもよらなかったが、サブカルチャーをこのように愛好できるのは幸せなことだと思った。
 まだ全てのイベントを見てないまま新しい生活に入ってしまったが、次に遊べるのはいつなんだろうか。

2018年4月10日火曜日

民泊の思い出

 もう10年以上も前、学生の頃にオランダに1人旅行をした。
 細かい日付は忘れたが、4月のある日で女王の誕生日だった。当時はユースホステルを常用しており、当然ユースホステルも取れず、現地で探せば良いと考え、そのまま行ってしまった。
 当然、宿が取れず、途方に暮れていたところに現地の人の家に泊まったのだ。近年報道される民泊のニュースを見て、こんな記憶が甦ったので忘れないようメモしておこうと思う。

 アムステルダム初日は夜、宿が取れなかったため、レッドライト街で1晩過ごしたと思う。駅で野宿(というか駅泊)できたかは定かではない。3泊くらいの旅行を計画していたため、初日は何とかなったが2日目の夜が大変だった。
 そんな中、2人組みの男に出会った。見るからに怪しく、欧州系とは思えない外見で、英語もイントネーションが独特だった。もちろん当時も今も僕は欧州系の外見なんて知らないも同然なので、特に当時はそんなことは気にしなかった。英語だって、オランダは英語ネイティブの国ではないし、訛りがあっても気にならない。とは言え、ホテルに勤めてないような服装で「Hotel?」と客引きをする姿はまともな商売じゃないんだろうな、と思わされた。
 それにも関わらず彼らの「ホテル」に泊まったのは、さすがに2晩続けて徹夜は辛かったためだ。今では考えられないが、当時は僕も若く無謀だった。思い返せば、自分なりに警戒したとは言え、よくもまあ何も盗られず命も無事だったろうと思う。

 彼らの「ホテル」は普通のアパートの1室。家具は備えてあるが、使うのが怖く、ベッドで寝ただけだった。それももしかしたら何か盗られたりするんじゃないかと思いながら。当然寝不足で頭痛がする中、宿泊代はユースホステルの2倍くらいを請求された。泊まるときに予め聞いておけば良かったなと思いながら支払った。正直、受けたサービスに比べて異様に値段が高かった。今から思えばこれが民泊の走りだったのだろう。

 そんなこんなで3日目だが、観光どころではない。3日目も宿が取れず、夜ハンバーガー屋で佇んでいると、店内にいた1人の男性から声をかけられた。学生である僕より年上だったが、若々しく、昨日の2人組みのような怪しい雰囲気は出していなかった。
 適当に世間話をしつつ
 ――どうした、どこに泊まるんだ? 泊まるところがないのか?
と聞かれ、Yesと言ったところ、じゃあ自分の家においでよと言われて、ついて行ってしまった。前日、半ばボッタクリのような民泊に遭ったにも関わらず。無謀さって怖い。

 彼は芸術家だったらしい。名前は忘れてしまったが、彼の家に入ると彫刻とかがあった。彼は僕をもてなすため、馴染みの店に連れて行くという。せっかく泊めてもらったので、ありがたくついて行ったら、そこは何とゲイが集まる店だった。
 どうやら彼はゲイらしい。もちろんお店に入った1階は普通のバーで、ゲイビデオが放送されているのを除けばロンドンとかにあるバーと変わらない。ただ、どうも2階はゲイが出会うそういう空間らしい。僕自身はストレートではあるものの、そこまで偏見がないつもりだったのだが、頭でそう考えていても突然のことでフリーズし誰とも話せなくなってしまった。彼はしばらく友達と会話していて、やがて僕の姿を見て、どうやら僕が完全にストレートだと気付いたらしい。たぶんまだ夜は早かったものの、僕を連れて帰った。今から思うと別に危ないわけでもないのだから、僕はもっと他人と交流すれば良かったのだ。

 翌日彼とは分かれた。彼はお金も要求せず、本当に好意で僕を泊めてくれたのだった。
 たぶん、世間の中でもとびっきり優しい人だったのだろうと今では想像できる。彼としても、どこの馬の骨ともしれない観光客を泊めるのは勇気がいただろう。

 僕はそれからというもの民泊のような宿は利用せず、今後も民泊に泊まる気はない。「民泊」というとビジネスライクな響きがあるが、上で書いたような怪しさや欲望がつきまとう印象が強いためだ。僕自身はそのようなリスクを受け止める覚悟はできていない。

2018年3月22日木曜日

「ランスX 決戦」(アリスソフト、2018)

※ネタバレしてます&普段はキャラクター名を出さずに感想を書く方針ですが、キャラクターの多いこの作品は名前を出さないと書ききれませんでした。。。

 ついに終わってしまったというべきか、やっと無事に完結できたと言うべきか……。思えば同じく横綱と呼ばれたelfが消える中、よくもまあ作り続けたものだと思う。
 本作ランスXは「平成を駆け抜けたゲーム」と評されることもあるシリーズだが、まさにあの時代に生まれた奇跡であり、今まで29年10作品一貫して同じ主人公・同一世界観・同じレギュラーキャラクターを登場させストーリーを紡ぎ続き、そして業界も徐々に衰退し日本のゲーム業界自体が変動する中でついに完結したとんでもない作品である。ランスシリーズは色々と他作品の追随を許さない特徴があるが、最大級の幸運は、エロゲー黎明期であるあの時代に生まれたことだと思う。
 ランスシリーズは、エロゲーはもとより、そこらのコンテンツでは太刀打ちできない設定量を誇るが、少し調べると分かる通り後付で継ぎ足され(ランス3時点では無敵結界がなかったしそのため魔剣カオスも強い剣程度であった)、時には製作中にいきなりストーリーが変更され(ランス3でパットンは死ぬ予定だったが、助けるためにハンティが作られた)、ファジーさと呼ばれるアリスソフト特有の設定のブレがあり(魔王トロス……)、そもそもストーリーに絡まないキャラクターはいるは忘れられたキャラクターはいるは(ランス1のヒカリはやっとランクエ=8で登場し、ノア・セーリングはランクエでノア・ハコブネという名前になっていたり)、ギャグとしてストーリーと合わないような設定も混じっており(ランクエ時のリズナの後日談=魔人化)、その癖無駄に設定だけは作り込み(フレッチャー・モーデルの過去とか)、そしてなんとシリーズの途中で一度完結編を作ってしまう(鬼畜王ランス)!
 そのせいで旧設定やら新設定やらいつの間にかの設定の変更が入り乱れ、設定ファンサイトの「ひつじ村別館」ではファンの議論がエライこととなっており、ランスシリーズ以外だと絶対にブーイングの嵐になることは容易に予想できる。逆に言えば、ランスシリーズだから、ランスシリーズは昔からそういうものとして設定の甘さをファンが好意的に脳内補完し、設定の厳密さよりも様々なキャラクターが自由に暴れることを望み、ファン人気が高い作品すら「番外編」として正史扱いせず、結末の1つが提示されていても前に進み続けたストーリーをファンが受け入れたという面はあろう。
 そこまで期待されていたランスXはどうだったかというと……。



 元々僕がランスシリーズに触れたのはそこまで早くなく、エロゲー歴的には10数作目、それもエスカレイヤー→大悪司→ランス5D→鬼畜王ランス→ランス6→それ以降とそれ以前のアリス作品という順だったと記憶している。順番が少し違うかもしれないけど。ラインナップ的には織音氏―むつみまさと氏時代を遊んでいた。最初はそこまで熱心なファンではなかったが、大悪司でアリスソフトの信者になり、今でも遊んでいる唯一のエロゲーメーカーとなっている。ファイブスター物語を好むような設定オタクでもあるため、ランスシリーズにはドハマリし(同時にアリスソフト特有の大らかさに度肝を抜かれ)今に至っている。
 つまり僕は別に昔からのアリスソフトのファンではなく、ランスシリーズもシリーズ中期(5D以降)のファンでしかない。最近のランス君はヌルいというか大人になったと言われているが、まさに大人になって以降の姿しか知らず(鬼畜王ランスは思い入れないし)、その完結編としてランスXにはとても興奮し睡眠時間を削って遊んでいた。
 舞台はヘルマン革命(ランス9)が終わって1年後。ついにケイブリス軍が人類へ攻めてくるところから始まる。前作ランス9は徹頭徹尾人間同士の物語となっており、魔人が絡まないのは意図はわかるが少々不足気味だと思っていたが納得。ランスXのこのボリュームを見ると下手にランス9で魔人を退場させたらつまらなくなる。プロモーションムービーの魔人の紹介ラッシュを見ると大興奮だ。これぞシリーズ最終作、と言わんばかり。1体でも1国の軍が束になってかかっても倒せない魔人が、9体も10体も紹介されて、どうやって戦うの? って感じ。
 (ゲーム世界の)常識では絶対にどうしようもない魔人だが、主人公であるランス君は類まれなる才能を発揮してなんと次々に撃破していく。これに興奮しなくて何を楽しむのだ。正直、設定的に多すぎるため初ランスシリーズが今作な人にはキツい気がするが(実際、ランス10攻略まとめwikiや先のひつじ村別館を見るとルドラサウムのことを知らなかったり、知ってても強いボス程度の認識の人も多そうだ)、過去1作でも遊んでいたら今作をプレイすると良い。

 ゲームジャンルは……なんと呼べば良いのだろう。スゴロク式のマップは、あくまでADV画面と分岐をプレイヤーにわかりやすく見せるためのもので、これ自体さり気なく画期的だが、戦闘システムは独自性の固まり。スマホカードゲームは全然知らないんだけど、今のカードゲームってこういうのなの? 膨大なキャラクターをカード集めで表現し、カードを集めることと味方を強くすることと戦闘キャラを選ぶことが見事に融合しててちょっと凄い。もしアリスソフト独自のシステムなら、まだまだアリスソフトは健在だと感じた。ちゃんとボードゲームを遊ぶようになってわかったが、ランス03のカードをオープンしてダンジョンを進むシステムとか、自分の手番で行える行動の上限が決まり敵も同じ様に行動する地域制圧型シミュレーションとか、大量のカードを集めることでランダム性を薄めて攻略の定石を作る今作のランスXとか、アリスの作品はボードゲームなんだなと改めてわかった。
 戦闘システムは見事でバランスが良い。もちろん、魔人を特殊条件で倒したり、一気に2体倒す(通称2枚抜き)なら攻略情報というか定石必須(それですら確定キャラだけで何とかクリアできそう)なんだけど、単純に力押しでも十分遊べ、戦闘システムへの理解が少しずつ深まるに連れ、様々な戦術を取れるのが素晴らしい。カードドロップ率の関係でセーブ&ロード必須の難易度なので(ここは不満。カードを集めて強くするシステムなら、100%ドロップで良かったと思う)、詰まれば攻略方法を変えてみてトライすることができるので攻略の楽しみがあったと思う。力押しだけじゃない攻略法を思いついた時、このゲームの奥の深さを感じると思う(僕がそう思ったきっかけは、魔人レイをタイマンで倒した時。正面から戦うとカウンターで負けるが、カオス投擲ランスを投入してみるとなんと簡単に勝てた)。

 一方で、システム周りは文章スキップはあれどシーンスキップはないので時間がかかるなど多少の不満はある。
 また、繰り返しプレイをする際、引継の仕様はちょっと足りなかったと思う。ランスXはセーブデータを駆使しても4周くらいはするはめになると思うのだが、お気に入りのカードを数枚でも良いから引き継げたり、食券イベントコンプリートでキャラクリが付くと繰り返しプレイのモチベーションは上がった。食券だけど、1プレイ当たり入手できる食券数に限りがあるので全てのイベントを見るには相当時間がかかる。しかも食券を投じれるキャラもランダムで決まるので、正直面倒だし同じ展開ばっかりで飽きる。大悪司の周回システムを参考にして欲しかった。
 ついでにべた褒めの戦闘システムだが、敵に応じてデッキ(ゲームの用語ではリーダー)を組み替える必要が何回もあるので、デッキを3つくらい記憶できれば手間が省けたと思う。ランクエでもパーティを3、4パターン記憶できたと思うので、パッチで実装されて欲しい。

 キャラボイス? 当然正史のランスシリーズだから付かない。大悪司ですら一部の戦闘ボイスに声があった(「ああーん」って言ってた 笑)から名実ともにボイスなし。というか、今どき完全ボイスレスゲームでここまで売上があって、話題になったのは凄い。

 音楽はPromotion Movie、魔物界、Normal Battle、Oh-Boss、underworld、天上、決戦、the end、Grand Ending Movieなど何度も聞きたい曲がありサントラまで買ってしまった。特に戦闘曲は雑魚戦ですら攻略方法を考える必要もあって、どれも印象に残った。Hシーンが我が栄光の日でないのが残念だったが、これはもしやクリアA最後のあのシーンのため? できれば最終作なので何度か我が栄光の日を聞きたかった。

 ストーリー的には、やはりランス君は世界のバグというか主人公なんだなと思った。メンタルが完全に他の登場人物と異なるというか、半ばプレイヤーと同化しているのだ。好戦的とも見えるんだけど、正確には常識や世界のシステムに挑戦し続け、最後にクリア方法を見つける存在なのだ。ルドラサウム視点では、主人公はルドラサウムでキャラクターは単なる登場人物でしかないが、でも実はランス君こそが主人公でルドラサウムですら登場人物の1つでしかないってのが今作を通しての印象だった。そう、だからランス君が主人公を降りたとき、ランス君はシィルちゃんに告白という独自の行動を取ってしまい、シリーズも完結してしまうしかなかったのだろう。
 エンディングもそこまでやるか! というレベル。美樹ちゃんが魔王に覚醒したり、ケイブリスが魔王になるシーンなんて当たり前。魔王問題を解決していない美樹ちゃんが元の世界に戻ってしまったり、神の国に殴り込むエンディングや、美樹ちゃんを氷漬けにして魔王化の解決策を探すエンディングなど様々なバッドエンドが用意されている。僕はクリアCからB、Aの順にクリアしていったので、余計にクリアAへの思い入れができた。エンディングのバリエーションというか、設定の語り具合は完全に鬼畜王ランスを超えている。

 衝撃的だったクリアAのエンディングもよくぞやってくれた、という展開だった。そもそもランス君のことを知ればシィルちゃんが弱点で、そして意外にシィルちゃんの扱いはぞんざい(身の安全的に)だということがわかる。魔軍との戦争中はランス君も主人公補正があったが、では主人公補正がなかったら……? というのがあのエンディングだ。元々世界観的には簡単に人が死んでおり、ギャグとは言えランス君も簡単に人を殺す(ずざー!→ぎゃあー! のテキストの流れで処理されるシーンが今までのシリーズで何度あったことか)。客観的に見て、ランス君は良いことも極めて悪いこともいっぱい行っており、恨まれる人には事欠かない。ランスXで英雄としての側面が強調されれば強調されるほど忘れていた負の側面の存在が大きくなり、復讐されるのだ。シィルちゃんを殺したのが魔人でもミネバみたいな敵役でもなく、顔見知りの雑魚でしかないバードであったのは完全に意図的だろう。戦争中ランス君は何度も運良く切り抜けていたが、そのような主人公的な振る舞いをすればするほど、正史となるシィルちゃんの死亡が大きな印象を与えるわけで。



 賛否の入り乱れる「第二部」。無邪気で冷酷な創造神であるルドラサウムが1人の人間としてこの世界を旅し、家族と出会い、友達を作り、楽しさを見つけて人間に愛着を持たせ世界の終焉を阻止するという本当の結末まで(それこそ鬼畜王ランスよりもさらに踏み込んで)描いたエピソードであり、ランス君がシィルちゃんに愛の告白をするというこれまた結末を描いてもあり、子供=ルドラサウム=プレイヤーから見た偉大な大人=ランスシリーズに「自分らはもうロートルだ」と言わせランスシリーズからの卒業を促し(ひつじ村ではアリスソフト内の世代交代の比喩でもあると書かれており、確かにそうかもしれない)、スタッフロールでランス君の大往生を描くことでシリーズの完結を宣言する。そればかりでなく、ルドラサウムという無邪気な子供と評される創造神(そう言えば、ランス君も「大きな子供」と呼ばれていて、ルドラサウムが対比されている)が他人の遊びを外部から眺めるよりも自分で遊んだほうが面白く愛着が持てると気付くゲームをテーマにしたメタ性もあるし、ランス君の子どもたちというランス君のいない旅を描くことでランス君がいかに魅力的だったかプレイヤーに思い出させる内容でもあった(第二部は途中まで薄いとか類型的とか言われているが、クルックーの意図したゲームバランスであると共に、ランス君がいないことを強調した結果でもあるだろう。イブニクルみたいな珍道中にしなく、ほんわか感動ものなのは制作陣がわざとやってると思う。また、ご都合主義や幸運はランス君も普通にあったりするんだけどランス君だからで大目に見られているってことを改めてプレイヤーに感じさせる効果もあった)。
 だから、ランス君が正気を取り戻した以降の怒涛の展開、どう考えても勝てない相手に立ち向かってしまうありえなさ、そして見事に勝ててしまうとんでもなさは、改めてランス君の偉大さ、ひいては本当の意味でランス君はルドラサウム世界の主人公なのだとプレイヤーに気付かせるようにしているのだろう。血の記憶との戦いで「俺様の活躍を見てるか」というようなことを喋っていたが、子供たちに向けているようで、恐らく魔王の血を通して勘づいたかもしれないルドラサウムへのセリフでもあり、さらに第四の壁を破ってプレイヤーにも投げかけている。思い返せば、ランス6ではそのまんまのスキル「主人公」を持っていたり、ランスXでもアリオス戦で「俺様は主人公」という趣旨のセリフを吐いていたではないか。
 そのためルドラサウム世界のルールばかりか、最終的にコンピューターゲームの構造まで相手にしたランス君の冒険はこれ以上描くことはなくなってしまったわけで、物足りなく感じる面はあっても、あとはもう完結しかない。鬼畜王ランスの「冒険へ……」エンディングでお茶を濁すこともできただろうに、ここまで描ききってくれて良かった。まあ、調べると納得できない人は結構いるみたいだけど、むしろ言い訳できないくらい完結させてしまったことで自分たちの思い描いていた結末と違う不満なんだろうな。僕としてはこのエンディングを見てしまえば、事前に予想されていたエンディングは正直、ちゃちいというか、物語が小さいというか、ランス君の完結としてはつまらないと感じた。

 それにしても、個性も強烈で戦闘力も強いランス君の子どもたちに囲まれても存在感を失わない長田君は第二部の癒やしだった。主人公が最初に出会う人物が長田君、そしてロッキーであることは色々と深読みできてしまう。設定的にはモブでしかないキャラクターでも世界(ルドラサウム)を救うキーマンになれるというのは、第一部で魔軍を退けたランスを絶望に追いやったのが、プレイヤーすら忘れていたバードであったことと対比されてると思う。ランス君はある意味で第二部でも主人公を奪うくらい名実ともに主人公であったが、そんな主人公を別にすれば世界を変えるのは有象無象のその他大勢なんだよ、と言っているようだ。

 最後にスタッフロールで流れる本当の「その後」。最初見たときはショックを受けたが、暇があれば何度も見返して、始終楽しそうな冒険を続けるランス君にはやっぱり涙は似合わないなと思った。ランス君の冒険はここで終わったけど、スターシステムとして今後も別作品にゲストキャラで楽しそうに出るはずだから、それを楽しもうかな、と。
 ある意味では本当の意味での「純愛」をテーマにした作品だったんだろうな。ランス君が性欲に忠実で、手を出しまくるから見えにくかっただけで、シィルちゃんとの関係が特に今作ではストーリーに関わってくるのだから。



 まだ全部はクリアしてないけど、今はそんな感じ。これほどリアルタイムで遊んで良かったと思った作品はない。今はネットが発達しすぎて頭でっかちになりがちなので、変な先入観を仕入れる前に通り一遍でも楽しさを見出し、意味を見つけ、やり遂げて良かった。こんな作品を送り出してくれたアリスソフトをこれからも応援し続けようと思った。
 ところで、今作はグナガンとご褒美CGは出てこないのかな?

 印象に残ったキャラは、
ランス君:問答無用で大好き。大往生まで見せてくれた。
シィルちゃん:ヒロインというか、裏主人公。思えば、戦国ランスよりランクエ・マグナムを経てランス9の最後で復活するまで出番がなかったのだから、満を持しての展開となった。普通、囚われのヒロインや攫われのヒロインは出番が少なくなって印象が薄れるはずだが、ランスXではランス君はシィルちゃんが好きってのが前提なので存在感が大きいのが面白かった。
クエルプラン:裏ヒロイン。魔王システムを何とかするためには1級神以上の協力が必要のためヒロインに抜擢されたと思っている。何だかんだでランスシリーズには珍しい健気な子で可愛かった。
サテラ:言動が矛盾していて人間らしいと思った。第二部でランス君を魔王にしようとするんだけど、魔王化を拒否することに理解を示すホーネットがむしろ魔王に従うだけに過ぎないのが互いの立場をよく表してて良い。ランス君に対してちょっとバカだって言ってたけど、サテラも結構バカだよ……。そんなボケもツッコミもできるキャラだからヒロインとして抜擢されたんだろうね。
アリオス:良い意味で本物の道下。むしろ道下を極めたので1周回ってキャラが立ったと思う。プレイ中はものすごく同情した。それにしてもコーラからあんなに意味深なセリフを吐かれ続けてるんだから、少しは疑いなさいw
アールコート&ウルザ&クリーム:参謀ズ。この人らは秘書に欲しかったな。基本的には3人1組で動いてたけど、ランス君への態度や悲観的・楽観的・現実的な考え方の違いなど個性はあった。
パステル・カラー:へっぽこ女王で良い。泣き虫じゃなくなったけど、とにかくポンコツ。性質上、ギャグ要素を一手に引き受けていた。よく考えると、娘のリセットと共にランス君の夫婦家族としてはかなりの登場回数になるんだな。
リセット・カラー:第一部であまり登場する機会がないなと思ってたら、そういうことだったんだね。娘であり、かつみんなのお姉さんで、それでもダークランスの妹という新しい属性を切り開いたと思う。
魔想さん:第二部のキーパーソン。娘であり、父の代わりであり、ヒラミレモンであり……、とこれまた業の深い性癖を持ったお方。
かなみちゃん:こんなに強いかなみちゃんはかなみちゃんじゃないやい。娘は良かった。鈴女とはもちろん別人だが、ちゃんと忘れてなかったんだな、って。
ラ・ハウゼル:1周目の一番最初に挑んだ魔人で、ここまでギャグ要素が盛りだくさんの魔人戦で度肝を抜かれた。その後、ガルティア討伐に出かけてメディウサ放送とのギャップに驚いた。でもハウゼル可愛い。
レイ&メアリー:鬼畜王ランスからどういう風にアレンジされるかと思っていたが、2人共救われて良かった。戦闘でも使えて強くてお気に入り。

2018年3月20日火曜日

「折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー」(ケン・リュウ編、中原尚哉他訳、早川書房、2018)

 面白い。SF作家という領域でアジア系の作家(特に中国系)はほとんど興味を持ったことがなかったが、唯一の例外がケン・リュウで、そのケン・リュウが編んだアンソロジーということで本書を買ったのだ。編者であるケン・リュウは「紙の動物園」や「母の記憶に」で叙情性の高いSFを書いており、作品のモチーフやウェットさを考えると中国系というルーツにかなり自覚的な作家だと思う(もちろん1行なんかじゃ評ずることができないのはわかっているが)。そんなケン・リュウが、中国人が書いた知られざるSFをアメリカに紹介するために編んでいるわけで、嫌でも期待は高まってしまうだろう。
 そもそも中国におけるSFの地位は他ジャンルに比べて高くなくとも、すでに中国内ではSFファンもかなり多く、質の高い作品は多かったらしい。正直、僕がそのことを知らなかったのは単に勉強不足だったっぽく、確かに本書を読むと中国SFのトップは問題意識もテーマも欧米日本のSFと遜色がない。ケン・リュウによる序文や収録された作家による中国SFについてのエッセイ(筆者による解説みたいなものだった)によると中国では欧米SFの翻訳も行われそれを受けて中国内で自国語によるSFの発展が起こっているようだ。同じようなことは日本でも行われているのだが、それを外から眺めると、鍋の中で出汁が濃くなっていくようにもしかしたら変な方向に発展する可能性もあったのに、よくもまあ他国人から見てもSFとして普遍性を持つに至ったなあと感慨深い。中国ではネットの検閲があったり、グローバルなサービスが受けられず独自で発展したウェブサービスが多いことを聞いていると余計にそう思う。
 あえて傲慢な書き方をしたが、中国SFが何をもって中国SFとして成立しているかと考えたかったためだ。一応ケン・リュウは序文の中で、中国SFは三者三様で広がりもあり、国籍としての特徴はないみたいなことを書いており(アメリカSFの特徴を挙げるのと同じだって)、ポリティカル的にもケン・リュウのファンとしても本書の内容からわざわざ中国チックな特徴を見出すのは邪道だと思う。しかし、僕は全ての表現=コンテンツは社会の反映だと考えており、中国という属性を強調して編まれた本書から中国っぽさを入れずに評ずるのはむしろ不誠実だと思う(先のアメリカSFの例えは、そもそもSFがキリスト教的な真理の探究と科学技術の融合で生まれたジャンルであるため、欧米のある種のガジェットをテーマにした空想小説が他国から見てSFになると考えており、問い自体が矛盾してると思う)。もちろん本書1冊を読んだだけでは中国SFという広大な世界は見えてこないのだが、勇み足になることはわかっていながらも中国SFとは、ひいては日本SFとは何なのかを考えていきたい。


 それぞれの作品は、ケン・リュウによる著者略歴や作品解説が付いているが、作家の経歴も多彩で読み応えがある。
 恐らく本書は収録作品の順番も考慮されて編まれたのではないかと想像しているが、最初の「鼠年」(陳楸帆)はコテコテの中国らしさが溢れ出てSFらしさというより中国さの奔流に圧倒された作品である。遺伝子改造による肉体的な強化というガジェットはあれど、鼠害は蝗害と共に中国では歴史的に悩まされたネタであり、それを就職できなかった大卒を集めた軍隊が駆除するという筋立てに中国らしさを感じない人は感度の低さを反省すべきである。鼠を狩っているつもりがその実狩られ、それに気付くと共にこの世界の「ゲーム」のルールに気付く。この作品では軍隊という社会における鼠狩りというゲームだったが、少し見方を変えるだけで資本主義にも共産主義にも適用できる射程の広さには驚かされた。主人公が瀕死の怪我を負った挙げ句、単に自分が「ゲーム」の駒に過ぎないことを気付くだけって展開は涙を誘うのだが、そもそも現実では「ルール」すらもわからないことが多いわけで(僕もいまだにわからない)、それを悟った主人公は幸福だと思う。
 同じ作者の「麗江の魚」も、ある種の「ルール」や「ゲーム」に気付くという構図だ。GDPを上げるために時間感覚を圧縮する=セカセカさせる技術と、長命を実現させるために時間感覚を伸ばす技術という2つの技術をフックとして、それが社会に与えた影響とその技術は実は……というネタバラシがハイライト。懸命にも「ルール」に気付いた主人公は身の回りの全てが作り物だったと知ってしまうのだが、P・K・ディックみたいな感覚であった。関係ないけど、客室乗務員をナンパする描写が否定的に描かれていないことに驚いた。
 同じ作者の「沙嘴の花」。AR技術とフィルム型ディスプレイによりアップデートされた中国の雑多な民衆を描いた作品である。上位接続権限のある検索が上手い人を巫師と呼んでお金を払って占ってもらうのは中々皮肉が効いている。今作も、「実は作中のアレはAR技術だったのです」的な世界のルールを暴く(作中では主人公は騙す側だけど)お話だったりする。
 ハードSF・ソフトSFというジャンル分けがあれど、どちらにも該当しない作品やジャンルをまたいだり行き来する作品はどう呼ぶ? という問われたらどう返答するだろう。僕はそんなの幻想文学と呼べば良いじゃないかと思ってしまうのだが、「ポリッジ(おかゆ)SF」と名付けたのが夏笳という作家で、そのポリッジSFを体現したと思われるのが「百鬼夜行街」。読めばわかるがケン・リュウの「良い狩りを」「烏蘇里羆」的なファンタジーとSFの融合のようなことを行っている(そのものズバリは次の次「龍馬夜行」の方が近いけど)。しかし今作品は単なるファンタジーとSF的ガジェットの融合だけでなく、そこにAIの人格や「本物」の人間の条件という最先端の問題を組み込んでいる。
 「童童の夏」(夏笳)は介護問題を扱った作品。ザ・技術発展万歳、ハッキング万歳とも言うべき技術発展とそれがスタートアップで広がることで社会が変革していく有様を肯定的に捕らえていた。そもそも後の「神様の介護係」(劉慈欣)と共に親の介護は子が行うべきみたいな東アジア特有の儒教イズムが根底にあって、これが欧米SFならもっと違う展開になったと思う。それはともかく、少子高齢化により介護不足が深刻化する中、解決策がAIではなく中に人間が入ることによる遠隔操作型ロボット(ついでに子供のお守りもできます)というのはユニーク。これって寝たきりに近い四六時中面倒を見る必要のある老人には不向きだけど、さすがに中国でもそんな人らはケアハウスに預けるのだろうか、と気になった。この遠隔操作による介護ロボットという発想も面白いが、この作品では何とその先として介護ロボットを老人が遠隔操作することで老老介護を実現させるという手段に出てしまう。いや、作中ではなし崩しに肯定的に広まってるけど、介護業者として必要な安全面の保証とかされてない(はず)なので、実はヤバいだろう。……冒頭でハッキング万歳と評したのはそういうことで、技術を通じて社会を変革させることへの信頼感というか積極性が、この作品では前面に出ており、深センの発展とか合わせて考えるとこのイケイケムードが中国らしいと感じた。
 「龍馬夜行」(夏笳)は先に「童童の夏」で書いたようにスチームパンク的作品。人類が死滅した世界での機械仕掛けの龍馬と蝙蝠の行脚は、やはりAIの人格という問題を描いている。中国的や物語とSFガジェット満載なんだけどどことなく現実感のない龍馬と蝙蝠が語るお話。最終的に龍馬が天に召されるところも含めておとぎ話みたいな感覚があり、確かにこれはSFのポリッジなんだろうなと納得した。
 「沈黙都市」(馬伯庸)は一言で表すならディストピアSF。AIによる検閲効率を高めるため、インターネットの書き込みは禁止用語ならぬ使用可能語(作中では「健全語」と表現)しか使えず、さらには他人と会話するのも検閲機能がついたマスクを着用しなければならないというコテコテのディストピア物である。面白かったのは、ディストピア物は主人公などに身の危険まで迫ってきてディストピアを打ち破る展開が定番だと思うんだけど、この作品ではガス抜きができる秘密クラブを見つけてそこで満足してしまう所だ。その秘密クラブは実質上エリートによるエリートだけが入れる集まりで、会話だけでなく肉体的にも「自由」に交わすことができる。そのため主人公が恋愛感情に悩むなど日本で言う部活モノみたいな微笑ましい光景が中盤まで繰り広げられてしまう。外では検閲が行われているという世界観でだ。もちろんそれは終盤の急転直下な展開を際立たせるためのもの。皮肉にもプログラマーである主人公が開発した機械によって秘密クラブは知らぬ間に摘発され、ついには使用可能語も0となり、交わす言葉もない……というラスト。英米のSFならディストピアを聞くと反対運動を起こしたり、その気でなくとも反政府運動に取り込まれたりして体制と対峙する主人公/展開が定番と思っていたため、今の居心地が良ければそれで良いと言わんばかりに特段体制へのアクションを起こさない主人公は新鮮だった。将来的に使用可能語は0になるのは作中に示唆されており、それにも関わらず主人公は秘密クラブでガス抜きができる特権性。自分の身に体制の手が伸びて初めて反体制運動を考える(しかしその想像も具体性を欠いており僕から見たらかなり危うい)後手後手さは政治と暮らしが直接繋がって「いない」感覚を上手く表現しており、現在の中国の政治を考えるとまさに中国らしいと思う。とは言え、実は日本も政治と暮らしが分断されており、この作品が日本を舞台にしていても成立すると思うのだが。
 もちろん中国SFだからと言ってなんでもかんでも政治や体制と結びつけるのは間違いだし、つまらないわけで、「見えない惑星」(郝景芳)なんかはひたすら想像を広げ未知の惑星の姿を描いた作品と言えよう。ケン・リュウ的には「選抜宇宙種族の本づくり習性」「上級読者のための比較認知科学絵本」に似ている作品であり、マイクル・コーニイみたいに適度なストーリーとロマンを与えればSF要素も含めてかなりの傑作になりそうな異星の姿を複数ブチ込んでスタニスワフ・レムみたいなアイデア集SFにしてしまったのは、作者の自信の現れだと思った。作品の性質上、ストーリーというストーリーがないので紹介しようがないが、これでもかと不思議な惑星とその住人の生活が描かれ、読んでいて楽しかった。
 同じ作者が書いた表題作の「折りたたみ北京」(郝景芳)。これなんてまさに中国……とは言わなくとも、中国のような発展している国でなければリアリティがないと思うんだけど。人口問題を解決するため、時間帯によって都市が折りたたまれ広げられ、それぞれ活動できるグループが分けられている……分けられる基準は貧富というか身分の差だ。物語はお金を稼ぐため、一番貧しい第三層から最も裕福な第一層へ密入国(?)する男を描いているのだが、読み進めるに従ってそもそも第一層の住人もあまり幸せそうじゃないのではないかと思ってしまう。そもそも、第三層自体折りたたみ北京市に住めている点では住めなかった人々に比べてラッキーなわけで(折りたたみ北京市以外の人は作中で描かれないのは不気味だけど)、第三層の人々は貧しくても生きるか死ぬかレベルではなく、将来の展望や社会の把握ができるレベルでは教育を受けているみたいなのだ。もちろん第一層の人は第三層の人々に比べて食事も娯楽もとてつもなく贅沢なのだが、それでも折りたたまれる時間は活動していないはずで、しかも階層の異動は禁止されることも含めて自由が制限されている点では第三層と同じなのである。ディストピア社会において飢えさせず生活レベルをある程度保証し平等にディストピアを与えていれば知識人も労働者も大学生も企業家も警察も満足するみたいなテーマを感じた。ディストピアと書いたが、登場人物が自分たちの社会に一切の疑問を持たないのが特徴である(付記すると、正直、僕はこのような社会なら実現しても受け入れるかなと感じてしまった……)。
 「コールガール」(糖匪)はケン・リュウによる紹介によるとシュールレアルなイメージだの言葉遊びだのと書かれており、まさにその通り。お話を売る少女、お話の化身である犬、究極のお話に魅入られた客の男。確かに寓話であり、何について語っているのか議論はあるだろうが、僕の理解では究極の存在(「世界の本質」と作中では表現されているが、キリスト教的な神だと思う)への憧れについての物語だと理解した。
 ケン・リュウによる紹介でメタファーだと多層的だの夢だの、読むのに面倒臭そうな書かれ方をしていた「蛍火の墓」(程婧波)。とりあえず寓話が指している中身がわからなかったので評することはできない。とは言え、単なるおとぎ話としても面白くて一貫しているので、特に寓話として読まなくても良いかなという気分になった。
 「」(劉慈欣)は、翻訳作品として初めてヒューゴー賞を受賞した長編の1章を短編向けに変えたという作品だ。ケン・リュウの紹介でもやたらに褒めちぎられ、ハードルが上がる中、確かに素晴らしい傑作だと感じた。物語としては何重にもテーマがあり、アルゴリズムを扱った数学SFでもあるし、国を滅ぼすサスペンスの要素も含まれ、さらには歴史改変SFでもある。古代にコンピューターが開発されている、というテーマは数あれど、兵隊に旗を振らせることで0と1を表現して兵隊を大量に集めることで処理性能を増やすというアイデアは恐れ入った。何よりも凄かったのは、やってることが簡単で描写が具体的な分、この兵隊コンピューターは実現可能なのではないかと思わせられる点。たくさんの兵隊がひたすら旗を振って不老不死の真理を計算するというアイデアは中国でないと書けないと思う。
 「神様の介護係」(劉慈欣)は「円」と同じ作者が書いたとは信じられないほどトボけた味わいのある作品だ。介護問題ということで「童童の夏」(夏笳)のように東アジア的介護の姿が描かれるが、介護の対象は地球に生命を蒔いた神様(インテリジェントデザインかよ!)なわけで、これにはキリスト教徒も介護に関わるしかない。作中に出てくる神様と介護する家族が中国系のため中国における介護問題的イメージが離れないけど。この作品が面白いのは、介護問題だけではなく、移民問題をも扱っている点。いや、むしろメインテーマは移民かもしれない。そもそも地球の家庭数が15億(作中)しかないのに対し、地球に現れた神様は20億もの数。神様が持っていたオーバーテクノロジーを対価とし、各国政府はその技術を喜んで受け取り、それぞれの家庭も暮らしが良くなると期待する有様。惑星に生命を蒔いたり星間飛行をする技術がそんな卑近なわけないでしょー。そんなこともわからない大衆は結局、オーバーテクノロジーを今の地球の技術で解読できず、暮らしも良くならないと知るに連れまるで日本昔ばなしの意地悪爺さん婆さんのように神様を虐待し始める。ついには家出した神様がスラムを作って集団生活するという爆笑ものの展開。これぞ風刺。そう、この作品はあくまでも物語として書かれているからどこか老人もとい神様虐待を行っても、移民もとい神様へ差別としか思えない言動を行っても牧歌的な印象があるが、これは誇張しているものの現実でも起こっているのだ。移民として優れた技術や能力を持った人しか受け入れず、受け入れたとしても使い潰したり、それとも人道的理由から移民を受け入れても数に恐れを成してしまうし、そもそも少し数が多いだけで社会がたち行かなくなる移民という制度への疑問。作中でも結局、人間側による問題解決が行えず、神様たちを地球から去らせるという方法に出た。それも「地球人がここまで大変になるとは思えなかった。ゴメンよ」という趣旨のセリフを神様に言わせて。相手が神様ならその知恵を待てば良いのかもしれないが、同じ地球人相手であれば僕たちが何とかしないと何も解決ができないのである。ケン・リュウ的には「存在」「月へ」を連想した。



 中国SFの特徴として、本書を読んだ限りでは家族の有り様かなと思う。欧米の家族に比べると、やはり一族とか先祖などへの意識があり(もちろんフィリピンや韓国でも言える=中国というより東アジア東南アジアの問題意識なのかもしれないが)、それが介護などの問題にも繋がっている感じがある。あとは技術に対する信頼性。日本のSFだったらそこまで技術を善としないだろう、と思えるレベルで技術への信頼性が高い。よく評論が書かれる際に「現代的な問題」という用語で表現されるテーマがあるが、本書を読む限りでは中国SFでは問題が現代的であっても、問題の原因が技術に起因するというケースは少なく感じた。技術そのものではなく人間の運用に起因して問題が発生するという考え方は今の中国SF独自と言えないだろうか。
 とは言え無理に中国というタグを付けて読む必要がないのも事実(ケン・リュウが序文で書いたように)。僕の感想の通り、テーマはすでに欧米SFと同じくらい広く、その中の数編をつまみ食いしても全体像はわからないわけだ。そうは言っても僕なんかは中国系と聞くとウェットさを連想して、数人の作家は叙情性があったと納得するのだから中国系という前知識もあったら楽しめると思うんだけど。
 とりあえず気になったのは、ポリッジSFというジャンルと「円」の元となった「三体」。ぜひとも読んでみたいなあ。

2018年3月13日火曜日

ランスX攻略中……(だった)

※これ、3月第一週に公開する予定だったけど、ブログいじるよりランスX遊ぶほうが忙しくてすっかり忘れてた。

 なにこれ、ボリュームがとんでもないぞ。単に周回する際、育成の引継ができないだけじゃなくて、単純に物語のボリュームが半端じゃない。攻略wikiを見ながら遊んでいるが、ネタバレとか気にする余裕もない。

初回:「クリアC 魔王ケイブリス」(ターン制限が厳しいのに気が付かなかった。取りあえず全ての国を適当に支援したり魔人を倒してた。美樹ちゃんの確保を後回しにしてあえなくバッドエンド。ハウゼル仲間、カオス投擲でレイタイマン撃破)
2回目:CP+1。「クリアB 異界の魔王」「クリアB 神の真実」「クリアB 地底大作戦」回収。美樹ちゃん確保した。バボラ撃破、ガルティア撃破、シルキィ仲間、レイも偶然仲間、パイアールも仲間。下手に魔人を撃破しすぎたので「クリアB 異界の魔王」の難易度が上がった。スチームホラー戦車はきつかった。攻略wikiを参考に、睡眠毒呪いで何とか撃破。この回の途中から攻略wikiを解禁した。砦ルートだとわかったので分岐のセーブデータを作り一気に3つCPをゲット。
3回目:CP+4。今度はJAPANルートで、「クリアB タイムカプセル」「クリアB 魔王美樹」「クリアC 勇者の成就」。ハウゼル仲間、レイも仲間。「クリアB 魔王美樹」で黒部撃破は無理かなと思っていたが、放置してたら意外と何とかなりそうだったので戦闘をやり直して撃破。毒を入れつつAP0→メアリーレイを連打。リックやランスなどどちらも両スキルともAP0の攻撃を持っているとダメージを与えられ続けて良い。ケイブリス戦は、ハニージッポを装備し毒と手裏剣とメアリーレイ。何か、長期戦になると序盤のようなラッシュが来なくなる? CP3つゲット。
4回目:CP+4。JAPANルートの途中で、ニューゲームで簡単に回収できそうな「クリアC 人類滅亡」を回収。確かに「クリアC 魔王ケイブリス」に行きやすい。どこの国も支援せず、美樹ちゃんを確保しただけ。CP1つゲット。
5回目:CP+8。ついにランス城を浮遊させるルートへ。第二部開放実績をクリアしようとしたが、4国防衛できず、「クリアA 海から」となる。とりあえずホーネット様を仲間にするので、リーザスの魔人回収を専念。初めてレキシントン戦になり、仲間にした。その他、レイとパイアールを仲間にする。第二部開放の、魂管理局との邂逅・ホーネット救出をクリアしたため、6回目は4国防衛に挑もう。それにしても海からルートでシャリエラなしで挑むのはキツイよ。ここまで難易度が高いとは思わなかった。育てるキャラが一握りしかいなかったため、最後のケイブリス戦で★21とか31未満が脱落しまくって戦力が急激に低くなった。
6回目:CP+9。カードなんでもドロップを解禁。いきなり村人ニーナ、ミリリッカ、肉片ルートが連続してドロップしてイヤーな気分になる。とりあえず面白いからゲットするけど……。ヘルマン2枚抜きにトライしたが、難易度が高まる上、1体ずつ撃破するのに比べ、カードの集まりや経験値の量が少なくなることが判明。近いうちに詰むとわかったのでセーブデータをやり直してバボラを倒す。それからガルティアを仲間に。大食いキャラさえ確保していれば意外と楽。育てたキャラよりも全く育ててない大食いメンバーの方がダメージを与えられる意味不明な状況をいかんせん。それからレイ・シャングリラ・魔王捜索・シルキィ仲間・ホーネット救出を行う。ついにホーネット救出の途中、ハニーキングと村人テオマンをゲットできた。少々頭のおかしいダメージが入ってグッド。さすがにカードなんでもドロップは強い。まあ、メデュウサの生贄になったもう1人の子、PGシリーズ、コンバート・タックス、メルフェイスの元旦那、エロヤックなどをゲットし続け、嫌な気分にますますなったのだが。。。今回は対ケイブリス戦を踏まえ、色んなキャラを育成することにする。特に食券は非常に便利である。

 攻略wikiでも書かれているが、楽に進めるヒントとしては、
・カードを極力ゲットする。今作ではキャラクターの育成よりカードを集めることが大事。カードを取らないとHPも各種ステータスも増えないので、全滅追い打ちや初撃破を活用する。
・カードは「すでにゲットしてるキャラの絵柄違い(同じキャラの絵柄違いは★ランクが共有されるがステータスがフルで加算される。特に優先的にランスの絵柄違いを集めないと、主人公枠の攻撃力が伸びなくなる)」>「まだゲットしていないキャラ(ステータスがフルで加算される)」>「まだゲットしていない属性違いキャラ(ステータスがフルで加算される)」>「ゲットしているけど複数枚取りたいキャラ(同じカードを複数枚取ると1枚ごとに10%増える)>「ゲットしてるけどステータスがパッシブで増えるキャラ」>「その他適当」の順に増やすと戦力が上がる
・ただし一部のキャラの★を高くするよりも、全キャラまんべんなく★20とかの方が強くなる
・難易度を上げすぎる(=魔人を倒しすぎる)と後半、雑魚戦で消耗し、ボス戦で詰む。ゲームテーマが魔人との戦争なので魔人を倒さなければいけないのかなと思うけど、各種フラグは人類滅亡率をトリガーにしているみたいなので、魔人を仲間にしたり撃破実績狙いじゃなければむしろ支援だけに留めて倒す魔人は最小限にすべし。
・★ランクを増やすと絵柄違いが開放されたり、カードのステータスが上がる。特に★★になるだけでダメージの上昇率が高くなるので
・AP0アタッカーはコンボ稼ぎに有用。特に一定以上のダメージじゃないとHPが減らない相手に手軽に
・手裏剣は最終手段。どんな敵がどんな厄介な行動を取ろうとも、手裏剣は妨害できるロマンがある。
・長期戦なら毒睡眠呪いが強力。特に睡眠でターンを稼ぐといつの間にかリーダーの入れ替えができるようになる。

 それにしても、シルキィやレキシントンの時限ありが倒せない……。かなみちゃんも今作は極めて有能なキャラになっていてびっくり(でもリーザス所属なので多少影が薄いのはかわいそうだけど)。

2018年2月19日月曜日

「女子高生に殺されたい」(古屋兎丸、新潮社、全2巻)

 たぶんマゾヒズムについて描いた作品……なのだろうけど、タイトルにもなっている「女子高生に殺されたい」願望が何の解説もなく前提となっているせいで、僕のようにそのような願望のない人は全く感情移入できなかった作品。別に感情移入する必要はないかもしれないけど、そのせいで一歩下がった視点から読めてしまい、作品の粗が目についてしまった。

 一番大きな粗だったのは、自分の死体の身分をわからなくする方法。部屋の指紋など痕跡を消して、自分の身に付けるものも全て捨て去り、長旅に出たことを装い、実は近くで殺されている……。こうやって書き出すだけで成功しないのでは? と思わざるを得ない。本作ではしっかり練られているように思えて穴だらけの計画はこれ以外にもたくさん(例えば自分を殺させる女子高生を誘い出す方法とか、10年近くに及ぶ計画をよりによって人目に付くところに置いていたとか)ある。一応主人公は頭の良い人として描かれているはずなんだけどな。
 なのでサスペンスかと思っていたんだけど、どうにも緊張感がないのだ。主人公の望みは自分の死だし、あまり精緻ではないとは言え、周囲の人への迷惑を考えて動いている。死が起こっても、大した問題にはならないのが読めてしまう。これが他人に対する侵害であればもう少し切迫するものの……。そうか、だから世間では攻撃的なコンテンツがたくさんあるのか。暴力表現がなくならない理由を身をもって感じてしまった。

 なお、感情面で問題を抱えているが知能は人並み以上というキャラクターを万能のものとして使い過ぎでは? と思った。最初はヒロインにしか懐かないとか描いておきながら、普通に他のキャラクターと絡めるんだもん。読み進めるに従って精神的な病気にかかっているとは思えなくなってくる……。

 全2巻ということで、まとまった作品だと思う。伏線も上手く、ストーリーに無駄がない。そのため逆に、あっさりしすぎるけど。

2018年1月29日月曜日

無限PKの思い出【UO日記】

 もう時効(と勝手に考える)だから告白するけど、一時期、無限でPKを行っていたことがある。2010年前半だろうか。その頃はまだ無限にも人がチラホラといた。
 無限は2007年だか2008年だかに初めて足を踏み入れ、ヘイブン墓場でステハイ狐変身弓に殺された思い出が強かった。忍者PKギルドのIGAが精力的に活動していた時期だった。
 本当にPKerがいるんだと驚き、どうしてか無限でのPK行為に憧れを抱くようになってしまった。当時は無限新興としてのPK行為が宣伝されていたこともあった。
この人が当時の僕。初赤になった瞬間。

 とは言え、そもそも本格的に移住する気もなく、当然資産もないため、買えるものも限られてくる。無限は1キャラしか持てないので、PKerが狩りをしようとしても効率が良くない。せいぜいパワスク110を導入するのが関の山だった。こんなのじゃ百戦錬磨の無限民から返り討ちにあってしまう。
 不便なら不便なりに創意工夫を施すわけで、僕が取った戦略は、買い物客殺し。ルナ店をチェックして、誰か買い物してる人がいればアタックするという単純な方法である。それも戦士は相手しない(というか、戦士を正面から相手すると勝てない)。まあ、無限で遊ぶのが毎晩1時間程度なのでそもそも他プレイヤーに会う機会がほとんどなく、遊んだ期間の割にはPKした数は多くはない。失敗してお店から@バンされることもあったし。

 実は、PvPにはもともと興味があった。出雲でもジェロームのアリーナやヘイブンのアリーナで練習している人たちに混ぜてもらったこともあったが、メイジは自分に合わなかった。反射神経が追いつかない。たぶん練習すればなんとかなるんだろうけど、このまま年を取った時、詠唱戦はついて行けないと感じた。戦士同士の対決はマイナーだったものの、楽しかった。ほんの数回しか参加しなかったが、走る方法や回復など、基礎的なことを教えてもらい、やはり歴戦の対人プレイヤーは強いと感じた。時々ロストランドの対人戦に単騎で挑んでボロボロにされたりした。ただし、一般シャードでの対人は緊張感があるわけではなく、そして当時は仕事が非常に忙しくなっていったこともあり、一度無断でアリーナを休んでしまうと顔を合わせ辛くなり、UO自体小休止状態になった。次にUOに復帰した時、無限で戦士を完成させた。


 初めて他プレイヤーを殺した時は手が震えた、と色々なところで様々な人が語っていた。百戦錬磨のPKer上がりの人もどこかの日記でそう書いていた。実際にやってみて、確かに心臓に悪いと思った。何というか、NPC殺すのとは全く異なる。画面の無効に自分と同じ意思を持った人間がいると意識するだけで動悸がした。ガード圏に近いとか、たぶん逃げられるとか理由をつけて初めてのPKを先延ばしにすること数回。返り討ちにされたら恥ずかしいという気持ちもあったのだが、見ず知らずの他人に対してネガティブプレイを行うことへの抵抗感を強く感じた。PKでこれなら詐欺とか対人シーフは相当きついだろう。

 最初のPKは今でも覚えている。なぜか会社が休みだったので朝からUOにログインしてて、ルナのお店でお客さんを見つけてしまったのだ。無防備な上動かなかったので、放置だと思った。PKしない言い訳も見つからなかったため、覚悟を決めてアタック。相手は動かず、あっけなく僕の最初のPKは終わった。微動だにしなかったので正直、全く罪悪感を抱かなかった。死体の持ち物を吟味する時間すらあった。それから僕はPK街道を邁進した……と書きたいところだが、そもそもプレイヤーが多くもなく、しかも狩キャラとは言え本気の戦士やメイジ、テイマーに狙われると即殺されるレベルだったため、自分が死なないことと相手を殺しきれることを優先に考えた結果、PKできないことの方が多かった。そのため結局、最後までPK行為に慣れなかった。
確かこの後、蘇生してあげたんだっけ。

 一番印象に残っているのはこれもルナのお店にいた人。のんびりと歩いていたので、ドキドキしながら走って追いかけつつアタック。慌てて逃げようとした彼ないし彼女だが、何とか追いついて殺した。めぼしいものを持っていないか探す中、画面端に見えるIGAの文字。それもベテラン戦士だったため、慌ててルナ城の外に逃げる。IGAの人は死体を見つけると一旦止まり、それからこちらを追ってきた。何とか撒いて殺されずに済んだが、人の少ない無限とは言えPKを行うのはリスクもあるんだと学んだ。PKerは自分が生き残ることを最優先にすべきという哲学をこの頃考えた。
この直後、IGAメンに追いかけられました。

 こういうこともあった。
 どこかの寂れた銀行で詠唱音が響き渡っていた。ああ、スキル上げね。と思って近寄ると、明らかに放置上げ。こいつはいかんとアタック。ガード圏内ではあったが無事に殺せた。PK行為に一切後ろめたさなくやり遂げられたのは後にも先にもこのときだけだった。
わかりにくいが銀行内である。

 PKerから足を洗ったのは再び仕事が忙しくなり休止状態になったこともあったが、それだけではない。
 ある日、ユーあたりのムーンゲートに入ろうとした時、ハイドしてる人がいた。リヴィールさせても動かないのでアタックして無事に殺した。この時はそれだけだった。
しかし後日、何の理由かは忘れたが、僕も同じようにどこかのムーンゲートでハイドしたまま離席せざるを得なかったことがあった。戻ってきた時、ログに残っていたのは、自分を発見したIGAの生産キャラがインビジで隠してくれたこと。その時はすでに赤ネームだったのでわざわざインビジをかける必要はなかったのに、だ。その人はIGAだったため、赤ネームに対して贔屓する感覚もあったのだろう。ただ、無限みたいな環境で知り合いでもないPKerの利益になる行為をわざわざ行うことに衝撃を受けた。


 ルナにPKerが出現するという情報も広まってしまったのだろう。僕が遊ぶ時間はステハイですらルナにはいなかった。そして僕も、PKerとして活動するには自分の中で理屈を見つけられず、UOの休止と同時にPK行為も飽きてしまった。
 最近UOに復帰したけど、無限の戦士はどう育てようかな。

ゲームプレイ日記についての雑感【UO日記】

 最近UO熱が復活して、戻ってきたが、仕様を確かめるため色々なブログやホームページを回ってリンク切れやサービス終了でショックを受けたり、昔ハマっていたUOサイトがまだ生きていて感動したりしている。
 僕がUOを遊び始めたのはそうしたUO日記、UOマンガの影響であり、感慨深い。もっとも、僕が読んでいた時はすでにブログ最盛期であり、相当古い時代のUOが「思い出」として語られていた。当時の僕はネットゲームのパブリッシュについてわかっておらず、ゲームソフトを買うように仕様が大幅には変更しないものだと思っていた。UOマンガやUO日記に憧れてブリタニアの世界に降りようとしていた僕は、さすがにトラメルとフェルッカに分かれていたことは知っていたが、お金稼ぎが大変だとかハルバードが木こりも戦闘にも使えそうだとか、そういうことを考えていた。そのためキャラクター選択画面の「忍者」という単語が理解できなかった。

 UOに一番初めにログインすると、ヘイブンに出た。UOマンガの中では青いゴキブリに驚いていたところ、僕は白い狼やへんてこりんな鶴、やたらにでっかいトカゲに驚かされた。後にそれぞれクーシー、レッサーヒリュウ、乗りドラだとわかった。UOマンガやUO日記で書かれていなかった武士道や忍術、さらには織成呪文というスキルに戸惑った。当時のヘイブンはまだ活気があったため、そこらに佇んでいる人に聞いてみたら、僕が憧れていたブリタニアはとっくの昔にパブリッシュのかなたに消えていたことがわかった。面白いことに、あんなに憧れていたゼロディレイやPKerの世界と違っていても僕は大してショックを受けず、そのままUOを遊び始めてしまったのだ。

 ブリタニア観光案内所は当然時代遅れになっており、パラリシャンも半分更新を停止したため、リアルタイムのUOの仕様を学ぶにブログを片っ端から読み漁った。僕のUOブログ熱はここから始まった(実際に体験するより他人の感想文に熱中するのは自分でも難儀な性格だとわかっている。他人の書評も旅行記も結構好きなんだよね)。
 色々読み漁る中で、ぼんやりとわかったことがあって、文章力というかプレイ日記(マンガは除く)の上手さ下手さは実際ににあるということだった。大まかに書くと、客観的に書かれていたり冷静だと読みやすいし普通に面白くなる。恐らく、客観的に書くことで読者から見た面白さを意識できるのではないかと考えている(僕も@反省)。読者を意識して書かれたコンテンツは読んでいてもそういう努力の跡がわかった。
 加えて日記を書いた時期と日記に書かれた時期に大きく差が開くと記憶が整理されるためかストーリーができあがっていて面白い。リアルタイムの日記はどうしても些細なことまで取り上げがちで雑多な情報が多くなると思う。
 さらに漠然とした日記より特定のコンテンツ(ルーンビートルとバケキツネのコンビでボスに挑むとか、純戦士タイマンだとか、対人シーフとか、マゲ=カタなどとか)に特化していると仕様を勉強する意味でも面白いし、日記としてもエキセントリックな内容になりがちで面白い。
 そしてネガティブなプレイ内容であれば、つまりは詐欺・PK・対人シーフプレイやUOでお金を稼いでRMT業者に売って生計を立てる日記などは僕自身にそんな勇気がないから未知の世界を読んでいて面白かった。

 一方で、同じ対人バトルにしてもYGWやリアルタイムでのギルド単位での戦争はあまり興味をそそられなかったし、今読んでもやっぱり面白くない。たぶん、日記の内容が「1被」や「1get」など記録になっているためだと思う。そしてギルド戦争を通じてメンバーの関係性が変わるとか、そういったストーリーがリアルタイムの日記だと見え辛い(というかない)のできつい。さらに、そのような戦争日記は同じく戦争している相手とブログ戦争をやりあったりするため、余計に読みにくかったり。でも僕が引っかかったのは、こいつらがやっているのはスポーツでしかないってこと。いや、外野が口を出すことではないのだ。文句をつける気はまったくない。
 僕の言いたいことは、単純にコンテンツとして面白いのはPK日記だったり、ギルド戦争やってるところに乱入するアレな内容だったりしたのだ。そういう本当に嫌がられるプレイがリアルタイムの日記としてわくわくし、すでにUOを引退した人が書く思い出としてもストーリー性が出て読み甲斐があった。これはもう何となくの感覚だけど、嫌らしい遊び方をわざわざ日記なり思い出として文章にする人は、文章が上手いと思う。文章が上手いというか、ストーリーなりRPとしての理屈なりがしっかりしており、被害に遭った人はともかくとして何の関係もない読者にプレイ内容の割に嫌悪感を抱かせない傾向があると思う。

 そもそもUOにおける対人は、PKとPvPは意識の上で雲泥の差があるからね。システムが許す上でどんなに卑劣な手段を使ってでも他プレイヤーを殺して自分は死なないのが最優先のPKに対して、対戦ゲームもどきのPvP。正直、ギルド戦争は自分が死ぬのが当たり前というか戦術に入っているわけで、PKの緊張感がないんだよね……(その割にact週◯日とか掛け持ち禁止とかお気楽でもないし)。


 そういうことをつらつらと昨日、久しぶりにガッツリとUOを遊んでいる中で考えていた。

2018年1月28日日曜日

ガーゴイルチャレンジ!(Pub98.2時点)【UO日記】

 UOのキャラクターをガーゴイルに変えてみた。そこで気付いたのが、装備が少ないこと。ベンダーにもオークションにも売っていない。ガーゴイルは一応、変成という手段があるが、現在のPub98.2でどこまで変わっているのかわからない。
 という訳で、試してみた。


①素材強化と変成
 スタッド鎧を用意する。

 赤皮で強化する。

 ここまでは普通の素材強化。

 これを変成する。

 Horned Stone Leggingsなどというひどい名前の装備になってしまった。

 なお、さすがにこの状況から色付き石での素材強化は不可能であった。

 一方、変成済の装備に素材強化は……?(もちろん色付き石である)

 成功!

 つまり、素材強化品→変成は可能、N素材→変成→素材強化も可能であった。
 ちゃんと素材の色が着いている(上の装備がH皮の色である)。


②向きと変成
 こっち向きのスタッドチュニック(スタッドチュニックには変成できる向きがある)

 やっぱりスタッドチュニックの変成には向きを注意すべき。

 プレート鎧は……?(プレート鎧の変成に向きは必要ない)

 こっちは問題なし。

 つまり、変成する際の向きについてはUO職人の部屋の仕様が生きている。


③変成と強化剤
 適当に用意した元スタッド腕。変成済である。

 ご覧の通りスタッド強化剤である。

 怒られた。

 ならばスタッド足に強化剤をふりかけて変成してみよう。

 そこそこ高級な強化剤だった。これを変成しようとすると

 やはり怒られた。

 ならば、変成後スタッド足に

 石鎧の強化剤をふりかけよう。

 成功!

 つまり、変成品(特にスタッドやボーン→石)は変成後の強化剤でないと受け付けない。


④変成できない……?
 色々変成実験をしていると、変成できない品に出会った。
 例えばこの骨胴。

 これはダメらしい。

 こっちのスタッド足も

 怒られた。

 はっきりとしたことはわからないが、どうやら短命プロパが怪しそうである。PrizedやCursedは上の図でもちゃんと変成できている。短命なんて普通は使わないから誰も実験したことないよね。


⑤おまけ
 命中靴ことShanty's Waders

 靴は向きが関係ないので、変成成功。

 つまり、命中靴と回避靴は変成できる、はず。